最近、思わぬ過去投稿が急速にアクセス数を伸ばして驚きました。
どうやら原因はこれ。
#拡散希望 英国の王室で継承権第五位のハリー王子の婚約が正式にケンジントンから発表された。この中で日本のマスメディアが一切伝えない事項がある。結婚に際し婚約者であるメーガン・マークルが #英国国教に改宗するという儀式 だ。日本の皇室はどうだ? 今上陛下の妻の美智子は未だにカソリック教徒
— JAPANESE OLD BOY (@godaigok) 2017年11月29日
確かに結構恐ろしい「パンドラの箱(Pandora Box)」ですよ、これって…
*何が恐ろしいってパンドラ神話といったらエジプト神話における「バズテト(Bastet)=セクメト(Sekhmet)二重女神説」、インド神話における「パールヴァティー(Parvati)=ドゥルガー(durga)=カーリー(Kari)三位一体説」、テーバイ叙事詩環における「カドモスとハルモニアの結婚(およびこれを発端とする「テーバイの七将攻め」における「ハルモニアの首飾り」や「エピノゴイ(後継者)戦争」における「ハルモニアの花嫁衣装」が果たすネガティブな役割)」との関連まで考慮にいれなければならなくなってしまう。どうやら地中海沿岸地域を商圏なる形で手中に収めたフェニキア商人の黄金期(紀元前10世紀頃〜紀元前1世紀、ただし東地中海では紀元前8世紀以降、数的優位に物をいわせて植民都市を建築し続けたギリシャ商人に競り負ける)に価値観標準化を意図して流布された「バール(男主人)/バーラト(女主人)二重信仰」の影響らしい。逆にここでいう「価値観標準化」のせいで、どの地が発祥でどう広まっていったかについての詳細は不明となっている。
ギリシア神話に登場する女性でパン(Παν)は「全てのもの」、パンドーラーは「全ての贈り物」を意味する。神々によって作られ人類の災いとして地上に送り込まれた「人類最初の女性」。現在伝わっている神話では人間とされているが、かつては地母神であり、陶器に描かれた絵に神々に作られたパンドーラーが大地から出現する表現が見られることから、地下から恵みをもたらす豊穣神だったと考えられている。
プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令したという。
ヘーシオドス『仕事と日』(47-105)によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々は彼女にあらゆる贈り物(=パンドーラー)を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス(「甕」の意だが後代に「箱」といわれるようになる)を持たせ、プロメーテウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだ。
美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて甕を開いてしまう。すると、そこから様々な災い(エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出したが「ἐλπίς」(エルピス、希望)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその甕を閉めてしまった。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。ヘーシオドスは「かくてゼウスの御心からは逃れがたし」という難解な言葉をもってこの話を締めくくる。
ヘーシオドスは『神統記』(570–615)においてもパンドーラーについて触れ、神々からつかわされた「女」というものがいかに男たちの災いとなっているか熱弁している。最初の女性であるパンドーラーが人類に災厄をもたらしたという神話が作られたのは、ヘーシオドスが徹底した女嫌いだったためとされる。
バブリオス『イソップ風寓話集』は、これとは違った物語を説く。パンドーラーは神々からの祝福が詰まった壺を与えられる。しかしエピメーテウスがこの壺を開けてしまう。祝福は飛び去ってしまったが、ただエルピス(希望)だけは残って「逃げてしまった良きものを我々に約束した」という。
パンドーラーはその後、エピメーテウスと、娘ピュラーと、ピュラーと結婚したデウカリオーンと共に大洪水を生き残り、デウカリオーンとピュラーはギリシア人の祖といわれるヘレーンをもうけた。
「猫の女神」として知られるが、初めは猫ではなく雌ライオンの頭部を持った姿で崇拝された。猫の姿あるいは、猫の頭部を持つ人間の姿とされるようになったのは紀元前1000年頃。
バステト - アンサイクロペディア猫は、古代エジプト人が初めて家畜化した動物と言われている。エジプト先王朝時代の紀元前6000年頃、ヒエラコンポリスの貴族墓より猫の骨が発見されている。また紀元前4000年紀後半には、家畜化されていたと考えられている。
このことから初めは、ライオンの神として攻撃的な性格を持っていたが他のライオンをモチーフとした神と差別化され、穏やかな神になったと言われる。
*そして、密かに古代エジプト文明に憧れるアフリカ系アメリカ人は男性をアヌビス、女性をバズテトに擬えるのを好む。メーガン・マークル女史だって、おそらく…
「近づき難い者」を意味するヒンドゥー教の女神。シヴァ神の神妃とされ、パールヴァティーと同一視されたが、元々はインド半島のデカン高原に住む先住民デカン族に崇拝されていた地母神であったとされている。デカン高原カルナータカ州バーダーミのアイホーレ村の遺跡には、7世紀後期のドゥルガー寺院があり、見事な彫刻が残されている。外見は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神。3つの目を持っており、額の中央に1つの目がある。10本あるいは18本の腕にそれぞれ神授の武器を持つ。虎もしくはライオンに乗る姿で描かれる。
アスラ神族の王マヒシャースラがアスラの軍勢を率いて天界を攻め、天界に住んでいたデーヴァ神族の神々を追放してしまった。敗れたデーヴァ神族はシヴァとヴィシュヌに助けを求め、それを聞いたシヴァとヴィシュヌは怒り、光を発した。他の神々も光を発し、光が一つに集まり狂暴な女神チャンディー(ドゥルガーの別名)が生まれた。チャンディーはアスラ神族討伐のためデーヴァ神族から以下のものを授かった。
- 三叉戟…シヴァ
- 円盤(チャクラム) …クリシュナ(ヴィシュヌ)
- 法螺貝…ヴァルナ
- 槍…アグニ
- 弓と矢筒…ヴァーユ
- 雷と鈴…インドラ
- 死の杖…ヤマ
- 羂索(ケンサク)…ヴァルナ
- 数珠…生類の主
- 水瓶…ブラフマー
- 全ての毛穴に光線…スーリヤ(太陽神)
- 剣と盾…死神
- 衣と装飾品…乳海
- 斧と様々な武器と鎧…ヴィシュヴァカルマン
- 蓮華の花輪…海
- ドゥン(虎もしくはライオン)と宝石…ヒマヴァット(ヒマラヤ山脈の神)
- 酒杯…クベーラ(富の王)
- 蛇族の首飾り…ナーガ(蛇の王)
チャンディーはアスラ神族の軍勢を次々と殲滅し、最後に水牛の姿をしたマヒシャースラを討ち取った。ドゥルガーがシヴァ神の三叉戟でマヒシャにとどめをさす図マヒシャマルディニーはこの話に由来する。これらの神話はヒンドゥー教の聖典マールカンデーヤ・プラーナの一部、デーヴィー・マーハートミャ(女神の栄光)に綴られている。
デーヴィー・マーハートミャ(サンスクリット語:devīmāhātmya(m), देवीमाहात्म्यम्,= 「神の栄光」) - Wikipedia
マヒシャースラを倒すまでの女神ドゥルガーの栄光を綴ったヒンドゥー教の書物である。プラーナ文献である聖典『マールカンデーヤ・プラーナ』の一部であり、紀元400年-500年頃にサンスクリット語で記された。リシ(詩聖)であるマールカンデーヤ(英語版)が原作者であるとされている。
ドゥルガー・サプタシャティー(दुर्गासप्तशती)、単にサプタシャティー、チャンディー(चण्डी)、チャンディー・パータ(चण्डीपाठः)などとも呼ばれ(パータは暗唱文の意)、信仰の書物とされてきた。700の韻文から構成され(サプターシャタ sapta-shata は7-100の意)、13章に分けられている。また、ヒンドゥー教の分派であるシャクティ教では非常に重要な聖典とされ信仰の中心となっている。
紀元前9世紀頃に存在していた女神信仰とヴェーダの英雄物語を統合することで、女性的な原理に聖性を与えようとしたものだと考えられる。以前存在していたアーリア人とそれ以外の母なる女神達の数々の神話を統合し、一つの語り口で技巧的に表現している。単に、従来の男の神々を侵食する権威主義的な神々の次元を越え、力そのものであるシャクティとして女神達を捉え直したことは、ヒンドゥー教の神話に於ける変移の中でも重要な意味を持つ。シュムバ、ニシュムバとの戦いでは、怒りによって黒くなったドゥルガーの額から黒い女神カーリーを生み出した。この女神はドゥルガー以上に純粋に戦闘を楽しむ破壊の女神とされる。
カーリー(サンスクリット語: काली, Kālī) - Wikipedia
