諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【Reality is Real】【食卓の仮想化】それは国家規模の事業として始まった?

仮想化(Virtualization)といえば敗戦前後の日本人はまず「食事の仮想化」を経験しなければならなかった様なのです。
f:id:ochimusha01:20180525163020j:plain

この写真が面白いのは、当時「代用うどん」が一杯5円で売られていたということ。仕事が忙しいのだろうか、スーツ姿の男性がしゃがんだままかき込んでいる。

配給制でなかなか手に入らなかった小麦粉のかわりに、海藻の粉を使って麺類を作っていたそうだ。

「魚うどん」とは日南市周辺の郷土料理で、地元で水揚げされたトビウオなどの魚のすり身を使ったうどんだそうです。水揚げされた魚全般を使用するみたいですが、主にトビウオやカンパチ、ハモ、エソ、タイなどが使用されるそう。つなぎとして使うのは片栗粉と卵で、基本的には小麦粉を使用しないグルテンフリー。魚が原料なので、煮込めば煮込むほど(魚の)ダシが出るうえ、麺も伸びにくいのが特徴です。うどんよりも低カロリーなので、ダイエット中の方にも喜ばれるそう。
f:id:ochimusha01:20180529045010j:plain
この魚うどんが生まれた背景には、食糧難がありました。太平洋戦争の時、小麦やお米が足りない食糧難に陥った際に、地元で捕れた魚のすり身を小麦粉の代わりに使用して、うどんの代替食としたのが魚うどんの始まりだそう。戦争も終わり一時は忘れ去られかけたようですが、漁協組合などが復活させる取り組みを始め、2011年には(漁協女性部オリジナルの商品が)農林水産大臣賞も受賞したほどです。今では“体にいいうどん”としてネットやテレビで話題になり、生産が追いつかないことも多々あるそう。

同時期の食料事情を扱った過去投稿をまとめてみましょう。するとある種の歴史的情景の様なものが浮かび上がってくるのです。

フランス革命ナチス占領がフランス料理界にもたらしたもの。

フランス革命後、在野に放り出された宮廷料理人達は生き延びるべく差別化に尽力。このサバイバル合戦に際して誰でもすぐ客の舌を満足させる味が提供出来る代わりに個性を打ち出し難いブラウンソースやホワイトソースの存在はまさに両刃の剣となった。
https://d3awvtnmmsvyot.cloudfront.net/api/file/sScP5qVHQycutYSbdvoj/convert?fit=max&w=1450&quality=60&cache=true&rotate=exif&compress=true
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/12/d3/a0/12d3a004e8474d4645f3399e02c736e1.jpg

そして第二次世界大戦が勃発するとナチス占領下において食料統制が実施され、極端なまでの食材不足を経験。ここから「目を通しても食欲を満足させるヌーベルキュイジーヌ仏nouvelle cuisine)運動が始まる。そしてドミグラ・ソースはより多彩な展開が可能なフォン・ド・ヴォー(ルーの代わりにコーンスターチで伸ばし、より軽い味わいに仕上げる)に、そしてペシャメルソースも様々なバリエーションのホワイトソースに取って変わられ、20世紀中盤頃にはほとんど視られなくなってしまう。

f:id:ochimusha01:20180607055055j:plain
日本へのフランス料理普及に尽力したユダヤ系スイス人のサリー・ワイル料理長などはこうした時代の最先端の流れに取り残された「旧世代」に属し、その事が「(フランス本国では滅んだ街の洋食屋さん文化」が日本にだけ残った状況を生み出したのだった。

紅茶と食パンが牽引した英国産業革命とその末路

英国では18世紀頃「ティンブレッド(tin bread、ブリキパン)」とも呼ばれる英国でカナダ産強力粉を原料として金型に入れて焼いた山型食パンの製造が開始され、英国植民地が拡大していく過程でブリキの箱(tin box)で焼くパンが全世界規模に広まっていく。
http://www.victoriabakery.co.uk/images/gallery/bread/tin-asstd-2-large.jpg
当時やわらかく白いパンは豊かさの象徴だった。産業革命時代に入ると製パン工場で大量生産される廉価なローフブレッドによって、貧困層も従来より高品質な食事で命をつなぐことができるようになり、自家製パンを焼く労働からも解放されたが、同時にこれが手間のかかる郷土料理やホームベイク文化の消失にも繋がっていく。
*19世紀後半ロンドンに在住したマルクスによれば、過剰な価格競争のせいで紅茶同様、当時の庶民向けローフブレッドは混ぜ物が極めて多く、極端な例では石灰まで使われていたという。次第に支持を失っていったのは、こうした状況のせいだったかもしれない。
http://www.pan-tsuhan.com/gazo/484-1.jpg
ただし近年、大都市部のパン職人はフランス、ドイツ流のサワードウ発酵パンを主流とする様になり、伝統的なローフブレッドは田舎町のパン工房や観光地で探したほうが見つけやすい状況となっている。
*要するに型こそ使えど「手作り感」を盛り込まないと売れない。そのせいで「日本の食パン」の評判は極めて悪いという。なにしろどれも完璧に真四角で均質に肌理細かく純白。まさしく工業製品そのもの。日本人やドイツ人の完璧主義は時として人類に許されないほどオーバースペックな商品を生み出してしまうのでる。

f:id:ochimusha01:20180608072639j:plain

バター&マーガリンの歴史と作り方

最初は「野蛮人の食材」として忌避されたバターの歴史

牛乳の中の脂肪を集めることでつくられるバターは、基本的には牛乳を振り混ぜ成分を分離し、脂肪分を固めるだけで完成。なので人間との関わり合いは古く紀元前2000年頃のインド教典にもバターづくりについての記述がある。つまり、この頃から食用として食べられていた。
*「発酵バター(乳酸発酵したクリームを使用、独特の香りがあるが、保存性に難あり。置いておくと勝手に発酵してしまうので古来のバターはみんなこれ)」と「非発酵バター(発酵していないクリームを使用、風味がよく保存性あり。やはり冷蔵技術の発展と密接な関係?)」に分類され、日本の家庭用では非発酵バターが大半を占める。しかしながら、古来からの味である発酵バターの魅力もコクがあって捨てがたく、小岩井農場などは発酵バターも手掛けているという。また、ヨーロッパでは発酵バターの方が主流。非発酵バターはアメリカ、日本、オーストラリアで主流。

*この辺りの歴史的展開、戦後日本における冷蔵輸送技術の普及が納豆や生卵の朝食メニュー定番化に貢献した歴史を彷彿とさせる。

当時の製法は、主に山羊や馬からとった乳を入れた容器を揺り動かしたり、棒でかきまぜたりして成分を分離し、固めたもの。特に遊牧民が好んで使用していた為、紀元前5世紀にはイタリア半島ローマ共和国後のローマ帝国)に伝わったものの、最初は「野蛮人の食材」として食用の対象としては忌避されたのであった。
*代わりに皮膚に塗る事を思いつく。特に赤ん坊、幼児の皮膚を軟らかくすると考えられ、お風呂にはいる時に塗った様である。さらにローマの博物学プリニウスは整髪料や灯油としての用例に加え薬用の一環として「蜂蜜と一緒に歯茎につけると、歯痛にも効く」と紹介。

ボグ・バターとは、数千年前の人類が保存のため沼地に埋めたバターが現代になって発見されたもの。アイルランド人は燃料としてコケを使用する文化があったため、コケを掘り起こしていた一般人が、自宅の庭からボグ・バターを発見することもあったそうです。

f:id:ochimusha01:20180608073407j:plain

発見されたボグ・バターを調査したブリストル大学の研究によると、バターのうちいくつかは乳製品ではないものも含まれていましたが、動物のミルクから作られたものが多く、いくつかは保存料として獣脂が混ざっていたことがわかっています。アイルランド考古学ジャーナルで公表された研究によると、ボグ・バターの多くは土器のポット、木製容器に入ってたり、動物の皮や樹皮などでくるまれていたりすることが多いとのこと。いずれも刺激性のチーズ臭を放つという特徴を持っています。

これまで274個のボグ・バターが発掘されており、鉄器時代から中世にかけて沼地に埋められたものと判明しています。バターを製造した初期のケルト人が、単純に保存するためか、泥棒から保護するために沼地に埋めていたと考えられています。低温、低酸素・高酸性の沼地はまさに「自然の冷蔵庫」の役割を果たすため、現代まで残存しているわけです。

当時のバターは非常に価値のあるもので、そのまま食べるだけでなく、税金の支払いや干ばつ・飢饉(ききん)への備蓄として重宝されていたとのこと。また、地中にバターを埋めるという行為は、神や精霊への贈り物だった可能性もあるそうです。ブリストル大学の研究者は、バターを泥の中に埋めることで化学組成が変更されることから、味を良くするための一種の食品加工だったという推測もあります。

過去には実際にボグ・バターを食べた強者も存在しており、2014年にはアイルランドの有名なシェフであるケビン・ソーントン氏が4000年前のボグ・バターを試食しています。ソーントン氏は「発酵物独特の味はなくなってしまっているものの、強烈な味わいを舌と鼻で感じる」と説明しており、体調を崩すことなく「歴史の味」を感じることができたようです。アイルランド国立博物館のアンディ・ハルピン氏は、「鉄器時代の珍味を体内にサンプリングするのは賢明ではない」とコメントしています。

*そういえば古代ローマ時代の文献にはバターは「ケルト人の整髪料」として登場したりする。口裂け女をも撃退するポマードの大源流でもある?

その後、ポルトガル地域では紀元前20年頃から、フランスでは6世紀、ベルギーでは12世紀、ノルウェーでは13世紀になって食用としてバターを使い始め、今のように料理に欠かせない材料となっていった。ただし、ローマ(イタリア)では引き続き忌避されたのか、今日なおイタリア料理にはバターを使ったものが少なく、オリーブオイルが多い。

f:id:ochimusha01:20180608073639j:plain
*背景に地中海沿岸文化圏と欧州内陸部文化圏の対峙があるとも。つまり南仏沿岸部のプロヴァンス地方やニースの郷土料理で夏野菜(玉ねぎ、ナス、ピーマン、ズッキーニ、トマト)の煮込みであるラタトゥイユのフランス料理における微妙な位置付けとも縁が深い?

エスカリバーダ(escalivada、焼き野菜):スペイン料理簡単レシピ集

カタルーニャの夏野菜(ナス、パプリカ、長ネギ)焼き。日本の焼きなすとそっくり。まるごと強火で真っ黒になるまで焼き、中身を蒸し焼き状態にするのがポイント。オリーブオイルやワインビネガーや塩やニンニクを加えて味を整えマリネにしたりもする。

f:id:ochimusha01:20180608084840j:plain

カポナータ(Caponata) - Wikipedia

シチリア島およびナポリの伝統料理。

f:id:ochimusha01:20180608083759j:plain

シチリアのそれは揚げナスの甘酢煮であり、カプナータ(Capunata)またはカプナティーナ(Capunatina)とも呼ばれる。イタリア全土で有名な料理でもあり、スペインのカタルーニャから渡来したと考えられている。ナスを一度オリーブ油で揚げ、別鍋にオリーブ油で炒めたタマネギ、セロリ、トマト、オリーブ、ケッパーと合わせて白ワイン酢で軽く煮込み、塩、砂糖で調味したのちに、バジリコをちらして常温で供する。仕上げにココアパウダーを加えることもあり、ゆで卵やカラスミ、マグロの卵、オイルサーディン、タコ、エビなど魚介類が入る場合もある。同様の夏野菜の炒め煮は、地中海地方各地でよく見られる。日本では南イタリアのチャンボッタ(Ciambotta)と混同されることが多いが、野菜の種類が異なる場合があり、甘酸っぱい味付けにはしない点が異なる。また、フランスのラタトゥイユとも似ているが、こちらも普通は砂糖や酢を入れない。

f:id:ochimusha01:20180608083923j:plain

ナポリのそれは水に浸して戻した乾パンとトマト、ニンニク、オレガノを塩とオリーブ油で和えたサラダ状の料理でアックァ・サーレ(Acqua Sale)とも呼ばれる。乾パンはパネ・ビスコッタート(Pane Biscottato)またはフレセッレ(Freselle)と呼ばれるものを用いる。バジリコやパセリ、タマネギ、オリーブ、ツナの油漬け、ケッパー、茹でたさやいんげん、アンチョビ、ピーマンや唐辛子の油漬け、ナスの油漬け、キノコの酢漬けを入れることもある。

