諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【事象や言語ゲームの地平線としての絶対他者】「ガラス製のコサック熊」の謎について。

この「ガラス製のコサック熊」に流行の兆候を感じる…

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 とりあえず先鞭をつけておきます…

案外「(長らく遊牧民文化と接してきたウクライナ発祥のコサック」と「(森深きロシア文化の象徴ともいうべき」って接点が少ないの…

そもそもコサック概念自体が以下の様な完全に分裂した多様で多態的な諸概念から構成されているからややこしいのです。

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内面性を一切備えてないただひたすら「豪胆で残虐」「野蛮でエキゾチック」な叙事詩の英雄的存在プーシキン大尉の娘1836年)」やトルストイコサック1852年〜1863年)」などで描かれたコサックは、ロシア貴族の目に映ったコサックであり、バーベリ「騎兵隊1926年)」に描かれたコサックは、インテリのユダヤ人から見られたコサックだった。これら外部の観察者(一定の内面をもった小説的な主人公)に観察された対象としてのコサックは、ただひたすら「豪胆で残虐」「野蛮でエキゾチック」なステレオタイプに従って行動するばかりで読み取られ得る内面性を一切備えていなかった。またウクライナ出身のゴーゴリが民族的叙事詩として描いた「タラス・ブーリバ1836年)」におけるコサックの描かれ方もこの枠組みを超えるものではなかったのである。
*次第に欧州を席巻していったケルト人起源説やフランスの民族主義的教育にインスパイアされる形でゲルツィンら当時の帝政ロシアのインテリ達が構想した「スラブ民族主義」の産物。という事は「叙事詩の主人公の様に一切の内面性を有さない貴族主義的英雄」を理想視したニーチェの超人思想とも深く関わってくる。

プーシキン「大尉の娘(Капитанская дочка、1836年)」 - Wikipedia

ロシア帝国時代に実際に発生した争乱であるプガチョフの乱(1773年〜 1775年)に取材し、ドン川流域に住む豪族(カザーク、いわゆるコサック)たるドンスキーエ・カザーキ(ドン・コサック)出身の脱獄囚が、不審死を遂げたとされる皇帝ピョートル3世の名を騙り、ヨーロッパ・ロシア辺境地域で各地のカザークや農民(農奴)、非ロシア人(バシキール人およびキルギス人など)を率いて起こした反乱の顛末を同行したロシア貴族の視点から描いた。

ゴーゴリ作「タラス・ブーリバ(Тарас Бульба、1834年)」

ロシア・リアリズム散文の祖」とされるウクライナ出身の作家ゴーゴリ1809年〜1852年)が17世紀の実在の人物に取材した叙事詩歴史小説
*「ロシア・リアリズム散文の祖」にしては民族主義に取材した作品が多い印象。そしてここに「ロシア民族主義」と「ウクライナ民族主義」の混合が始まる…

時は17世紀後半、ウクライナのコサックの隊長タラス・ブーリバには、オスタップとアンドリイという二人の息子がいた。二人は共にキエフにあるギリシャ正教の神学校を卒業して故郷に帰ってきた。次男のアンドリイはキエフで、ポーランドの総督の令嬢に恋心を抱く。しかし兄弟が帰ってきた故郷では、コサックは異教徒たち(主としてカトリック、時にイスラム、そしてユダヤ)との戦いに明け暮れていた。彼らは父と共にザポロージェのセーチ(キエフの東南にあるコサックの本営地)へ向かう。

そこでの訓練の後、彼ら3人はザポロージェのコサック隊のメンバーとしてポーランドへ向かった。ポーランドカトリックを信仰する異教徒の国である。ポーランド南西の町ドゥブノを包囲したコサック隊は、じりじりと戦いの輪を狭める。かつて憧れた令嬢がその町にいることを知ったアンドリイは、ある夜ポーランド側に身を投じ、彼女を救って敵方の一員としてコサックとの戦いに挑む。しかし父親にみつかり、森の中に追い詰められる。彼は最期に誰かの名を呼んだ。『が、それは祖国の名ではなく、母の、あるいは兄弟の名でもなく---美しいポーランド女の名前だった。タラスは発射した。』

その直後、兄のオスタップはポーランド側の捕虜となり、タラスも重症を負って倒れる。味方に介抱されて傷を癒したタラスは、オスタップがワルシャワへ送られた事を知り、自分も密かにワルシャワへ向かう。そして広場で行なわれた捕虜の処刑を、変装したタラスは見守る。オスタップは責苦にあい、『ついに力も尽き、絶望に襲われて叫んだ、「お父さん、どこにいます?聞こえますか?」「聞いているぞ!」静まり返ったあたりじゅうに声が響き渡り、百万の群集はいっせいに震えあがった。騎馬の兵士たちの一隊が突進してきて、群集のあいだをくまなく捜索しはじめた。-----が、タラスはもういなかった。』

復讐に燃えたタラスは自分の隊を率いてポーランドの至る所に出没し、多くのカトリック寺院と町を焼き払い、クラコフに迫ろうとさえした。しかしついにポーランド軍につかまり、火あぶりの刑に処せられる。彼が仲間のコサックに向かって最期に叫んだのは次の言葉だった。

『さようなら諸君!わしを思い出してくれ、春になったらまたここへ来てくれ、また大いに暴れてくれよ!さあ、はじめたらどうだ、ポーランドの悪魔め?この世に何かコサックの恐れるものがあると思うのか?待っておれ、やがてきっとお前たちは正教たるロシアの信仰がどんなものか知るときがくる!今でさえもう遠近(おちこち)の諸国の民がそれを感じているのだ、ロシアの大地からロシア自身の皇帝が立ち上がるだろう、そして彼に屈服せぬような力は世界じゅうのどこにもないだろう!…』
*そう、ややこしい事にウクライナは歴史上「ルーシ=ロシア文明発祥の地」でもあるのである。なのでムソルグスキー展覧会の絵(1874年)」も、様々なロシア的事象の奥底の探索を経て「キエフの大門」に至る構成を選び取っている。
ムソルグスキー「展覧会の絵(露: Картинки с выставки; 仏: Tableaux d'une exposition、1874年)」 - Wikipedia