「黒き者」あるいは「時(「時間、黒色」を意味するカーラの女性形)」を意味する名前を与えられたヒンドゥー教の女神で血と殺戮を好む。シヴァの妻の一柱であり、カーリー・マー(黒い母)とも呼ばれる。仏典における漢字による音写は迦利、迦哩。シヴァの神妃デーヴィー(マハーデーヴィー)の狂暴な相のひとつとされる。同じくデーヴィーの狂暴な相であるドゥルガーや、反対に柔和な恵み深い相であるパールヴァティーの別名とされるが、これらの女神は元はそれぞれ別個の神格であったと考えられている。
全身青みがかった黒色で3つの目と4本の腕を持ち、4本の腕の内一本には刀剣型の武器を、一本には斬り取った生首を持っており、チャクラを開き、牙をむき出しにした口からは長い舌を垂らし、髑髏ないし生首をつないだ首飾りをつけ、切り取った手足で腰を飾った姿で表される。絵画などでは10の顔と6本~10本の腕を持った姿で描かれることもある。
神話シャークタ派で聖典とされる『デーヴィーマーハートミャ』によると、女神ドゥルガーがシュムバ、ニシュムバという兄弟のアスラの軍と戦ったとき、怒りによって黒く染まった女神の額から出現し、アスラを殺戮したとされる。自分の流血から分身を作るアスラのラクタヴィージャとの戦いでは、流血のみならずその血液すべてを吸い尽くして倒した。勝利に酔ったカーリーが踊り始めると、そのあまりの激しさに大地が粉々に砕けそうだったので、シヴァ神がその足元に横たわり、その衝撃を弱めなければならなかった。しばしば、夫シヴァ神の腹の上で踊る姿で描かれるのはこれに由来している。なお、夫神のシヴァを踏みつけてしまってペロリと舌を出した。それが長い舌を出した姿で絵や像に表現されている。したがって絶えず舌を出しているわけでも、猛り狂って舌を出しているわけでもない。
信仰殺戮と破壊の象徴であり、南インドを中心とする土着の神の性質を習合してきたものと解される。インド全体で信仰されているポピュラーな神だが、特にベンガル地方での信仰が篤く、現在でもコルカタにあるカーリガート寺院では毎朝、山羊を生贄にした供養が行われている。また、インドの宗教家、神秘家ラーマクリシュナも熱心なカーリーの信奉者だった。
インドにおいて19世紀半ばまで存在していたとされているタギー(カーリーを信奉する秘密結社)は殺人を教義としていた。さらにドゥルガーは逆立った髪から7人(あるいは8人)の戦いの女神・マトリカスを生み出している。
ドゥルガーという名称は、魔神ドゥルガーを大戦争の末に滅ぼしたとき、記念としてその魔神の名を自らの名前にしたのだという。また、チャンダとムンダというアスラ神族を倒したことからチャームンダーとも呼ばれる。
また別名をヴィカラーラ(「恐るべき者」の意)といい仏教では興福寺八部衆や二十八部衆の畢婆迦羅、十二神将の毘羯羅(びから)となっている。また、密教に於いては菩薩(天台宗では如来)とされ、六観音、七観音の一尊である准胝観音となっている。黒闇天とも同一視される。また、突伽天女、塞天女とも呼ばれ、玄奘三蔵の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝(慈恩伝)』では突伽という表記で登場する。
信仰10月ごろに行われるドゥルガー・プージャーはドゥルガーを祝う祭であり、とりわけベンガル地方では盛大に執り行われている。
ハルモニアー(古希: Ἁρμονία, Harmoniā, ラテン語: Harmonia) - Wikipedia
調和(ハーモニー)を司るギリシア神話の女神。日本語では長母音を省略してハルモニアとも呼ぶ。
アレースとアプロディーテーの娘とされ、テーバイの始祖カドモスと結婚し子供を生んだが、子供たちはことごとく不幸な死に方をしたため、神の呪いがこれ以上テーバイに降りかからないようにと、カドモスと連れ添いテーバイを出て放浪の旅に出た。カドモスが蛇に変化する際に、ずっと抱き続け最後には自らも蛇に変じてしまった。その後二人はエーリュシオンの野に住むこととなる。
*ギリシア語文献に「猫(αἴλουρος)」なる単語が明確に見られ様になるのは紀元前5世紀、すなわちソフォクレスやヘロドトスの時代になってから。それまでは他の文化圏同様「蛇」が「鼠を食べてくれる益獣」として尊重されて居たのである。ところでカドモスとハルモニア―の結婚式はオリュンポスの神々が参列した初めての神と人間の結婚式であり、すべての神々が贈り物を携えてカドモスの家を訪れた。
- その際に贈られたものの中でも有名なものが長衣(ペプロス)と、ヘーパイストスによって作られた首飾りであった。それぞれアテーナーとヘーパイストスからの贈り物とも、ゼウスがエウローペーに贈ったものをカドモスが譲り受けたとも、アプロディーテーが贈ったともいわれる。これらの贈り物は、身に着ける者に美しさや気品を与えた。またハルモニア―がアレースとアプロディーテーの子であることを憎んだアテーナーとヘーパイストスが、長衣に媚薬を浸して与え、ハルモニア―の子孫の呪いとなったという説もある。
*「ハルモニアの呪い」…そもそもパパ(アレース)とママ(アプロディーテー)を巡る逸話自体が十分酷いのである。
- そのほかに、ヘルメースは竪琴を、カドモスは豪奢な上衣を彼女に贈り、デーメーテールは豊穣を約束した。
*こうした「ありゆる神々が王族の祭事を祝福する為に現れる」モチーフはペロー童話にも採択された「眠り姫(La Belle au bois dormant)」の物語にも見受けられる。しかしシャルル・ペロー童話の時代には既に「大量の火器を装備した常備軍を中央集権的官僚体制が排他的徴税によって養う」近代国家構築が本格化する近世が始まっていたのだった。
当時は同時に「赤(軍服)と黒(聖職者の制服)の時代」でもありました。継ぐべき所領のない貴族の次男坊以下は常備軍の将校になって従軍したり、聖職者となってガリカニスム(Gallicanisme、フランス独立主義)を否定するイエズス会などの教皇至上主義克服に貢献する形でしか立身出世が目指せなくなっていったのです。
カドモスとの結婚式の際に祝いの品としてもらった首飾りと婚礼衣装はテーバイ王家に代々受け継がれ、それぞれ「テーバイ攻めの七将(古希Ἑπτὰ ἐπὶ Θήβας, Hepta epi Thēbas, 羅Septem contra Thebas)」やそれに続いた「エピゴノイ(古希επιγονοι、epigonoi=後継者)戦争」にて買収工作に利用された。
*そして買収に屈し続けたアルゴス王アドラーストスの妹エリピューレーは最終的に息子のアルクマイオーンに殺された。これは古代より続いてきた(シャーマニックな宣託の気まぐれに振り回される)家母長制が(合理的思考に基づいて行動する)家父長制に敗北していく流れを暗示しているとも。エリピューレー(古希: Ἐριφύλη, Eriphȳlē, ラテン語: Eriphyla) - Wikipedia
ギリシア神話に登場するアルゴス王タラオスとリューシマケーの娘。アポロドーロスによれば、兄弟にアドラストス、パルテノパイオス、プローナクス、メーキステウス、アリストマコスがある。 テーバイ攻めの七将の一人アムピアラーオスと結婚し、アルクマイオーンやアムピロコスといった息子をもうけた。
「テーバイ攻めの七将」…アドラストスがテーバイ攻めの召集をかけたとき、エリピューレーの夫アムピアラーオスは、この戦いがアドラストス以外は死ぬ運命にあることを予見して反対し、他の将の参加も阻止しようとした。ポリュネイケースは、テーバイから持ち出していたハルモニアーの首飾りをエリピューレーに贈って口添えを頼んだ。首飾りは、ヘーパイストスが作り、アプロディーテーがハルモニアーに贈った魔法の品だった。アムピアラーオスは、あらかじめエリピューレーに贈り物を受けないよう伝えていたが、エリピューレーは首飾りを受けてアムピアラーオスに参戦するよう説得した。アムピアラーオスは、かつてエリピューレーの兄弟であるアドラストスと不和が生じたとき、以後二人に争いがあったときはエリピューレーの裁断に従うことを誓言していたため、やむなく戦いに出発した。その際、アムピアラーオスは息子たちに、成人したら母親を殺してテーバイを攻めるよう言い残した。テーバイの戦いに敗れ、逃亡したアムピアラーオスは地下の割れ目に呑み込まれて姿を消した。
「エピゴノイ戦争」…10年後、七将の息子たちエピゴノイは父親たちの遺志を継いでテーバイ攻めを計画した。彼らのなかでエリピューレーの息子アルクマイオーンひとりは戦う意志がなく、弟のアムピロコスと口論になった。二人はエリピューレーに参戦するか否かの結論を委ねた。ポリュネイケースの息子テルサンドロスはこれを見て、父親から受け継いでいたハルモニアーの結婚衣装をエリピューレーに贈り、アルクマイオーンの参戦を促すよう頼んだ。この結婚衣装は、アテーナーがハルモニアーに贈った魔法の品だった。エリピューレーは再び贈り物を受け取り、息子たちを戦いに送り出した。