ラタトゥイユ(ratatouille) - Wikipedia

フランス南部プロヴァンス地方、ニースの郷土料理で夏野菜の煮込みである。玉ねぎ、ナス、ピーマン / パプリカ、ズッキーニといった夏野菜をにんにくとオリーブ油で炒め、トマトを加えて、ローリエオレガノ、バジル、タイムなどの香草とワインで煮て作る。 うまみを出すためにベーコンなどの肉類を入れたり、セロリ、唐辛子を用いる工夫がある。そのまま食べるか、パンと共に食べる。パスタソースにすることもある。

f:id:ochimusha01:20180608083631j:plain

語源は「Touiller」(かき混ぜる)「Rata」(軍隊スラングでごった煮)で、1778年に最初に書籍に登場したといわれる。元々軍隊や刑務所で出される料理であったため、日本語におけるいわゆる「臭い飯」と同意語として使われることがあり、まずい料理、粗末な料理の代名詞としてフランス人の口に上ることもあるが、新鮮な野菜で作られたものは「ニース名物」の名に恥じない。

*そういえば17世紀フランス宮廷料理革命期には「アスパラガスなどの青物野菜に掛ける香ばしいソース」と紹介され、以降フランス高級料理の5つの基本ソースとして定着したバター入りのオランデーズ・ソース(仏Sauce Hollandaise )も、当初はその故障の通り「オランダ由来の輸入品」といった体裁だった。そもそもアスパラガス自体、和名が「オランダうど」だったりする。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ab/Fresh_Asparagus_and_hollandaise.jpg/800px-Fresh_Asparagus_and_hollandaise.jpg

日本でもバターは薬用として江戸時代にデビューを果たした。幕府第八代将軍・徳川吉宗がインド産の白牛を輸入し、この牛の乳から「牛酪(バター)」が作られたと言われている。これが薬用として使われ、明治以降になってようやく食用となり、戦後になるとパン、それから洋食のお供として普及していったのだった。
*乳製品それ自体は560年頃、朝鮮の百済から搾乳技術が伝えられ、また奈良時代には唐からも伝わり、平安時代には特に関東で「酥(そ)」と呼ばれる牛乳を煮詰めて凝縮したものを造り、これを平安貴族に納めていた。他にも、酪(らく)、醍醐(だいご:醍醐味の語源)などがあり、これを平安貴族は美味しい&健康によいとして舐めていたのである。

同時に広まった人造バター(マーガリン)

この様に最初は忌み嫌われていたバターも、中世以降、すっかりヨーロッパに普及。その過程で代用品も求めらる様になり1869年(日本の首都が東京に遷都された年)、フランスでマーガリンが誕生した。
*当時プロイセン(後のドイツ帝国)と戦争中だったフランスは、生活必需品であるバターが欠乏していたので皇帝ナポレオン3世(有名なナポレオン1世の甥)が代用バターの発明を懸賞募集。フランス人メージュ・ムーリエ・イポリットの考案を採用してmargarineと名付けたのが始まりとされる。これはギリシャ語のmargarite(真珠)から来たことばで「真珠のように美しい油のかたまり」の意。当時の文献は少なく原料の詳細はよく解っていませんが牛脂軟質油 75% 、オリーブ油 5% 、牛乳 20% 、乳房からの抽出物少量だと考えられ、味は「まあ、まあ」だったとされる。

誕生当時はあくまで代用品だったが「マーガリンの方が健康に良い」と注目され、さらに作りやすく、マーガリン自体の風味も向上したことから、大きく普及。
*なお油脂含有率により、マーガリン(油脂80%以上)とファットスプレッド(油脂80%未満)の2種類に分類される。また、ケーキ用だ、学校給食用など、現場に合わせて、溶けやすかったり、溶けにくかったり成分を調節した物も色々とある。

一方、日本において人造バター(マーガリン)は、まず明治中期に欧米人達の為に輸入されるところから始まった。しかしやがて軍隊向けなどに注目されるようになり、これを作ってみようと山口八十八や千足栄蔵といった人達が研究を始め、その後、「人造バター」として国産でも作られるようになる。そして、味が向上し「バターとは違う商品だ!」という認識が広まり昭和27年(1952年)からはマーガリンとして販売されるようになったのであった。

f:id:ochimusha01:20180608081856j:plain

*これも一種のディストピア飯?

欧米におけるナポリタン概念の変遷と日本独特のナポリタン概念の成立過程

まず「高級西洋料理としてのスパゲティ・アッラ・ナポレターナSpaghetti alla Napoletana)」ありき。そもそもはナポリタンソース(Ragù napoletano)をスパゲティに絡めたイタリア料理スパゲティ・アッラ・ナポレターナ(Spaghetti alla Napoletana)が(一時期ナポリ支配下に置いた)フランスにスパゲッティ・ナポリテーヌ(Spaghetti Napolitaine)として伝わったもので「隣国」スイスやドイツにもほぼ同名同内容の料理が伝わる。そして明治期の西洋料理レストランにおいては、フランスで西洋料理を学んだコックが多かったため、パスタは最初ベシャメルソースを使ったグラタンのようなフランス料理として調理されていたのである。
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/82/0000084882/38/imgfc1aed93zik0zj.jpeg

  • サルサ・ソースSalsa Sauce)…歴史的にトマトベースのソースを記した最初のイタリア料理書は、在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えたイタリア人シェフのアントニオ・ラティーニが著し1696年に2巻本で発行した「近代的家令(Lo Scalco alla Moderna)」 。そこに記された「スペイン風トマトソース」は皮をむいて刻んだトマト、タマネギ、胡椒、イブキジャコウソウ、ピーマンを混ぜたサルサ・ソースの一種だった。そして17世紀から18世紀頃にかけてナポリではトマトソースでスパゲッティを食べる習慣が普及していったが、その範囲はあくまでナポリとその近郊に限られていた。 そういう訳で他の都市の者はトマトソースをナポリ風(伊ナポレターナ(Napoletana)、仏ナポリテーヌ(Napolitaine))と呼んでいたが、当のナポリ人はこのトマトソースを単に  「ソースla salsa)」と呼んでいたのである。

    f:id:ochimusha01:20180607045704j:plain

①トマトソースが日本に伝わると、トマトソースのスパゲッティはフランス料理「スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌSpaghetti alla Napoletana)」として出されたが、材料を輸入に頼るしかなかったのでホテルや高級レストランでのみ扱われる高級料理だった。三越百貨店やニューグランドホテルも、戦前は正装していく場所であって、いずれも申し分なく高級料理店である。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/825/3516249/20160730_208747.jpg

  • 銀座・煉瓦亭の「イタリアン」…銀座・煉瓦亭には大正10年(1921年)イタリアンというメニューがあった。外国航路のコックが陸に上がって伝えたものという。これはトマトピューレを用いたソース(すなわちナポリタンソース)であるから、それなりの厨房設備と人手が無ければ出せない高級西洋料理のほうだったと思われる。
    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-4d-97/cheernestito/folder/828683/19/31731619/img_1?1340982821
  • 日本海軍の「ケチャップがけマカロニ」…大正時代には日本海軍においてトマトケチャップを使ったパスタ料理が供食されていたが、マカロニにトマトソースとチーズをかけてオーブンで焼くものであり、フランス料理のキャセロールに近いスタイルのものであった。
    http://pds.exblog.jp/pds/1/201210/08/22/d0159822_1942126.jpg
  • 古川ロッパの日記」昭和9年(1934年)12月22日の記載三越の特別食堂でナポリタンを食したことが記されている。ナポリタンの名称で提供されたものでは現時点では日本最古の記録でだが、ロッパは「汁気が切れていない」と批評しており、汁気が飛ぶまで炒める戦後の喫茶店ナポリタンとは異なるポモドーロソースに近いものだったかもしれない。
    http://kitchen.delonghi.co.jp/public-data/kitchen-recipe/1/82/files/salsapomodoro_m.jpg 

②その一方で、イタリアからアメリカへ向かった移民はナポリ近傍のカンパーニュ地方、およびシチリア出身者が多かった。移民たちは母国から輸入したパスタを食べていたが、その食文化は歴史のその時点ではそれ以外のアメリカ人に広まることはなかったのである。

*大西洋を渡ってナポリからニューヨークに移住した移民たちは、そこでは祖国のように新鮮なトマトが手に入らないので、トマトソースの代わりにケチャップをパスタソースに使っておりこれがナポリタンと呼ばれた。 ここにおいて、ナポリタンという同じ名称を持ちながら異なる内容の料理が太平洋をはさんで同時に存在する状況が最初に生じたのだった。 
f:id:ochimusha01:20161211130305p:plain
*「トマトケチャップ」を使った最古のレシピ…1795年の "Receipt Book of Sally Bella Dunlop" に登場。切ったトマトに塩を振り、2・3日置いてからしみ出した果汁を香辛料と煮詰めたもので、酢も砂糖も加えていない(現在とは違い、調理中に隠し味として使ったと考えられている)。やはりサルサ・ソースの一種としか…
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-77-77/boooy2005/folder/404011/88/27899588/img_0

*ハインツ社が1876年に瓶詰めトマトケチャップを販売するとこれが広く普及してケチャップを代表する存在となった。これを使って調合したバーベキュー用ソースは、醤油を使ったテリヤキソースや韓国風ソースを引き離して今なお絶大な人気を誇り続けており、アメリカを代表する味との声すらある。
http://livedoor.blogimg.jp/remsy/imgs/a/d/ade6fcf2.jpg

 1893年当時アメリカは輸入の際、果物には関税がかからず、野菜には関税が課せられていた。このため、トマトの輸入業者は、税金がかからないようにと「果物」と主張。これに対して農務省の役人は「野菜」だと言い張った。両者は一歩も譲らず、さらに果物派には植物学者も加わり、論争はエスカレート。とうとう、1893年に米国最高裁判所の判決を仰ぐことになってしまった。判決は「野菜」。裁判長はずいぶん悩んだと思われ、判決文には「トマトはキュウリやカボチャと同じように野菜畑で育てられている野菜である。また、食事中に出されるが、デザートにはならない」と書かれていた。なお、裁判当時の記録としてローラ・インガルス・ワイルダーの小説「大草原の小さな家」では、トマトにクリームと砂糖をかけて食べる記載がある。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/9e/816ca9d3351ebde6ce902910348d7dab.jpg
③しかも第二次世界大戦以前のアメリカ合衆国において一般のアメリカ人がパスタを知るのは本格的なイタリア料理店からではなく、安価な缶詰スパゲッティからであった。 これがまた凄まじい代物で、缶詰食品の必然としてたっぷりとしたソースにスパゲッティが浸かっているだけで特に具は入っておらずバジルも使っていない。さらにソースは砂糖で甘味を増してあり、コーンスターチでとろみを付けてある。しかもデュラム小麦ではなく薄力粉で打った麺なので、アメリカ人はコシの無い軟らかい麺から慣れ親しむことに事になったのである。そしてこのコシの無いケチャップ漬けスパゲッティが、のちにGHQと共に日本に伝わることになる。
*『バンド・オブ・ブラザーズ』において缶詰スパゲッティを支給されたイタリア系アメリカ人の歩兵が、ケチャップ和えスパゲッティは認めないと不平を述べる描写があるとおり、本品はおおむねケチャップ和えと言って差し支えない代物である。 
http://img.yaplog.jp/img/03/pc/t/r/i/trippervivian/2/2842.jpg
*また上野玲「ナポリタン」はアメリカ合衆国のスパゲッティ・ウィズ・ミートボールがナポリタンのルーツであり、それが戦後の占領軍を通じて伝わったものと推定している。
http://farm3.static.flickr.com/2743/4489320383_91eb3990e5.jpg 