*だがルーシ文明といったらヴァイキング時代(Viking Age、800年〜1050年)に活躍したヴァリャーグ(ルーシ原初年代記によれば北海と黒海の間を往復し、860年から880年にかけてノヴゴロド公国キエフ大公国したとされる冒険商人集団)に起源を有するともされている。そこまで遡ろうとすると民族的自尊心が邪魔をするのがスラブ民族主義のややこしいところだったりする。

トルストイ「コサック(Казаки、1852年〜1863年)」

モスクワでの無気力な生活に疲れた青年貴族オレーニンは、チェチェン人と対峙するコーカサス辺境での軍隊勤務を志願する。その地はコサックの自由な精神に溢れており、美貌のコサック娘マリヤーナとの恋が彼の内面を変えてゆく。その一方で「豪胆で残虐」「野蛮でエキゾチック」なコサックの生活が写実主義の手法によって冷徹に描写される。

倫理の追求と感性の誘惑との間で揺れ動き、放蕩の末に自然に憧れたトルストイ自身の青春の集大成とも。またこの作品が発表された背景には2月/3月革命(1848年〜1849年)以降の民族主義の盛り上がりを危惧した帝政ロシア1863年7月18日にヴァルーエフ指令を公布してウクライナ語での言論活動を禁じた為、コサックが母語で文筆活動を行なえない皮肉な状況が生じた事があったという。

バーベリ「騎兵隊(Конармия、1926年)」

オデッサ商人出身のユダヤ人インテリだった著者が1920年夏にタス通信の前身であるロスタ通信の特派員としてポーランドに向かい、第一騎兵隊に従軍した際の体験を元に書き上げた作品。前線で起きた残虐な出来事や様々な兵士の人格が簡潔な文体で記述され、一見グロテスクな印象を受けるが、凶暴な事件は相反する繊細な魂もまた作中に存在することを暗黙のうちに証明している。発表当時大きな反響を呼び、従軍記者時代のバーベリの上官だったブジョーンヌイはバーベリ、そして彼を賞賛したゴーリキーを攻撃する文を発表している。

バーベリは特にギ・ド・モーパッサンに傾倒し、駆け出し時代のエッセイの中でも彼を自らの文学的理想像に挙げている。無名時代に発表したエッセイ『オデッサ』においても閉塞的な状態に陥っている旧来のロシア文学からの脱却と、明るく輝く太陽の描写、生命力に満ちた世界を構築できる「ロシアのモーパッサン」「文学のメシア」による新たな文学の開拓を唱え、自分自身がこうした存在にならんと宣言している。しかしロシア政府からその作品を公序良俗と乱すものだと判断され、処罰を受ける寸前の状態に追い込まれて断筆を余儀なくされる。
*なるほど、確かにその作風には普仏戦争(1870年〜1871年)の渦中においてフランス一般市民が垣間見せた残忍なまでの自己中心主義・偽善を描くモーパッサン「脂肪の塊(原題: Boule de Suif、1880年)」などの影響が見て取れる。そういえばモーパッサン自身も兵卒として普仏戦争に従軍し、厳しい敗走を体験しているのだった。
モーパッサン「脂肪の塊(原題: Boule de Suif、1880年)」 - Wikipedia

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1917年にロシア革命が勃発すると陸軍に志願入隊し、ルーマニア方面に出征。1917年末にチェーカーに入隊するもマラリアに罹って1918年除隊。その後はチェーカー、文部人民委員会、食糧徴発隊、ユデーニチ討伐隊、第一騎兵隊に勤務し、1920年にはセミョーン・ブジョーンヌイ指揮下の第一騎兵隊に記者として従軍。「キリール・ヴァシーリエヴィチ・リュートフ」なるロシア人名を名乗って素性を隠し、「赤い騎兵」紙への戦況の報告、前線のコサック兵の政治教育を行った。そして従軍記者としてガリツィア、ヴォルイニといったユダヤ人が多く居住する地域を転々としたが、ポーランドからの解放を待ち望んでいたコサック兵が行った残虐な行為を目の当たりにし、革命自体に疑問を抱くようになる。

オデッサ物語(1924年〜1925年)」や「騎兵隊(1926年)」によって作家としての名声を確立するも、当時から既に「ブルジョア人道主義」「個人的な作風」を新聞・雑誌から攻撃され始めていた。1928年から開始された第一次五カ年計画の翌年ごろから共産党は文学に対する指導を強め、党は「社会の要求」を果たすことを作家に求め始めたのである。彼の娘のナターリヤが残した記録によれば、この時期に党が多額の報酬を提示して農業集団化やユダヤ人のソ連社会への同化を讃える創作を依頼したものの「宮殿で創作はやれない」と断っている。家族が西側の世界に亡命したこともバーベリの立場を危ういものにした。

1930年にはさらにウクライナ旅行中に強制的な農業集団化とクラーク(富農)の絶滅が農村にもたらした残虐な現実を目の当たりにし、内縁の妻アントーニナ・ピロシコヴァに密かに個人的な考えを打ち明けている。「ウクライナから過去に与えられていた恵みは失われた。ウクライナを襲った飢饉とわれわれの国土全体で行われている村落の解体によって」。

そしてヨシフ・スターリンソ連全てのインテリゲンチャを統制下に置き、全ての作家や芸術家に社会主義リアリズムの受容を強要する様になると公然と敵視される様になり、1940年には「トロツキズムテロリズムオーストリアとフランスのスパイ」なる罪状でNKVDに逮捕され銃殺された。ただし逮捕後の詳細が明らかになったのは1990年代初頭にソ連が崩壊して以降だった。


②(人間的内面性どころか、ある意味人間らしい容貌すら備えてない虐殺遂行マシーンソ連エイゼンシュテイン監督の手になる「戦艦ポチョムキン露Броненосец «Потёмкин»、英Battleship Potemkin、1925年)」における「コサック虐殺隊」や「アレクサンドル・ネフスキーАлександр Невский、1938年)」における「(ロシア侵略を目論むドイツ騎士団」といった形で一連のソ連プロパガンダ映画において映像化 / 定式化された。
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セルゲイ・エイゼンシュテイン監督「戦艦ポチョムキン(露Броненосец «Потёмкин»、英Battleship Potemkin、1925年)」