エピゴノイはテーバイを陥落させ、アルクマイオーンはエリピューレーが2度までも買収されたことを知った。アムピアラーオスの遺言とあわせ、デルポイの神託が「エリピューレーは死に値する」と告げたことから、母親を殺せとの命だと受け取ったアルクマイオーンは、帰還するとエリピューレーを殺した。この殺害には弟のアムピロコスも加わっていたとするものもある。エリピューレーは死の直前にアルクマイオーンを呪い、アルクマイオーンはエリーニュスたちから追われる身となった。
「その後」…ホメーロスの叙事詩『オデュッセイアー』(第11書)では、オデュッセウスが冥府を訪れたとき、多くの王妃や王女たちの亡霊に出会っているが、そのなかにエリピューレーの姿もあった。
ロバート・グレーヴスの論考は、これらの物語を通じて、エリピューレーが常に戦争か平和かの決断を下す力を持っていたことに着目する。エリピューレーとは「鬱蒼とした」という意味で、これはドードーナでヘーラーに仕える巫女と同様に彼女がアルゴスで巫女であったことを暗示しているとする。
野生の梨の木は白い花を付けるので、月にゆかりの神木とされた。プルタルコスの『ギリシア問題』やアッリアノスの『雑録』では、アルゴスやティーリュンスで梨の木がことのほか珍重されていたことを述べており、ミュケーナイのヘーライオンに安置されてあったヘーラー最古の像は梨の木で作られていた。このことから、グレーヴスはエリピューレーの名前の由来と、神木としての梨に関連を見ているのである。*ここで我々が思い出すべきはイオニア人、ドーリア人と並ぶ古代ギリシャ構成メンバーにして当時ボイオキアに割拠していたアイオリス人(古希Αἰολεῖς、Aioleis)が、紀元前3000年頃にドナウ川流域から移住してきたと考えられている事である(紀元前2000年頃にギリシャ本土中部テッサリアとボイオティア地方からレスボス島に移住し、さらにアナトリア半島西部に植民して12のポリスを建設)。すなわちここに北欧神話における「呪われた富」概念を通じ、これが「(全てを統べる)力の指輪」という形で登場するリヒャルト・ワーグナー「ニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」や英国人ファンタジー作家J.R.R.トールキン「指輪物語(The Lord of the Rings、執筆1937年〜1949年、初版1954年〜1955年)」との思わぬ相似性が生じて来るのである。
そして舞台は突如、古代地中海世界から中世欧州へ。この飛躍を支えたのが「啓典の民」すなわち「帝国」との対決過程において(神殿破壊と民族強制移動によってあっけなく瓦解する)神殿宗教段階から脱っし、宗教の拠り所を「聖典(およびそれに記された内容)」に求める様になった新たな人間集団だったのです。
アーシラト(シュメール語(aṯrt [’āṯiratu] アシェラト)、ヘブライ語形アシェラ(אֲשֵׁרָה [’Ă šērāh])) - Wikipedia
ウガリット神話などに登場する西アジアの女神。シリア、パレスチナで広く崇拝された神々の女王。
- 元々シュメール神話においては天界の王アンの子マルトゥ(アムル)の配偶者であり、高位の神格とされていた。
- ウガリットにおいては最高神イルの妻であり、神々の母とされる。アーシラトとは 海を行く貴婦人(rbt aṯrt ym [rabbatu ’āṯiratu yamma])の略称で、神話には実際に彼女が海辺に暮らしている事が語られている。
*そういえば古代ギリシャ神話を代表する一柱で、ドーリア商圏の総本山たるコリントスで崇拝されていた(さらには共和制ローマと帝政ローマ樹立を主導したユリウス氏族からも守護神として意識されていた)女神アフロディテも「豊穣神」にして「航海安全を保証する女神」だった。さらには「外海より訪れる良いものも悪いものも代表する女神」にして「(おそらく魚肥からの連想で)その世界の主神に敗北して引き裂かれて世界創造の原料に使われるパブリック・エネミー」としての「太祖女神=龍神」たるティアマトとの関連も連想される。
- 別の呼称として 神々の生みの親(qnyt ilm [qāniyatu ’ilīma] 直訳すると『神々の創造神』)がある。またイラト(ilt [’ilatu])とも呼ばれるが、これは本来「イル」の女性形で、普通名詞としては「女神」の意味。しかし、女神の中の女神としてのアーシラトを指す言葉として、固有名詞的に用いられる。また、このイラトという名はアラビアの女神アッラートの名と語源を同じくする。
アッラート(アラート; اللات Al-Lāt) - Wikipedia
イスラム教以前のいわゆるジャーヒリーヤ時代に崇められていた女神。アリラト(al-'Ilāhat)とも。マナート、アル・ウッザーと共に、最高神アッラーフの三人の娘の一人とされていた。
その名はアッラーフの女性形で「女神」の意味。アラビアの商業都市ターイフ近くの渓谷に主神殿があり、飾りつけられた白い立方石を依代としていた。
ヘロドトスによれば、アラビア人はアプロディーテーのことをアリラトと呼んでいたとされる。
ロバート・グレーヴスによれば、イタリアの部族国家ラティウムが崇拝していた女神ラトが起源であり、その名は「月」を意味するという。- 旧約聖書にも異教の偶像神として登場し、ヘブライ語形アシェラ(אֲשֵׁרָה [’Ă šērāh])の名で現れる。カナンでは豊穣の女神として崇められた。ヘブライ人たちは当初この女神を敵視したが(出エジプト記第34章第13節)、カナンの地に入植すると自らも崇め始め(士師記第3章第7節ほか)、聖なる高台と呼ばれるカナン式の礼拝所で祀った。
*古代ヘブライ人が奉じる「唯一神」ヤハウェについては(まさしく「バビロン捕囚(紀元前587年/586年〜紀元前537年)」によって古代ヘブライ人の神殿宗教を滅ぼしかけた)新バビロニア帝国の奉じる「(支配下の土俗神全ての神格を集合する国家神なる意味合いでの)唯一神」マルドゥクの影響を受けて誕生したとする説すら存在する。それくらい、それまでの古代ヘブライ人はフェニキア商人が地中海沿岸一帯に広めた「バール(男主人)/バーラト(女主人)二重信仰」の儀礼フォーマットに翻弄されてきたのであった。
バビロン捕囚 - Wikipediaセム語派に於いて最も普通に用いられる神を指す言葉。 なお「エール」はヘブライ語形で、アラビア語形ではイラーフ(ilāh)、ウガリット語形やアッカド語形でイル(il [’ilu])等という。この名は恐らく「強くある」と言う意味の語根「’wl」に由来すると考えられている。ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルなどヘブライ語由来の天使の名に含まれる「-エル」はこの語に因む。またこの言葉は普通名詞として「神」を指すほか、神の中の神である最高神の名称として固有名詞的にも用いられる。ウガリット神話の最高神イルや古代アラブの最高神アッラーフがこれに相当する。
ウガリット神話では、最高神イルはアーシラトやアスタルトの夫であらゆる神々の父と呼ばれ、後にバアルの妹にて妻とされたアナトも元々はエルの娘にて妻の位置づけだった。神聖で力ある最高神にして創造神である。一般には、王権を象徴する角のついた冠を頂き玉座に座った男性の姿で表される。イルはレルと呼ばれる平野にある8つの入口と7つの部屋を持つ宮殿に住んでいた。
イルが若い頃、彼が海に出るとアーシラトと彼女の親友の女神たちが洗濯をしていた。イルは彼女たちを観察してその善業を認め、鳥を焼いてアーシラトとアスタルトを招待し、自分の妻か娘になるよう選ばせた。すると2人は妻となることを選んだ。イルと彼女たちの間には70人もの神々が生まれた。
彼はまた神々の会議を招集し議長を務め、また神々の王を指名しまた自由に罷免する権限を持つ。しかし後の時代になると肉体的に弱く、決断力にも欠ける年老いた神ともされ、事実上の主神はむしろバアルである。そのせいか、神話においてイルはバアルには冷淡で、自身の宮殿においてバアルとその仲間達に急襲され、捕縛されて傷つけられ、追放されて以降は彼の敵対者であるヤム=ナハルやモートを神々の王として擁立した。なお、捕縛されて傷つけられた際にある物が地上に落ちたといわれており、これはイルが去勢されたことの隠喩とされる。
バアルの死によって地上に乾季が訪れた際、イルの畑にもその実害が及んだ。イルはバアルの死を聞くと玉座から降り、ぼろを纏って自身の顔を傷つけた。アーシラトが自身の息子アッタルに王位を継がせようとするが、イルはそれを断った。その後、イルは夢でバアルが復活する事を知った。
ハルナイムの王・ダニルウには子供がおらず、バアルは彼に息子を与えるようとりなした。その結果、ダニルウとその妻との間には息子・アクハトが生まれた。その後、ダニルウの為にコシャル・ハシスが作った特別な弓を手に入れようとアナトがダニルウに近づいたが、ダニルウは弓を渡すことを断った。そこでアナトは復讐のためにイルにこのことを告げ、イルは気性の激しいアナトに忠告しても無駄だと思い容認したが、「あまり気ままなことをすると後で報いがある」と釘を刺している。
