諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【東海岸の禁欲主義】【西海岸の快楽主義】アメリカ文化の極北「エミリー・ファッセルマンのウサギ」について。

内側の世界2 (蟻の行列) : 鳥会えず猫生活

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アリはなぜ行列をつくるの?

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蟻なる昆虫の一種に生得的に与えられたアルゴリズムなど、それ自体はそれぞれ所詮は単純極まりありません。それでもその見掛け上の振る舞いがしばしば到底そうは見えない様な高みに到達する様に映るのは、対応を要求されている現実の複雑さの反映だったりする訳です。

 社会生活を営む人間にも、案外そんな部分があるのかもしれません。

最近、アメリカにおける「深遠なる東海岸文化と「浅薄極まりない」西海岸文化の対比について考えさせられる機会が増えました。ところが「浅薄極まりない西海岸文化」のある種の極北がP.K.ディックやその弟子K.W.ジーターだったり「ニューヨーク・パンクの女王パティ・スミスが私淑していたのが「西海岸のカリスマ」Doorsの伝説的ボーカリストとして知られるジム・モリスンだったりするからややこしいのです。

特に経済人類学者の栗本慎一郎ポストモダン全盛期ともいうべき1980年代から1990年代にかけて引用しまくった以下を最近しばしば思い出します。

フィリップ・K・ディック「流れよ我が涙、と警官は言った(Flow My Tears,The Policeman Said、1974年)」- Wikipedia

ジェイスンが衣服を取りにいくと、ルース・レイが寝室の薄暗がりの中で乱れたままの、まだ暖かさの残るベッドの上にすわっていた。すっかり身じまいをして、いつもの紙巻きタバコを喫っていた。薄墨色の夜の明かりが窓から射しこんでいた。タバコの芯が、熱くチラチラと燃えるのが見える。

 「そんなものを喫ってると命取りだぞ」

 ジェイスンが言った。

 「だからひとり一週間ひと包みの割当てになってるんだ」

 「出てってよ」

 ルース・レイは喫うのをやめなかった。

 「しかしきみは闇で手に入れてるんだな」

 ジェイスンは一度彼女といっしょに一カートン買いにいったことがある。彼の収入をもってしても、その値段にはびっくりさせられた。しかし、彼女はまったく意に介していないようだった。どうやら予想していたようだった。自分の習癖がどのくらいにつくものか知っていたのだ。

 「そうよ」

 彼女は長すぎるくらいのタバコを肺の形をした陶器の灰皿に押しつけるようにして火を消した。

 「むだ使いをしてるんだな」

 「モニカ・ブッフが好きだったの?」

 「そうだ」

 「どうしてあんたがそんな気になれたか、わたしにはわからない」

 「愛にもいろんなのがあるんだ」

 「エミリー・ファッセルマンのウサギみたいにね」

 ルースはちらっと彼を見上げた。

 「わたしの知ってる女性でね、結婚して子供が三人いるの。子ネコを二匹飼ってたんだけど、大きなベルギー・ウサギを一匹手に入れたのね。すごく大きな後脚でピョンピョンはねるあれよ。初めの一カ月はウサギもてカゴから出てこなかった。わたしたちの見たところ雄だったの。ひと月たつとカゴから出てきて居間を跳び回るようになったわ。二カ月後には朝になると階段を昇ってきては、エミリーの寝室のドアを引っかいて彼女を起こすことを覚えたの。ネコたちとも遊びはじめたんだけど、そこで問題が起きたの。そのウサギはネコのように利口じゃなかったからなの」