第1次ロシア革命20周年を記念して製作された共産主義プロパガンダ映画。主要な役以外は素人(艦隊の水兵やオデッサ市民など)が演じ、エイゼンシュテイン監督自身も神父役で出演。またオールロケで撮影され、記録映画のような手法がとられている。

1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を題材とするが、黒海艦隊の多くの艦が反乱に同調する(実際は数隻のみ)、「オデッサの階段」場面において市民がコサックによって一方的に大量虐殺される(そんな史実は存在しない)など現実との乖離が著しい。その一方で当時のソ連の映画人が提唱したモンタージュ理論を確立した作品として知られ、エイゼンシュテインが唱える「アトラクションのモンタージュ」などといった独創的なモンタージュ理論を実践しており、世界各地で大きな反響を受けるとともに、後の映画人にも多大な影響を与えた。


エイゼンシュテイン監督「アレクサンドル・ネフスキー(Александр Невский、1938年)」

ウラジーミル大公国の大公アレクサンドル・ネフスキーが北方十字軍を撃退したチュド湖上の戦い(1240年)の映画化。1939年に締結された独ソ不可侵条約に悪影響を与えることを避けるため、1941年まで小規模な上映にとどめられたが、独ソ戦が勃発して以降はむしろ対独プロパガンダの一環として大々的に上映された。

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この作品を著名にしたのはフルフェイスの仮面の下に素顔を完全に隠したドイツ騎士団の徹底的なまでの非人間的な描かれ方であり、その影響はジョージ・ルーカス監督映画「スターウォーズ・シリーズ1977年〜)」における銀河帝国兵士ストーム・トルーパー(Stormtrooper)の造形にまで及んでいる。

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*実際、その後ポーランド王国との政争に破れ解体に追い込まれたドイツ騎士団をどれほど悪く描いても誰かから文句を言われる事はない。その騎士団長の家系が皇統となったドイツ帝国第一次世界大戦敗北を契機に王政を廃絶している。

*ここで興味深いのが、ここまで徹底した人間性の剥奪がむしろ観客の心に「絶対に裏で過度の抽象化がなされている」なる疑念を呼び込む事で、実際莫言原作・張芸謀監督映画「紅いコーリャン(紅高粱、1987年)」は中国山東省に侵攻した日本軍のて徹底的なまでの非人道的行為を淡々と描きながら(ほぼ確信犯的に)「いやむしろ、ここまでやったのは日本兵ではないだろ?」と憶測を呼ぶ構成となっていた。ソレルが「暴力論(Reflexions sur la Violence, 1908年)」において提言した「権力(フォルス)への対抗手段としての暴力(ヴィオランス)」は、こういう形でも顕現し得るのである。だからこそ彼のノーベル文学賞受賞を中国共産党は素直に喜べなかったという話も。

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*またこの辺りの間隙を利用してストーム・トルーパーなるコンテンツも様々な展開を繰り広げていく展開を迎える。

*そのエイゼンシュテイン監督すらスターリンの「今度は私の大粛清を正当化せよ」なる権力者としての命令に従い切れず失脚を余儀なくされていった。エンターテイメント業界の政治への迎合はかくも困難に満ちているのである。

③冷徹な現実的政治家として、ロシア革命Российская революция / Russian Revolution、1917年)がむしろ「コサック帝政ロシアの軍事的主力」の引き剥がしによってのみ成功すると信じていたレーニンが着手した社会主義的リアリズム路線。あえてコサック階層をプロレタリアート大衆と規定し、民主集中制への併合を狙った。文学作品としてはミハイル・ショーロホフ「静かなドンТихий Дон、1926年〜1940年)」の世界観が対応。
*この辺りの解読については白井聡「未完のレーニン」が実に優れていた。どうして今はあんな下らないパヨクに成り果ててしまったのか…どうせなら「むしろレーニンは頭脳明晰なボルシェビズムのイデオローグだったからこそ、あれだけの悪行を為せたのだ」なる結論に至った旧共産主義圏の「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」に突き抜けて欲しかった…

ミハイル・ショーロホフ「静かなドン(Тихий Дон、1926年〜1940年)」 - Wikipedia

第一次世界大戦ロシア革命に翻弄された黒海沿岸のドン地方に生きるコサック達の、力強くも物悲しい生きざまを描いている。1965年のショーロホフのノーベル文学賞受賞ではこの作品の評価が大きく影響している。スターリンの愛読書だったといわれる。
*日本語における題名は、文語で『静かなるドン』とも書かれる。なお、新田たつおの漫画『静かなるドン』はタイトルこそ本作を意識しているものの、内容・テーマともに本作とは何の関係もない。これは、小林信彦の『唐獅子シリーズ』で最初に使われたギャグからきたものといわれている。

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中農コサックであるメレホフ家を中心に物語は展開する。物語の多くの部分はメレホフ家の次男のグリゴーリー・メレホフを中心に描かれるが、その他の家族のものが一時的に中心になる場合もあれば、愛人のアクシーニヤ、主人公とは立場を異にするボリシェビキのブンチュークや貴族のリストニーツキーが中心となる場合もある。

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  • メレホフ家はドン地方のビョーシェンスカヤ近在のタタールスキー部落に住んでいる。次男のグリゴーリーは平和な部落の生活には飽き足らずに隣家の主婦アクシーニヤと出奔し、貴族の館で下男として働く。第一次世界大戦がはじまると前線に送られ、人と人が殺しあう様に衝撃を受けると同時に、戦友から新しい社会主義的な思想を吹きこまれる。

  • 現在の政治的な体制に不信を感じたグリゴーリーは一時は赤軍に身を投じて士官にまで出世する。ところが休暇を取って故郷に戻っているうちに情勢は急変し、ドン地方の赤軍はコサックの反革命部隊に大打撃を受け、幹部を含めて多数が捕虜となり、大きな公開処刑が行われる。グリゴーリー自身も赤軍に身をおいていれば処刑されたであろうが、帰宅中だったために部落のコサックとともに反革命の立場でこの公開処刑に立ち会うことになる。

  • この後、グリゴーリーは部落の大部分のコサックの世論に従う形で反革命の立場で将校として赤軍と戦うことになる。一時は赤軍に対して優位に立ったものの、次第に勢力を強めていく赤軍の前に劣勢が明らかになって行く。末期には南部に展開していた旧権力者階級の率いる白衛軍と合流するが、旧権力者階級は革命が進行したこの時点に至ってもコサックたちを対等な話し相手としてみなしていないことがわかり、グリゴーリーおよびコサックたちはその態度に非常な幻滅を感じる。