③そしていよいよ「センターグリルのケチャップナポリタン」登場と相成る。野毛「米国風洋食 センターグリル」では昭和21年(1946年)の開業時よりナポリタンにケチャップが使用されていた(横浜ニューグランドの戦後営業再開は昭和27年(1952年))。横浜山下町にあるホテルニューグランド第4代総料理長高橋は、ナポリタンは第2代総料理長入江茂忠が戦後考案したと述べている。入江は、進駐軍の兵士が食べる具なしケチャップスパゲッティの粗末さを見るに見かねて、生トマト、タマネギ、ピーマンとハムの細切れ等を入れたスパゲッティを考案したが、亡くなるまで「自分が発案した」と公言することがなかった。家族や周囲も入江が亡くなった数年後に上記文献に記載されるまで、入江がナポリタンの考案者であると考えることはなかったという。とはいえそうやって戦後における日本独自の路線の追求が始まった事実は揺るがない。
*入江のナポリタンはケチャップ和えではなく生トマトとトマトピューレを使ったソース(すなわちナポリタンソース)である以上、ケチャップ入り焼きうどんと言うべき喫茶店ナポリタンに到達していないことは明らかである。また、スパゲッティ・ナポリテーヌの名を持つ料理は戦前にも存在していることから、師であるサリー・ワイルからスパゲッティ・ナポリテーヌについて教わっていたとも考えられる。しかしその一方で7割方茹でたパスタを冷まし、5時間以上放置した上で湯通しすることで麺のもっちりした食感を出す、といった日本向けの工夫は入江の功績と見做されるものである。また、櫛切りのタマネギとピーマン、マッシュルームが入るのは入江以前に見ることはできないので、戦後スタイルの具だくさんナポリタンを確立したのは入江だと言ってよいだろう。
http://rensai.jp/wp-content/uploads/2015/03/foodpic5944212_R.jpg
終戦直後の日本では食糧は政府の統制下にあったが、昭和27年(1952年)、食糧事情の好転を受けて統制が一部解除され、製粉業は自由に原料を買い取って製粉できるようになった。 昭和29年(1954年)にイタリアからパスタ自動製造機が輸入されたのをきっかけに国産パスタが量産できるようになり、パスタが一般にも浸透していった。
*昭和29年(1954年)3月に日米は日米相互防衛援助協定(Mutual Security Act, MSA)に調印し、大量のアメリカ合衆国産小麦を受け入れることとなった。国内農業保護の観点から反対する意見も出たが、昭和28年に凶作があり、食糧管理法を厳格に運用しても計画の50%ちょっとしか米穀が供給できない状況下での決断であった。 米国小麦の受け入れ開始と前後して、昭和31年、日本食生活協会がオレゴン小麦栽培者連盟の契約により、キッチンカーを使った栄養指導を開始。キッチンカーで津々浦々を巡り、主婦層に直接、粉食推進、油摂取拡大による栄養改善を指導した。 キッチンカーの献立には小麦と大豆を使うことが米国側からの条件であったので、パンはもちろんのこと、スパゲッティ、パンケーキ、ドーナッツなど小麦粉と油を使う料理が実演とともに無料でふるまわれた。 キッチンカーで紹介されたスパゲッティがナポリタンであったかどうかは文献からは分からないが、ソース料理が炒め物へと化けることによって、高級西洋料理であったスパゲッティがフライパンで簡単に作れる家庭的なお惣菜に変わっていくのはこの時期であったと考えてよいだろう。焼きそばやたこ焼きといった粉モン文化が急拡大するのも、この時期に一致する。 ナポリタンは焼きうどん同様の油で炒める調理法が取り入れられたものと考えられる。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201210/24/10/b0111910_9312938.jpg
*しかしながら、ここでアメリカ合衆国から輸入されたメリケン粉は薄力粉であった。もともとオレゴン州で獲れる小麦はウェスタンホワイト種という軟質小麦であったためだ。アメリカ合衆国にもデュラム小麦が無いわけではなかったが、その産地はロッキー山脈より東側の中西部諸州に限られており、日本向けに太平洋側へ輸送するのはコスト面で無理だった。薄力粉でスパゲッティを打ったところでグルテンが少ないためコシのある麺にならない。ナポリタンで使うスパゲッティが軟らかいのは、原料の小麦の違いによる必然であった。 アメリカ合衆国からのデュラム小麦の輸入は昭和40年代中ごろに一時期だけ実施されたが、現在は輸入していない。

⑤昭和30年代(1955年〜1965年)に入ると国産スパゲティーが開発され、販売促進のデモンストレーション用に調理が比較的簡単なメニューとしてナポリタンが選ばれ、さらに学校給食のメニューにも取り入れられるなどしたため、ナポリタンの知名度は急速にアップした。
*当時トマトピューレは庶民の手には入り難く庶民には肉も高価であったため、代用としてケチャップと安価な赤い色のウインナーや魚肉ソーセージ等を使う調理法が生みだされ、現在の一般的なナポリタンが確立された。このナポリタンのあらかじめ茹置きした麺をフライパンで味付けしながら炒め直しする調理法は簡便なことから、ナポリタンは給食以外にも家庭、喫茶店及び学食などの庶民的定番メニューとして親しまれて、全国的に定着していった。また調理スペースが手狭な列車の食堂車や軽食堂などでは、同様の理由からレトルトの業務用ミートソースが開発されるまでスパゲティーといえばもっぱらナポリタンが供食されていた。それ以降も飲食店のスパゲティはミートソースかナポリタンの2種類しか存在しない状況がしばらく続く。
https://www.eatsmart.jp/image/food/02/39/11/13165.jpg

*「ミートソース・スパゲティ」の起源は一般に「スパゲティ・ボロネーゼ」とされる。そう、ここで突如として(ボローニャ・ソーセージの故郷でもある)「古都」ボローニャが参戦してくるのである。

f:id:ochimusha01:20180607062255j:plain

*ちなみに魚肉ソーセージ(Fish Sausage) の生産量が大幅に増えたのは昭和29年(1954年)3月1日、ビキニ環礁で行われた 15 Mt の水爆実験(キャッスル作戦)により、日本の第五福竜丸をはじめ多数のマグロ漁船が放射性降下物(いわゆる「死の灰」)を浴びて被曝して以降。処理のため多量の放射能汚染マグロが水揚げされたことから消費者が忌避する事態となり、マグロの価格が大暴落してしまった事から余剰マグロを原料とした魚肉ソーセージの生産に尽力。かくして安価な魚肉ソーセージは、学校給食に納入されるなど「西の横綱がインスタントラーメンなら、東の横綱は魚肉ソーセージ」と呼ばれる程の大衆食となっていく。

バブル期(1980年代後半〜1990年代初頭)に入るとパスタ料理多様化と人気再燃があった。80〜90年代の「イタメシブーム」によって多種多様な本格的パスタが紹介され、日本でも様々な本格的パスタが食べられるようになった。それに伴いナポリタンの人気は陰りを見せ、個人経営の喫茶店の減少とも相まってナポリタンを供食する飲食店は以前より減っていく。その一方で洋食メニューや弁当の付け合わせなどにも「ケチャップ味のスパゲティ」は定番として定着した。

 ―― 「イタめし」についてですが、なぜイタめしはバブル時代におけるトレンドの頂点だったのでしょうか?

畑中「そこに至るまでには様々な背景があります。まず、80年代には最初にフランス料理がブームになりました。勝負デートのはしりとして、『ポパイ』や『ホットドッグ・プレス』などの男の子雑誌ではしきりに、特別な日のフランス料理を推していた。クリスマスイブにはレストランに彼女をエスコートし、何カ月も前から予約していたシティホテルに泊まる。そんなマニュアル通りに、当時の若者たちは行動していました」

―― 確かに当時のフランス料理って、「贅沢の最高峰」というイメージでした。当時、子どもだった僕にとっては想像もつかない憧れの料理でしたけど。

畑中「バブル景気がはじまる前の1984年には、フランス最高峰の三ツ星レストラン『トゥールダルジャン』史上初の支店が、東京のホテルニューオータニ内にオープンしています。本国の一般的なフランス人は一生に一度すら足を運ばないような超高級店ですが、当時の日本人は開店と同時に殺到しました」

―― とてもバブルっぽいエピソードですが、1984年というとバブルの少し前ですよね。その後、本格的な超好景気の到来でみんな羽振りが良くなって、フランス料理人気がさらに加速するかと思いきや、イタめしに取って代わられてしまう…。なぜですか?

畑中「みんな、疲れちゃったんですよね。慣れないテーブルマナーに緊張しまくり会話も進まないまま食事を終え、二人で4~5万円の会計に青ざめる。そんな光景を、当時は何度も目の当たりにしました。そのうち、バブル景気の到来とともに、もっと軽いノリで食べられるイタリア料理が追い上げてきたわけです。イタめしの気取りのなさは、バブルの享楽的な気分にもぴったりハマった」

―― 確かにバブルのお祭り感は、格式高いフランス料理に馴染まない気がします。

畑中「ボディコンギャルとバブル戦士っていうのは、フレンチよりイタリアンの方が似合う。オープンキッチンでエンタメ感があって、おしゃれなんだけどワイワイガヤガヤ楽しめる。イタリア料理っていうのは、それまで欧風の食を憧れの対象として追い求めてきた日本人が、史上初めて『居酒屋気分』で食べられる西洋料理だったんです。料理自体もシンプルだし、ワインは『キャンティ』と『バローロ』の2種類くらいを覚えておけば十分。フランス料理と違って、イタめしは“わかりやすかった”というのも大きいですね」

―― それまでもイタリア料理店っていうのは普通に日本にあったんですか?

畑中「いえ、1980年代中盤までは、まだまだマイナーな存在でした。1985年の東京で、前菜からデザートまで提供するめぼしいレストランは15軒前後でしたね。風向きが変わったのは1986~87年くらい。1985年に原宿に『バスタ・パスタ』っていうお店ができて、そこはニューヨークスタイルのイタリアンでしたけど、時代の先端を行く業界人たちが通いはじめた。さらに、イタリアで修行した料理人がポツポツと帰国し、本場仕込みの味をふるいだしたのもこの時期です」

―― なるほど、ブームの土壌が少しずつできていく感じがしますね。

畑中「そして、イタリア料理が『イタめし』と呼ばれたその瞬間から、快進撃がはじまりました。絶妙なネーミングですよね。これによりぐっと親近感を抱き、日本人は格式高いフランス料理、西洋料理への劣等感から解放されることになった。実際、バブル期のイタめし屋はアンチ・フォーマルのカジュアル志向を徹底していましたから」

 

―― 「イタめし」って言葉は、いつ、誰が言いだしたんでしょうか?

畑中「命名者は不明ですが、私が調べた限り、雑誌でイタめしという言葉が初めて使われたのは『Hanako』(マガジンハウス)の1988年10月6日号。同年の5月に創刊した『Hanako』は、女性好みのトレンディーなお店を紹介する、初めての週刊レストランガイドとして機能していました。可処分所得と自由時間を手に入れ、食べ歩きにいそしむようになった若い女性たちのバイブル的位置づけでしたね。同誌の食情報は、味そのものよりトレンド性を重視するのが特徴。」

―― 『Hanako』おそるべし! そして、「イタめし」で定着した1988年頃から空前のブームが訪れるわけですね。

畑中「当時、イタリア料理店の開店ラッシュは凄まじかったですよ。なかでもイタめし屋のシンボル的な存在になったのが、恵比寿の『イル・ボッカローネ』。ドアを開けた瞬間に『ボナセーラ!(こんばんは)』とイタリア語の明るい挨拶が響き、オープンキッチンの天井から生ハムのかたまりがぶら下がり、壁にはオペラやセリエAのポスターが貼ってある。まさにコテコテ、絵に描いたような紋切型のイタリア料理のお店です。1989年のオープン直後から大人気になり、同じくいかにも本場っぽく演出した『ボナセーラ系』と呼ばれるイタめし屋が乱立しました」

なお、このムーブメントは日本に本場のイタリアンを定着させ、現地の食材を一般家庭に普及させる契機となる。スパゲッティは「パスタ」になり、本国で食べられてきた大衆パスタを含む本格的なイタリア風が根付いた。オリーブオイルやバルサミコ酢モッツァレラチーズルッコラをそのへんのスーパーで買えるのも、美味しいペペロンチーノが手軽に食べられるのも、イタめしブームのおかげなのである。

 f:id:ochimusha01:20180607205741j:plain

チェルノブイリ・パスタ 1980年代末のイタメシブームはセシウム汚染小麦の処分だった。(東海アマツイッター他) スカイキャット

むかしむかし、ウクライナチェルノブイリで事故(1986年)があった頃、日本では、イタリアン・ブーム(スパゲティー・ブーム)に火が点いた。

1986年と云えば、日本ではまだバブルが始まって2合目辺りの時期。東京の外食産業は、1980年頃の、アメリカン・生クリームケーキ & ロング・カクテル のブームから、フレンチ・ケーキ&ショート・カクテルのブームの時代を経て、フレンチのビストロ・ブームからようやくイタリアンに目が向き始めた頃のこと。

それまで、スパゲティーと云えば、「 ママ・スパゲティ 」と「 ナポリタンやミートソーススパゲティ、マカロニ 」しか大半の日本人は知らなかった。

そこへ、渋谷の「 青の洞窟 」と「 ペペロンチーノ 」が大人気となり、TVでもコマーシャルをするまでになっていた頃のこと(ちなみにペペロンチーノの正式名称は「 スパゲティ・アーリオ・オリオ・コン・ペペロンチーノ・ア・ラ・ネッロ 」と云う。つまり、「 ニンニクとオリーブオイルのスパゲティ・唐辛子風味のネロ皇帝風 」と云うこと。しかし、ネロの時代、まだスパゲティはなかった。のは愛嬌)。

当時既に僕は、イタリア食材輸入専門商社:いずみ だったか モンテ物産だったかが入れてたイタリア最大のパスタメーカーが作る「 ブイトーニ 」を常食としていた。今では、消費者向けの製造・サービス業で「 業界最大 」などというとなにやらイカガワしい、インチキ商品を大量生産してるメーカーのイメージが強くなってしまうが、バブル黎明期に於いては、「 業界最大 」はまだ信頼のステータスだったのだ。

そんなわけで「 ブイトーニ 」を買うには、紀伊国屋とかナショナル麻布とかの特殊なスーパーに行かなければ入手は困難な商品だった。

ところがある日、その辺の普通のスーパーに「 ブイトーニ 」が山積みに! 驚いて、輸入業者を見てみたら、某・超大手製粉会社の名前。人が使ってるものはゼッタイニ使いたくない僕としては、この日から、ちょっと高めの「 デ・チェコ 」に。

