最近、投稿の関係で久し振りに国際SNS上の関心空間における「ソードアート・オンライン(SAO = Aword Art Online、Web小説版2002年〜2008年、刊行2008年〜)」の評判を検索して仰け反りました。まさか、こんな事になってるとは…
まさかの河原礫「ソードアート・オンライン(SAO:Sword Art Online、Web小説2002年〜2008年、刊行2009年〜、アニメ化2012年〜)」のスピンオフ作品たる時雨沢恵一「オルタナティブガンゲイル・オンライン(原作2015年〜、アニメ化2018年〜)のメインヒロイン「小比類巻香蓮=レン(Llenn)」の圧勝状態…
まずはアメリカにおける政治的背景から。
- (日本も最近前轍を踏みつつあるが)極左、すなわち「(直接行動を厭わない)無政府主義者(Anarchist)」や「(自らのイデオロギー正統性を維持する為、気に入らないものは全て全力で集団的に叩き続ける)ポリコレ・リベラル」と極右、すなわち「(一切の性的解放に反対するウルトラ・フェミニストを味方につけて温情主義(paternalism)復活を目論む)宗教右派」や「(「世界警察としての強いアメリカ」の存続を夢見る)イスラエル支持派」の対立と混錯が激化する政局に失望した「(前回の大統領選挙で「とりあえず」クリントン候補に投票した)中道左派」や「(前回の大統領選挙で「とりあえず」トランプ候補に投票した)中道右派」の緩やかな融合が進行中である。
*実施の政局の動きに「基本的に何も信じてはいないが、それなのに(むしろそれゆえに)陶酔出来る何かを常に探し続けている」ゲッベルス・タイプが深く関与してくる辺りに絶望感が漂う。
- 実際には中道右派と中道左派の間には宗教問題はおろかLGBTQ問題や堕胎問題に関する対立も存在しない。ただ銃規制問題に関してはコンセンサス成立など不可能としか思えないほどの根深い対立が存在する。
そこで「日本的処方箋」が思わぬ形で希望の象徴として浮上してくるのです。まさかの小比類巻香蓮=レン(Llenn)圧勝状態はおそらく、この辺りに由来…
- 日本においてはまず近世段階で「(武士の威信財たる刀を公式に携帯する)帯刀の権利」が庶民から奪われる一方(害獣駆除に欠かせない)銃器は一揆などに際して蜂起側が常に(体制側がそれを超える量を準備するのが不可能なほど)大量投入して「(欧米でしばしばみられた)体制側の火器使用による反乱の鎮圧」を不可能としてきた。何と「庶民側の火器装備には(暴力による鎮圧を諦めた)体制側を交渉のテーブルにつかせる力がある」リアリズムを静かに実践してきたのはむしろ日本の方だったのである。
*戦国時代日本には欧州諸国全体はおろかオスマン帝国に匹敵するほどの火器が横溢していた。しかもそれはこれらの国々(さらには三角貿易の一環に組み込まれ「奴隷狩りの道具および報酬」としてそれを受け取って体制強化を図ってきた西アフリカ諸国)と異なり「中央集権的官僚制の徴税によって養われる国家の常備軍」でなく全国に割拠する戦国大名の家臣団や一揆(惣村や国人の連合体)がそれぞれ軍拡競争を繰り広げてきた結果そうなったのであり、江戸幕藩体制成立によって彼らがそのコストから解放された事が(当時の世界ではまれな規模での)庶民や地方の文化発展の起爆剤となっていく。
*これに対してアメリカ史は独立運動開始にあたって「(実際に出た被害は死亡者6名、負傷者5名と比較的小規模だった)ボストン虐殺事件(Boston Massacre,Incident on King Street、1770年)」を散々プロパガンダに利用してきた所謂「ボストン派」が、建国後の無政府主義者の反乱鎮圧に際して容赦なく発砲し続けた事で国民の信任を失って失脚した黒歴史を有する。明治維新に際して日本全国に尊王攘夷運動を広めて回った後に内ゲバで全滅した水戸藩士もそうだが、かかる急進派はその急進性ゆえに滅多に新国家建設に関われないものらしい。