諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【シンデレラ・リバティ(Cinderella Liberty)】「日本人がほとんど知らない1970年代のジョン・ウィリアムズ」について。

国際SNS上の関心空間で「Cinderella Liberty」なるキーワードを拾いました。そして色々検索してみたら思わぬ広がりを見せたのです。

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なにしろ日本語環境で検索に引っ掛かってくるのがこれだもの…最初から波乱の予感…

クールス(Cools 1975年〜) - Wikipedia

結成からすでに40年以上経っているが、音楽性やファッションなど一貫して変わらず活動を続けている。元メンバーに舘ひろし岩城滉一水口晴幸(ピッピ、PITPI)、横山剣など有名芸能人を輩出している。BUCK-TICK藤井フミヤなど、その影響を受けたミュージシャンは数多い。

  • 飲食店で食事をしていた岩城滉一舘ひろしが歩み寄り、身構えた岩城に「あのバイク、君の?」と話しかけ、バイクの話題で意気投合する。当時、舘はバイクの免許を持っておらず、岩城に勧められ、岩城のバイクに二人乗りして教習所に通った。東京原宿において1974年12月、舘ひろしをリーダー(チーム内での呼称は「ボス」。ただし水口晴幸(ピッピ、PITPI)のみ「大将」と呼んでいた)に、岩城滉一同じく、チーム内での呼称は「コーちゃん」)をサブリーダーに、および岩城の学生時代からの友人であった佐藤秀光らで結成されたモーターサイクルチームが原点。結成に際して「このチームはリーダー舘ひろしの独裁により運営される」という血判状を作成したという。当時舘ひろしカワサキのZIIに乗っていた。チーム結成当時の人数は21人で、メンバー全員リーゼント・黒の革ジャンパー・黒または青のジーンズ・黒のオートバイで統一された。「」というカラーにこだわったのは、舘ひろしが学生時代にラグビー部の主将をしていて、ラグビーNZ代表「オールブラックス」が好きだったからといわれている。表参道から交差点近くにあった原宿レオンという多くのクリエイターが出入りするカフェが溜り場で、店の前に黒いオートバイを数台並べている様は大変注目を集めたという。

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    *要は大源流に「ウェストサイド物語(Westside Story、映画化1961年)」辺りが透けて見えたりする。

  • 1975年4月13日、矢沢永吉率いる「キャロル」の解散コンサートで親衛隊を務める。これはローリング・ストーンズがヘルズ・エンジェルスを親衛隊にしてコンサートを行なったことに影響されて、矢沢が舘に同じような演出をしたいと持ちかけたもの。キャロルの解散コンサートを収録したDVD(一部カット編集)にはバイクチーム時代のクールスの走行場面が映っており、また、岩城滉一がキャロルとの思い出を語ったり、舘ひろしがキャロルメンバーにインタビューしたりする場面などが収録されている。この活動によりクールスは一躍脚光を浴びた(キャロルよりクールスを観ていたという客がいたほど、当時は芸能人ではなかったにもかかわらず、注目されていた)。なお「クールスはキャロルの親衛隊」であったが、個々の交友や接触はあったものの両者は対等な関係であり、また当時はあくまでロックバンドとそれを支持するバイクチームの関係であった。よって「クールスはキャロルの弟分バンド」「矢沢永吉舘ひろしの兄貴分」という認識は誤りであり、またその後のクールスの音楽性もキャロルとは異なった。

  • 当初、舘ひろしはバンド結成については否定的であったが、熱心なキングレコードの若手社員に説得され、「チームのメンバーを食べさせていくため」として、バンド結成を決意する。キャロル解散後の1975年9月、チームの中から選抜された7名とバンド結成から参加の大久保喜市の計8名で、アメリカンロックンロールバンド「クールス(COOLS)」としてシングル「紫のハイウェイ」でデビュー。その際、岩城滉一は参加しておらず、そのまま俳優となった。岩城が参加しなかった理由は、すでに俳優としてデビューすることが決定していたからであった。

    *音楽性的にはドリフターズ「ラストダンスは私に(Save the Last Dance for Me、1960年)」に時代感覚的に近い側面も?