 「ウサギのほうが脳ミソは小さいさ」

 「まあそうよね。とにかく、彼はネコたちにあこがれてね、そのやることはなんでも真似しようとしたの。しょっちゅうネコの寝箱を使うことも覚えたわ。自分の胸から引き抜いたふさふさした毛を使って、長椅子の蔭に巣を作って、子ネコたちに入って欲しがってた。でもネコは全然入ろうとしなかった。破局はさるご婦人が連れてきたドイツ・シェパードと追っかけっこをやろうとしたときにやってきたわ。このウサギはね、ネコやエミリー・ファッセルマンやその子供たちとこのゲームをやることを覚えたのよ。彼はまず長椅子の蔭にかくれていて、それから走り出してくるの。すごく早くぐるぐるかけ回るでしょう。するとみんなで彼を捕えようとするわけ。でもたいてい捕まえられなくて、彼はだれもついてこれないことになっている長椅子の蔭の安全なところに戻るのよ。ところがそのイヌはこのゲームのルールを知らないものだから、ウサギが長椅子の蔭に戻ったとき、そのあとを追いかけてウサギの尻のあたりにぱくりとくいついたのね。エミリーはやっとのことでイヌの口をこじあけて外に引っぱり出したわ。でもウサギはひどい怪我をしたの。怪我は治ったけれども、それからはイヌを怖がって窓ごしに姿を見ても逃げ出すようになったわ。そしてね、イヌにかまれたところはカーテンの蔭にかくすようにしてたのよ。そこに毛がなくなったものものだから恥ずかしかったのね。それにしても哀れを誘うのは、ウサギが──なんて言ったっけ?──自分の生理の限界に逆らって突進したことよ。ウサギであるという限界を物ともせず、ネコのようにもっと進化した生命形態になろうとしたのよ。対等な存在として、ネコたちといつでもいっしょにいたい、遊びたいと思ったのね。それしかなかったのよ、実際に。彼が作ってやった巣にネコたちは入ってくれないし、あのイヌはルールを知らずに彼を捕まえた。彼は数年生きたわ。でも、ウサギがそんなに複雑な性格に発達することができるなんてだれが思ったかしらね? あんたが長椅子にすわってると、彼は自分がそこに寝られるように、あんたにどいて欲しいと思うでしょう。するとあんたの体をそっと押すの。もしあんたが動こうとしないときには今度はかみつくのよ。そのウサギの強い願望をよく考えてみてよ。それから彼の失敗もね。小さな生命が努力したのよ。いつだって望みはないのにね。ウサギはそれを知らなかった、ひょっとすると、知っていてそれでも努力しつづけたのかもしれない。彼にはわからなかった、そうわたしは思ってるけど、ウサギはどうしてもやりたかっただけなのよ。それが彼の生きていることのすべてだったのよ。あの子ネコたちを愛してたからだわ」

 「きみは動物は好きじゃないと思っていたが」

 「いまじゃもう好きじゃなくなったの。挫折と敗北をいやというほど味わったんですもの。あのウサギみたいにね。ウサギはもちろん結局死んじゃったけど、エミリー・ファッセルマンは何日も泣いてたわ。一週間も。彼女の受けた打撃はわかったけど、わたしは巻きこまれたくはなかった」

 「しかし動物を愛することをすっかりやめてしまえば、きみは──」

 「動物の命はとても短いわ。いやになるほど短い。そうね、かわいがっていた生き物を失ったら、またその愛情を別の生き物に移すという人たちもいるわね。でも、それはたまらない。やりきれないわ」

 「じゃなぜ愛はすばらしいのかね?」

 ジェイスンは成人してこのかたかたの長い年月、このことを自分自身に関連してあるいはそれを離れてずっと考えてきた。いまもそれを身にしみて考えさせられていた。最近自分の身に起こったことからエミリー・ファッセルマンのウサギのことまで。この苦痛に満ちた瞬間まで。

 「だれかを愛し、やがて彼らは去る。ある日家に帰ってきて、身のまわりのものを荷づくりしはじめる。そこできみはきく。“〝いったいどうしたの?”〟って。彼らは“〝ほかにもっといい話があるんでね”〟そう言ってきみの生活から永遠にさようならだ。それからあと死ぬまできみは与える者はだれもいないのにその大きな愛情という塊りを抱えてまわるのさ。そしてもしその愛情を注ぐ相手が見つかったとしても、同じことがもう一度起こるんだ。それとも、ある日電話で“〝ジェイスンだ”〟と言っても、相手は“〝どなたですって?”〟と言う。そしてきみはいっさいがわかるんだ。彼らにはきみがいったいだれなのかわからないってことをさ。おれの思うには彼らはもともと知らなかったのさ。そもそもきみは彼らの心をつかんでなかったということだ」

 「愛というのはね、店で見かけた品物を自分のものにしたいと思うように、別の人間をやたらに欲しがるのとはちがうわ。それだったら欲望に過ぎないもの。それをあんたは、身のまわりも置いておきたい、家に持ち帰ってランプみたいにアパートのどこかにすえておきたい、そう思ってるのよ。愛というのは――」

 ルースはなにかを思い起こすふうに口ごもった――

 「燃えている家の中からわが子を救い出そうとする父親、子供たちを無事連れ出して自分は死んでしまう父親みたいなものよ。愛しているときはもう自分自身のために生きてるんじゃないの、別の人間のために生きてるのよ」