  • やがて、戦局が不利になると白衛軍の幹部たちは黒海から外国に退去してしまう。グリゴーリーは船に乗る一歩手前で考えを変えて踏みとどまり再び赤軍に身を投じる。最後には赤軍からも信用されなくなったグリゴーリーは見つかれば逮捕されてしまうことを覚悟で故郷の家へ辿り着く。

  • 以上のグリゴーリーを中心とした物語の本筋の他に、ブンチュークを中心とした中編と呼べる規模の物語や、リストニーツキーやミシカ・コシェヴォイの話も複雑に絡まりあう。これらの話はお互いに独立しているのではなく関係しあいながら進行する。ただし、主人公のグリゴーリーと準主人公のブンチュークが直接対面するシーンは1度しかない。

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本作の特徴はリアルに描写されたコサックたちの性格や生活の様子、および個性豊かな登場人物たち、女性たち、また政治的な中立にある。
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タイトルにあるようにドン地方の自然や風俗は物語のいたるところで描写されている。また全編を通してドン川にしばしば言及がおよび、時には敵味方がドン川を隔てて対峙するシーンなどがありドン川の存在感が強い。

登場人物ではたとえば、主人公グリゴーリー・メレホフの父親は一家の生活を切り盛りするたくましい人物であるが必ずしも善人ではなく、戦争が始まると占領下の町で略奪に参加したりもする。ただし、この父親はどこか憎めない性格として描かれている。他にもグリゴーリーの元友人で、後に赤軍に参加し主人公と決定的に対立するミシカ・コシェヴォイや、グリゴーリーの愛人であり一時は駆け落ちまでするアクシーニヤ、アクシーニヤの夫でメレホフ家と反目するステパンなど多彩である。

政治的中立については、社会主義国であるソ連の作家であるショーロホフが社会主義革命の初期の時代を描いているにもかかわらず、中立の姿勢が貫かれていることは特筆すべきである。作中では資本主義陣営・社会主義陣営など様々な政治的立場の人物が登場はするが、どの政治的姿勢をとるべきであるとかいうことには一切触れられていない。このことは発表当初のソ連国内でも指摘されたという。ただし、主人公のグリゴーリー・メレホフや準主人公のブンチュークなどが政治的な思索をする場面はある。それでも、それらの考えは正しいという前提でもなければ、物語が進行していくにつれ容易に覆されるものもある。

なお、タイトルにある「静かな」というのはドンの美称のようで、作品中でも「ドン」というべき場合に「静かなドン」という場面が何箇所かある。「静かなドン」と並んで隣接する地方も「美しきクバン」、「波高きテレク」などと呼ばれるシーンがある。

平松 潤奈 「ミハイル・ショーロホフ『静かなドン』におけるコサック ―その主体化と解体―(2006年)」

コサック・ナショナリズム…「帝政ロシアの特権階層」から「民族主義」へ

周知のように、コサックとはもともとは逃亡した農民や都市民がモスクワ公国やポーランドの辺境に形成した自治的な集団であるが、17 世紀末あたりから皇帝権力によって徐々にその自治を奪われていき、19 世紀には完全にロシア帝国の統治システムに組み込まれていたとされる。しかし 1917 年の 2 月革命で帝政が崩壊し、コサックはツァーリ体制の一環としての社会的地位を失った。それとともに非常に短期間のうちにコサック・ナショナリズムが高揚し、コサック自治への動きが活発化していく。

『静かなドン』で描かれるドン・コサックに関して言えば、ピョートル大帝の治世以来開かれていなかったコサック総会круг が 200 年ぶりに再開され、コサックの頭目アタマンは、ツァーリの任命によるのではなく総会によって選出されるという自治制度も復活する。

ドン地方にはもちろんコサックだけが居住していたわけでなく、非コサック住民が半数以上を占めており、臨時政府のもとでは、コサック/非コサックにかかわらない一般大衆の政治参加形態の組織化が促された。しかし革命以前にロシア皇帝に従属していたコサック軍団は、総会を機に自らをドン軍団政府と名乗って、武力を背景にコサックの自治独立へと動きだし、一般的な行政組織(ドン執行委員会など)からのコサックの分離を進める一方で、コサックに限らない住民全体に及ぶ行政権を行使していく。

このように革命期のドン地方では、コサック・アイデンティティを強調する政治的・社会的な動きが急激に顕著になっていくが、だからといってコサック集団は決して一枚岩的な存在として自己主張をしていたわけではなく、「コサック」という単一のアイデンティティは、諸々の政治的立場が押し進めたレトリック、歴史家の言葉を使うならば「コサック・ナラティヴ」の産物にすぎなかった(上述のようなコサック軍団政府への同一化を求めたのは、もちろんコサック社会の支配層である)。実際、階層分化や南北による地域格差の拡大、そして第一次世界大戦に出征中の若年世代と家に残った老年世代との政治的対立など、この時期のコサック社会には多くの亀裂が走っていた。しかしコサック社会における異なる階層において、それぞれ異なったかたちではあれ、「コサックであること」が何らかの政治的・社会的要求が生じるときの梃子となって働きはじめ、それがコサックたち自身のみならずコサック外部からも認知され、実効力をもっていったことは重要である。帝政の崩壊によって、それまで明確であったコサックの法的地位が突然消失し、分裂した状況が剥き出しになったからこそ、コサック・アイデンティティを統合力として求める動きが必要とされたのだ。

しかしコサックの古い制度が復活したとはいえ、コサック・ナショナリズムイデオロギーは困難な状況にあった。ピーター・ケネスが述べているように、「結局コサックは独立した言語と独自の文化をもった民族ではなく、単なる特権的な利益集団にすぎなかった。コサックたちは何世紀にもわたって彼らが分離していたことを強調する歴史を必要とし、さらにはロシア人民との関係性をはっきりさせるような自分たちの『ナショナリティ』の定義を必要としていたのだ」。