王妃と8人の子供たちを病気や戦争で亡くし、悲しむケレト王の夢の中に現れたイルは、自身への供物とバアルへの祈りを捧げるよう勧め、ウドムの王パベルの娘・フルリヤを手に入れるための知恵を授けた。また、ケレトが自身の結婚式の祝宴にイルらをはじめとする神々などを招いた際にはケレトを祝福し、「ケレトとフルリヤの間には7人の息子と1人の娘が生まれる」と告げた。その後、ケレトがその祝宴にアーシラトだけを招き忘れたのが原因で病に冒された際には、粘土でまじないのための人形を作り、巫女シャトカトを送り込んでケレトの病気を治させた。
旧約聖書にもエール・エルヨーン(いと高き者)、エール・オーラーム(永遠の神)などの名が現れるが、実際にはほとんどヤハウェの異名として用いられている。
イスラム教以前のいわゆるジャーヒリーヤ時代のアッラーフは、カアバ神殿に祭祀されていた360の神々の最高神であり、特に緊急時の救済を司る神として崇められていた。また、アッラート、マナート、アル・ウッザーという三女神の父とされていた。*実際、パレスチナ地方の当時の遺跡からは「ヤハウェ=アシェラ二重信仰」の祭祀跡や両柱を対等の存在として崇める碑文が少なからず出土している。ユダヤ民族史観的にはこれらは全て(新バビロニア帝国が現地に強制移住させた)サマリア人の宗教跡とされているが、如何にも苦しい。
*その一方において旧約聖書は古代ヘブライ諸国にフェニキア商人が(時として返済不能な規模に到達した借款の棒引きを条件に)在地有力者に政略結婚を迫り、同時に神官団を送り込んで現地土俗信仰を「バール(男主人)/バーラト(女主人)二重信仰」の儀礼フォーマットに準拠する形へと改変し「フェニキア特産の紫衣」や「シドン特産の銀食器」の需要を生じさせる「(貨幣経済浸透以前にはそれしか存在しなかった)身分制社会に埋め込まれた資本主義」の浸透に成功し、かつそうした歴史的展開へのリアクションとして(「唯一神への絶対帰依」の復活を志向する)反感の高まりも見られた事を克明に伝える。
*とはいえ当時のヘブライ語文献は古代エジプト王朝時代からヌビアに面する国境の街として栄えてきたエレファンテネにヘレニズム時代(Hellenistic period、紀元前323年年〜紀元前30年)の掉尾を飾ったプトレマイオス朝エジプト(紀元前306年〜紀元前30年)がヘブライ人傭兵団を配備した事、しかも彼らが「ヤハウェの配偶者としての天空の女神」を対等に祭祠している点についてエルサレム神殿が口煩く抗議を続けてきた事も克明に記している。ちなみに当時ヘレニズム世界に横溢していた「古代ギリシャ人と行動を共にするうちにギリシャ語を母語とする様になり、ヘブライ語も(割礼の様な)伝統的習俗も忘れてしまったディアスポラ(離散分子)」は、ユダヤ教徒の定義が「ヘブライ語で書かれた聖典のみを尊重し、そこに記された伝統的習俗を厳守する集団」と厳格化されると、その多くが「(当時はまだまだ単なるユダヤ教分派という側面が強く、かつギリシャ語に翻訳された「七十人訳聖書(Septuaginta、紀元前3世紀中葉〜起源前1世紀)」を聖典として容認する)キリスト教徒への改宗」に走ったと考えられている。
新約聖書はヘブル語やアラム語ではなく、なぜギリシャ語で書かれているのですか。*日本も古墳国家時代(3世紀中頃〜7世紀頃)の最優先課題は「特定の様式に従った古墳の築造や祭器の統一」および(派遣技術者の受け入れを通じて中央集権への服従を象徴する)古墳や(在地有力者の特定集落依存状態からの脱却を意味する)居館の築造であった。またイエズス会やロシア正教が日本への布教に際して驚くべき規模の成果を挙げたのも、こうした伝統的ノウハウを発揮したからに他ならない。
- ケレト王がウドムの姫フルリヤとの結婚式であげた祝宴に1人だけ招かれなかったのでこれを恨み、フルリヤに対して自分への供物を要求。それでも飽き足らず、ケレトを病気にして彼の国土に飢饉を送り込んだ。
*ある意味、デイズニー映画「眠れる森の美女(英Sleeping Beauty、仏La Belle au bois dormant)」の女悪役マレフィセント(Maleficent)の大源流。ちなみにディズニーの女悪役はしばしば自らクライマックスに悪竜や大海獣に変身して王子などに斃されるが、これって女神としては相当の原点回帰だったりする。
ヘシオドス 「神統記(テオゴニアー、希θεογονία、英Theogony、紀元前700年頃)」
半分ぐらいフェニキア神話やヒッタイト神話からの引用だが、フェニキア神話における主神クロノスが「悪知恵の回る悪役」に落とされて息子ゼウスに退治されるが、そのゼウスすら下克上の恐怖に耐えかね「妻殺し」や「子殺し」に手を染める様になる。
*この辺りはドナウ河流域よりボイオキアに渡ってきたアイオリス人説話において「親殺し」「妻殺し」「夫殺し」「子殺し」が延々と繰り返される陰惨さとも重なる。
ヒッタイト神話(最初の下克上)
ヘレンニオス・ピローン(Herennios Philon)断片集またボイオキア人の紡いだ物語らしく「(テーバイの建築者)カドモスとハルモニア」や「(地元の地母神)ヘカテー」の扱いが異様に大きい。ただしギリシャ神話全体の展開にその事が大きな影響を与える事はなかった。
そしてこの作品以降、ギリシャ神話の世界においては女神が「名目上の怪物の女主人」と、エキドナ(Echidna)の様な「地底に幽閉され怪物を生み続けるだけの母怪」に分離され始める。
*「エキドナ(Echidna)」…ある意味(「知性と肉体を切り離された」邪神が多数存在する)クトゥルフ神話における「千の黒い仔山羊の母」シュブ=ニグラスの祖先筋。「知性と肉体を切り離された」おぞましい設定故にFate系作品に英霊として登場するのは難しそうだが、そういう部分に無頓着なガチャ系ソーシャル・ゲームには次々と「エキドナママ」が採用される展開を迎える。
シュブ=ニグラス - Wikipedia*古代ギリシャの世界観においてエキドナは「スキタイ(Skythai)の母」ともされる事からアマゾネス同様「黒髪で浅黒い肌の東洋人」とイメージされる事が多いが、ガチャ系ソーシャル・ゲームでは不思議と「金髪か銀髪で碧眼の白人」として画像化される事が多い。
そういえば「スキタイ民族はアナトリア半島の英雄ヘラクレスと半人半蛇の地母神エキドナが交わった結果生まれた」なんて伝承もある模様。何故か日本人はこの女神を「金髪か銀髪の白人女性」と決めつけ、そのイメージを拡散してきたが、原義的には「黒髪で肌の浅黒いアジア系女性」なるイメージが強い。ただこれ地中海文化圏では「アジア人=自文化圏の外側から流入してくるエスニックな異邦人」だからかもしれず、それを「南蛮人=日本人にとってのエスニックな異邦人」に置き換える心理機制自体は十分想定内とも。
*この種のゲームはさらに多くの黒人系女性から自己投影イメージに選ばれた古代エジプトの猫神バズテトを「黒髪で浅黒い肌の東洋人」として映像化して国際的に物議を醸し出したりもしている。ただし彼女達の教養は(自らのアイデンティティにも関わる事なので)半端ではなく「Black Pharaohを排出したヌビア人は黒人でなく(一時期ユーラシア大陸じゅうを席巻しながら、その後衰退して日本列島やヒマラヤ山渓やナイル川上流域といった僻地にしか遺伝子を残せなかった)古モンゴロイドの末裔」という歴史的事実もその多くが押さえていたので具体的抗議活動には発展せず。
*とにかく蛇神は猫が渡来して「鼠を食べる益獣」の座を奪われた途端、急に蔑視される展開を迎える。恐ろしいまでに「可愛いは正義」の世界…
*どうやらこうした歴史展開はスキタイにまで及ばなかった様だが、そもそも地中海沿岸文明圏から見た「黒海の向こう側の草原から馬に跨ってやってくる」騎馬民族のイメージ自体が…
聖書には,スキタイ人を直接引き合いに出している部分が1か所だけあります。コロサイ 3章11節の,「ギリシャ人もユダヤ人もなく,割礼も無割礼もなく,異国人も,スキタイ人も,奴隷も,自由人もありません。ただキリストがすべてであり,すべてのうちにおられるのです」という部分です。クリスチャンの使徒パウロがこれらの言葉を書いた時,「スキタイ人」と訳されているギリシャ語は,特定の民族を指したのではなく,最も野蛮な人々という意味で用いられていました。パウロが強調したかったのは,エホバの聖霊,つまり活動する力の影響を受けることにより,そのような人でさえ敬虔な人格を身に着けることができるということでした。―コロサイ 3:9,10。
考古学者の中には,エレミヤ 51章27節にあるアシュケナズという名称が,アッシリア語でスキタイ人を指す,アシュグザイという言葉に相当すると考える人もいます。楔形文字の書字板には,西暦前7世紀にこの民とマンナイが同盟を結び,アッシリアに反逆したことが述べられています。エレミヤが預言し始める少し前に,スキタイ人は危害を加えることなくユダの地のそばを通り,エジプトに行って戻ってきました。ですからエレミヤが,ユダに対する北からの攻撃があると予告した時,その話を聞いた多くの人は,預言の正確さに疑問を持ったかもしれません。―エレミヤ 1:13‐15。
*「アシュケナズ」…あれ? もしかしてこれって「アシュケナージ系(東方系=ドイツ系)」ユダヤ人なる表現の大源流? 「セファルディム系(西方系=スペイン系)」ユダヤ人と何処かで内容が入れ替わった?