で、少し経った頃、イタリアで、「 パスタ・パニック 」が起きてるとの情報が。パスタに使われているデュモリナ小麦粉の、最大生産地が、なんと! ウクライナ ~ 東欧 にかけてとのことで、放射性物質を浴びたデュモリナ小麦を使ったパスタが大問題になっていて、「 ブイトーニ 」などは安いウクライナ産を中心に使ってるとのこと。

f:id:ochimusha01:20180607211544j:plain

近年、懐かしさや目新しさを求め、単体料理としてのナポリタン人気が再燃している。コンビニエンスストアの弁当やレトルト・冷凍食品として販売されるなどの展開もみられるようになった。

大航海時代(15世紀中旬〜17世紀中旬)が到来すると欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移。時代から取り残された「旧文明圏」はしばらくの間「(人口急増に食糧増産が追いつかない)新文明圏」への食糧供給地域として、しばらくの間は(再版農奴制採用によって守旧化しつつ)命脈を保ったが「大航海時代がもたらした新世界作物ジャガイモ、トウモロコシ、エンドウマメ、トマト、etcの旧世界への伝来」や「食品産業の工業化」によって経済的に破綻。現地住民の多くがアメリカへと移民した。
そしてウスター・ソーストマト・ケチャップやマヨネーズや味の素といった「工場産調味料」が次第に世界を席巻していく。

「一銭洋食」として始まった「お好み焼き」

「おでん」同様、大正12年(1923年)の関東大震災の際に主食的位置を占めたのを普及の最初の契機とする。名前についても、当初は決まった名前はなかった。好きな具材を入れていく事で「好み焼き」と呼ばれていたが、この名称では良くないのではとなり、頭におを付けてお好み焼きになったらしい。今となっては、何が嚆矢であるか正確なところは分からないが、自然発生的に「お好み焼き」という名前が現れ、それが一般に定着して今に至っている。
f:id:ochimusha01:20170409125239j:plain

  • にくてん…大正末期には、既に神戸でこれが食べられていた。生地の上に様々な具を載せて焼き上げたものであり、現在のお好み焼きはこの延長線上にあるとも。

  • モダン焼き」あるいは「そばのせ」…関西風お好み焼きの一種で、具材に茹でた(あるいは蒸した)中華麺を、まだ片面しか焼かれていないお好み焼きの上に重ね、焼いたものである。一枚でお好み焼きと焼きそばを同時に賞味できるという、関西的な合理的発想が根底にあり、根強い人気がある。中華麺の代わりにうどんを用いる場合もあり「うどんモダン」や「うどんのせ」と呼ばれる。また、店によっては、お好み焼きの生地に卵を加えない場合もある。ボリューム感あふれる外見と、それに違わない食感が特徴である。神戸・明石周辺では、焼きそばを生地とのつなぎにしたものが「モダン焼き」と言われている。薄く焼いた生地の上にそばを乗せ、その上から生地をかけてひっくり返して焼く。見た目は広島風お好み焼きに似ており、発祥は、昭和25年(1950年)に『志ば多』(神戸市)で考案されたという説が有力である。当初はそばではなく、うどんを使っていた。入れる具材によってバリエーションも少なからずあるが、卵を上面にのせ焼いたものを特に「月見モダン」と称す。モダン焼きや広島風お好み焼きに似ているものとして「にくてん」もあり、こちらは大正時代にはあったと言われている。 また、神戸ではお好み焼きの切り方にも特徴があり、ホールケーキやピザ同様に、三角状に均等になるよう切り分けて食べていた。
    お好み焼きに使用される麺は中華麺で、多くはお好み焼き用に製麺されたものが使用されることが多いが、焼きそば用の麺が使用されている店もある。店舗によって寸胴でゆでてから鉄板に出す「生麺」、予めゆでてある「ゆで麺」、蒸してある「蒸し麺」の3種類のうち一種類が使用される。3種類の中では生麺が比較的人気で、お好み広場やお好み村の店舗やガイドブック等に掲載されているような店舗では生麺が使用されることが多い。しかし、生麺を焼く時に使用するラードのカロリーを気にしたり、調理時間が長くかかることで、人気店でもゆで麺や蒸し麺を使っている場合もある。鉄板上での麺の調理法は大きく分けて2種類ある。八昌やみっちゃんをはじめ主な店舗の調理法は、お好み焼きの生地や野菜などの本体を焼くと同時に、その横で並行して麺を炒め、最後に本体を麺の上に重ねる方法である。最近人気のいわゆる「麺パリ」と呼ばれるパリパリした仕上がりのお好み焼きはこの方法で調理されている。麺の調理時に、塩やこしょうなどで軽く味をつけたりソースで味付けされることもある。もう一種類の麺の調理法は「三八方式」と呼ばれる方法で、麺を塩コショウなどで味付けして炒めたあと、小麦粉で薄く引いた生地の上に載せ、その上に野菜や肉等の具を載せてひっくり返す方法である。こうすると麺が野菜と一緒に蒸し焼きされ、全体に広がりのある味になる。中華麺に代わるバリエーションとしてうどんがあり、うどんは中華麺がない時などに、古くから代用されてきた。近年では蕎麦やパスタを用いる店舗もある。広島以外では、上記のような麺入りのお好み焼きを関西風の「モダン焼き」と区別する意味も込め、「広島焼き」と呼ばれることがある。これは、関西地域の祭りなどで広島のお好み焼きとは異なる厚手の生地にキャベツだけが入り小型の四角形に切り分けたのものを「広島焼き」と称して売っている屋台が多数出店し、それが広島のお好み焼きなんだと勘違いされて広まった名称である。当地の広島で名付けられたわけではなく、広島では、ほぼ使われることがない呼び方である。広島において広島風お好み焼きのことは、関西同様に「お好み焼き」あるいは「お好み」と呼んでいる。そのため、広島焼きと言っても通じないことは無いが、地元民にいい顔はされない。なお、関西風の「モダン焼き」という言葉は、店のメニューとして提供されていない限りは、通じない事が多い。ただし、広島県三原市では、旧来の麺無しをベースとして「お好み焼き」と呼び、中華麺またはうどん入りを「モダン焼き」と呼んでいる。 広島では通常、中華麺入りかうどん入りを選択して食べることが多いため、麺を入れない場合は「麺無し」とリクエストすれば良い。

大正から昭和にかけては1930年代の洋食ブームを典型例とする形でウスターソースを使用する「もんじゃ焼き」や「洋食焼き」「一銭洋食」が食料不足を補う方法としてもてはやされた。これは水で溶いた小麦粉を鉄板に円状に広げ生地を焼き、その上にネギや天かすなどを載せて作る「のせ焼き」が主流であり、子供のおやつのようなものであった。現在も、祭など、屋台で提供されている事が多い。ここからコンニャクや豆といった具を入れ、醤油で味付けして食べる「ベタ焼」「チョボ焼」が派生し、それが各種鉄板料理へと派生していったと考えられている。関西では「混ぜ焼き」を特徴としており、これを「関西風お好み焼き」とも呼ぶ。
*広島でも戦争で食料が不足した戦後に、少量の小麦粉と野菜を多く使用して作られるようになり、お好み焼きと称されたのが始まりであるが、戦前に子供のおやつだった「一銭洋食」が元の形になっている。近年では「ご当地グルメの代表格」ともいわれ2006年現在、広島市だけで800軒以上(1992年中国新聞調べからの推定)、広島県内には1,700軒以上あるといわれる(総務省統計局、平成21年経済センサスより)。店舗数では全国3位、人口10,000人あたりの店舗数では全国トップといわれる。1950年頃に発生した屋台街(後にお好み村になる)で開業した、みっちゃんの井畝井三男と善さんの中村善二郎が広島風お好み焼きの元祖とも。その他、初期のお好み焼きの屋台の流れをくむ店は「麗ちゃん」「へんくつや」などがある。1950年当時のお好み焼きはまだまだねぎ焼きに近い物であった。戦争や原爆で夫を亡くし、自宅の土間を改造して店を始めた女性も多く「〇〇ちゃん」という屋号が多いのはその名残りである。また、1963年に中国地方を襲った昭和38年1月豪雪で、中国山地の農村から一家で離村し、高度経済成長期の広島市に移住した農家の主婦が住宅地に開業した例も多い。現在も町の小さなお店に、老婦人が一人で焼く店舗が残るのは、こうした理由もある。昭和40年代(1965年〜1975年)頃までは、家から卵や肉をお店に持っていって入れてもらう事が出来た。現在は肉や卵 (合わせて肉玉と呼ぶ) は当たり前に手に入ることが多いが、昔は野菜とそばだけ、あるいは野菜だけといったことも珍しくはなく、この頃の野菜だけで作られたお好み焼きの値段は250円程度だった。また、プラスチック製や発泡スチロール製のトレーが普及していなかったため、お店で食べない場合は、各家庭から平らな皿を持っていき、それに出来たお好み焼きをのせてもらったり、新聞紙にくるんで持ち帰っていた。もう少し時代が下ると、ラップで包んで持ち帰っていた。終戦後も「一銭洋食」は流行し、それを元に、ねぎをキャベツに置き換えたり、「もやし」や「そば」などの具材追加で、乗せ焼きが特徴の広島風お好み焼きが誕生した。その焼き方は、昔から今まで一貫して生地と具材を混ぜずに焼く「重ね焼き」である。現在のような広島風お好み焼きの完成形が突然出来たわけではなく、当初は屋台営業の為、他店のレシピや調理技術が盗み易く、各店が互いに影響を与えあいながら現在の形へと進化していった。小麦粉を水で溶いたものを薄く伸ばして焼いた生地の上に野菜や肉といった具を重ねてひっくり返し、生地でふたをして「蒸し焼き」にするのが特徴。具と小麦粉で出来た生地を混ぜて作る関西風の「混ぜ焼き」との大きな違いとなっている。

f:id:ochimusha01:20180608130605j:plain

  • 「具材」…キャベツや鶏卵がいつころから定番の食材になったかについてははっきりしたことは分かっていない。キャベツそのものは冬性の季節性野菜であったが明治37年(1904年)頃から普及しており決して高価な食材ではなかった。高級レストランでは生食されていたが一般的ではなく、家庭では油いためにしたり汁物の具材などに利用されていた。昭和30年(1955年)頃にはソース焼きそばの具材としてすでに定番であって、お好み焼きにもこの頃には定番化されていたと見られる。鶏卵については大規模養鶏が導入されたのは昭和30年代(1955年〜1965年)であり戦後しばらくは高級食材であった。
    *広島では当初は肉が入っていない野菜の重ね焼きで、二つ折りにして新聞紙にくるんで提供されていた。キャベツや揚げ玉などが入れられていたが、この頃はまだ、そば等の麺は入れられていなかった。このクレープのような生地に、焼きそばやうどんと卵焼きを二つ折りにして挟むというスタイルは現在でも呉地方を中心に残っており「呉焼き」とも呼ばれている。円盤状のものに比べて場所をとらないため、スーパーマーケットやコンビニエンスストアの惣菜のひとつとしてもよく売られており、またやり方によっては片手で食べることも可能になるので、祭りなどの露店ではこのスタイルで売られることもある。戦後の食料事情により、季節により供給量が左右されるネギを、単価が安く年間通して手に入りやすいキャベツに変えた(もやしは後年入れられる事になる)。昭和30年代になると、そば(中華めん)やうどんを入れるようになる。これは、その頃発売されたインスタントラーメンの影響ともいわれている。当時は米はまだ貴重な時代だった。こうして当初はおやつ程度の物だったものが、主食へと変化していく。具材が多くなったため、二つ折りにしにくくなり、円盤状のままで出すようになった。こうして、1955年頃には現在の広島風お好み焼きになった。