社会主義リアリズムと「コサック大衆の主体化」とボリシェヴィキイデオロギー

『静かなドン』のテクストは、一面ではまさにこのような革命期のコサック・アイデンティティの問題を扱っている。小説でも、コサック集団、そしてとりわけ主人公グリゴリーがどのようにコサックへと主体化していくかが語られるが、ここでも主体化の物語は、それを物語ることの困難、つまりコサックを「コサックらしく」あるいは「コサックであることに自覚的なコサックとして」提示することの困難を示しているように見受けられる。コサックをコサックらしく描くということは、ある意味では単純なことのようでもある。文化が生み出してきたステレオタイプに則ったコサック像を踏襲すればよいのだ。勇敢に闘い、略奪や暴行を繰り返し、無分別や残虐さを発揮するという典型的なコサック・イメージの再生産は、『静かなドン』においても行われている。しかしそれはほとんどこれまでのコサックもの小説のパロディの域に達しているという見解もある。そして注意したいのは、そのような野蛮でエキゾチックなコサック像は主に、コサック外部の視点から見られたコサック像だということである。プーシキンの『大尉の娘』やトルストイの『コサック』などで描かれるコサックは、ロシア貴族の目に映るコサックであり、バーベリの『騎兵隊』のコサックは、インテリのユダヤ人から見られたコサックである。これら外部の観察者が一定の内面をもった小説的な主人公であるのに対し、観察されるコサックの側は、読み取られうる内面を必要としない対象となっていると言えるだろう。ゴーゴリの『タラス・ブーリバ』には観察する外的視点は登場人物や語り手としては現れず、主人公はコサック自身であるが、彼らは基本的に内面をもたず(アンドリイの恋愛の場面に若干見られるかもしれないが)、豪胆で残虐というコサック・イメージから生まれ、またそれを新たに生み出しもする、完結した叙事詩的登場人物である。

ショーロホフは『静かなドン』英語版への端書において、「イギリスでこの小説が『エキゾチックな』作品だと受けとめられていることに幾分当惑している」と記した。そして現実が「残酷に」描かれているとしても、それは粉飾でも「残酷なロシア人気質」によるものでものなく、革命と戦争が引き起こした生と人間心理なのだと強調する。また代表的なショーロホフ研究者であるヘルマン・エルモラーエフは、『タラス・ブーリバ』と『静かなドン』を比べ、前者がコサックの「慣習的イメージ」を提示し、「遠い過去を理想化する」叙事詩であるのに対し、「『静かなドン』は現代の生をまったくリアリスティックに表象する」と述べる。さらにエルモラーエフは、コサックに対して外在的な思想を介入させるトルストイの『コサック』との比較も行い、「ショーロホフはインサイダーとして、コサックの生そのままの姿に焦点を当てる」と言う。つまり『静かなドン』のコサックは、外部のまなざしによって生み出されたエキゾチックな対象でも、高尚に様式化された形象でもなく、ありのままの姿としてコサック共同体の内側から描かれているということだ。

しかし言うまでもなく、インサイダーとして(つまり自らを)ありのままに描いたり語ったりするということには根本的な矛盾がある。己を観察するためには己の外部に立つ必要があるし、己について語るためには、言語という他者と共有される外在的なものに従う必要があるだろう。だがこのような矛盾の生起こそが主体化という出来事なのであって、それはコサック・アイデンティティの創出される場においても見て取ることができる。

コサックが自らの属する集団について語るためには、自らが一旦その集団の内部にいるというポジションを放棄し、より普遍的な秩序を通過していなければならない。コサック自治運動の過程でコサック・ナラティヴを最も積極的に押し進めたのはコサック社会の上層部だとされるが、彼らはドンを長期間離れることも多く、カデット党員としてドゥーマに参加し、ロシアの国政レベルからコサックを見ていた政治家たちである。彼らはこうしてエキゾチックな存在として外部から見られるだけの対象的地位を放棄し、ロシア国家の統治の観点から語られる言語を獲得することによって、コサックの特殊性を称揚するイデオロギーをつくりあげていった。それゆえ彼らのコサック・ナラティヴはロシア愛国主義と一体化しており、コサックはロシア国家の秩序をもっともよく具現化するものとして語られることになる。

またこうした上層部のナラティヴに対抗するものとして革命期に顕著に見られたのは、共和主義者のナラティヴと呼ばれる立場で、第一次大戦で将校などに昇進した軍人コサックによるこの政治勢力は、コサックが皇帝権力に組み込まれる以前の「自由人」としてのコサック・アイデンティティを支持し、貧しいコサックを代表するとしつつ、ロシア全体と共通するより普遍的な政治組織形態、ソヴィエトや軍事革命委員会などにコサックを組み込んでいく方向を模索していた(エスエル左派に近く、最終的にはボリシェヴィキイデオロギーに取り込まれていった)。ここでもコサック・アイデンティティは、コサック社会外部の普遍的なものの介入を通してのみ主張されうるものになっていたと言えるだろう。

こうした観点から見て重要なのは、『静かなドン』で前面に出てくるコサックたちが、階級的にエリート層でもなく、明確な政治意識をもった共和主義者とも言えない、一般のコサック大衆であることだ。主人公のグリゴリーは、実在した共和国主義者をモデルにしているとはいえ、「ポジティヴな綱領をもたず」「内戦期間中ずっと中立を維持しようとしたドン・コサック中農層」の出身という設定である。『静かなドン』は、国レベルの公的政治のなかではっきり位置取りできないコサック、コサック外部に共通する言語で自らを語ることの難しい一般コサックが、己のコサック・ナラティヴを見つけていく過程を描こうとしているのである。

まずテクストは、一般コサックが己のコサック性を自ら発見することはないということをはっきり示している。それが象徴的に語られるのは、コサック部落の平和で自足的な生活のなかに「よその人間 чужой человек」、つまり外部が侵入してくるシーンである。この「よその人間」とは、シュトックマンというドイツ語風の名をもつ男で、鍛冶屋と称して部落に住み着くが、徐々に彼がボリシェヴィキから派遣されたアジテーターであることが判明していく。シュトックマンのもとに若く貧しいコサックたちが集まりはじめると、彼は詩集などと一緒に『ドン・コサック小史』を読ませ、彼らにツァーリ体制に対する反感を植え付けていくのである。コサック大衆がコサックについての書物を読み、自らの置かれた状況について理解していくという反省的次元は、こうしてコサック外部の視点によって初めてもたらされる。