アシュケナジム - Wikipediaある学者たちは,スキタイ人にそれとなく言及している箇所がエレミヤ 50章42節にあると考えています。そこにはこうあります。「彼らは弓と投げ槍をとる。彼らは残虐で,憐れみを示さないであろう。その音は騒ぎ立つ海のようであり,彼らは馬に乗る。バビロンの娘よ,彼らは戦いのためにひとりの人となって陣立てをし,あなたを攻める」。しかしこの節はおもに,西暦前539年にバビロンを征服したメディア人とペルシャ人に当てはまります。
エゼキエル 38章と39章で述べられている「マゴグの地」とは,スキタイ人の諸部族のことではないかという主張もあります。しかし,「マゴグの地」には象徴的な意味があります。それは天での戦争の後,サタンと配下のみ使いたちが閉じこめられた,地の近辺を指しているに違いありません。―啓示 12:7‐17。
スキタイ人は,ニネベの滅びを予告するナホムの預言の成就にかかわっていました。(ナホム 1:1,14)西暦前632年,カルデア人,スキタイ人,メディア人はニネベを略奪し,アッシリア帝国の没落を招きました。
森林地帯では枝を落としてまっすぐにした常緑樹を依代として祀られていた。これは生命力の象徴としての常緑樹信仰に基づくものである。また、木の生えない荒れ地などでは代わりに杭を依代としていた。
ユダヤの伝承において男児を害すると信じられていた女性の悪霊。リリトとも表記される。通俗語源説では「夜」を意味するヘブライ語のライラー(Lailah)と結びつけられる。
ヘブライ語のリーリース (לילית) とアッカド語のリーリートゥ(līlītu)は先セム語の語根 "LYL"(夜)からきた女性形形容詞「ニスバ(nisba)」であり、字義的には「夜の」つまり「夜の女性的存在」になる、と一般的に言われている。
しかし何人かの学者は語根LYLをもとにした語源論を否定し、リーリートゥの起源は嵐の妖怪である、と考えた。この説は彼らによって引用されている楔形文字文書によっても裏付けられている。「夜」との関連は、おそらく初期の民間語源説によるものだろう。
対応するアッカド語の男性名詞リールー(līlû)にはニスバ接辞が存在せず、むしろシュメール語のキスキル・リラ(kiskil-lilla)と比較されている。
アッカド神話における「キスキル・リラ(kiskil-lilla)」
リリスは伝統的にシュメール語の『ギルガメシュ叙事詩』序に見える女怪「キ-シキル-リル-ラ-ケ(ki-sikil-lil-la-ke)」と同一視されてきた。リリスの現れる箇所のS. N. クレイマーの訳は以下。
竜がその木の根元に巣をつくり、ズー鳥が頂で若鳥を育て、そして妖怪リリスが中ほどに住処を作っていた。(中略)それからズー鳥は若鳥とともに山地へ飛んでいった。そしてリリスは、彼女の住処を壊して荒野へと逃げ帰った。
ヴォルケンシュタインは同じ部分を次のように訳している。
惑わされない蛇は木の根元に巣をつくり、アンズー鳥はその若鳥を木の枝で育て、闇の娘リリスは住処を幹に作っていた。
ギルガメシュ叙事詩のこの下りは伝統的に「バーニーの浮彫(ノーマン・コルヴィル・コレクション(Norman Colville collection)、紀元前1950年頃)と結びつけて考えられてきた。そこには脚が鳥の鉤爪になり、両脇にフクロウを従えた姿の女性が彫られている。
この同一視における重要なポイントは鳥の脚とフクロウである。この浮き彫りはおそらくギルガメシュ叙事詩の妖怪キシキルリルラケかその他の女神を表現したものだろうと考えられているが、実際のところリリスとの関係は希薄であり、おそらく欽定訳聖書におけるリリスの訳語「screech owl (キーキー鳴くフクロウ、あるいはコノハズクかメンフクロウ)」にひきずられたものだろう。非常に類似した同時期の浮き彫りはルーヴル美術館にも所蔵されている(AO 6501)。
古代バビロニアにおけるリリトゥ(Lilitu)
次にそれらしき姿を現すのは紀元前9世紀頃のバビロニア悪魔学の世界。そこにはリル(Lilu)と呼ばれる吸血鬼のような精霊が登場し、闇の時間帯にさまよい歩き、新生児や妊婦を狩り、殺す。
*おそらく原型は日本の妖怪である姑獲鳥同様に「深夜に人の赤子を奪う夜行性の妖鳥/女怪」といったところ。初期シュメールの神話には、アダパが、南風の翼を破壊したという物語があるが、それ以来彼女(南風)は人類に敵意を抱くようになったらしい。
*アッカド語のリリトゥはアルダト・リリ(Ardat Lili)およびイドル・リリ(Idlu Lili)と三幅対をなす。こうした存在はおそらく嵐の精霊であり(シュメール語のリル lil、「大気」「風」に由来する)、「夜」との関連はセム語の民間語源説なのだろう。
この風は、神々の王エンリルの妻であるニンリルと関連づけられている。ある神話の断片によれば、エンリルがニンリルを強姦し、その罰として彼はエレシュキガルの領地である冥界へと追放された。ニンリルは強姦のトラウマに苦しめられ、世界を放浪したのち、エンリルを追って冥界へ降り、男性への復讐を誓った。
*シュメール神話からバビロニアのアッカド神話への移行における変化によって、風の女神ニンリルは、彼女の2人の召使(アルダト・リリおよびイドル・リリ)とともにリリトゥ(-*ituはアッカド語の女性形接尾辞)になったのではないかとも考えられる。アルスラン・タシュの「リリス除魔法」(アレッポ国立博物館)と呼ばれている資料は、偽造ではないかと疑われているものの、もし真正なものだとすればだいたい紀元前7世紀頃の飾り板であり、そこにはスフィンクスのような怪物と牝オオカミが子供を食っている様子が描かれ、フェニキア文字でスフィンクスのような怪物をリリ(Lili)と注記している。
リリスとフクロウとの関連がいつごろに遡るのかについてはわからないが、おそらくこの鳥が吸血性の夜の精霊だとみなされたことによるものだろう。この習俗は古代ギリシアにおいて広まり、復讐の女神エリーニュスや夜の女神ヘカテーにそれを確認することができる。
*北欧神話において主神オーディンの使い魔として働くワルキューレの元イメージも、おそらくはこうした俗信からもたらされたと考えられている。
旧約聖書におけるリリス(Lilith、לִּילִית, 標準ヘブライ語ではリリト Lilit)
エドムの荒廃について書いている『イザヤ書』34章14節こそが、旧約聖書のなかで唯一リリスについて言及している箇所となる。
【新共同訳】荒野の獣はジャッカルに出会い 山羊の魔神はその友を呼び 夜の魔女は、そこに休息を求め 休む所を見つける。
Schrader (Jahrbuch für Protestantische Theologie, 1. 128) とLevy (ZDMG 9. 470, 484) はこれを「バビロン捕囚によってユダヤ人たちの間に知られるようになった夜の女神」と考えたが、リリスが妖怪というよりは女神であるという証拠はない。
*イザヤ書の成立は起源前6世紀ごろで、この時期はむしろバビロニアの妖怪リリトゥが言及されている時期と一致している。ブレア (2009)によると、リリスはヨタカである。七十人訳聖書は、適切な訳語がなかったためだろう、リリスをオノケンタウロス(onokentauros)と翻訳している。前のほうにある「山羊の魔神」もダイモン・オノケンタウロス(daimon onokentauros)と翻訳されている。この節におけるその他の部分は除外されている。
ヒエロニムスはリリスをラミア(Λαμία/Lamia)と翻訳した。ラミアはホラティウスの『詩の技法』340にみられる子供をさらう鬼女で、ギリシア神話ではリビュアの女王であり、ゼウスと結婚した。ゼウスの妻である女神ヘーラーは、ゼウスに無視されるようになってからラミアの子供たちを奪った。それ以来、ラミアは他の女性の子供を奪う怪物になってしまったという。
ラミアー - Wikipedia古くから子供が恐怖する名として、しつけの場で用いられた。また後の時代には、青年を誘惑して性の虜にしたあとこれを喰らう悪霊(Εμπουσα, Empusa, Empousa, エムプーサ)の代名詞のひとつに使われる様になる。
*まさしくゲーテ「コリントの花嫁(The Bride of Corinth、1797年)」の世界そのもので吸血鬼伝承の大源流とも。
欽定訳聖書における screech owl という訳には前例がない。これは、34章11節の「フクロウ」(yanšup)および「大きなフクロウ」(qippoz)とともに、翻訳するのが難しいヘブライ語の単語を、その部分の雰囲気に似合ったそれらしい動物を選ぶことによって意訳しようとしたのではないかと思われる。
ユダヤ民族の伝承
新生男児の割礼のとき、リリン(לִילִין, Lîlîn)から守るために首のまわりに3つの天使の名前が書かれた護符(後述)を置くという風習がある。
*この伝統は、リリスが中世の文筆家による創造ではなく、より初期のヘブライ神話にも存在していたという議論に重みを与える。
またリリスは男児だけを狙うので、この妖怪を騙すために男の子の髪を切るのをしばらく待っておく、という風習もある。
「死海文書(紀元前250年頃〜紀元70年頃)」におけるリリス
死海文書にリリスが登場しているかどうかについては議論がある。そのうちの一つは疑う余地のない『賢者への歌』(4Q510-511)のなかの言及であり、そしてもう一つはA・バウムガルテン(A. Baumgarten)によって発見された『男たらし』(4Q184)における、おそらくそれらしい引用である。前者の、反論しようがない4Q450断片1の『歌』には以下のようにある。
そして、私、指導者は、神の栄光ある輝きを、全ての破壊の天使たち、私生児の精霊たち、悪霊たち、リリス、叫ぶもの、そして[砂漠に棲むもの……]を震え上がらせ、恐れさせるために、唱える。
この典礼文書は「イザヤ書」34:14と近縁関係にあり、超自然的な敵対存在への注意を喚起するとともに、リリスがよく知られていた存在であったということも教えてくれる。しかし聖書のテクストから区別されるのは、このくだりがいかなる社会-政治的な議題においても機能しないということであり、むしろ『悪魔払い』(4Q560)や『悪霊を追い払う歌』(11Q11)と同様の役割を果たしており、呪文によって構成されている(アルスラン・タシュの浮き彫りと比較せよ)。「こうした精霊たちの力に対して義人たちを助け、守る」ために利用されたのだ。
クムランで発見されたほかの文書のなかでは従来『箴言』と関係していると思われたものが、どうやら「危なくて、でも魅力的な女性」というリリス描写の伝統に沿っているものだと考えられるようになってきた。4Q184の『男たらし』である。前1世紀か、おそらくはもっとさかのぼるこの詩歌は、危険な女性について述べ、続いて彼女との遭遇に注意するように言っている。これまではここでいう女性とは『箴言』の第2章と5章にみられる「よその女」のことだと思われていた。確かにその並行関係は明らかである。
『箴言』2章18-19節彼女の家は死へ落ち込んで行きその道は死霊の国へ向かっている。彼女のもとに行く者はだれも戻って来ない。命の道に帰りつくことはできない。
死海文書4Q184
彼女の門は死への門でありその家の玄関を 彼女は冥界へと向かわせる。そこに行く者はだれも戻って来ない。彼女に取り憑かれた者は穴へと落ち込む。
