諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【グレイテスト・ショーマン】隠された「巨人」の存在について。

はてなブログアクセス解析によれば、このサイトの「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」関連投稿は全然参照されてない様です。

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確かにミュージカル映画としての完成度は高いのですが、なまじそれゆえに「元話」を穿ると嫌な思いしかしないという感情が働くのかもしれません。実際、調べれば調べるほど、恐るべき側面が…

 カーディフの巨人(The Cardiff Giant) - Wikipedia

アメリカ合衆国の有名な悪戯の一つ。1869年10月16日、首謀者ジョージ・ハルは一年前にニューヨーク州カーディフ近郊に埋めた全長3メートルの石膏像を掘り出し、巨人の化石が発見されたと全米に発表した。実際には偽造は「ずさん」であり、専門家は化石ではないと発見時点で否定していたが、それにも関わらず「巨人発見」という話題がひとり歩きしてアメリカ中から見物人が殺到した。

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  • ニューヨーク州ビンガムトン生まれの葉巻製造業者ジョージ・ハルは、ダーウィンの進化論を支持し、創世記に懐疑的な視線を向ける無神論者だった。1866年、アイオワ州の親族に会いにいったハルは、そこでメソジスト派の牧師との間で創世記では人類以前に生きていたとされる巨人(ネフィリム)について議論となり、互いに譲らずやがては口論に発展した。この時、ハルは巨人の化石を捏造することを思いつく。当時、ハルは石油や岩石から貴金属を生み出そうとする錬金術に傾倒しており、専門的な科学知識はほとんどなかったものの、それらの性質による物質の変化には熟知していた。

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  • 2年後の1868年、ハルは友人と7トンもの石膏(高さ3.2メートルの長方形)を購入。名目は「エイブラハム・リンカーンの記念碑」のためとされたが、石膏はシカゴ在住のドイツ人の石工エドワード・バンガードの元に運びこまれ、ハル自身をモデルにした巨人像の作製が開始された。ハルはさらにもう一人の石工サールを雇い入れ、食事とアルコールを十分に提供することを引き換えに缶詰状態にして、石膏像を三ヶ月後に完成させた。ハルはその石膏像の表面を毛穴に見えるよう鋼編み針で加工し、硫酸で風化の処置を施した後にニューヨーク州カーディフに移動した。そこには従兄弟ウィリアム・ニューウェルの経営する農場があり、小屋の裏手に埋められた。ここまでの費用は当時のUSドルで2,600ドルを要したが、ハルにはこの巨人が話題になれば回収できる腹づもりがあった。

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  • 農場に埋められてから一年後の1869年10月16日、ニューウェルの依頼により小屋の裏手で井戸を掘ろうとした作業員たちにより、カーディフの巨人は「発見」された。直ちに発掘された巨人を覆う巨大なテントが設営され、同時に巨人発見のニュースは生物学上、または神学上の大発見だとして全米に報道された。すぐに大勢の人々がカーディフに押し寄せた。彼らはハルに見物料として50セント(後に1ドル)を要求されたが、それでも全米から訪れる人々は一日あたり数百人に及んだ。

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  • 考古学者たちは一瞥しただけで、カーディフの巨人を「石膏の彫像」と見破っていた。著名な学者ではイェール大学のオスニエル・チャールズ・マーシュ教授が正式に真っ赤な偽物と鑑定結果を出し、「最も明確なペテン」と切り捨てている。発見のきっかけとなった井戸掘りについても、地質学者は位置が不自然であることを突き止めていた。このようにハルの造り出した化石は、彼らにとって「科学的でっちあげを名乗るには、あまりに図々しい」出来であったが、一方では「化石ではないが、北アメリカで最古の彫像である」と一部偽造に騙されたニューヨーク州立博物館の職員の例もあった。さらにキリスト教原理主義者たちの幾人かは創世記の巨人が実際にいた証拠であり、進化論を否定するものとしてこれを強く擁護した。また、これら科学者の指摘にも拘らず、「巨人発見」の噂だけがひとり歩きして話題を呼び、見物人はなおも増え続けた。
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  • ハルとニューエルはディビット・ハナムを筆頭とする6人の興行主たちに23,000ドル(2014年では429,000ドル相当)でカーディフの巨人の権利の4分の3を売却する。ハルとハナムらは巨人をニューヨーク州シラキュースに移し興業を続けたが、その年の間、人の波が絶えることはなかった。この荒稼ぎに目をつけたのが、伝説の興行主とされるP・T・バーナムであった。バーナムのアイデアは「おがくずを黄金の山に変える」と評され、当時はすでに巧妙な宣伝と動物、フリークスによるサーカス団を擁していた。バーナムはそこに巨人を加えることを狙い、ハルらに50,000ドルで3ヶ月の貸与を持ちかけたが、ハルの返事は拒絶だった。