ところでこのシュトックマンのエピソードの構図、つまり外部の介入によって無意識的な自然状態から意識的な状態へ移行するという物語は、ボリシェヴィキによって定式化され、クラークが社会主義リアリズム小説に共通するプロットとして見いだした啓蒙の図式である。そこでは、自らの社会的位置づけを自覚したプロレタリアートが革命の主体になっていくという図式が提示されているのだが、これはコサックのようにエキゾチックな対象としてしか表象されなかった存在が主体として語るようになるかどうかという、植民地主義にまつわる問題構成と相同的な図式と見ることもできるだろう。

たとえばシュトックマンの教えを受けたコサック、イワン・コトリャーロフは、

これまでに味わったことのない大きな熱い愛とともにある人物を思い出していた。彼はその人の指導のもとで自分の険しい道を探り出してきたのである。明日コサックたちに話さねばならないことを考えながら、彼はシュトックマンがコサックについて語った言葉を思い出した。シュトックマンはその言葉を、まるで帽子の上から釘でも打ち込むようにしょっちゅう繰り返したものだった。「コサックは本質的に保守的だ。おまえがコサックにボリシェヴィキ思想の正しさを納得させるためには、この事情を忘れるな」。(2:115)

貧しいコサックであるコトリャーロフは、革命主体としての覚醒を促される同時に、自らもその一員であるコサックがどのようなものか自覚させられるが(興味深いことに、このときコトリャーロフ自身はあたかもコサックではないかのように描かれているが、これが主体化という出来事を語るときに必要とされる外部性を示す徴なのだと言えよう)、両者の一致はもちろん偶然ではない。革命期ロシアにおける大衆動員という要請のもとでは、この二つの意識化は同時生起するほかない出来事だった。ロシア帝国内で隷属的な地位におかれていた非ロシア民族のナショナリストたちは、帝政が崩壊したこの機会に民族自治の可能性を求めて革命側につき、一般大衆のあいだにも民族主義的気運を浸透させようとした。一方ボリシェヴィキの側も、諸民族が従属してきた旧体制を転覆させて自らのイデオロギーを根づかせるために、抑えられていた民族アイデンティティの意識化を図っていくことになる。

だがコサックに関しては、コサック主体への覚醒と革命主体への覚醒とは簡単に一致しない。というのもコサックはケネスの述べるように一つの固有な民族ではないからだ。民族的にはロシア人と同じとされ、シュトックマンが言うように保守的で権力に絶対的に服属する国家主義者ともみなされながらも、「自由の民」「反逆の徒」というアナーキズムのイメージをもつという、抑圧/非抑圧という対立図式ではわりきれない中途半端かつ両極端な社会的位置づけにあったのが、コサックという特殊な集団である。『静かなドン』の歴史物語全体を通じての主題はまさに、この分裂したコサック概念に向けての主体化と革命的な主体化との交錯と不一致なのだ。

シュトックマンに煽動された貧しいコサックたちは、社会主義リアリズム小説の定式通りに圧倒的な外部の力(ボリシェヴィキイデオロギー)によって確実に革命主体へと目覚め、赤軍に入隊して死んだり社会主義建設に邁進したりするが、コサック成員みなが彼らのように素直にイデオロギーを受け入れ、順調に肯定的主人公へと育っていくわけではない。ボリシェヴィキイデオロギーを最初から受け入れないコサックや反発するコサックといった、ソ連体制に対するあからさまな敵だけでなく、外的な思想の受け入れに迷うコサックが現れ、むしろこうした「迷えるコサック」のほうが、中心的主人公となっていくのである。

*ところでどうしてレーニンのボルシェビキズムはスターリニズムに屈しざるを得なかったか? それは虚淵玄を脚本家に迎えた「仮面ライダー鎧武(2013年〜2014年)」における名台詞に集約される。「貴虎に教わらなかったのか? 何故悪い子に育っちゃいけないか、その理由を。嘘つき、卑怯者…そういう悪い子供こそ、本当に悪い大人の格好の餌食になるからさ!」

「スケール感の異なるギャング」として畏敬の念を集めたスターリン

スターリンが1907年6月にグルジアのチフリスで起こした「銀行強盗」は「プロローグ」で詳しく紹介されていますが、堅固な銀行支店にピストルを持った強盗団が乗り込むのかと思ったら、スターリン配下のギャング20人が、警官とコサック騎兵に囲まれた現金輸送中の馬車二台の下に手製の手榴弾愛称は「りんご」)を10個以上投げ込み、同時に警官・コサック騎兵を周囲から銃撃して無辜の通行人を含め約40人を殺害したという荒っぽいもので、殆ど西部劇の世界ですね。

「 最強の反体制運動家」としてのギャング

若き日のスターリンに関する研究はわずかである(若い頃のヒトラーに関する多くの研究に比べれば)。しかし、これは資料がきわめて少ないように見えたからだ。だが、実際はそうではない。彼の子供時代、そして革命家、ギャング、詩人、神学生、夫、行く先々で女性と庶子を見捨てる女たらしとしての経歴をよみがえらせる大量の生々しい新資料が、新たに解放された各地の公文書館に、とりわけ、これまでとかく軽視されがちだったグルジア公文書館に潜んでいた。

スターリンの若年期は謎に包まれていたかもしれない。しかし、それはレーニンやトロツキーの若い時代とまったく同じように並外れていたし、あるいはもっと波乱に富んでいたとさえ言える。そしてそれが彼に数々の勝利と悲劇のための、最高権力獲得のための身支度を調えさせたのだ。