しかしながら、箴言における「よその女」という表現はクムランにおいては「男たらし」となっており、説明がつかない。箴言に表現されている女性は疑いなく遊女のこと、あるいは少なくともそのうちの一人の表象であり、テクストを共有していた人々にとってはよく知られていた職種だった。対照的に、死海文書における「男たらし」は、特に禁欲的なクムランの共同体にとっては縁のなかった社会的脅威(つまり遊女)の表象ではありえない。となると、死海文書は箴言におけるイメージを利用して、より広い意味での超自然的な脅威、すなわち女の悪霊リリスを詳述したのではないかと考えられるのである。
「タルムード(6世紀頃完成)」におけるリリス
タルムードがリリスについて言及することは稀であるものの、そのくだりは、リリスについての包括的な視点を与えてくれる。それはメソポタミア起源としてのリリスと、『創世記』における謎の聖書解釈述を予示させる彼女の未来の双方を反映するものであるからである。たとえば、タルムードにおいてリリスは翼と長い髪を持つとされているが、これは現存する最古の言及(ギルガメシュ叙事詩)にまで遡る。
ニッダー篇24b
ラビのユダはサムエルを引用して「もしも流産がリリスのようであったら、母親は誕生によって穢れている。なぜなら子供であるが翼があるからである」
エルビン篇100b
[女性による呪いについて詳述するなかで]バライタ(Baraitha)においてこう教えられた。彼女はリリスのように髪を長く伸ばし、獣のように水を漏らして座り、彼女の夫に長枕のように仕える。
すでに『男たらし』で暗示されているが、タルムードにおける特徴的なリリスについての言及は、その不潔な肉欲であり、ここでは男性たちが寝ているときに性的に彼らに近づくために女性の姿をとる女悪魔についてのメタファーとしてまで拡張された。
シャバト篇151b
ラビのハンナが言うには、「人は[誰もいない]家の中で一人では寝られない。そこで寝るものはリリスに押さえつけられる」
しかしながらタルムードに見られるもっとも個性的な認識は、エルビン篇の最初のほうにある。そこには何世紀にも渡って続くリリス神話を不注意にも運命付けた責任がある。
エルビン篇18b
エレアザルの子、ラビのエレミヤはさらに述べた。「アダムが禁止されていたこの年月[エデンの園を追放されてからの130年]の間、彼は亡霊、男の悪霊、そして女の悪霊[または夜の悪霊]をもうけた。聖書に『アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた』[創世記5:3]とあるからである。つまり、ここまでの間、彼は自分に似た、自分にかたどった子供をもうけなかったということである。彼は130年の間断食し、130年の間妻との関係を断ち、130年の間イチジクの衣を着ていた。[ラビのエレミヤによる]この記述は、彼が偶然漏らした精液について参照したときのものである。」
エルビン篇18bとシャバト篇151bを『ゾーハル』の「彼女は夜に徘徊し、人の息子たちを悩ませ、彼ら自身を穢すようにする」(19b)を比較すると明らかなのは、タルムードのこのくだりがアダムとリリスが一緒になるのを嫌っているということ示唆している、という点である。
ユダヤ教の伝承によれば、神はモーセに対し書かれたトーラーとは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされる。これが口伝律法(口伝のトーラー)である。
*背景にあったのはローマ帝国による神殿破壊やエルサレムからの追放、さらにはヘブライ語から離れギリシャ語しか解さなくなったばかりか割礼の様な伝統的慣習も守らなくなった「ヘレニズム系=ディアスポラ系」ヘブライ教徒急増に対する危機感の高まり。かくして「在野のラビが主導する形で(全ての儀礼をヘブライ語のみで遂行する)シナゴーグ(集会所)を運営する」ユダヤ教徒が登場すると、聖典において既に時代遅れとなってる部分を更新する為にこうした方便を用意したとも。時代が下って2世紀末ごろ、当時のイスラエルにおけるユダヤ人共同体の長であったユダ・ハナシー(ハナシーは称号)が、複数のラビたちを召集し、口伝律法を書物として体系的に記述する作業に着手した。その結果出来上がった文書群が「ミシュナ」である。本来、口伝で語り継ぐべき口伝律法があえて書物として編纂された理由は、一説には、第一次・第二次ユダヤ戦争を経験するに至り、ユダヤ教の存続に危機感を抱いたためであるともされる。
このミシュナに対して詳細な解説が付されるようになると、その過程において、現在それぞれ、エルサレム・タルムード(またはパレスチナ・タルムート)、バビロニア・タルムードと呼ばれる、内容の全く異なる2種類のタルムードが存在するようになる。現代においてタルムードとして認識されているものは後者のバビロニア・タルムードのことで、6世紀ごろには現在の形になったと考えられている。
当初、タルムードと呼ばれていたのはミシュナに付け加えられた膨大な解説文のことであったが、この解説部分は後に「ゲマラ」と呼ばれるようになり、やがてタルムードという言葉はミシュナとゲマラを併せた全体のことを指す言葉として使用されるようになった。
ところで「タルムードはユダヤ教徒の聖典である。」という解説が今まで日本では多くなされてきているが、実際のところタルムードの権威はラビ(教師)の権威のことでもある。そのため、後世におけるラビの権威を認めない立場からはタルムードの権威を認めないことになり、タルムードの権威を認めないユダヤ教の宗派も少なからず存在する。
その代表とも言えるのがカライ派で、モーセのトーラーのみを聖典としラビ文書の権威を認めていない。また、シャブタイ派(サバタイ派)の流れを汲むユダヤ教においては、むしろタルムードを否定するという立場をとる。
カバラ文献である13世紀の『左方の流出について』によると、リリスは悪霊の君主であるサマエルの妻である。
また、おそらく『ベン・シラのアルファベット(後述)』に影響されて、彼女はアダムの妻ということになっている(『ヤルクト・レウベニ』(Yalqut Reubeni)、『ゾーハル』1: 34b, 3: 19[3])。
そもそもカバラー(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala、ユダヤ神秘主義)なるもの、マグリブ(アフリカ北岸のチュニジア以西)からアンダルス(イベリア半島南部)にかけてを支配したムラービト朝(1040年〜1147年)やムワッヒド朝(1130年〜1269年)の改宗圧力を嫌って南仏沿岸のプロヴァンス地方に逃げ込んだ先進的なセファルデイム系(スペイン系)ユダヤ人と後進的なアシュケナジム系(ドイツ系)ユダヤ人が邂逅した結果生まれた産物だったのである。
*ムラービト朝やムワッヒド朝、及び(改宗強要を諦めて貿易立国に徹した)マリーン朝(1196年〜1465年)はどれもベルベル人が建てた王朝だったが、ハリウッドが製作したスペクタクル史劇「エル・シド(El Cid、1961年)」では何故か黒人王朝に改変されていた。人種的にはコーカソイド系に分類されるベルベル人が黒人だという観念は、シェークスピアの戯曲『オセロ』によって誤って広められたものだったが、イベリア半島侵攻時に内陸部より帳簿した黒人兵士を大量に引き連れて行ったのもまた事実らしい。タルムード(イスラム圏で編纂された口伝集)ばかりか古代ギリシャ哲学の果実を取り込んだアラビア哲学まで駆使する前者に対抗すべく、後者は(自分達の拠る唯一の聖典たる)トーラー(モーゼ五書)の精読(という名の神秘主義構築)に走り、ここから生まれた新発想がさらに(キリスト教圏に避難するなどして)イベリア半島に残ったセファルデイム系ユダヤ人の好奇心を刺激して「ゾーハル(光の書、13世紀)」の様な体系に編纂されたりしたのだった。
カバラ(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala) - Wikipedia
「カバラ」はヘブライ語の動詞キッベール「受け入れる」「伝承する」の名詞形で、「受け入れ」「伝承」を意味する。カバラが登場する以前のゲオーニーム時代には、単に口伝律法を指す言葉として用いられた。したがって、その後ユダヤ教神秘主義を指す呼称となった際にも、個人が独自に体得した神秘思想というよりは、神から伝授された知恵、あるいは師が弟子に伝承した神秘という意味で用いられることになる。
ユダヤ教の伝統に忠実な側面を持とうとしたという点において、他の宗教の神秘主義とは異なる。本来のカバラは、ユダヤ教の律法を遵守すること、あるいは神から律法の真意を学ぶことを目的とした。したがって、正統的なユダヤ教との親和性を持っていた時期もあったため、必ずしも秘教的な神秘思想とは言えない。
しかし、キリスト教の神秘家に採り入れられるようになると、ユダヤ教の伝統からは乖離した極めて個人的な神秘体験の追究の手段として用いられることになる。
「ベン・シラのアルファベット(8世紀〜11世紀頃)」におけるリリス
中世(それもおそらく当時は後進地帯だったキリスト教圏ではなく、古代ギリシャ哲学を継承したアラビア哲学がシーア派とスンニ派の争点となっていた先進的なイスラム教圏)に「ベン・シラのアルファベット(The Alphabet of ben Sirach、8世紀〜11世紀頃)」が登場した背景と目的はよくわかっていない。内容的には聖書とタルムードの英雄たちの物語集成であり、民間伝承を集めたものなのだろうが、キリスト教やカライ派などの分離主義運動に反駁するものでもあった。現代のユダヤ教徒にとっても攻撃的な主張も含み、反ユダヤ主義的諷刺と見做す向きすらある。
カライ派(Karaite Judaism, Karaism, קְרָאִים (現代ヘブライ語 Qəraʾim; ティベリア・ヘブライ語 Qərāʾîm) - Wikipedia
ラビ的ユダヤ教を避けるユダヤ教の一派。ミクラー(聖書)を受け入れ、ミシュナー・タルムードを受け入れない。「カライ」は読むという意味で、ミクラーなどの語根でもある。また一方、ラビ・ユダヤ教よりも聖書解釈は深いところもある。
8世紀、バビロニアのラビ・アナン・ベン・ダヴィド Anan ben David を創始者とする。ミシュナーなどを認めないことは、古代のサドカイ派に通じるところがあり、実際にその起源はサドカイ派に求められるとされる。
またイスラム教のムゥタズィラ派(キリスト教の国教化を国是とする様になったビザンチン帝国から追放されるも、ササン朝ペルシャ庇護下やシリアへの亡命者の間で伝えられてきた古代ギリシャ思想の影響を色濃く受けたアッバース朝時代のイスラム国学)からの影響も伺われ、カライ派が確立したこの哲学は後にサアディア・ガオンへ通じ、ラビ・ユダヤ教にも普及した。皮肉にもこうして生まれた近似はカライ派との対立を深めた。サアディアはこうしてカライ派の影響を受けて改革されたラビ・ユダヤ教の論理で、カライ派への攻撃を行うことになった。
サアディア・ベン・ヨセフまたはサディア・ベン・ヨゼフ(Saadia Ben Joseph、882年〜942年) - Wikipedia
バビロニアのユダヤ教神学者、哲学者、文学者、ヘブライ語文法学者。エジプト・ファイユーム出身で正統派ラビ・ユダヤ教の立場から厳格主義・聖書主義のカライ派を批判し、またイスラーム哲学の方法を用いてユダヤ教を哲学的に基礎づけようとした。
タルムードを学ぶ学塾イェシーバーの長ゲオーニーム(単数形はガーオーン)を務めたことから、サアドヤー・ガーオーン、サアディア・ガオン(Saadia Gaon)とよばれることもある。その黄金時代にはミクラー註解書、様々な論議などの膨大な文献を生み出した。そしてこれらの文書が、カライ派以外の新しくまた不備な点のないミシュナーとタルムードを護る動き― サアディア・ガオンとサアディアのカライ派への批判論的文書がその頂点に達した ― を誘発してしまう。