その一方でフランス革命を次第に急進化させ、最終的に「ジャコバン派の恐怖政治」へと導いたサン=キュロット階層(「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」を支えてきた農奴の代替物として急増した「季節ごとに雇われるだけで労働需要が停滞するとたちまち失業者として餓死を強要される」浮浪小作人階層)は革命戦争やナポレオン戦争の主力として政治的発言力を増す一方で恩寵によって自作農化し、皇帝ナポレオン三世登場に至るボナパルティズム勝利の流れを準備。その一方で彼らや(「ジャコバン派の恐怖政治」時代に王党派に対して遂行された「ホロコースト」への恨みから、かえって強固な王党派支持母体となった)元農奴達の「裏切り(体制側への帰順)」によって2月/3月革命(1848年〜)以降、工場労働者や都市貧困層やマスコミを中心とする共和派は劣勢を強いられる様になり、かかる歴史展開への苛立ちが彼らを次第に(「民主集中制」によって彼らの政治的主体性を全面否定する)「新たな急進派」共産主義へと傾倒させていく。
- こうした歴史の延長線上に現れた日本の銃刀法は「銃の使用許可を有する猟師は(近代国家を支える「国家による暴力装置の独占」の理念の正当性を体現する)軍人や警察官の人格的高潔性を体現せねばならない」なる伝統的精神に立脚している。実際、岡本健太郎「山賊ダイアリー リアル猟師奮闘記(2011年〜2016年)」にも「銃砲所持許可証は精神鑑定に引っ掛かったり、交通事故や不祥事を起こしただけであっけなく取り上げられてしまうので所持者は模範的市民としての生活を強要される」と言及。(銃規制反対派を含む)アメリカ人の大半がこうした日本の制度運用を本気で羨ましく思うのは「個人が銃を持つ権利」の乱用がどんな大事件を引き起こそうとNRA(全米ライフル協会)が全部「大した事ではない」ともみ消してしまう見苦しい現状に本気で絶望してるせいでもある。
*その一方でオバマ大統領時代、パイデン副大統領が「自宅警護には散弾銃で十分でしょう。どうして自動小銃や機関銃まで要るんです?」と発言した事から大騒ぎになった事もあった。この辺のデリケートな心理については、むしろ日本より慎重な対応が必要とされる筈の米国リベラル層の方が無神経な言動で事態の悪化を招いてる側面もあったりする。
- そもそも江戸幕藩体制がもたらした「天下泰平の世」は、鉄砲を戦争の道具としてより害獣駆除の道具として洗練させる「(17世紀まで遡る)世界最古級の鉄砲狩猟文化の一つ」を熟成させてきたのです。欧州では「中隊単位での一斉発射」なる運用形態に合わせ射撃精度を捨て連射制度を追求した雷管式銃(Percussion lockgun)が次第に主流となっていったのに対し、日本では幕末まで火縄式銃(Matchlock gun)が主流であり続けたのはそのせい。
*そういうアメリカも「狩猟といったら貴族のスポーツ」なる欧州的伝統とは異なる狩猟文化を構築してきた。こちらもこちらで当然17世紀まで遡る歴史を誇る。
そういえば「七人の侍(1954年)」が「荒野の七人(The Magnificent Seven、1960年)」に翻案された事について黒澤明監督は「(戦国時代、仕官した先が次々と取り潰されてきた苦い過去を有する)官兵衛役は、無法者たるガンマンのリーダーではなく、南北戦争で破れた南軍の敗残名将辺りが相応しかったのでは?」と疑問を呈しています。「正義(概ね体制側)と悪(概ね反体制側)を峻別する」黒澤明映画の文法では「無法者の高潔なリーダー」を主人公に選ぶなら「用心棒(1961年)」とか「椿三十郎(1962年)」になってしまうのですね。こうしたさりげないやり取りの中にも「剣豪とガンマンのイメージの対比」「アメリカ人にとっての南北戦争とは何か?」「(これに対応すべき)日本人にとっての戦国時代(さらには明治維新)とは何か?」「(欧州から移民してきた)アメリカ人と先住民やメキシコとの複雑怪奇な関係(日本人のイメージする北海道開拓史に相似)」といった歴史概念の衝突が躍動しているという次第。
ここでいう「日本的処方箋」は、さらに思わぬ内容を含んでいたりします。「(武術も含む)技術と女性解放の関連性」の物語文法への取り込みなる深淵…