    f:id:ochimusha01:20180608130743j:plain

  • 「ソース」…ツヤと粘度があり、各種野菜やナツメヤシ等を原材料とした、甘みと辛味の加減が程良いソースが用いられる。1990年代までには粘度の低いウスターソース(中濃ソース・濃厚ソースなどを含むウスターソース類の総称ではなく、狭義のウスターソース。以下同じ)が使われていた。 今日では神戸市のオリバーソース、大阪市イカリソース(現在はブルドックソースの子会社)、名古屋市カゴメ広島市オタフクソースなど多くのメーカーからお好み焼き専用に調整されたソースが発売されている。特に関西においては、街のどこのスーパーでも、お好み焼き専用ソースとして十数種類陳列されているほどで、個々人のソースへのこだわりの深さを感じさせられる。また、とんかつソースに代表されるように、関西では辛口のソースが最も多くお好み焼きに用いられている。関西以外の各地にも独特の「地ソース」が存在しており、その地域の味として利用される事がある。お好み焼き専門店では、これら既製品のみならず、ウスターソース、とんかつソース、辛口のどろソースなど、各種ソースをブレンドした独自のソースを使用することも多い。
    *広島焼きも最初の頃はウスターソースを使っていた。多くなった具に対応するために、そばを焼そばのようにソースで味付け、さらに表面にも塗っていた時期もあった。しかし、さらさらのウスターソースではお好み焼にしみ込んでしまう欠点があり、ウスターソースに片栗粉を入れてとろみのあるソースを作って欲しいというオーダーにソースメーカーが応えて、濃厚なソースを使うようになる。その後、広島風お好み焼きの生地や具材に合うように甘味や酸味を持たせたり、液体のソース製造時の沈殿液を使うなどの改良がなされた。こうして誕生したお好み焼き用の濃厚ソースを「お好みソース」と呼ぶようになったが、小さな工場では昔ながらの製法で作っている所もある。現在では広島のメーカーであるオタフクソースお好み焼き専用のソースを製造し、お好み焼き店の開業を支援していることもあり、多く利用されている。味は若干甘め。それ以外には、毛利醸造カープソース(やや辛め)・サンフーズのミツワソース、センナリの広島ぢゃけん、中間醸造三原市)のテングソースなどのお好み焼きの専用ソースも使用されている。多くのお好み焼き店では単一メーカーのソースを使用しており、ソース会社では、納入先のお好み焼き店に自社の名前が入った暖簾を提供している。そのため、暖簾にあるメーカー名を見ることで、その店がどのメーカーのソースを使っているか分かることが多い。近年では幟(のぼり)を立てている店も多く、より分かりやすくなっている。なお、一部の店では複数のソースを独自にブレンドしたり、前記以外の製造会社にソースを特注したりしている。また、お好み焼きを食べるときに用いるヘラ (コテ) やお皿、ソース差しなどの道具にも、ソースのメーカー名がついていることがある。特に、多くの小規模な店舗がある広島市内では、ソース会社がお好み焼き店の開業支援をしており、「近所の主婦」が内職で自宅の一部を改装し、安価で店を開くことが出来た。広島県は日本酒の産地であり、そこから派生して酢の製造も盛んであった。先述のオタフクなど多くのソースメーカーは酢の醸造会社をルーツに持ち、今もソースと酢の両方を製造している。

  • 「マヨネーズ」…昭和50年(1975年)頃からマヨネーズが使われるようになった。 更に、同じ関西でも大阪と神戸ではマヨネーズに対する嗜好に違いがある。現在の大阪では、どの店でもマヨネーズがかけられて提供されるのに対し、神戸ではマヨネーズを置かない店も少なからず存在する。また、置いていても注文をしないと出てこない店も少なくない。全国的に、関西風のお好み焼きを提供する店では、基本的にマヨネーズが使用される。また、店によっては溶きがらしを少量加えることもある。お好み焼きの表面に、ソースとマヨネーズを同時に混ぜあわせながら塗る(この時、マスタードを少量混ぜ合わせる店もある)のが従来のマヨネーズの塗り方であり、古くから営まれているお好み焼き屋のほとんどが、この方法で提供している。一方、新しいスタイルの店では、ソースがあらかじめ塗られたお好み焼きの上に、細いノズルのついた容器でマヨネーズを噴射して模様やデザインを描いたり、パフォーマンスとして離れた位置からかけたりする所もある。
    *広島では、当初お好み焼きにマヨネーズを使う習慣はなかったが、マヨネーズをかける食べ方も広がっている。お好み焼きにマヨネーズを提供している店であっても、焼き上がって客に提供された時点ではマヨネーズがかけられていないことも多い。このような店では、卓上にセルフサービス用のマヨネーズが置いてあり、客が好みに応じてマヨネーズを使えるようにしている。なお、マヨネーズを置くお好み焼き専門店であっても、店舗によっては追加料金を必要とする場合がある。このような歴史的経緯もあり、焼き上がったお好み焼きに対して、客の好みも聞かず一方的にマヨネーズをかけるような店に対しては、これを好ましく思わない人々も多い。

昭和30年(1955年)前後までの関西下町では、町内に一軒位の割合でお好み焼き屋があり、庶民の親しまれる日常の食べ物であった。「お好み」と略して呼ばれる事もある。夫婦で自家営業する形態が一般的だが、戦争などで夫に先立たれたり、水商売を引退した女性などがひとりで経営する店も多く見られた。戦後はさらに店の数も増え、大阪市内においては町内に四軒五軒と、あげくは向かい合ってお好み焼き屋が乱立するほどであった。

f:id:ochimusha01:20180608133752j:plain

  • お好み焼き屋が多い事から、家庭でお好み焼きを作るという習慣はなく、主に近所のお好み焼き屋で出来あがったもの持ち帰り、家庭で食べるというスタイルが主流。店で焼いてもらったものを家庭で食べるという形が定着していたため、お好み焼きの出前も活発に行われるようにもなった。

    f:id:ochimusha01:20180608134517j:plain

  • 昭和50年(1975年)頃からは、多種多様な料理を外食するというスタイルが世間で増えだしたこともあり、お好み焼きも店で食べるという事が定着し始めた。また、関西のお好み焼き屋では、焼きそばや焼きうどんなども昔からメニューとして提供されている。店の看板などにおいても、「お好み焼き・焼きそば屋」と言った記述が多く見られる。この当時から、文字通りお客のお好みで肉や野菜、季節の魚介類を具として加え、焼くといった、現在にも通じるスタイルでお好み焼きが提供されていた。

    f:id:ochimusha01:20180608134619j:plain

近年では、ステーキや魚介類を中心とした鉄板焼き店に業態を変えた店もあり、かつてのように外食や出前でしか食べられなかったお好み焼きも、家庭で一般的に作られる様になり、今や家庭料理上位に入るメニューに。

 日本酒と洋酒(ワイン、ウィスキー、ビール)の「近代化」

明治34年1901年白鶴酒造が一升瓶詰めの日本酒を発売。
http://suave.e-tetora.com/blog/wp-content/uploads/2012/06/%E7%81%98%E3%81%AE%E9%85%92.jpg

  • 以前は、江戸へ下り酒として大量輸送される灘のような大ブランドを例外として、基本的に日本酒とは地産地消される商品だった。要するに祭礼などの場に地元の酒が四斗樽で運ばれて皆で自由に飲まれるか、比較的に裕福な階層が自前の徳利などを携えて酒屋へ行き、酒屋は店頭に並べたコモかぶりの酒樽から枡で量り売りをするのが通例だったのである。このため、今でいう地酒がその町や村から外に出る事自体、ほとんどなかった。

  • だが明治後期から少しずつ、酒が瓶で売られる様になり、生産された町や村を離れての流通が始まる。そして「一升瓶」登場以降、大手メーカーが日本酒を瓶詰めで売るのが当然視される様になっていく。とはいえ量り売りをする酒屋も戦前昭和時代まで見られた並行して存在し続けた。

  • 酒が瓶詰めになったことは、人の酒の飲み方、すなわち消費形態や食生活にも変化をもたらした。すなわち日本人の平均的な日本酒の飲み方が「年に数回だけ振る舞い酒を、枡の角に盛った塩を舐めながら飲み、飲んだからにはとことん泥酔する」様式から「酒屋から瓶で買ってきた自分の好みの銘柄を、ほとんど毎晩晩酌や独酌として、食事や肴とともにたしなみ、そこそこに酔う(当時の表現で「なま酔い」という)」様式へと推移したのである。

  • このような消費様式の変化が明治後期から昭和初期にかけてゆっくりと浸透。戦中戦後の闇市の時代をまたいで、現在の消費形態の土台となっていく。 

    f:id:ochimusha01:20180607221658j:plain

明治40年1907年4月、寿屋洋酒店が「甘味果実酒」赤玉ポートワインを発売。総合洋酒メーカーとしてのサントリーの土台を築きあげた商品として有名であり、今日なお発売され続けている。

f:id:ochimusha01:20180607222551j:plain

  • 明治39年(1906年)、鳥井信治郎が鳥井商店を「寿屋洋酒店」に改名。スペイン産の葡萄酒を販売するが売れなかった。「それなら日本人の味覚に合った葡萄酒をつくる」と決意して幾度となく甘味料の配合を重ねる日々が始まった。結果として完成したのは米1升が10銭する当時、その4倍に相当する40銭という高級品だったのである。
    *だから当初は「薬品としての効能」を強調する戦略を採用。

    f:id:ochimusha01:20180608143512j:plain

  • 当時の帝国大学医学博士らなどの協力を得て、商品の安全性と滋養などの効能を謳い、また行頭に「赤玉」と背中に書いた法被を着せて歩かせたり、芸者らなどに赤い玉の模様のついたかんざしを配ったりと、積極的なパブリシティをおこなう一方で、赤玉ポートラインを売り込む為に赤玉楽劇団を創設。

    f:id:ochimusha01:20180607222840j:plain

明治44年1911年)、日本酒精より新式焼酎が発売される。
http://www.tanken.com/jinzoshu1.jpg

  • 醸造業の近代化とはすなわち「酒の工業的生産」の始まりでもあった。そして、そもそもは陸軍砲兵本蔽に所属する火薬製造所で開発された「純度の高いアルコールを蒸留する技術」が、アルコール飲料の開発に応用されるようになり、工業生産されたアルコールに水を加えた新式焼酎が開発される運びとなったのである。

  • 飲用に使われるようになって、官能的に感知される不純物を除去するため、アルコールの蒸留技術はさらに進化していき、それを応用して大正10年(1920年)に鈴木梅太郎合成清酒の製法で特許を獲得した。
    *「ほんらい食用に回すべきお米を酒にしてしまう」との発想から、酒が不届きなぜいたく品のようにも考えられた当時は「成分中のアルコールが米に由来しない」ということが近代的で良いこととして解釈されたのである。

大正11年1922年)、サントリーが当時プリマドンナだった松島恵美子を起用したヌードポスター(寿屋で広告文案を担当していた片岡敏郎と同じく寿屋でデザイナーとして活動していた井上木它らの手により制作)を行う。
http://4.bp.blogspot.com/-GO9STQVZ5Y0/UxkfBGlCpdI/AAAAAAAADtM/Jnp6xzewOFE/s1600/tumblr_n1kecgw1P81rc0soco1_1280.jpg

  • こうした努力の結果、大正後期には「赤玉ポートワイン」が国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長した。

大正12年(1923年)合成清酒(新清酒)「新進」が発売開始。

f:id:ochimusha01:20180608023220j:plain

大正7年(1918年)に起きた米騒動をうけて、理化学研究所鈴木梅太郎らが将来の食糧難における対策の為に研究に着手。大正11年(1922年)に製造方法の特許を所得し、大正12年(1923年)に大和醸造から(新進)という銘柄で商品化された。

昭和4年1929年4月、初の国産ウイスキーサントリーウイスキー白札(現在のサントリーホワイト)」と「サントリーウイスキー赤札(現在のサントリーレッド)」が発売される。
http://www.life-as.co.jp/blog/2010/06/24/images/sirasu04.jpg

  • 赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(SUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN+鳥井=サントリー」とした事になっている。

  • しかし竹鶴が製造した最初のウイスキーサントリー白札』は模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられなかった。竹鶴が本場同様に入れたピートの独特の臭いが受け入れられなかったという説もあり、このことも含め鳥井自身は竹鶴がスコッチにあまりにもこだわりすぎるのを疑問視していた節がある。

1930年代前半、日本酒とビールとの戦いが本格化する。

f:id:ochimusha01:20180607223900j:plainf:id:ochimusha01:20180608011956j:plain

  • 大正15年(1926年)には、国家歳入の酒税に頼る割合は24.4%にまで下がってきていたが、依然として所得税を抜き首位であった。

  • 主要な輸出品でなかった日本酒は、昭和4年(1929年)の世界大恐慌の打撃をまともに受けることはなかったが、かえってビール業界の伸長に圧迫され、昭和4年(1929年)から昭和6年(1931年)まで連続年10%の減産を余儀なくされる。

昭和12年1937年10月8日、「サントリーウイスキー12年(現在のサントリー角瓶)」が発売される。この製品の成功により、サントリーウイスキー事業が軌道に乗ることになった。
http://www.nttcom.co.jp/comzine/no022/long_seller/images/long_img03b.jpg

  • 鳥井は以前より竹鶴が本場スコッチにこだわりすぎるのを疑問視しており、彼の契約満了に伴う退社を経てウイスキーづくりについての姿勢を根本から改めた。そして「白札の失敗」から期間を置くこと8年、「これが失敗したら、寿屋は倒産するしかない」という危機的状況下のもと、満を持して発売されるのがこの「角瓶」だったのである。それはある意味、「断じて舶来を要せず」を旗印に大正12年(1923年)より身を削りながら国産ウイスキー事業を定着させ様と試み続けてきた鳥井が長年求め続けていた「日本人のための国産ウイスキー」そのものでもあったのである。