- 『創世記』1章27節のくだり「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女にかたどって創造された」(アダムの肋骨からイヴが誕生する前の節である)から、アダムにはイヴ以前に妻がいたという伝承が生まれた。この発想は、創世記2:21のイヴがアダムの肋骨もしくは脇腹から造られたという記述との矛盾を解消しようとするものであったと考えられる。
- そしてリリスがアダムの最初の妻であるとした最古の文献が「ベン・シラのアルファベット」となる。それによれば、アダムの最初の伴侶となるはずであったリリスは、アダムと対等に扱われることを要求し、同じく土から造られたのだから平等だと主張してアダムと口論となった。リリスは神の名を叫んで飛び出し、紅海沿岸に住みついた。
- アダムは神に、リリスを取り戻すように願った。そこで3人の天使たちが彼女のもとへ遣わされた。セノイ(Senoy)、サンセノイ(Sansenoy)、セマンゲロフ(Semangelof)という3人の天使たちである。天使たちは紅海でリリスを見つけ、「逃げたままだと毎日子供たちのうち100人を殺す」と脅迫したが、リリスはアダムのもとへ戻ることを拒絶した。天使たちがリリスを海に沈めようとすると、リリスは天使たちに答えて、「わたしは生まれてくる子どもを苦しめる者だ」、ただし「3人の天使たちの名の記された護符を目にした時には、子どもに危害を加えないでやろう」と約束したのである。
*興味深い事に、これだけ展開が異なるにも関わらず日本神話における「イザナミとイザナギが現世と黄泉の国の線引きを行う際のやりとり」と重なる要素が多い。
*さしずめ日本神話で「裁定役を担った3人の天使」に該当するのが菊理媛神(くくりひめ)?日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』本文には登場せず、『日本書紀』の一書(第十)に一度だけ出てくるのみである。
【原文】
及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。
是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。【解釈文】
その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。
このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。【現代文】
神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。
そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。 つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った。
*いずれにせよ菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また出自なども書かれていない。この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。 夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも、 伊奘諾尊と伊弉冉尊の娘、イザナミが「故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ」(古事記)と言及した黄泉神(よもつかみ)(イザナミ以前の黄泉津大神)、 伊弉冉尊の荒魂(あらみたま)もしくは和魂(にぎみたま)、あるいは伊弉冉尊(イザナミ)の別名という説もある。 いずれにせよ菊理媛神(泉守道者)は、伊奘諾尊および伊弉冉尊と深い関係を持つ。 また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。 ケガレを払う神格ともされる。
神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。菊花の古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも、また菊花の形状からという説もある。菊の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説もある。 他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜(くく)り/潜(くぐ)る」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。 白山神社(石川県鳳珠郡能都町柳田村)では、『久久理姫命(久々利姫命)』と表記している。
アダムとリリスの交わりから悪霊たちが生まれたと言われる。そのリリスの子どもたちはヘブライ語でリリンとも呼ばれる。そしてアダムと別れてからもリリスは無数の悪霊たち(Shedim=シェディム)を生み出し続けた。
リリン(לִילִין, Lîlîn) - Wikipedia
ユダヤ教における悪魔の一種。ヘブライ語リリスの複数形。リリムとも呼ばれる。
伝承によれば、リリスが魔王サタンとの間に儲けた子供の悪魔達に名づけられた名前である。新生児を襲ったり、(修道院で禁欲生活を送る修道士を筆頭とする)睡眠中の男性を誘惑し、夢精させるとも云われる。女性淫魔であるサキュバスと関連付けられることも多い。
人類の祖先とする見方もある。
いずれにせよこのテクストは中世ドイツのユダヤ教神秘主義者たちに受け入れられた。とはいえ「リリスはアダムの最初の妻である」なる概念は17世紀ごろヨハネス・ブクストルフ(Johannes Buxtorf)の「タルムード語彙集(Lexicon Talmudicum)」によってようやく広く知られるようになるのである。そして現代ではリリスは女性解放運動の象徴の一つとなっている。
そしてルネサンスと宗教改革の時代 以降、欧州各国はそれぞれの形で「ウルトラモンタニズム(ultramontanism=教皇至上主義) 」から距離を置こうと画策し始めます。
各国の王侯貴族が対抗上教養の基盤としたのは「(イスラム圏において各国の君主の依頼を受けてアラビア哲学者達が「ウラマー(イスラム法学者)の宗教的拘束からの解放を目指すイデオロギー」として機能させるべく磨き上げてきた)注釈付きギリシャ古典」。かくしてこうした歴史的知識もまた欧州へと一斉に流れ込み血肉として吸収されていく展開を迎えたのでした。
デカルトが始めたのは、元来はヘレニズム時代の哲学者だったストア派のゼノンや古代ローマ時代の哲人セネカの流れに与する「分別と多感(Sense and Sensibility)の神学」だったかもしれない。だがそれは同時にそのシステム全体を統制する「理性(希: λόγος→羅: ratio→仏: raison→英: reason)の神学」でもあり、これを「合理主義(rationalism)」という。ただしスイスの文化史学者ブルクハルトは「理神崇拝(Deism)」について「キリスト教からキリスト教らしさを全て排除しようとする試み」と非難していたりもする。
17世紀前半のフランスは帯剣貴族だけでなく(最終的に文壇をほぼ独占するに至る)法服貴族等の新興階層まで理性と意志の高揚と力を強調し, 困難に立ち向かう英雄を理想視する英雄的ストイシスム (Stocisme heroque) が横溢していた。これはセネカ (Lucius Annaeus Seneca, 紀元前1年頃~紀元後65年) の思想に代表されるような本来のストイシスムが形を変えて復興したものであり、国家の困難に対して無関心であることを諌め, 危機に対しても勇敢に立ち向かうことを促す栄光と高邁な精神に溢れたものだった。
ジェントルマンの美徳として教養を重視する立場は16世紀まで遡ることができるが、これは15世紀末にイタリアから輸入された人文主義の影響もあり、ジェントリが武芸に秀で伝統的権威を持っていた貴族に対抗する上で教養が必要になったためである。
トマス・エリオットは『為政者の書』を著し、ギリシア・ローマ的な西洋古典教養を備え、地方行政を担うことのできる人物を理想のジェントルマンとして描いている。その後、中央集権化が進むにつれ、ジェントルマンは地方行政のみならず、中央の宮廷においても重視されるようになるが、そのような情勢の変化に合わせて、求められるジェントルマン像も変化した。1561年に翻訳されたバルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人』は、古典教養に加え、音楽、詩、舞踏、作法、礼節などさらに広い領域における知識と素養を求めている。
このような「必須科目」は家庭教師から教わるのみならず、オックスブリッジでも習得された。両大学は中世では聖職者の人材育成の場としての性格をもっていたが、ヘンリー8世やエリザベス1世によって、教会の勢力を削いで宮廷に人材を供給するべく古代ギリシャ。ローマ時代の古典研究の重視に方針転換された。
いずれにせよ「国家教会主義」へと舵を切った欧州諸王朝を主に「山の向こうから(主にフランスやドイツに)」掣肘しようと画策し続けてきたウルトラモンタニズム(ultramontanism=教皇至上主義) 」の歴史は「カソリックVSプロテスタント」みたいな単純な図式では到底扱いかねる代物といえましょう。
ウルトラモンタニズム(ultramontanism=教皇至上主義) - Wikipedia
キリスト教の歴史上、17,18世紀フランスやドイツにおけるカトリック教会内の教会政治上の論争において、ローマ教皇の首位性を主張した立場。しばしば「教皇至上権主義」「教皇至上主義」と意訳される。転じて、教皇が政治上も絶対的権威を有するという近代の主張もこの語で表される。
①直訳すると「山の向こう主義」。フランスから見てローマはアルプスを隔てた向こう側であることによる。類義語に「バチカニズム(バチカン主義)」「キュリアリズム(教皇庁主義)」が挙げられる。超モンタニズム(=超モンタノス主義)では全くない事に注意。
- 「フランスから見てローマはアルプスを隔てた向こう側であることによる」…同時に「ピレネー山脈の向こう側」すなわち(多くがウルトラモンタニストであるか、フランス国民にそう警戒されてきた)スペイン王国から輿入れしてきた王妃に対してしばしばこの表現が用いられてきた。
- イングランドの場合、同様の脅威はまず「海の向こう」からやってきた。フランス王室やスペイン王室との英国王室の婚姻関係がそれに該当する。
*そしてスペイン国王フェリペ2世(Felipe II, 在位1556年〜1598年)は(そのプロテスタント大弾圧によって「ブラッディ・マリー」の二つ名を授かった)イングランド女王メアリー1世(1553年〜1558年)と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。