    キャロルがビートルズを手本とした8ビートのブリティッシュロックンロールだとすれば、クールスは4ビートのアメリカンロックンロールであり、舘が手本に考えていたのはアメリカンロックンロールバンドのシャ・ナ・ナ(Sha Na Na)であった(それは舘・水口・村山の三人ボーカルにも表れている)。

    シャ・ナ・ナ - Wikipedia

    アメリカのロックンロール・ポップスグループ。発表曲のほとんどがカバーであるため、カバーバンドに近い存在である。ニューヨークのストリート出身と称し、金ラメ、スペーススーツ、レザー、ポンパドゥール・ヘアというルックス、オールディーズ・ナンバーやその流れをくむオールドスタイルのロックンロール、ドゥーワップなどをレパートリーにした歌とダンスで、1960年代の終わりに1950年代のストリート・カルチャーをよみがえらせた。日本においてもオールディーズ、フィフティーズを語る際には欠かせない存在であり、クールス、シャネルズ(後のラッツ&スター)などが彼らからの影響を公言している。

バンド結成当初はコンサート会場にファンの暴走族が集結したり、その他のファン層も不良少年が多かった。当初は、そのファッションや成り立ちから「不良」を売り物にした。またジェームス藤木は数多くのミュージシャンに楽曲を提供している。

もちろん国際SNS上の関心空間において「Cinderella Liberty」なるキーワードは、また別の現れ方をしてくるのです。例えば「(B級映画の帝王」ロジャー・コーマンがプロデュースした「女囚物」への出演を契機にスターダムへとのし上がったパム・グリアなどを顔とする黒人搾取映画Blaxploitation Movie)」の全盛期に便乗して制作された「本物」とか「不良少年がビールとか飲んじゃうのが放送コード的に容認されてた時代へのノスタルジア」とか…

そう、要するに原点は1970年代初頭に制作された、様々な意味合いにおいて「特別な」恋愛映画の一作だったりする様なのです…


マーク・ライデル監督映画「シンデレラ・リバティー/かぎりなき愛(Cinderella Liberty、1973年)」 - Wikipedia 

主演女優マーシャ・メイソンがゴールデングローブ賞、ドラマ部門主女優賞を受賞した米国映画。
マーシャ・メイソン - Wikipedia

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  • ワシントン州のある港に上陸した、甲板長ジョン・バッグス(ジェームス・カーン)は、軍の病院での健康診断で検査結果待ちを言い渡される。その上、翌日朝8時までの休暇が、患者規定のため深夜12時までのシンデレラ・リバティー休暇にされてしまう。

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  • その日、バッグスは酒場で賭けビリヤードをしている女性マギー(マーシャ・メイソン)と知り合う。マギーには、黒人男性との間にできた11歳の息子がおり、賭けビリヤードと生活保護、ときどきの水兵相手の売春で生活をしていた。

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  • ある日、バッグスはマギーの息子ダグが友人と観覧車で缶ビールを飲んでいるところに出くわす。彼はダグをマギーの元に連れてゆき、彼女にお金を渡し、酒以外の食べ物を与えるように頼む。そうして、彼はマギー親子の荒れた生活を改めるために心を配るようになり、少しずつマギー親子と心を通わせてゆく。

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  • バッグスは新兵だった頃、新兵訓練でしごかれた元上官のフォーシェイ(イーライ・ウォラック)と兵舎で出くわす。積年の恨みをはらし、その後、酒を酌み交わし仲直りをする。フォーシェイはデラウェアの名士の息子をしごいた事がきっかけで除隊処分になっていた。また同じ頃、バッグスの所属する軍の病院で彼の認識票が紛失してしまい、そのせいで彼は認識票が見つかるまで、給料が受け取れなくなってしまう。

  • マギーと親密になったバッグスは彼女のアパートで同棲するようになる。彼がダグの自転車を修理していた時、社会福祉委員のミス・ワトキンスが訪ねてきた。その会話から、バッグスはマギーが彼に会う前から妊娠していたことを知らされ、黙っていたマギーを責め、兵舎に戻る。

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  • 兵舎まで訪ねてきたダグから、マギーが荒れて酒浸りになっていることを聞かされ、心配になったバッグスはマギーを訪ね、よりを戻す。彼は広い心で新たに生まれてくる子供を受け入れる気持ちになり、再び平和な三人の生活が訪れる。彼はマギーと結婚する意志を伝えるが、認識票がないために軍の許可がおりない。