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  • これによりバーナムは自ら巨人の作製に乗り出し、石、粘土、乾燥卵などを混ぜて第二の巨人を作り上げてしまった。制作費は2,000ドルであり、ロッキー山脈で見つけた最古の「コロラドの巨人」だとして大々的に宣伝した。この新たに登場したペテンに対し、科学界はカーディフの巨人と同様に猜疑の視線を向ける。かつてカーディフの巨人に鑑定結果を突きつけたオスニエル・チャールズ・マーシュ教授は直接バーナムに面談し、科学的見地から化石ではないことを論拠を挙げて丁寧に説いた。これに対しバーナムは、「世間は騙されたがる(There is one born every minute. )」と返しただけだった。

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  • バーナムが参入したことで、ハルたちの独占は崩れた。ハルは1871年に大都市ニューヨークでの興業を狙ったが、名うてのバーナムはハルたちの先手をうってブルックリンに乗り込んで話題を独り占めすると、自分の巨人こそが本物でありカーディフの巨人は偽物だと主張した。考古学者たちの指摘は無視したハルたちだったが、商売敵となったバーナムの指摘を許すことができなかった。ハルたちはバーナムに対し、興業の禁止と賠償を求めて訴訟を起こす。しかし法廷は巨人の真偽についてハル側が明らかにする必要があるとし、ハルの望んだ結論には至らなかった。また、その訴訟を取材した新聞記者が巨人の発見前後のハルの行動を綿密に調べ、やがてアイオワで石膏を購入した事実と加工を担当した石工の一人サールを見つけ出した。サールは洗いざらい全てを告白し、これよりハルも観念した。1871年12月10日、ハルは彫像の偽造を認め、これが報道されたことにより巨人騒ぎは一先ず終息する。しかし「コロラドの巨人」はバーナム博物館のレパートリーとして、その後も展示され続けた。

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  • 1877年、カユガ郡 (ニューヨーク州)で湖岸のホテルを拡張工事中、巨人の化石を掘り出したとされている。しかし後に酒に酔った発掘者が自ら埋めたことを告白した。

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  • 1892年から有名な詐欺師ジェファーソン・"ソーピィ"・スミスも「McGinty」と名づけた像を使って見物料を集めた。南北戦争時代の北軍の将軍トーマス・フランシス・マハーは1867年にミズーリ川に転落して溺死したとされるが、遺体は見つからなかった。1897年、その石化した遺体を見つけたとし、その像は「発見」されたモンタナ州のみならずニューヨークとシカゴでも展示された。

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  • 1901年、ニューヨーク州バッファローで開催された国際博覧会カーディフの巨人も出展されたが、あまり話題にはならなかった。展示後はアイオワの出版社の経営者が購入して娯楽室に置かれ、1947年にはニューヨーク州クーパーズタウンの農民博物館に買い取られて展示されている。

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  • バーナムの作製したコロラドの巨人も、機械的な装置や奇妙な物品を収集するマービンの不思議な機械の博物館に引き取られて現存している。
    マービンの不思議な機械の博物館

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カーディフの巨人の騒動は当時の人々に強い印象を残し、マーク・トウェインハワード・フィリップス・ラヴクラフトの作品の中で言及され、ライマン・フランク・ボームの詩の題材にもなっている。またサーカスの世界においても見世物として抜群の知名度があり、前述のバーナムのサーカス団とベイリーのサーカス団が合併し、それをサーカス経営者「リングリング兄弟」が買収したことで生まれた世界最大のサーカス団リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスにも、「カーディフの巨人」を芸名とするスター、ジョージ・オーガーが存在した。

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 そもそも当時の石膏像の位置付けは?

石膏像という、古代彫刻のレプリカを制作するという行為の起源は?。私ははっきりとは知りません。しかし、色々な文献からすると、ルネッサンス期以降のヨーロッパで巻き起こったギリシャ文明の再発見がきっかけのようです。とくに、18世紀以降の列強による古代文明ギリシャ・ローマ・エジプト)の大発掘ブームとその略奪の過程の中では、発掘品のレプリカを制作することが日常的に行われるようになりました。

イギリス・フランス・ドイツの3国は特に熱心で、ギリシャなどで発掘された美術品を自国に持ち帰ると同時に、ほとんどの複製を石膏で型取し、保存しました。現在でもこれらの型の多くが美術館に付属の石膏像制作部門で保存・使用されています。

例えば、イギリスの大英博物館であれば、館内に展示されているほとんどの展示物について必要があればそのレプリカを制作することができる型を保有しています。これって、ものすごい労力だと思うのですが、それくらい収蔵物の価値を認識しているということなのでしょう。本物はひとつだけですので万が一失われたときのためを考えているのでしょう。

石膏像 の歴史 |きょうの石膏像

やっぱり江戸時代までは、いわゆる西洋彫刻の石膏像というのは歴史上には登場して来ないわけです。あたりまえだけれどもそれ以前の日本では彫刻といえば仏像でしょう。

それが明治になってどうなったか。やっぱり石膏像というものが登場するのは、明治22年の東京美術学校(現在の東京藝術大学)の創設以降でしょう。美術学校は最初は日本画で、その後洋画部、木彫、彫塑などが導入されていったので、この塑像部が石膏を取り扱う最初だったと考えてよいでしょう。