母方からスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王家の血を引くメアリーは、結婚の相手に従兄カール5世の子であるアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。しかしカトリックの宗主国のようなスペイン王太子との結婚は、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいただけに反対する者も多く、トマス・ワイアットらがケントでエリザベスを王位に即けること求めて蜂起する事態となったが、反乱は鎮圧されワイアットは処刑された。この乱に連座する形で、ジェーン・グレイらを処刑している。この後にもいくつかの反乱が起こるが、そのいずれもがエリザベスを王位に即けることを旗印にしたものだった。
メアリーは幾多の反対を押し切り、1554年7月20日に11歳年下のフェリペと結婚した。フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられたが、1556年にスペイン王として即位するため本国に帰国、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3か月後には再びスペインに帰国し、以後二度とメアリーに会うことはなかった。フェリペとの結婚後、メアリーには懐妊かと思われた時期もあったが、想像妊娠だった上、実は卵巣腫瘍を発症していた模様で、妊娠と思われたのはその症状だったと推測されている。
この結婚によって、イングランドはフランスとスペインの戦争(第六次イタリア戦争)に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うことになった。
悪いことづくめに終わったフェリペとの結婚の果てに、メアリーは自らの健康も害してその死期を悟るようになった。後継者は異母妹エリザベス以外にいなかったが、母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリーはエリザベスのことを終生憎み続けており、死の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだった。
メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で死去した。メアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われた。*そして伝統的に親カソリック(親フランス・スペイン)的姿勢で知られてきたスチュワート朝への王朝交替が清教徒革命(狭義1641年〜1649年、広義1638年〜1660年)や名誉革命(1688年〜1689年)を引き起こしてきた訳である。
実はドイツの状況はもっとややこしい。何しろプロイセン王統ホーエンツォレルン家といったらドイツ騎士団国(1224年〜1525年)の団長末裔にして、宗教革命の発端となったレオ10世による贖宥状(1515年)を発行したマインツ大司教アルブレヒト(ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟)を出した一族なのに、後にちゃっかりプロテスタントへと改宗。イエズス会の説得に屈してカソリック教圏に留まりドイツ農民戦争(1524年)を鎮圧する側に回ったバイエルン王統ヴィッテルスバッハ家と歴史的確執を続け、これが普墺戦争(Deutscher Krieg、1866年)はおろかバイエルン・レーテ共和国(Bayerische Räterepublik、1919年)における共産党員とフライコール(Freikorps=ドイツ義勇軍)の虐殺合戦を経て「反共政権」ナチスの政権獲得に至る道筋を準備したベルリンとミュンヘンの歴史的睨み合いの重要な遠因の一つとなる。
*1870年代ドイツに吹き荒れた「ビスマルク宰相の文化闘争(Kulturkampf)」もこの図式抜きには理解出来ない。特に重要なのが、この動きには(多くがカソリック教徒だった)ポーランド系国民に対する同化政策という側面も存在したという事で、当時からの確執が第二次世界大戦(1939年〜1945年)の発端となった「ナチス・ドイツによるポーランド併合(1939年)」にまで持ち越される事になる。
②対立概念は「ガリカニスム(Gallicanisme)」。こちらは直訳すると「ガリア主義=フランス主義」だが、しばしば「国家教会主義」と意訳される。
ガリカニスム(Gallicanisme) - Wikipedia
語源は「ガリア」からきている。フランスのカトリック教会のローマ教皇からの独立、教皇権の制限を求める政治的、宗教的立場のことをいう。教皇の権威を尊重しながらも、その至上権については異議を唱えた。イエズス会などのウルトラモンタニズムと対立した。
フランス国家における主権の伸長と中央集権化に軌を一にする傾向で、世俗的なことがらに関して国王が教皇の裁可を免れることや公会議が教皇権に優越することなどを主張し、具体的にはフランス王権による聖職者叙任権の完全掌握という形で実現した。
それとは別にカール大帝時代から行われていた、王の即位の際に司教が王に塗油して聖別する儀式が問題となった。フィリップ4世時代には、ジャン・ド・パリやジャン・ジェルソンが「王の資格が完成するためには聖別は必要だが、聖別前にも王が存在しうる」と説いた。
ガリカニスムの立場を明確に示したものとしてはルイ14世時代の1682年に発表されたボシュエ神父による「4ヵ条の宣言」が有名。
その後、1905年の政教分離法などによってライシテの原則が支配的になるにつれて衰退していった。③カトリック教会政治に限定された議論のようでありながら、世俗権力を巻き込む主張・論争に発展したのは次の経緯による。
- 王権神授説は絶対君主の権威の源は神の意思という説だが、そこからすなわち世俗の王より神の代理と称するローマ教皇の権威が優先するという主張が可能であり、これがウルトラモンタニズムである。
*というか「王室か教会か」なる議論、欧州が完全にキリスト教圏として再征服される以前の「両剣論(4世紀〜5世紀)」まで遡るのである。そしてこの議論、さらには当時のインド文化圏におけるバラモン階層とクシャトリア階層の対峙を大源流とする。欧州はマニ教経由で仏教教団の運営方針などからこれを学んだとも。
- 対してガリカニズムは、フランスの大司教の権威は教皇ではなく直接の神の召しであり、ローマ教皇に従属するものではないとして、その大司教から戴冠した王の権威の上にも直接に神がおり、王は教皇の支配下にはない、と主張した。これに地域教会の独立性の主張の観点から「国家教会主義」の訳を充てる。
*フランス絶対王政イデオロギー樹立の過程では(ササン朝ペルシャやシリアの併合過程でギリシャ哲学の継承者となり、アッバース朝(750年〜1517年)開闢時はこれとイスラム教の融合を狙ったムタズィーラ神学が国教に選ばれた)イスラム教圏のアラビア哲学が重要な役割を果たした。
*要するに皇帝が教会の頂点を兼ねる東ローマ帝国(395年〜1453年)のキリスト教国教化政策がササン朝ペルシャとの関係を泥沼化させ、代替交易路として栄えたアラビア半島にイスラム教が発祥してからオスマン帝国が「スルタン=カリフ制」採用に踏み切る流れと並行進化の関係にあるといっていい。
オスマン帝国のスルタンがカリフの地位を兼ねる制度。1517年にマムルーク朝を滅ぼし、メッカとメディナの保護権をえたことによってカリフの称号を得たとされるが、実際には18世紀にスルタンの権威を強調するために言われるようになったと考えられている。
*欧州歴史家の多くがかかる国教主義、すなわちプラトンの流出論に端を発し「神の叡智自体は無謬だが、その現世への流出過程で矛盾が累積し、最終的には解決困難な対立や悪が生じる」としたスンニ派古典思想のさらなる大源流を「オリエント専制君主制の完成者」アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)を滅ぼした「アレキサンダー大王の東征(紀元前334年〜紀元前328年)」を発端とするヘレニズム時代(紀元前328年〜紀元前30年)にオリエント全域に広まったコスモポリタン思想にさらなる大源流を見ている。
こうした歴史的展開を「既に現代人の心に何も訴えかける力のない」過去の遺物と単純に切り捨ててはいけない。スンニ派古典思想を通じて欧州には「イデア論(プラトンの流出論)」として伝わった「(イスラム法学者が張り巡らせた宗教的拘束から俗世統治者が逃れる術として発達してきた)アラビア哲学におけるタウヒード(アラビア語表記:توحيد, トルコ語表記:Tevhid, ラテン語表記:Tawḥīd, あるいは Tawheed, Tauheed)論」、すなわち「(ユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学の出現を予告し、多様性と多態性を容認する現代社会を支える)神の叡智自体は無謬だが、その現世への流出過程で矛盾が累積し、最終的には解決困難な対立や悪が生じる」なる思考様式自体は、例えばMCU(Marvel Cinematic Universe=マーベル・シネマティック・ユニバース)における、かの「銀河お騒がせ一家」や「銀河お騒がせ企業」の行動原理としてしっかり現役。むしろ(ワッハブ派のスンニ派古典思想の全面否定に端を発する)イスラム原理主義の方がイスラム圏においてさえ危険視される状況さえも生んでいるのである。
したがって、用語ウルトラモンタニズムは「教皇至上主義」と日本語訳されることがあるものの、ローマ教会の権威における公会議と教皇との優位権を巡る公会議主義に対する「教皇主義」、プロテスタントの標榜する聖書の権威が教会に優先するとする「福音主義」に対する「教皇主義」の、どちらも意味しない。
こうして英国やフランスやドイツが次第に「新体制」へと移行していったのを尻目にあえて「旧体制」維持に汲々とし続けたハプスブルグ君主国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)や帝政ロシアやオスマン帝国は第一次世界対戦(1914年〜1918年)を契機にまとめて吹き飛んでしまうのです。
…オーストリアと「貴族」を関連付けるような話だと反応が多くて複雑な気分になります。オーストリアは第一次世界大戦終戦後、第一共和国が成立してからの1919年4月3日に貴族制度を徹底的に廃止しています。現在のオーストリアでフォンを名乗る人がいたら、それは「通称」か、ドイツ国籍の保有者です。
— しゅにっつぇる (和名:揚げたビーフ) (@schnitzel_san) 2018年5月21日
墺第一共和国(1918-1938)時代は、社会民主党が力を持ち、福祉に力を入れた「赤いウィーン」全盛期。そのため徹底的に以前の帝国風、君主制的なものを排除したのです。超伝統的なハプスブルク君主体制とこの「赤いウィーン」が同じ国であるというアンビバレンツが現在の墺の魅力の元だと思います。
— しゅにっつぇる (和名:揚げたビーフ) (@schnitzel_san) 2018年5月21日
日本人がこの辺りの歴史展開に弱いのは当時のオーストリアにおける守旧派インテリを代表するシュテファン・ツヴァイクが残した評伝「マリー・アントワネット(Marie Antoinette、1932年)」を底本とする池田理代子の漫画「ベルサイユのばら(1972年〜1973年、アニメ化1979年〜1980年)」の影響かもしれません。
立憲君主国か共和国かに限らず、欧州諸国は「 政教分離の原則」を樹立する為、想像を絶する手間を掛けねばならなかったのですね。それでは日本史のこれに対応する部分はどうなってるの?