 「それがすばらしいことかね?」

 ジェイスンにはさほどすばらしいとは思えなかった。

 「愛は本能に打ち克つのよ。本能はわたしたちを生存競争に押しこんでしまう。キャンパスというキャンパスを包囲している警官みたいにね。他人を犠牲にして自分が生き残るのよ。わたしたちのひとりひとりが道をかきわけ登るのね。いい例を話しましょうか。わたしの二十一人めの夫のフランクのことよ。わたしたちの結婚生活は六ヶ月だった。その間に彼はわたしを愛さなくなって、ひどく惨めな気持ちになったのよ。わたしはそれでも彼を愛してたわ。彼とずっといっしょにいたいと思ったけど、それは彼には苦痛だったのね。それでわたしはあの人を自由にしてあげたの。わかる?そのほうが彼のためだし、わたしはあの人を愛しているからそれはしかたのないことだったの。わかるかしら?」

 「だがね、自己保存の本能に逆らうのがなぜいいことなんだい?」

 「わたしには説明できないと思ってるのね」

 「ああ」

 「自己保存本能は最後には負けるのよ。あらゆる生き物についていえることよ。モグラ、コウモリ、人間、カエルもね。葉巻を喫ったり、チェスをやるカエルだってそうよ。保存本能が試みたことはけっして達成できなくて、結局あんたの努力は失敗に終わり、死に屈服させられて、それで終わりよ。でももし愛があればあんたは消え去っても見守ることが――」

 「俺は消え去るのはいやだよ」

 「――消え去って、幸福感を抱きながら見守ることができるのよ。冷静で芳醇な思考の満足を覚えて、つまりこの上ない安らかな気持ちで、あんたの愛する者の生きつづける姿を見守ることができるの」

 「でも彼らだって死ぬんだ」

 「それはそうよ」

 ルース・レイは唇をかんだ。

 「愛さないほうがいいよ、何事もなくさずにすむためにはね。イヌとかネコとかのペットでもさ。きみが指摘したように――相手を愛してもそれは死ぬんだ。もしウサギの死がいけなければ――」

 そのときジェイスンは一瞬ぞっとした。イヌよりも大きな、不気味に迫ってくる敵の歯のあいだにくわえられ、血をしたたらせている、くだかれた女の骨と髪の毛がちらと見えたのだった。

 「でもその死を嘆くことはできるのよ」

 ルースは不安そうにジェイスンの顔をうかがいながら言った。

 「ジェイスン!嘆くのは人間、子供、動物が感じることのできるもっとも強烈な感情なのよ。それはすばらしい感情だわ」

 「いったいどうすばらしいんだ?」

 ジェイスンは声を荒げて言った。

 「悲しみは自分自身を解き放つことができるの。自分の窮屈な皮膚の外に踏み出すのよ。愛していなければ悲しみを感じることはできないわ。――悲しみは愛の終局よ、失われた愛だものね。あんたはわかってるのよ、わかってると思うわ。でもあんたはそのことを考えたくないだけなの。それで愛のサイクルが完結するのよ。愛して、失って、悲しみを味わって、去って、そしてまた愛するの。」

  • ジェイスン・タヴァーは「シックスこの世界におけるマッド・サイエンティストが生み出したデザイナー・ベイビーの第六世代)」で、その立ち位置が「アンドロイドは電気羊の夢を見るかDo Androids Dream of Electric Sheep?、 1968年)」のネクサス7と重なる。彼らは部分的能力に限って注目するならしばしば人間を超越する存在だが、人間そのものではないから人間なら本質的に備わっている何かが欠落している恐れがある。だが、その詳細について誰が的確に指摘し得るというのか?

    フィリップ・K・ディック「流れよ我が涙、と警官は言った(Flow My Tears,The Policeman Said、1974年)」- Wikipedia

    「わたしはフェリックス・バックマンだ」

     警察本部長は言った。そして自分の背後の開いているドアと廊下を示した。

     「オフィスに来てもらいたい」

     ジェイスンを先に立てて、広々とした、ブルーとグレーの淡い色彩の続き部屋に案内した。ジェイスンはまばたきをした。これまで警察機関の中でのこういった面を見たことがなかった。このような一面があるとは想像したこともなかった。

