諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【Reality is Real】ただずっとそこにあり続けてきた脅威としての「Bad Trip感覚」について。

あ、このBad Trip感ですね、分かります…

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2045年のシンギュラリティ技術的特異点問題」自体にはあまりリアリティはないけど「Bad Trip感覚」自体は、ただずっとそこにあり続けてきた脅威なんですね。

そういえば19世紀末にはボルドー出身のフランス人写真家ウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugène Atget, 1857年〜1927年)が「画面内に主人公不在の風景写真」を撮影して悪魔主義者の烙印を押されたりしています。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 写真がもっと好きになる。菅原一剛の写真ワークショップ。

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908夜『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン|松岡正剛の千夜千冊

もともとベンヤミンは「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである」ということに関心をもっていた。

個人の内部性と集団の外部性を問題にしたのでは、ない。逆である。個人の外部性と集団の内部性に関心をもったのだ。それがベンヤミンの「集団の夢」なのだ。

ベンヤミンが一貫して、個人よりも、こうした「集団の夢」に関心をもちつづけたことは、近現代思想のレパートリーではかなり特異なものである。なぜなら近代社会ではやっと個人や自我が歴史や社会と対応して、その確立と懐疑に向かえたからだ。それなのにベンヤミンは20世紀の半ばに向かっても、むしろ19世紀の集団が夢みた痕跡の解明にこだわった。それはヘタをすれば資本主義が商品や製品に託した幻影のようなものの追慕になりかねない。

けれどもベンヤミンはそれをした。そしてその資本主義社会が19世紀の都市の隅々に投下したファンタスマゴリ(幻像)に、今後の社会がそれ以上のものを付け加えるのは不可能ではないかというほどの原型の羅列を見た。あとは「複製の時代」になるだろうと予想した。

これはアナクロニズムだろうか。ぼくはそうは思わない。このような思索態度や記録態度こそは、これからやっと重視されるだろうと思われる。

ベンヤミン以降の時代、それは大戦後の社会ということになるのだが、どんな場合でも集団よりも個人が重視されていく。まして集団に排除された個人や集団に埋没した個人については、その集団の意義を無視してまでも擁護されていくようになった。ベンヤミンはそれとはまったく逆の方向に歩んでいた戦時者だった。

これはアナクロニズムだろうか。ぼくはこの点についてもそうは思わない。ベンヤミンにとっては「配列」と「布置」こそがすべてであって、そこから何が抽出され、そこに何が引用されたかが最大の問題なのである。個人とはその抽出と引用の質量の代名詞であったのだ。

このことが示唆する意味は、ベンヤミンが若い頃から書物を偏愛し(これは予想がつくが)、それ以上に装幀に稠密な好奇心をもっていたことにあらわれている。ベンヤミンにとって書物とは、それが見えているときと、それが手にとられるときだけが書物であったからである。その書物の配列と布置と同様に、ベンヤミンには都市が抽出と引用を待つ世界模型に見えた。

しかし、書物も都市もそれを「外側から内側に向かって集約されたもの」と見るか、それとも「内側が外側に押し出されたもの」と見るかによって、その相貌が異なってくる。

思えば遠くにきたもんだ?