*私が国際SNS上の関心空間を覗く様になったのは2000年代末頃からで、当時はすでにネット上の翻訳業務従事者や日本文化研究中心に「(Web上に公開された)ソードアート・オンラインの各国語への翻訳プロジェクト」が盛んに進められていたが、当時の分析によればやはり本格的に人気に火がついたのは銃使用を巡るジレンマを描いた「ファントム・バレット編」や、ターミナル・ケアについて描いた「マザーズ・ロザリオ編」辺りからだったらしい。さらに背景にあったのは「吸血鬼と狼男どっちを選ぶべき?」なる基本設定が秀逸で「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Grey)」の元も産んだ二次創作や(J・K・ローリングによる英国児童文学「ハリー・ポッター(Harry Potter)シリーズ(1997年〜2016年)」や米国TVシリーズ「バフィー 〜恋する十字架(Buffy the Vampire Slayer、1997年〜2003年)」のヒットが掘り起こした)ヤングアダルト向けロマンス小説界に無数のエピゴーネンジュブナイル小説ステファニー・メイヤー「トワイライト(Twilight)シリーズ(2005年〜)」などの大ブレイクだったとも。
*そういえば当時はSAOや高見広春「バトルロワイヤル(1999年)」同様にデスゲームを扱ったスーザン・コリンズ「ハンガー・ゲーム(The Hunger Games、原作2008年〜2010年、映画化2012年〜2015年)」も大ヒットを飛ばしており、諫山創「進撃の巨人(Attack on Titan、2009年)」もこの文脈で国際的に受容されたが「マトリックス(The Matrix)三部作(1999年〜2003年)」同様「革命を最終的処方箋として提示する」路線は、ことごとく2010年代後半まで生き延びる事が出来なかった。その一方で勝者となったのが、あえて「茅場晶彦を絶対悪認定して打倒する」結末を選ばなかったSAO、そしてジェームズ・ハリデーが創造した「人類を現実逃避に追い込む装置」OASISを巡るアーネスト・クライン「ゲームウォーズ(Ready Player One、原作2011年、映画化2018年)」の物語…
*要するに人類は21世紀に入ると次第に「前1200年のカタストロフ」における「海の民」の様に既存文明を全面否定してリセットするのが正しい行いとは考えられなくなっていったのだった。こうした路線の萌芽は(「マトリックス三部作」が無残に失墜した)2000年代後半から次第に明らかになってきたとも。
前1200年のカタストロフ - Wikipedia
- そもそも20世紀後半において女性解放が急激に進んだ事とテクノロジーの進歩は切っても切れない関係にある。電化製品普及による家事負担の軽減、そして(トラックや重機や溶接機器の浸透を背景とする)工事現場や流通業界といったガテン系職場への女性進出の加速…ただし米国映画産業は「比較的」こうした動きに無頓着。
「ドボジョ」に「トラガール」……今、ガテン系の女性がアツい!? | 進路のミカタニュース
*ダンサー志願の女性が建設現場で溶接技師として働く「フラッシュダンス(Flashdance、1983年)」を監督したエイドリアン・ライン監督は英国人。同じく英国人のリドリー・スコットが監督した(超人的博士が技術指導を担う米国SFの伝統から離れた)SF怪奇映画「エイリアン(Alien、1979年)」における唯一の生き残りながら正気を疑われパワードスーツを操作する港湾労働者へと身をやつしたリプリー航海士の活躍を描く「エイリアン2(Aliens、1986年)」を監督し、なおかつサラ・コナーのタフな抵抗者への成長を描いた「ターミネーター(The Terminator、1984年)」続編「ターミネーター2(T2、1991年)」を手掛けたジェームズ・キャメロン監督はスコットランド系カナダ人。その一方でサラ・パレツキーが発表した「男性顔負けの女性ハードボイルド私立探偵」 V・I・ウォーショースキー の活躍を描く「サマータイム・ブルース(Indemnity Only、1982年)や「センチメンタル・シカゴ(Killing Orders、1985年)」といった作品は女性読者の心を鷲掴みにしハードボイルド文学の世界に多くのエピゴーネンを生み出したが、この流れがハリウッド映画業界に与えた影響は最小限に止まったのである。