  • おりしも日本が戦時体制に突入しつつある最中で、舶来産のウイスキーが輸入停止になった事、スモーキーな熟成を重ねた味が日本人の舌をとらえた事などが重なって売り上げは好調に推移。さらに当時の日本海軍(英国海軍をお手本にしていたため、海軍士官の嗜好酒はウイスキーというのが主流であった)への大量納入に成功して「大日本帝國海軍指定品」の箔付けを得た事からサントリーウイスキーの歴史の礎を築く一品となり、抱えた損失を一掃するほどの成功を収める。

    f:id:ochimusha01:20180608012656j:plain

昭和12年1937年)、日中戦争が始まると日本酒の状況が暗転。
f:id:ochimusha01:20180602055617j:plain
f:id:ochimusha01:20180602055450j:plain

  • 日本酒も前線の兵士へ送るために徴用され、品質の良い酒が市場に出回らなくなった。さらに食用としての米を確保するため、昭和13年(1938年)国家総動員審議会によって酒造米200万石が削減させられ、さらに勅令789号によって米穀搗精制限令(通称「白米禁止令」)が公布され、生産は半減することとなった。

  • 昭和5年(1930年)の縦型精米機の登場によって、一時は飛躍的な発展の可能性がかいまみえた吟醸酒の技術に関しても、昭和13酒造年度(1938年-1939年)から精米歩合が65%以下に規制されて出鼻をくじかれ、本格的な発展にはなお三十年近い歳月を待つことになった。

  • 酒の値段も、政府のさだめる公定価格によって統制されることになり、このことが太平洋戦争末期から戦後の混乱期にかけて別個に存在する実勢価格(闇値)で取引される素地を、すなわち闇市場を作った。この公定価格制度は昭和35年(1960年)まで残った。

  • こうして日本酒の需要と供給は大きくバランスが崩れ、酒小売店では酒樽を店頭に出す前に中身へ水を加えてかさ増しするところが続出。金魚が泳げるくらい薄い酒ということで金魚酒と名づけられたこのような酒を取りしまるために、昭和15年(1940年)にアルコール濃度の規格ができ、政府の監査により日本酒級別制度が設けられた。当初は「特級」「上級」「中級」「並」の4階級であった。階級の分け方は時代とともに変遷していったが、制度そのものは平成4年(1992年)まで続いた。

昭和14年1939年)、満州でいわゆる「増産酒」が開発される。

  • 日本人が多く入植した満州でも日本酒の需要は高かったが、現地の水がひじょうに硬水だったこと、内地からの米の輸入が不自由だったこと、いまだ安全醸造に至らない貧弱な設備の蔵が多かったこと、既成の日本酒は現地の極寒の気候では凍ってしまうことなどの理由から、それら問題点を解決する酒が、満洲国経済部官長島長治と奉天にあった嘉納酒造の技師安川豪雄によって研究されていた。

  • そしてやがて、ワインへ行なわれていたアルコール添加の技法にヒントを得て日本酒へ大量にアルコール添加することで容量を増やし、さらにそれでは辛すぎて飲めないという事から糖類を添加して飲む方法が開発された。これが第1次増産酒である。

  • この手法では、添加するアルコールは30度まで希釈して、過マンガン酸カリウムと活性炭濾過によって精製したものを、上槽の三日前に、白米10石の醪につき3石から5石を加えるというものであった。昭和15年(1940年)に実施された試醸で、アルコール臭はほとんど感じることなく火落ち菌による変敗も認められなかったと報告されたため、昭和16年(1941年)には満州全土の酒蔵で実用に移された。

    f:id:ochimusha01:20180608023936j:plain

昭和15年1940年)、ウイスキーが統制品に。

f:id:ochimusha01:20180608143946j:plain

昭和18年1943年)、「増産酒」関係法令が整備される。

  • 昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まり米不足に拍車がかかった内地では、昭和17年(1942年)食糧管理法が制定され、酒造米も配給制となった。このような中、いかに米を使わないで酒を造るかが研究され、満州における第1次増産酒が内地55場の酒蔵で試醸され、その結果、元の清酒の量の3倍になるまでアルコールを添加する手法が編み出された。これを第2次増産酒といい、戦後の三増酒の直接の原型となる。

  • これに伴い昭和18年(1943年)、政府は清酒の原料にアルコールを追加できるよう酒税法を改正、またアルコールを酒類製造業者へ売り渡しできるようアルコール専売法を改正するなど関係法令の整備をおこなった。

  • 昭和19年(1944年)にはすべての酒造業者が第2次増産酒に切り替えたが、識者から日本酒の純粋性と品質低下を招くとの根強い批判があったために、大蔵省は第2次増産酒は原則として清酒三級として取り扱うよう通達を出した。

  • 添加する醸造アルコールは当初おもに芋から供給されたが、やがて芋も不足してくると、野山に動員された小学生が拾ってくるドングリが、さらにガソリン原料の無水アルコールが転用された。

    f:id:ochimusha01:20180608031053j:plain

昭和18年1943年)、酒類がすべて配給制となり、これ以後はもっぱら闇市場で取引されるようになった。

f:id:ochimusha01:20180608030750j:plain

  • 酒の闇値はほぼ半年で2倍の割合で上昇していった。横流しの酒のほかに、家庭に配給された酒までが換金のために闇へ流されるようになった。酒蔵は、隠れて仕込んでいる酒が発覚すれば、醸造設備すべてをスクラップとして供出しなければならなかった。

昭和20年1945年)、敗戦を契機に各社が相次いで低質のウイスキーを発売。中には原酒を全く使っていないものまであった。

f:id:ochimusha01:20180608030232j:plain

  • 寿屋は昭和21年(1946年)に「トリスウイスキー」を発売。当初は原酒を5%入れていた三級ウイスキーとして登場したが、徐々に原酒の配合割合を上げる営業策が取られ、やがて10%に引き上げられて二級ウイスキーとして発売されるに至る。ウイスキーメーカーとしてのサントリーの原点となる洋酒であり、またロングセラーのブランドとして重視された。従来は1960年代に若者であった層に愛飲者が多かったが、2003年にラインナップを一新したことにより、新たな若者層にも愛飲者を拡大させている。

  • 竹鶴は「わしゃ三級は作らん」とこのような低質の製品を作ることを拒否していたが、筆頭株主だった加賀らに説得され、昭和25年(1950年)、安価な三級ウイスキーを作ることになる。この時もあえて原酒を当時の酒税法上の上限いっぱいの5%まで入れさせてせめてもの抵抗をしている。着色料も粗悪品ではなく、わざわざ砂糖を原料に自社生産したカラメルを使用したという。

    f:id:ochimusha01:20180608025653j:plain

昭和20年1945年)、日本酒業界も相変わらず闇酒が横行

f:id:ochimusha01:20180608025308j:plain

  • 戦争によって醸造業も壊滅的な打撃を受けた。戦火に焼かれた酒蔵だけでも223場にのぼり、昭和20酒造年度(1945年-1946年)の全製成量の17%の酒が失われ、杜氏や蔵人などの人的損失もたいへん大きかったが、わけても深刻だったのが食糧難、とくに原料となる米の絶望的な不足であった。

  • 昭和21年(1946年)5月19日の「飯米獲得人民大会」(いわゆる「米よこせメーデー」)を抑えこんだ連合国軍最高司令官総司令部GHQ)は、日本政府へ酒類の製造を禁止する命令を下した。 しかし、過去アメリカにおける禁酒法が実効をあげなかったこと、闇酒が多くの犠牲者を出していたこと、大手ビール会社が確保していた大麦の一部を供出したこと、などの要因によって命令は実施に至らず。

  • 兵士たちの復員などによって飲酒人口が急増し、また暗い世相を反映して酒類への需要が高まり、供給が追いつかなかったためメチル、カストリ、バクダンなどの密造酒が大量に横行するようになった。どぶろくなどの従来の密造酒と比べてアルコール濃度が高く、激烈で有害なのが特徴で、闇市場で売買されることから闇酒ともいう。
    *「メチル」…戦争中に石油燃料の代用とするために製造されたエチルアルコールを水で希釈したものに、人が間違えて飲まないようにわざわざメチルアルコールを混ぜ、目立ちやすいように桃色に染めたものであったが、戦後の食糧難のなかで人々は危険を半ば承知でこれらに手をつけた。それも必ずしも下層階級ばかりでなく、分別も教養もある人々が酒への渇望から飲み、失明したり死亡したりした。新聞では「目散/命散(めちる)」などと書かれた。

    f:id:ochimusha01:20180607215424j:plain

    *「カストリ」…本来は酒粕を蒸留して作る伝統的な焼酎の一種であったが、当時は密造の粗悪な芋焼酎のことを指し、飲んだ後のコップが油ぎって汚れるのが特徴であった。関東では多摩川をはさんで大田区から川崎市川崎区、近畿では尼崎市が生産地として有名であった。

    f:id:ochimusha01:20180607220007j:plain

    *「バクダン」…戦時中の航空基地などで使い残された燃料用アルコールの変成したものを、活性炭で脱色し水で薄めたもので、闇市の酒場では「即席焼酎」などと呼ばれて売られ、さらに他の酒へ割り込むこともあった。失明・死亡率が最も高かった。 

    f:id:ochimusha01:20180607220944j:plain

昭和24年1949年)、三増酒が登場

f:id:ochimusha01:20180608031643g:plain

  • 闇酒の横行は国民の健康を損ねるだけでなく、治安を悪化させ、政府にとっても税収の低減につながるため、合法的でなおかつ米を原料としない酒が真剣に研究された。清酒合成清酒を混ぜた混和酒が考案されたが、政府が採用したのが戦前の第2次増産酒を応用した三増酒であった。

  • 三増酒(三倍増醸酒)とは、醪をしぼる前に、その醪から生成すると見込まれる清酒の2倍量のアルコールに、あらかじめ調味料を入れて調味アルコールとし、醪に加えて圧搾にかけ、結果的に約3倍の製成酒を得るというものであった。合成清酒や混和酒と区別するために、調味料として使える原料はブドウ糖、水飴、乳酸、コハク酸グルタミン酸ソーダ、無機塩類にかぎられた。

  • この手法を実現するためには、より純度の高いアルコールに含まれる不純物を加水抽出する技術が必要であったが、昭和24年(1949年)10月フランスの蒸留機メーカーであるメル社のアロスパス式加水蒸留が日本蒸留工業にもたらされて問題点を解決するに至り、三増酒の生産が昭和24酒造年度(1949年-1950年)に本格的に導入されることになった。全国で200場の酒蔵が試醸に参加した。 ちなみに、このように生産される工業アルコールはのちに、日本酒だけでなく、焼酎、ウィスキー、ワインにも使われることになる。

  • 戦禍から即席に再生させた醸造設備は乏しく、せっかく貴重な原料米を入手しても健全醗酵できず、腐造に至る場合も相次いで起こった。それでも市場における供給不足は深刻なので、曲がりなりにも酒として出荷しなければならない。そのためには大量のアルコールを添加し、辛ければ調味料で甘くするしかない。このような背景から、ほとんどの酒蔵でかさ増しのためのアルコール添加が行なわれ、三増酒が合法的な日本酒の主流となっていった。酒税法を守らせる立場の監督官庁ですら「建前を言っている場合ではない」と、醪を腐造から守るために率先して法定上限をはるかに超えるアルコール添加をおこなっていたという。

  • 日本酒をめぐる需給バランスは敗戦直後よりもむしろ悪化する一方で、昭和23酒造年度(1948年〜1949年)あたりが最悪であった。昭和22年(1947年)の全国の製成量は昭和初年の10分の1を下回り、同年3月の配給酒1升の公定価格は43円であったが、闇市での実勢価格は500円を上回っていた。日本酒への原料米の割り当てが昭和20年(敗戦時)の水準に戻ったのは、じつに昭和26年(1951年)である。

    f:id:ochimusha01:20180608062638j:plain

昭和25年1950年12月、日本政府が闇酒撲滅の為に明治維新以来はじめての全酒類減税に踏み切る。

f:id:ochimusha01:20180608062914j:plain

  • 昭和20年(1945年)はさすがに鑑評会・品評会ともに行なわれなかった。

  • 昭和21年(1946年)には鑑評会と品評会が両方ともかろうじて再開された。しかし当時の食糧難を反映して、精米歩合も70%までと規制が設けられた。

  • 70%以下という精米歩合帯で有利になった長野『真澄』が鑑評会・品評会ともに上位を独占し、この酵母が分離され協会第7号酵母として全国に頒布され、出品酒の8割以上に使われるようになった。

  • 昭和24年(1949年)5月6日酒類配給制が解かれ酒類販売の自由化がなされた。配給制から自由化に移行するに当たって、各都道府県に指定の卸が置かれることとなった。この卸の役割を担ったのが酒造メーカーであった。