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  • その後、マギーは7ヶ月で早産してしまう。順調に進むかに見えた三人の生活だったが、生まれた赤ん坊が一週間で亡くなったことから、マギーは自暴自棄になり、結婚生活を諦めてしまう。まもなく、彼女は置手紙とダグを残し、他の男とニューオリンズに旅立ってしまう。認識票が発見され、明日に出航が決まったバッグスは、ダグにお金を渡し、朝7時に港に来るように言い聞かせる。

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  • 朝7時にタクシーでダグはやって来た。港では出航の点呼が始まっていた。「ジョン・バッグス・ジュニア」と名乗り、乗船許可を求め船に乗り込んだのは、意外なことに、あのフォーシェイだった。彼はバッグスの身代わりとなり軍務に就いたのだった。港でバッグスはダグに声をかけ、二人の生活がそこから始まる。

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主題歌「Wednesday Special」を、俳優としてはロックオペラファントム・オブ・パラダイス(Phantom of the Paradise、1974年)」の悪役スワン役で著名なポール・ウィリアムズが歌った。

そして、さらにこの映画には「1970年代にジョン・ウィリアムズがサウンドトラックを手掛けた作品」としても振り返られるべき要素が存在する様なのですね。

Soundtrack Store: RARE

ジョン・ウィリアムスに対して、今更何か言う事があるだろうか? アメリカを代表する映画音楽のベテラン? 大ヒット作を多く手がけた? スティーヴン・スピルバーグとの名コラヴォレーション?  現在の映画音楽界の長老? …いや、そんな言葉だけではジョン・ウィリアムスは語れない…

確かに1960年代から約半世紀に渡って活躍するフィルム・スコア・コンポーザーの唯一の生き残りとなったウィリアムス。60~70年代を共に活躍した同志達は、もうほとんどが居なくなってしまった。特にずっと比較されて、お互いに競い合い、ファンも二分して来た良きライヴァルにして同志、むしろ戦友とも言えるジェリー・ゴールドスミスも、天国に行ってしまった。そう、ウィリアムスとゴールドスミスの関係は、役者で例えるならば、50年代のカーク・ダグラスとバート・ランカスター、60年代ならスティーヴ・マックィーンとクリント・イーストウッド、或いは70年代以降ならアル・パチーノとロバート・デ・ニーロ!といったところか。お互いの意識とは別にしてとにかく1960年代から2000年代の前半までは、ウィリアムスとゴールドスミスが、アメリカ映画音楽を支えて来た事は間違いないだろう。

1973年に製作された『シンデレラ・リバティ』のスコアは、今改めて聞くとこのブルージーなジャズ・テイストの音色に驚きがある。語弊があるかもしれないが、このスコアからどうしてもウィリアムスのパーソナリティは聞こえて来ない。まるで当時、デーヴ・グルーシンあたりのジャズ系の作曲家がその才能を発揮したとも思える。

監督のマーク・ライデルとは『華麗なる週末』('69)、『11人のカウボーイ』('71)に続くコンビ作品だが、よく考えてみるとウィリアムスは、1950年代はジャズ・ピアニスト兼作曲家として活躍しジャズ・シーンのコンサートや数々のレコーディングをこなしていたのだ。そしてこのブルーなジャズは『ロング・グッドバイ』('73)でその片鱗を聞かせた後、本作から『アイガー・サンクション』('74)、『大地震』('74)へと受け継がれて行くのである。1970年代のウィリアムスには繊細なスコアの『ペーパー・チェイス』('73)、『続・激突 カージャック』('73)があり、『タワーリング・インフェルノ』('74)にもジャズ・テイストのラブ・テーマが聞こえていた。


しかし『ジョーズ』('75)、『スター・ウォーズ』('77)からは現在一般的に想起されるようなウィリアムスのカラーに染まる。

現在のスタイルであるシンフォニックなスコアリングに耳慣れた今、この時代のウィリアムスをもう一度聞くのには確かに勇気がいるかもしれない。でもこの時代のテイストもまた、忘れらないのだ。

というか、フィリップ・マーロウの熱狂的ファン層の間では不評ながら「歴史にその名を残す猫映画」として著名な「Long Goodby(1973年)」のサウンドトラックを手掛けてたのって、ジョン・ウィリアムズだったんですね。