- 今から思えばこうした「現実世界における女性進出の進行と映像世界における女性の描かれ方のギャップ」の空隙を上手く突いたのが武内直子「美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」や、TVアニメ「少女革命ウテナ(1997年)」の国際的ヒットだったともいえる。TVゲーム「メトロイド(Metroid)シリーズ(1986年〜)」のメインヒロインたるサムス・アラン(Samus Aran)に至っては「第三世代フェニミズムの看板」とでもいうべき存在にまで成長を遂げた。
*サムス・アラン(Samus Aran)…彼女についてはその絶大なる力の源がパワードスーツ、すなわちテクノロジーの進化にある事(だからメトロイドの暴走は止めても、それを滅ぼそうとまではしない)まで含めて評価されており、リベラル階層の反近代主義への抵抗のシンボルともなっている辺りが興味深い。また「シンデレラ・コンプレックス」や「ピーターパン・シンドローム&ウェンディーズジレンマ」といった「女性の男性に対する精神的依存状態の問題視」がティンカー・ベルを一つの女性の理想像として抽出された系譜の延長線上にも位置付けられている。
*それでは何故ティンカー・ベルは「第三世代フェミニズムのアイコン」になり損ねてしまったのか? それは彼女の様な存在がむしろ「携帯機器から呼出せて、色々可愛がれるポケットサイズのお友達」に分類されていったからとも。
- そういえば最近国際的に「(受身で女性の生涯の一部を抽出したに過ぎない)Disney Heroinesから(能動的かつライフサイクル全体を包括する)Starwars Ladiesへ」なんて動きも見られるが、ここでいうStarwars Ladiesの大源流は「隠し砦の三悪人(1958年)」に登場する雪姫の中の人、すなわち「ズブの素人」上原美佐に黒澤明監督が施した演技指導にまで遡れたりするのである。やはり日本…問答無用で日本…
*要するに、皮肉にもStarwars Ladiesはルーカス監督の描く女性が全部「中の人」雪姫だったからこそ生まれ得た概念だったとも?
*地母神的存在のイメージも角川映画「里見八犬伝(Legend of the Eight Samurai、1983年 )」で夏木マリが演じた「妖姫」玉梓にまで遡るが「ゲームヒロインとして最も成功した人間の女性」ララ・クロフト(1996年〜)を演じたアンジェリーナ・ジョリーによるその再現は思いの外不評で、最終的に後継者の座が米澤穂信「古典部シリーズ(2001年〜)」のヒロイン千反田江留と「パイレーツ・オブ・カリビアン(Pirates of the Caribbean、2001年〜)シリーズ」のヒロインで「元女海賊船長」のエリザベス・スワンの間で競われる形となったのが興味深い。それにつけても「ハリウッド映画界におけるフェミニズムの影」を追っていくと、どうしてもドイツ系ユダヤ人プロデューサーのジェリー・ブラッカイマーや「キャメロン監督の元妻」にして「史上初のアカデミー監督賞受賞女性」となったキャスリン・ビグローの名前が頻出。さらにはジェームズ・キャメロン脚本監督映画「タイタニック (Titanic、1997年)」のラストで冷たくなった死体となって海底に沈んでいき、ヒロインの経歴の肥やしとなるレオナルド・ディカプリオの姿がどうしても念頭に…
*地母神(Great Mother)的存在…MCU(Marvel Cinematic Universe)からは排除されたサノス(Thanos)が絶対忠誠を誓う対象としての「冥界の女王」ミストレス・デス(Death)でもある。何故か「混沌の使者」デッドプールの恋人なる設定も…いずれにせよ「地母神的存在」にとって男性は所詮「使い捨ての消耗品(使用期限がきたら「後継者」にゴミとして始末させたりする)」に過ぎず、その事への反感が「(シュメール文明のアッカド人への屈服を招いてまで地母神イシュタルに選ばれる道を拒絶し抜いた)ウルクの英雄王」ギルガメッシュ(アッカド語Gilgameš、シュメール語Bilgameš)や「(地母神モリガンに選ばれる道を拒絶し、最後まで王とならなかった)ケルトの在野英雄」クー・フーリン(Cú Chulainn)の様な存在を登場させたり「逆にその男性らしさで地母神=冥界神を逆に屈服させる」破壊神ネルガル(Nergal、英雄ヘラクレスや英雄王テセウスの祖型とも)の系譜の物語を紡ぎ出してきたのだった。