最初に石膏が使われたのは、彫刻家が粘土で造った作品をブロンズに転換するための中間過程としての”石膏取り”です。少なくとも、第二次世界大戦より前の時代で”石膏職人”というと、この”石膏取り”をする人のことを指していました。現在のように、各学校が美術教室にある程度石膏像をそろえたり、個人がインテリアとして購入する時代ではないので、ミロのヴィーナスのような石膏像の生産量はほんの少しだったのです。ですから、石膏職人の仕事のほとんどは”石膏取り”で複製品の製造はおまけのようなものだったのです。そういう意味では、石膏職人=彫刻家の下働きという図式でした。
*そういえばコナン・ドイルシャーロック・ホームズ物の一作「六つのナポレオン(The Adventure of the Six Napoleons、1904年)」には(欧州における)庶民が記念品として石膏像を購入して部屋に飾る慣習が描かれている。一方、1930年代に執筆された江戸川乱歩の「通俗小説」においては、しばしば死骸が石膏像に塗り込められているが、あくまで「展示用」というイメージを脱していない。

余談ですが、ヨーロッパではこの”石膏職人”の役割を彫刻家の弟子達が担っていたようです。ロダンに関する書籍を読むと、粘土の段階までがロダン自身の担当で、そこから先のブロンズへの転換作業とか大理石への転換とかはかなりの部分を弟子達が担当しています。カミールクローデルとかポンポンはロダンの弟子の時代は、ひたすらロダンの複製屋さんだったのです。

東京美術学校の記録によると、宮島 一という方が日本に於ける石膏職人の始祖だということです。最初は彫刻家を目指したようですが、後に美術学校の石膏職人になりました。平櫛田中とか北村西望などの作品もてがけたようです。この宮島氏から日本の石膏職人の系譜が広がっていきました。

石膏像の生産は、古代彫刻の発掘が進んだルネサンス期以降に本格的になった。ヴァチカン宮殿に収蔵された古代彫刻はヨーロッパ諸侯の羨望の的になり、16世紀にブロンズ鋳造や大理石による複製が盛んになった。その後、より安価な複製の需要が高まったことから、イタリアの鋳造師がヨーロッパ各国に出向き石膏像を販売するようになった。

18世紀末には、フランスのルーブル複製工房、ドイツのギプスフォルメイ石膏工房などの大規模な石膏工房が設立され、各国の美術学校や美術館に石膏像を販売するようになった。今日のように図版や映像で美術品を簡単に閲覧できない時代、石膏像はデッサンや考古学の資料として、また美術館の展示物として重要な役割を果たしていた。

19世紀には世界各国の美術館で大規模な石膏像コレクションを形成することが流行し、例えばアメリカのボストン美術館メトロポリタン美術館では、当初、本物の美術品が不足していたために石膏像が展示品の大部分を占めたほどであった。

日本では欧米ほど大規模な石膏像コレクションは形成されなかったが、工部美術学校設立の際にお雇い外国人が持ち込んだ石膏像や、東京美術学校がフランスから輸入した石膏像が、国内で流通する石膏像の原型となった。このように、石膏像は美術史で重要な役割を果たしてきたが、近代美学がオリジナリティを重視するようになり、その思想が美術館の収集や展示にも影響を与えるようになると、急速にその価値は失墜していった。

20世紀初頭、各国の美術館はそれまで展示していた石膏像を撤去するようになり、欧米の美術アカデミーでは軒並み石膏デッサンが廃止された。今日では、イギリスのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館やデンマークのロイヤル・キャスト・コレクションなど、一部のコレクションが残存し、往年の隆盛を伝えている。

概ね「蝋人形の歴史」と重なってくる様ですね。

産業革命導入による大量生産と大量消費スタイルの浸透が、消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的ブルジョワ=インテリ=政治的エリート階層から庶民に遷移させていった時代」において、最初に賑わったのはどの国でも「怖いもの見たさを満足させる見世物小屋」だったのですね。ロンドンにおける産褥で死んだ美少女の解剖模型展示、欧州大陸を賑わせた衛生博覧会、浅草の見世物、そしてバーナム博物館…

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そういえば「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」において「(勝手に持ち出した倒産した会社が保有していた巨大船舶の権利書」を担保として購入されたバーナム博物館がクライマックスで焼け落ちる(実際のバーナムの生涯と全く無関係な)展開、実はリヒャルト・ワーグナーニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」における「(指輪横領や巨人を騙しての使役といった不正手段を駆使して建設された)ヴァルハラ城のクライマックスでの炎上」に準えられていたのかもしれません。ならばこの話で「巨人」に該当するのは「(紙の上だけに存在する虚構の巨大船舶」という事になる?
*つまり物語類型としては「MCU(Marvel Cinematic Universe)」の「ラグナロク(Thor: Ragnarok、2017年)」とぴったり重なってくるという次第…