スターリンの革命前の働きと犯罪は、知られていたよりもはるかに大きかった。銀行強盗、みかじめ料稼ぎ、ゆすり、放火、海賊行為、殺人(政治的ギャング行為)で彼が果たした役割を、初めて史料で証明することができる。これらの行為こそレーニンに感銘を与えたのであり、スターリンはソヴィエトの政治ジャングルの中ですこぶる有益な技術を仕込んだのである。しかしまた、彼が単なるギャングのゴッドファーザーをはるかに超えていたことも示すことができる。彼は政治的オルガナイザー、行動家であり、そして帝政側の治安機関に浸透する名人でもあった。大政治家としての名声が、皮肉なことに大テロルにおけるみずからの破滅に立脚しているジノヴィエフカーメネフ、あるいはブハーリンとは対照的に、スターリンは一身の危険を冒すことを恐れなかった。けれども彼がレーニンに感銘を与えたのはまた、年長のレーニンと対立し意見を異にすることを決して恐れない、独立の思慮深い政治家、精力的な編集者、ジャーナリストでもあったからだ。スターリンの成功の源となったのは、少なくとも一つには教育(神学校での)と街路での暴力行為の特異な結合である─彼はそのまれなる結合であって、「インテリ」と殺し屋が一身に同居していた。一九一七年にレーニンがその暴力的な、窮地に立たされた革命のための理想の副官としてスターリンを頼りにしたのは、不思議でもなんでもない。
*なるほどスターリンとはそもそも出自的に明治維新における岩倉 具視(1825年〜1883年)の様な「公家悪」的キャラだったのである。ただし日本の岩倉具視が「私邸内に賭場を営む不良下級貴族出身で安政5年の八十八卿列参事件(1858年)を組織した攘夷運動を支持するテロリスト(「孝明天皇を毒殺した」と指摘する歴史家まで存在する)」から出発しながらライバルに恵まれて突出せず、豊富な海外との接触経験を経て解明派に転じたのに対し、なまじ一人勝ちに成功したが故に猜疑心から「究極の自由主義専制の徹底によって達成される」ジレンマの実践者となってしまった辺りが大きく異なる。
岩倉具視(1825年〜1883年) - Wikipedia

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ボルシェビキズムやスターリニズムへの反動として現れたナチズムへの熱狂独ソ戦Eastern Front of World War II、1941年〜1945年)を契機とする悪名高きカミンスキー旅団(Kaminski-Brigade)の編成や、東欧や北欧のロシア抵抗史に由来するナチズム支持。
*その背景には、歴史的都合によってフィンランドウクライナといった辺境を容赦無く見捨ててきた西欧文明への不信感と反ロシア感情が存在する。

カミンスキー旅団(Kaminski-Brigade) - Wikipedia

その部隊を旅団長を務めていたブロニスラフ・カミンスキーに由来する武装親衛隊の一部隊。反共主義のロシア人、ベラルーシ人及び少数のポーランド人で構成されていた。その部隊章は、元から名乗っていたロシア国民解放軍(Русская Освободительная Народная Армия)の略号である「РОНА」(ロナ)のキリル文字の下にドイツ軍を象徴する鉄十字を配したもの。

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1941年6月22日、ドイツ軍は、独ソ戦の開始に伴い、ソビエト連邦に侵攻し広大な地域を占領。占領地には多数のソ連国民が取り残されることになった。彼らはドイツ軍の攻撃から逃れ、パルチザンとなって抵抗を続ける者もいたが、反ソ感情が強かったバルト地方やウクライナの住民の中には、ドイツ軍を「共産ロシアの圧政からの解放軍」と歓迎し、積極的にドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。
*映画「ハニンバル・ライジング(Hannibal Rising、2007年)」は、食料不足から食人も辞さなかった当時の東欧ギャングがナチス・ドイツと手を組んでフランス・ヴィシー政権下におけるユダヤ人狩りや、第二次世界大戦後の人身売買ビジネスに手を染めていったとする。

パルチザンは、しばしば食糧等の物資を調達するために周辺の町や村を襲撃していたことから、1941年10月にベラルーシのブリャンスク近郊で、親ドイツ派の地元住民によって、このような襲撃から町を守るための自警組織が結成された。これがカミンスキー旅団の起こりである。当初の指揮官はコンスタンティン・ヴォスコボイニク(Воскобойник, Константин Павлович)で、カミンスキーはその補佐を務めていた。自警組織が結成された直後、その町は、ドイツ軍によって自治権が認められた。そして、反共産主義者のロシア人やベラルーシ人も協力に訪れるようになり、自警組織は市民軍に拡大。

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1942年1月8日、隊長のヴォスコボイニクが任務中に殺害され、当時隊長代理の職にあったカミンスキーが市民軍の指揮を引き継いだ。この頃の主な活動は、ドイツ軍と共同での占領地の警備任務等で1942年末までに市民軍は、約10000名の兵力を擁するようになった。カミンスキーは、この市民軍に公式の名称として「ロシア国民解放軍」という名称を付け、戦闘部隊としてドイツ軍に協力することを申し出た。ドイツ側はこれを受け入れ、かつ一層の協力の報酬として赤軍から鹵獲した野砲36門及びT-34戦車24両を与えた。これにより解放軍の戦力は大きく増強された。

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1943年7月4日から開始されたツィタデレ作戦で解放軍は、ドイツ軍の補給ラインを守る戦いに参加する一方、この頃からパルチザン掃討、パルチザンの協力者摘発の任務に就くようになっていた。隊長のカミンスキーは、徹底した反共産主義者であったことからパルチザンに対して徹底した態度で臨んでおり、ドイツ軍の連絡要員は、解放軍本部の外の絞首台にぶら下がっている遺体を見たことを本部に報告している。