  • 江戸時代から続く、小売店の店頭で小銭を払って酒を立ち飲みする風俗は、昭和18年酒類配給制となってから途絶していたが、この販売自由化によって復活した。

  • 全国清酒品評会は隔年の秋に、主にひやおろしを対象として昭和25年(1950年)まで開催されたが、やがて行われなくなった。いっぽう産業振興よりも醸造技術の修得・向上が目的とされる全国新酒鑑評会は、賛否両論を浴びながらも現在に至るまで毎年春に行われている。

  • 昭和25年(1950年)6月朝鮮戦争が勃発し、日本に特需景気をもたらし始めると、密造酒の撲滅のためにその機会を狙っていた政府は、同年12月、明治維新以来はじめて全酒類の減税に踏み切った。引き下げ率は平均30%近くという画期的なもので、これがやがて「酔えば何でもよい」という闇酒への需要から日本人が脱却するきっかけとなった。

  • 昭和27年(1952年)にアメリカ軍が撤退すると、ようやく日本酒の消費は伸び始める。 しかし三倍増醸酒は高度経済成長期にも根強く残り、ひいては石油危機に始まる日本酒の消費低迷期を招くこととなる。

    f:id:ochimusha01:20180608063239j:plain

昭和31年1956年)、ニッカが新二級ウイスキーの丸びんウヰスキー通称、丸びんニッキー)を、業界首位の寿屋の主力商品、トリスウイスキーと同価格で発売。
https://img.atwikiimg.com/www59.atwiki.jp/nikka/attach/85/977/19561116y.jpg

  • それまでニッカの二級ウイスキー(かつての三級ウイスキー)は他社製より高く、あまり売れていなかった。そこで新たな大株主となった朝日麦酒(現アサヒビール)から派遣された役員が、売り上げが倍になれば、品質を落とさなくても他社と同価格で販売できると竹鶴を説得し価格を下げる事に同意させたのである。

  • 積極的なセールス活動を行った結果、実際にニッカの二級ウイスキーの売り上げは1年で倍増し、ニッカの販売額も業界3位から2位に浮上した。またこれにより他社のセールス活動も激化。ウイスキー販売戦争となった。当時、洋酒ブームが起きており、ニッカ以外も含めた日本でのウイスキー消費量全体も増加した。

  • 戦時中にウイスキーの味を覚えた元兵士達が反応したと言われる。

    f:id:ochimusha01:20180608032708j:plain

昭和31年1956年)、「もはや戦後ではない」と言われるようになり、メチルやカストリといった危険な密造酒は大幅に減じ、甲類焼酎さえも昭和31年を境に消費減少へ転じた。このことは日本酒に、戦前と同じような恵まれた消費環境が戻ってきたかに見えた。しかし内実は、まるで違うものとなっていた。

ところで、この「もはや」という語は、日本が復興期から脱して、高度成長という明るい未来を目の前にした状況を表現したものと誤解されることが多いが、当時の「もはや」に込めた認識は今日的解釈とは正反対で、「今までは戦後復興ということで、成長の伸び代が多大にあったが、戦前の生産水準にまで回復してしまった以上、この先、この成長をどうやって続けたらよいものだろうか」という不安な思いが込められている。

f:id:ochimusha01:20180608063818j:plain

  • 日本酒の消費は伸び続けていたが、戦後の米不足の一時的救済策として開発された三増酒が、その消費の主流として定着してしまっていた。消費者が、以前の良質な日本酒には見向きもしなくなっていたからでもある。

  • 戦後に成人した世代は、旧来の日本酒との接点を持たずに大人になり、増産酒以前の日本酒に味覚的郷愁を持っていなかった。そのため闇酒、粗悪な焼酎、ビール、ウィスキーから飲み始め、日本酒といえば「頭が痛くなる」「気持ち悪くなる」三増酒のことだと思うようになっていったのだった。

  • もう少し下の世代は下級ウィスキー(その時々の級別制度によって「三級ウィスキー」から「二級ウィスキー」になっていった)から飲み始めた。大量のアルコール添加をしている点では三増酒と同じであったが、調味料が入っていないこと、国産でも西洋のイメージがあること、アルコール度が高いものを水割りにして飲むことなどから、三増酒に向けられるような泥臭い印象は持たれなかった。下級ウィスキーは昭和43年(1968年)頃まで庶民によって旺盛に消費されていく。

  • たとえ三増酒であっても、右肩上がりの経済成長期で「造れば造るだけ売れた」時代であったので、そうした現状に疑念や危機感を持つ酒蔵がまだ少なかった。良質な酒を生産しようと志しても、いまだ昭和17年(1942年)に制定された食糧管理法の下に国民には米穀通帳(べいこくつうちょう)が発行され、酒造米も配給制となっていたために、満足のゆく原料の調達が困難であった。

  • しかも配給量は日中戦争開始以前、まだ小作農が農業人口の大半を占めていた昭和11酒造年度(1936年-1937年)の米の生産高に基づいて算出されていたため、戦後の農地改革が経て、農業もたぶんに機械化され、すっかり富裕になった1960年代の日本の実態にまったく即していなかった。

  • 原料である酒造米の配給高が蔵ごとに決められているということは、製成酒の生産高も戦前のそれに準じて規定されていることに等しかった。それで「造れば造るほど売れる」、「造りに手を抜いてもアルコール添加で最終調整すれば出荷できる酒に仕上がる」、「よい酒を造っても消費者に見向きもされず、しょせん販売価格は同じになる」のであれば、生産者も企業努力をしなくなる。その結果が三増酒による量産主義となり、そうでない酒はつぎつぎと市場から姿を消していった。

  • 算定基準である昭和11酒造年度には、まだ大メーカーと地方の零細蔵の生産量の格差は小さかったため、割り当てられる酒米の量の差も小さかった。ところが生産の主流が三増酒という「工業製品」になると、この格差は広がった。設備投資のしやすい大メーカーは急速に成長し、製成高も急増したため、原料が不足しがちとなる一方、旧来然とした素朴な設備しか持たない零細蔵は、自分たちの販売能力を上回る酒造米を割り当てられていたからである。

  • そのため、零細蔵が製成した酒をタンクごと、大メーカーが買い取るようになった。これを売り手(零細蔵)から見て桶売り、買い手(大メーカー)から見て桶買いという。桶売り・桶買いは、経済学的には日本酒のOEMととらえられている。

  • 酒は瓶に詰めて出荷された時点で課税対象になるので、その前段階すなわち桶売り・桶買いの時点では取引に関わる納税の義務が生じない。そのため未納税取引ともいう。これは両者にとって経営上、重要な節税のテクニックでもあった。

  • 大メーカーは、桶買いによって集めたあちこちの蔵からの酒をまぜあわせたり、自社醸造の酒の割り増しに使ったり、あるいはそのまま自社ブランドの瓶に詰めたりして販路に乗せた。

  • このような流通システムでは、それぞれの酒蔵に特有の味が消費者に届かなくなる。酒蔵としても酒造家という、一種の工芸品の作者としての造り甲斐がなく、企業努力をしなくなる。加えて、買い手である大メーカーの言うままに酒を造っていればよかったので、蔵の本来の持ち味はどんどん失われていった。

  • 酒米配給制は昭和43年度米まで続いた。

    f:id:ochimusha01:20180608064009j:plain

昭和32年1957年)、宝酒造がビール業界に参入。ビール業界の日本酒市場圧迫が始まる。

f:id:ochimusha01:20180608033950j:plain

  • 余裕ができファッションに関心が向き始めた日本人に対して、「お米は太る。パンでスタイルを良くしましょう」といった、科学的根拠に乏しい宣伝も盛んになされた。経済企画庁の発表する生活革新指数も、国民生活の「革新」の度合いを測るのに「穀物消費中のパン支出割合」が一つとして採用された。このような中で日本人はしだいに主食を米からパンへと乗り換えていった。

  • すると、どうしても食生活そのものが和風から洋風になる。肉、食用油、乳製品の消費が急増し、料理と合わせる酒も、日本酒から洋酒へと変化していった。

  • このような背景から1950年代後半は洋酒、とりわけ気軽に飲めるビールの伸長がめざましかった。 昭和32年(1957年)宝酒造がビール業界へ参入し、昭和34年(1959年)日本麦酒からサッポロ缶ビールが発売された。当時はまだスチール缶であったが手軽さが受け、ビールは瓶から缶で流通する時代に入っていき、やがて自動販売機で手軽に入手できるようになる。このことはのちに1980年代、日本酒のシェアが急速にビールに奪われていく素地となった。

    f:id:ochimusha01:20180608135045j:plain

昭和35年1960年10月1日、政府によって昭和14年(1939年)4月に定められた酒類の公定価格が撤廃され、酒の値段は市場原理に沿って決められるようになった。というのも、この頃には既に酒類市場は飽和に達しつつあったからである。瓶や缶など手軽な容器の浸透と、潤沢な供給の実現によって「飲みたいときに飲みたいだけ飲める」世の中になっていた。

f:id:ochimusha01:20180608144446j:plain

  • こうなると酒類市場の大きさは、人間の飲む能力、もっと言えば、摂取したアルコールを消費者たちの肝臓が生理的に分解するスピードをある意味で上限とし、あとはその市場規模の中でのシェア争いとなる。人々の欲求とともに無限に需要が伸びていく可能性が語られる、たとえば今日のIT産業とは根本的に性質を異にする市場であった。

昭和36年1961年)、日本人の米の総消費量がついに減少へと転じた。

  • 実態に合わない食糧管理制度は、かつての米不足とは正反対の、深刻な米あまり現象を招き、その結果減反政策が実施された。これによって雄町、穀良都、亀の尾など優秀な酒米もしだいに栽培されなくなり、多くの品種が絶滅していった。のちに消費低迷期を迎える日本酒業界は、すでに内実が空疎な状態になっていたのである。

    f:id:ochimusha01:20180608144940j:plain

昭和37年1962年)、酒税法が大幅に改正され、それまで「雑酒」と呼ばれてきた中からウィスキー・スピリッツ・リキュールの名が初めて分類上の名称として清酒・焼酎・ビールと並べられることになった。いわば日本の酒文化のなかにこれら洋酒を認知する手続きであった。

  • またこの改正によって、酒税は申告によって納税するよう改められた。明治時代に30%前後だった、酒税の歳入に占める割合はすでに12%前後にまで下がっており、もはや国家にとって酒税は主たる歳入源ではなくなっていたからである。さらに下って昭和54年以降は5%前後で推移していくことになる。

昭和39年1964年)「ワンカップ大関」が登場し酒の消費形態が変化した。これは平成時代の「ワンカップ地酒ブーム」の起源でもある。

f:id:ochimusha01:20180608145554j:plain

昭和43年1968年)、酒造米の配給制度がようやく終わりを告げた。

  • 昭和45年(1970年)、古米や古々米などの在庫が増加の一途をたどったため、政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした米の生産調整を開始した。これによって未納税取引は割高につくようになったため、やがて減少していく端緒となった。また、そのため多くの酒蔵が近代化促進計画の元で転廃業や集約製造への参加を余儀なくされた。

  • 酒蔵の近代化とはすなわち、もっと工業的にコスト削減をめざすということであった。その一環としてこのころ昭和40年代、「短期蒸し理論」という製法理論が編み出された。

  • これは、酒米処理の蒸しの時間を、従来の約1時間よりも、米のデンプンがアルファ化する(糊状になる)までの20分程度に短縮するというものであった。燃料コストの削減から多くの酒蔵がこの理論を採用したが、これではデンプン以外の成分で、蒸すことによって変成するタンパク質などが処理されないため、製成酒は鈍重に仕上がってしまう。けれども、大量のアルコール添加をして三増酒にすることを前提としているので、鈍重さは問題とされなかった。

  • 蒸しの節減・省略はさらに進み、やがて別の工場で蒸し最初から糊状になっているアルファ化米や、白米にデンプン糖化酵素剤を加えて溶解させる液化仕込みが開発された。これら新技術の登場は、たしかにコスト削減には役立ったが、外硬内軟といった蒸し米の基本を踏んでいないために酒質はさらに低下せざるをえなかった。

昭和46年1971年)、日本人の洋食化を物語る象徴的な年。

f:id:ochimusha01:20180608135329p:plain

  • マクドナルド1号店が銀座にオープンし、稲の減反政策が本格化した。ビール業界では朝日麦酒から「飲んで、つぶして、ポイ」のアルミ缶が登場し、四社寡占(この年でキリン60.1%、サッポロ21.3%、アサヒ14.1%、サントリー4.5%)の体制が定着した。

  • 1月に、いわゆる外圧に押し切られた形でウィスキーの貿易自由化が行なわれ、飲用に供するすべての酒は数量や取引金額の制限なく輸入できるようになった。これは日本の酒類業界に不快なダメージを与えた。なぜなら、1880年代の欧化政策以来、政府は数々の優遇措置をもって国民に洋酒を紹介し、国産洋酒の生産や消費を促してきたわけだが、その延長線上にやってきたのは結局「そろそろ舌になじんだころだろうから本場、外国産の洋酒をどんどん買ってくれ」というべき状況だったからである。