既存の投稿ではこう言及して済ましてきた時代…

    • フランシス・コッポラ監督映画「ゴッド・ファーザー(The Godfather、Part1-1972年、Part2-1974年)」マーティン・スコセッシ監督映画「タクシー・ドライバー(Taxi Driver、1975年)」、シルヴェスター・スタローン主演脚本映画「ロッキー(Rocky、1976年)」といった「南イタリア」の活躍が「アメリカン・ニューシネマNew Hollywood)」を終わらせた。


      シルヴェスター・スタローン…弟のフランク・スタローンは音楽家。父フランク・スタローンはシチリアをルーツとするイタリア系アメリカ人で美容師、母はフランス系アメリカ人およびロシア系ユダヤアメリカ人で、元ダンサーで占星術師として著名なジャッキー・スタローン。


      *ここで急浮上してくるのが、英国出身で後に「ウォー・ゲーム WarGames(1983年)」「ブルーサンダー(Blue Thunder、1983年)」も監督したジョン・バダム監督が手掛け、かつイタリア系のジョン・トラボルタが主演した「サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever、1977年)」の重要性。ちなみにトラボルタは「サタデー・ナイト・フィーバー」の続編「ステイン・アライブ(Staying Alive、1983年)」の酷評が原因でしばらく不遇をかこつが、アカデミー脚本賞カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞したクエンティン・タランティーノ監督の「パルプ・フィクションPulp fiction、1994年)」でのヴィンセント役起用で復活を果たしている。

      *同じ「Stain Alive(1983年)」からのシングルカットでも「Never Gonna Give You Up」なるタイトルに関しては英国出身ながら「黒人音楽に迫る」ソウルフルな歌唱力で一世を風靡したRick Astleyの1987年版がOverwriteしている。まぁ1980年代…でも1980年代の黒人音楽といったら「Beat it」とか「Lythm Nation」とかそんな感じ。「ちっ、もう追いつかれたか。撤収開始、ここは捨てる」感が物凄い。そして「Nine inch Nailsとのコラボ」、そして「Taylor Swift vs. Nine Inch Nails」…

      *この流れについては「ゴッドファーザー」なくして深作欣二監督の東映映画「仁義なき戦いシリーズ(1973年〜1976年)」なく、かつ「大空港(Airport、1970年)」なくして東宝映画「日本沈没(1973年)」「ノストラダムスの大予言(1974年)」なしと言われている様に日本の映画界も否応無く巻き込まれて行ったのだった。

      *それはそれととして現代日本人としては「ノストラダムスの大予言」と同時上映された実写版「ルパン三世 念力珍作戦」の訳のわからなさが凄い…「キューティハニー(1973年〜1974年)」や「魔女っ子メグちゃん(1974年〜1975年)」のOPと同じくらい訳が分からないのが凄い。


      *ただ確実に指摘可能なのは、当時世界を席巻した「黒人文化の影響」が後には綺麗に抹消されていく展開。その流れは1970年代前半における「(カンフー映画礼賛も伴った)白人自身の白人文化に対する評価の低落」と深く関与していそうだという事。ああ「誇り高き黒人戦士」ドリルクローよ永遠に…

    • しかしながらスティーブン・スピルバーグ監督監督映画「ジョーズJaws、1975年)」や、ジョージ・ルーカス監督映画「スターウォーズStarwars、1977年)」や、リドリー・スコット監督映画「エイリアン(Ailian、1979年)」の様な大作娯楽映画が登場すると「既存の全ての路線に対する歴史規模での上書き」が始まってしまう。

      *後世の人間からすれば「エイリアン」の予告編は以下の様な内容であった方がしっくりくる。しかし当時はあくまで当時の一般人の間では「SFとホラーを分ける必然性」など理解されていなかった。その一方でこの時期より「科学技術の世界」が(高潔な人格者でもある)科学者が善導したり、マッドサイエンティストが世界征服の陰謀を企む世界観からの脱却が始まる。

    • そして国際的に1980年代前半を席巻した「青春搾取映画Youth Exploittion Movie)」においては「地域的閉鎖性に絶望して「死の願望」に憑かれた御嬢様ヒロイン」が「流れ者のトリックスター的主人公の活躍」に救済される筋書きが目立った。ある意味「白人の若者だけ対象にして採算が立つ目処」みたいなものが成立した時代…

どうやら随分と見識を改めないといけない様です。 最近はむしろこういう展開こそが楽しくて、楽しくて…