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その後、ツィタデレ作戦の失敗とソビエト連邦政府による恩赦等をちらつかせた宣伝工作により、解放軍からの脱走者が相次ぎ、解放軍は維持が不可能と思われる状況になり、ついには第2連隊長がパルチザンへの寝返りを画策した。これは事前に暴露され事なきを得たが、事情を知ったカミンスキーは連隊本部へ直接赴き、第2連隊長を彼の部下の目の前で処刑して解放軍の崩壊を防いでいる。解放軍は、構成員の多くを脱走により失ったため、後方地域に移動したが、その地域はパルチザン側の勢力地域であったため、かえって激しい戦いに巻き込まれている。このため、1944年初頭にはさらに後方地域へ移動、この時、強制的に集められたベラルーシ人の補充を受ける。1944年3月、ナチス・ドイツに忠誠を誓ったロシア国民解放軍は、正式に武装親衛隊に組み入れられ、同年6月には「カミンスキー特務旅団」の名称が与えられたが、その直後に「SS武装突撃旅団 RONA」に変更されている。そして、隊長のカミンスキーは親衛隊少将に任命されると同時に旅団長にも任命された。
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1944年8月、師団に昇格し、「第29SS武装擲弾兵師団」の名称が与えられた。また、同月に発生したワルシャワ蜂起では鎮圧のために動員されたが、虐殺、略奪、婦女暴行などをするばかりで、戦闘ではほとんど役に立たなかった。師団長のカミンスキーは同月下旬、銃撃を受けた車の中で他殺体となって発見された。親衛隊本部はカミンスキーの部下たちにパルチザンによる襲撃と説明、この直後師団は解散され、第29SS武装擲弾兵師団の名称は、イタリア人部隊に与えられることになった。残った師団の構成員は、第600歩兵師団に組み込まれることになったが、責任者のアンドレイ・ウラソフは、メンバーの選抜について厳密な審査を行っている。
*ある意味、本多勝一「中国の旅(朝日新聞連載1971年、単行本化1972年)」や「戦争と人間第3部(1973年)」などが伝えた「日中戦争中の日本軍は現地住民を略奪・輪姦・虐殺するだけの存在。その装備が旧式過ぎて戦争遂行能力はなく(米国からガーランドM1半自動小銃やブローニング自動小銃といった最新兵器の供与を受けたカンフーの達人揃いの)八路軍や(T34/85といったナチス・ドイツを叩き潰した未来兵器で武装した)ソ連戦車隊が現れるや否や、虫ケラの様に一方的に虐殺された」なる当時の中国共産党ソ連プロパガンダの大源流とも。

*こうしたプロパガンダ活動の背後には、さらにモンゴル世界帝国の様な「火器を大量装備した常備軍を中央集権的官僚制度が徴税によって養う」主権国家登場まで無敵を誇った遊牧民族集団の無敵性に対する盲目的恐怖の投影が見て取れる?

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UKR GEO MDA軍装のススメ:アゾフ連隊

アゾフ連隊は2014年5月5日、ATOに対応する形でウクライナ内務省特殊治安維持大隊(BPSMOP)に、"アゾフ大隊"として発足しました。その後、9月17日に"大隊"規模から"連隊"規模に拡大、更に11月12日、BPSMOPから国家親衛隊正規部隊に格上げされます。アゾフ連隊はマリウポリに拠点を設け、対テロ作戦南部地域を中心にATO各作戦を実行、8月のロシア連邦軍介入では真っ先にロシア正規軍との戦闘に突入した部隊の一つでもあります。アゾフ連隊は別名「чорний корпус(黒い軍団)」とも呼ばれています。現在、アゾフ連隊には司令官Andriy Biletsky中佐の元、約800人の国家親衛隊員が所属していると思われます。

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アゾフ連隊の部隊章。アゾフ海の大波、ヨーロッパオカルト信仰における黒い太陽、ルーン文字があしらわれています。一部の方はピンとくるかもしれませんが、このマーク、ナチスドイツ武装親衛隊第2SS装甲師団"ダスライヒ"のマークと非常に酷似していることが問題となりました。

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これが全く関係ないとは言い切れず、アゾフ連隊隊員の中でナチ式敬礼を行うもの、ヘルメットにハーケンクロイツやSSのマークをペイントするもの、ハーケンクロイツの旗を掲げるものがいるなど、非常にネオナチに影響を受けた隊員がいることは事実だと思われます。実際、司令官のAndriy Biletskyは、民族主義組織”パトリオット ウクライナ”の指導者でもあり、また、ネオナチ的側面を持つ右翼政党"自由"の支援を受けています。とはいえ、ネオナチといっても、ユダヤ人を攻撃対象としているわけではなく、実際、アゾフ連隊の創設に深く関わったオリガルヒ、Ihor Kolomoyskyiはイスラエル国籍を持つユダヤ人でもあります。

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ウクライナはもともと、中世時代にはキエフ大公国(ルーシ)として欧州最大の国家だった。いわゆるモンゴル来襲によって滅び、その後、14世紀以降は他国の支配下に入った。

1917年のロシア革命に伴い、ロシア帝国からの独立を宣言したが、第一次大戦後には赤軍と白軍(帝政ロシア)、無政府主義者らによる内戦の結果、ポーランドソビエト連邦支配下に置かれた。

1922年にはスターリンソ連に一共和国として組み込まれ、第二次大戦前には農民が飢餓状態になっても穀物を輸出にまわすというスターリンの政策によって大飢饉(ききん)が発生、数百万人が餓死した。これも、土地の国有化など共産主義に反対する農民の数を調整するための「人工的な大飢饉」だったとして、米国などは虐殺だとしている。

こうした状況下で第二次大戦が勃発。ソ連軍を電撃作戦で蹴散らし侵攻してきたナチス・ドイツの部隊は、ウクライナの少なくない人々に「ソ連を駆逐した解放者」として迎えられることになったとされる。

実際にはナチスウクライナの独立を認めず、むしろ戦争で国土が荒廃しただけだった。しかし当時は独立運動家らがナチスのSSに入隊するなど、反ソ連感情は消えることがなかった。武力でソ連を撃退したナチスのイメージは「アゾフ大隊」の構成員にも強く影響しているのは間違いない。

ユダヤ人虐殺の中心となった内務省SSと、前線でソ連軍と戦った武装SSとは別組織だったことに加え、ヴォルフス・アンゲルの印章は武装SSだけでなく、国防軍の部隊も複数用いていたこともあり、アゾフ大隊が“気軽に”部隊章などに取り入れた一因とみられている。

フィンランドでハカリスティと呼ばれる卍は、スカンジナビアやバルト諸国における古来からの幸運のシンボルである。スウェーデンの飛行家であったエリック・フォン・ローゼン伯爵はこれを自らのトレードマークにしており、ロシア内戦でフィンランドが独立を宣言したことを受けて、ハカリスティ入りの戦闘機を寄贈している。

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1918年に白地に青で描いたハカリスティがフィンランド空軍の公式シンボルとして採用されたほか、宝飾品や紋章などのデザインにもよく使用されていたが、第二次世界大戦が原因で禁止された。2007年に、ハカリスティが彫られた指輪が退役軍人向けのチャリティとして発売されている。

 かくして「事象や言語ゲームの地平線としての絶対他者」、すなわち民族主義的 / 国家主義的 / 無政府主義的ロマン主義と「恐怖の総合デパート」としてのとしてのコサックの全体像が浮上してくるという次第…