  • この貿易自由化を皮切りとして、やがて洋酒の輸出国は、日本の従価税のかけ方では輸入酒に運賃や保険料の分まで税金がかかってしまうとして、アルコール度数に応じて課税するという西洋諸国の税制に日本も変更するようさらなる要求をしてくることとなる。そして、その変更が昭和時代後期の消費低迷への重要な伏線となっていく。

    f:id:ochimusha01:20180608144203j:plain

昭和47年1972年)、ワインが急伸しはじめ、同50年に甘味果実酒の出荷数量を越え、ワインブームと呼ばれる時期へと入っていく。

f:id:ochimusha01:20180608143205j:plain

  • ワインもまたこのころからバブル経済の時期にかけて、着実に日本酒のシェアを奪っていくことになる。

    f:id:ochimusha01:20180608141647j:plain

昭和48年1973年)、日本酒の消費が減少へと転じる。何か原因となる決定的事件がこの周辺に起こったわけではない。これは昭和12年(1937年)以降、もしくはもっと古く大正時代以降の小さな変化や事件の重層的な積み重ねの結果であり、構造変化が目に見えるかたちとなって現れたのがたまたま昭和48年であったに過ぎない。

各分野の消費のピークとその背景は以下のようにまとめることができる。

(1)《日本酒時代》ピークは1973年――第1次石油危機に見舞われた1973年までの高度経済成長期に全盛期を迎えたのが日本酒。アルコール度数は15度前後とやや高め。右肩上がりの売り上げ拡大期に成績を競い合っていた猛烈サラリーマンは、夜な夜な強めの日本酒を飲みながらストレスを発散し、明日への英気を養っていた。

(2)《ウイスキー時代》ピークは1983年――1971年のウイスキー輸入自由化を背景にした舶来ウイスキーブームに加え、飲みやすい「水割り」が流行するようになると、1980年代にウイスキーが全盛期を迎える。バーやスナックでは「ボトルキープ」も普及し、ステータスシンボルとして上昇志向の強い男性社会にうまくマッチして消費が伸びた。

(3)《ビール時代》ピークは1994年――戦後、日本酒やウイスキーとともに「定番」として飲まれていたビール。アサヒ「スーパードライ」(1987年)やキリン「一番搾り」(90年)など苦みや渋みを抑えた飲みやすいビールがヒットし、90年代前半にピークを記録する。

(4)《赤ワイン時代》ピークは1998年――1997~98年にテレビ番組でポリフェノールの効用が宣伝されたことから一時的に赤ワインブームに火が着いた。

(5)《焼酎時代》ピークは2006年――イメージ刷新した焼酎が価格が手ごろでおしゃれな新しいお酒として受け入れられ、市場が大幅に拡大する。2003年には本格焼酎(乙類)ブームで焼酎のお湯割りが日本酒の熱かんの代替として飲まれるようになり、03年には課税数量で日本酒を上回り、06年にはピークを迎えた。

(6)《酎ハイ・ワイン時代》ピークは2015年――価格が手ごろで飲みやすい酎ハイや女性にも好まれるおしゃれなイメージのワインの市場が拡大し、日本酒やビール、ウイスキーから市場を奪ってゆく。近年、ウイスキー市場でソーダ水などで割ったハイボールがブームになっているのもこの傾向に沿った動き。

  • それまで小さな要因が蓄積するあいだに、同時代的に警鐘を鳴らす者が皆無だったわけではない(参照:低迷からの模索)が、結論から言えばそういう者たちは当時は圧倒的な少数派で、脚光を浴びるには至らなかった。

  • さらに、日本酒の消費低迷とは、ひとり日本酒のみの問題ではなく、焼酎・ビール・ウィスキー・ワインなど競合するすべてのアルコール飲料との市場シェア争いという観点なくして分析することができない。

    f:id:ochimusha01:20180608141956j:plain

    f:id:ochimusha01:20180608142038j:plain

    f:id:ochimusha01:20180608142203j:plain

    f:id:ochimusha01:20180608142240j:plain

同年、昭和30年(1955年)以降ずっと減少していた焼酎の消費が、日本酒とは逆に増加に転じる。また、二年前(1971年)にはウィスキーの貿易自由化が発表され、前年(1972年)にはワインブームが始まっている。貿易自由化された輸入ウィスキーの消費はこの後十年で約20倍になった。

同年、本来「ポートワイン」とはポルトガルで製造される葡萄酒を意味する言葉なのでポルトガル政府から抗議等があったり、商標権の問題を抱える事になったりしたので名称を「赤玉スイートワイン」に改める。

 全体像を俯瞰すると、背景としてこんな感じの時間軸が浮かび上がってきます。

E・H・カー「歴史とは何か(What is History?、1961年)」 - Wikipedia

初版はケンブリッジ大学出版局から刊行された。1961年にケンブリッジ大学で行ったG.M.トレベリアンに関する講演に基づく。「歴史は現在と過去の対話である」という文章は引用頻度が高い。

この中で、カーは「客観性」のみで歴史を記述しようと試みた近代歴史学を否定した。特に「進化としての歴史」を主張するアクトンが名を挙げて批判されている。また、歴史の記述の中には著者による歴史観や経験にもとづいた「主観性」が入り込んでおり、その主観性が入り込んでいることを歴史家は慎重に受け止め、それとともに、その主観性がどこに含まれているのか(つまり著者がどのような歴史観や考え方をしているのか)を見極めなければならないとする現代歴史学の立場を表明した。

本書は(アナール学派の初期の重要な代表者の1人であるフランスの歴史学者)マルク・ブロックの『歴史のための弁明』と並んで、現在でも歴史学における基本的なテキストの一つとして用いられている。
*以下の列記においては、とりあえず後期ハイデガーいうところの「集-立(Gestell)システム」としての近代国家、すなわち「(理論上国家的資源の全てを最後まで動員する事が要求される)総力戦を戦い抜けるだけの国民や国土の統合」の成立過程を扱うがこれもまたある種の「歴史観=主観性の抽出」という事になる。「食卓の仮想化過程の抽出」は、このプロセスと密接な関係を有しつつ、別の主観性に立脚するから要注意。

  • 古代から中世にかけての歴史は、概ね全てが「辺境から現れた屈強な宗族が新たな支配階層として君臨するも、その力の源たる結束力を文弱化の過程で失い、また新たな挑戦者に打倒される」王朝交代史観で説明出来てしまう。

  • そんな循環史観と近世を峻別するのは「大量の火器を装備した常備軍が中央集権的官僚制が徴税によって維持される主権国家」の建設が始まっているか否かとされる。最初の一歩を踏み出したのは中華王朝の一つ宋(960年〜1279年)とする説もあるが、いずれにせよ後を追った筈の神聖ローマ帝国 / ハプスブルグ君主国(800年 / 962年〜1806年 / 1804年〜1916年)も、オスマン帝国1299年〜1922年)も、ムガル帝国1526年〜1858年)も、ロシア・ツァーリ国 / 帝政ロシア1547年〜1721年 / 1721年〜1917年)も遂には自力達成出来なかった。

    *フランスの絶対王政や日本の幕藩体制やアメリカの合衆国体制もまた、これを受容する為に壮絶な内戦 / 国家改造を経る必要があった。

    *こうした歴史展開の最大の犠牲者は、まさに「暗黒時代」と揶揄される事もある欧州中世の停滞状態から大航海時代への飛躍を遂行したポルトガル海上帝国スペイン王国だったのかもしれない。なにしろ両国は、そこまで先鋭的でありながら「(国民国家の前段階たる)主権国家」を志向する発想にすら辿り着けなかったのだから。

    要するにここで要求されたのは後期ハイデガーいうところの「集-立(Gestell)システム」、すなわち「(理論上国家的資源の全てを最後まで動員する事が要求される総力戦を戦い抜けるだけの国民や国土の統合」である。そういえば移行に失敗した国々の多くは、大航海時代の到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋に推移した際(急激な人口増加に伴い、新世界からの作物が普及するまでの間、食糧の供給力不足状態に陥った)西ヨーロッパの先進地帯への食糧供給地帯として栄え、その過程で再版農奴制を受容したが、これを契機とする思考停止が仇となった形だった。とはいえ、歴史のその時点においては、太平洋三角貿易の覇者となった大英帝国がとりわけ先進的だった訳でもない。またドイツのユンカー階層の様に、それが必要とされたタイミングでは、あっけなく再版農奴制を手放せた例もあるからややこしい。

  • いずれにせよ、最後の不可逆的一押しが19世紀後半における「産業革命導入が必然的にもたらす大量生産・大量消費スタイルが、消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層から産業自身の担い手へ推移した流れ」および総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)開始の引き金を引いた第一次世界大戦1914年〜1918年)であった事実は揺るがない。そもそも総力戦体制時代なる歴史区分そのものが、元来「第一次世界大戦によって大損害を被った欧州が、それ以前の経済規模まで回復して国際的影響力を取り戻すまでの復興期」と定義されている事を決して忘れてはならないのである。

    *逆をいえば「欧州が国際的存在感を喪失した」総力戦体制時代における日本やアメリカやソ連における動きは、また異なる形で注視に値する。例えば第一次世界大戦特需を背景とする日本での自由主義の盛り上がりとか。1960年代アメリカを席巻したヒッピー運動とか。

とはいえ、日本も太平洋戦争敗戦で大被害を被りましたから「需要が飽和した」1960年代まではしっかり「復興期」なのです。丁度境目に存在したのがスポ根ブーム前後?

食卓の仮想化Virtualization)」は、まさにこうした歴史的状況を背景に起こったといえそうですなのです。例えば戦後日本で進行した(米不足を米国から輸入した小麦で補った事に端を発する)洋食化の進行と、さらにこの分野における米国独占状態を破ったオーストラリア小麦の挑戦… 

グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」主題歌"The Greatest Show"の「Circus」を「Udon」に置き換える…

*「Udon」…フランス人はこれを「ウドゥーン」と発音する。

"Ladies and gents, this is the moment you've waited for (woah)"の部分
日本のみなさん、ドモAustraliaです(woah)
"Been searching in the dark, your sweat soaking through the floor (woah)"の部分
暗闇模索の日々はおしまい(woah)
"And buried in your bones there's an ache that you can't ignore"の部分
アメリカ小麦粉、市場を独占
"Taking your breath, stealing your mind"の部分
溜息か〜ら、息を飲め
"And all that was real is left behind"の部分
現実は過去に

"Don't fight it, it's coming for you, running at ya"の部分
抗うな、解放の訪れ
"It's only this moment, don't care what comes after"の部分
違和感など、すぐ消えるだけ
"Your fever dream, can't you see it getting closer"の部分
君もすぐ夢中になる、だって求めてた答えだから
"Just surrender 'cause you feel the feeling taking over"の部分
諦めて身を委ね、そして受け入れる

"It's fire, it's freedom, it's flooding open"の部分
火加減、水加減、お好みで
"It's a preacher in the pulpit and you'll find devotion"の部分
寸胴の中身ぐらぐら
"There's something breaking at the brick of every wall it's holding"の部分
噴きこぼれててく、誰も防げない
"All that you know, so tell me do you wanna go?"の部分
さぁ出来た、どう食べたいんだ〜?

"Where it's covered in all the colored lights"の部分
食べたいものだけ食べる
"Where the runaways are running the night"の部分
それが経済原理
"Impossible comes true, it's taking over you"の部分
不可能が可能に、そして受け入れる
"Oh, this is the greatest show"の部分
ああ真っ白なUDON
"We light it up, we won't come down"の部分
そう広まると戻らない
"And the sun can't stop us now"の部分
これが経済原理
"Watching it come true, it's taking over you"の部分
夢が本当に、君も夢中に
"Oh, this is the greatest show"の部分
ああ真っ白なUDON
"It's everything you ever want"の部分
あ〜素敵な全て
"It's everything you ever need
素敵な全部
"And it's here right in front of you"の部分
それが今ここに
"This is where you wanna be (this is where you wanna be)"の部分
これを君、食べたかったんだ
"It's everything you ever want"の部分
あ〜素敵な全て
"It's everything you ever need"の部分
素敵な全部
"And it's here right in front of you"の部分
それが今ここに
"This is where you wanna be"の部分
これを君、食べたかったんだ

BBCの番組で”I am Wolverine”を歌ってくれたヒュー・ジャックスマンさんだから頼み方次第では(ギャラ次第では)歌ってくれないでもない? それよりヒュー・ジャックスマンさんのボーカロイドを開発した方が手っ取り早いとも? 

詳しい分析は次回以降。 この発想の導入、案外このサイトのこれまでの投稿内容に想像以上のコペルニクス的展開を持ち込みそうな予感がしてます。