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さらに興味深いのが、2000年代における国際SNS上の関心空間においてはこうした「日本におけるヒロイン像」のさらなる大源流を尾崎紅葉「金色夜叉(1897年〜1902年)」における「メインヒロイン」鴫沢宮の座を脅かす「毒婦」赤樫満枝に求めるコンセンサスが存在した辺り。
*「毒婦」赤樫満枝…日本初の「お嬢様笑い(「おほほほほっ」というあれ。さらなる大源流は「(公家悪っぽい)成金笑い」)」の体現者として国際的にその名を知られる。バーサ・M・クレー(Bertha M.Clay)の「女より弱きもの(Weaker than a Woman、1900年)」のメインヒロインたるバイオレットをモデルとしているとはいえ「(妾として迎えられた高利貸しの家業を乗っ取った)自立した女」にして「(没落士族の娘ゆえに)小太刀の達人」なる設定が加わり、さらに「メインヒロイン」お宮との直接対決を迫り「それは夢でした。ああ夢でよかった」なる「日本初のループ展開」を引き出した彼女の存在は確かに「日本的処方箋・ヒロイン編」の嚆矢たるべき条件を十分整えてるとも。ちなみに自分が口をつけた盃や煙管を主人公に咥えさせて「はい間接キス頂きました!!」と囃し立てたり、主人公の「聞いてない仕草」にしょげて酒を飲み過ぎてへべれけ状態に陥ったりもする。本当に色々な意味で今日のラノベ的ヒロインの大源流…そしてその延長線上にアスナは現れた訳である。
*そもそも米澤穂信「古典部シリーズ(2001年〜)」のヒロイン千反田江留がこの戦いのファイナリストにに残ったのは、「遠回りする雛」で史上初めてジェーン・オースティン「ノーサンガー・アビー(Northanger Abbey、執筆開始1798年、発表1817年)」で披露した「もちろん(英国ジェントリー家系に生まれた)女性は家の未来の繁栄を視野に入れて婿を選ばねばなりませんが、目的達成には標的に自ら喜んで告白させる技量も必要となるのです」なる理念の完全実践に成功したから。確かにいわれてみれば(かかる展開を熱狂的に歓迎した国際SNS上の女子匿名アカウントが支持するディズニー映画やハリー・ポッター・シリーズやスター・ウォーズシリーズはおろか)既存作品でこれを目指した作品はあまりにも少ない? というか、もしかしたら存在しない?*この戦い、現時点においては国際SNS上の関心空間に滞留する匿名女子アカウントの間では(自分もママになった世代からの共感補正もあって)「容赦なく地母神として降臨して勝利宣言した」エリザベス・スワンの圧勝というスコアだが、千反田江留は千反田江留で「ふたりの距離の概算(2010年)」において「自分の様な絶大な影響力を誇る存在が、ただそれだけで絶対悪として認識される可能性」について思い知らされ、さらに「いまさら翼といわれても(2016年)」においては「自分が家長の座を継承しない可能性」に直面して戸惑う。かくして最終決戦は2020年代に持ち越される展開を迎えた?
*「和製コンテンツにおける異性関係の多様性と多態性」についてはこの「三連GIF」Memeが国際的に有名だったりする。割と「2点間を結ぶ最短距離が直線とならない時は時空間の何処かが歪んでる」観点から見た重要な「試金石」の一つ?
こうしてみると和製コンテンツは一見、全然時代遅れになんてなっていない様にも見えます。問題はこうした国際展開に日本人自身がどれだけついていけてるかという話も…ある種の「素材」として面白い部分を切り取られ続けるだけでは真の未来を主体的に切り拓く事はかなわない?