     やがてジェイスンは、信じられない思いで革張りの椅子に腰をおろし、スチロール材の柔らかい感触の中に背を埋めた。しかし、バックマンは上面の広い、不細工なくらいに大きなカシ材の自分の机の向こうに腰をおろさずに、薄手の上衣をしまおうと、衣裳戸棚の前でごそごそやっていた。

     「屋上で出迎えるつもりでいたんだが。夜分この時間には、サンタナ風がひどく吹くもんだから、それが瘻管にこたえてね」

     そう言ってからジェイスンのほうを振り向いた。

     「4D写真ではわからなかったなにかが見えるな。4D写真ではいつだって出ないんだが。とにかくわたしにとっては、まったく驚きだよ。あんたはスイックスだね?」

     思わずはっと警戒して、ジェイスンは腰を浮かした。

     「あんたもスイックスですな、本部長?」

     金冠をかぶせた歯を見せて──贅沢な時代錯誤だ──にっこり笑いながらフェリックス・バックマンは指を七本立ててみせた。

     警察官としてのこれまでの仕事の中で、バックマンはスイックスと出くわすたびにこのはったりの手を使ってきた。今度のように出会いが突然の場合にはとくにそれに頼った。これまでに四人のスイックスに出会っている。全員が結局は彼の言葉を信じた。これはおもしろいことだとバックマンは思った。優生学上の実験対象であり、秘密の存在であるスイックスたちは、自分たち同様に機密扱いのプロジェクトがその後追加されて存在するという主張に直面すると、非常にそれに引っかかりやすいようだ。

     このはったりの手を使わないかぎり、スイックスに対してバックマンは単に“〝普通人”〟に過ぎないだろう。そんな不利な立場では、スイックスをうまくさばくことはできないだろう。そこでこの策略だ。それによってスイックスと彼の関係は逆転する。そして作りなおされたその条件下で、さもなければとうてい手に負えないはずの人間たちをうまくさばけるのだった。

     スイックスが持っている実在の心理的優越感が、ひとつの実在しない事実によってガタガタと崩れる。バックマンはそれが大いに気に入っていた。

     一度時間のあったときにアリスに言ったことがある。

    「だいたい十分か十五分ならスイックスと張りあえるさ。しかしそれ以上長くなると──」

     バックマンは肩をすくめて、闇のタバコの箱をくしゃくしゃにした。まだ二本残ったままだ。

     「それから先はあの連中のとてつもない能力が勝ちを占めていくんだ。おれに必要なのはやつらのあの傲慢な頭の中をこじあけてやれる金梃子だよ」

     そして彼はとうとうその金梃子を見つけたのだった。

     「なぜ“〝セヴン”〟なの?」アリスが言った。

     「どうせペテンにかけるんだもの、なぜ八とか三十八とかって言わないのよ?」

     「虚しき誉を求むることはすな、だよ。過ぎたるは及ばざるがごとし、と言うじゃないか」

     彼はこんな言い古された過ちは犯したくなかった。

     「おれが連中に話すのは」

     きっぱりと彼女に言った。

     「あいつらが必ず信じると思われることだよ」

     そしてバックマンは結局その言葉の正しさを立証したのだった。

     「あの人たちがあなたの言うことなんて信じるものですか」

     「ちくしょう、信じるともさ!」

     バックマンは鋭くやり返した。

     「それは連中のひそかに抱く不安なんだ。すごく恐れてることなんだよ。連中はDNA遺伝子組み替え系統の六番めの系統だ。自分たちに対してそれができたのなら、もっと進んだことがほかの人間を対象にしても実施できるだろうと、連中は知ってるんだ」

    *この様に後期ハイデガーいう「集-立(Ge-Stell)システム」、すなわち「(その必要が生じた際には)特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」には、特定のそれのみに完全対応した個体はバージョン管理が可能となるという側面が存在する。

  • この物語のエピローグにおいて、結局ルース・レイはほどなく薬物の過剰摂取で死亡した事実が冷徹かつ事務的な口調で伝えられる。何人もの薬物依存症患者の死を看取ってきたP.K.ディックだからこそ集め得た、そうした人物の本音の集大成みたいなものとも。しかしジェイスン・タヴァーは彼女との邂逅から如何なる教訓も引き出せずに終わる。ならば我々「人間」はどうなのか?

    安倍吉俊灰羽連盟(Ailes Grises、アニメ化2002年)」に登場する「罪を知る者に罪は無い。では汝に問う。汝は罪びとなりや?」を連想させる問い掛け。

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ところで、私のこれまでの投稿の内容を整理するとこうなっている様です。
「諸概念の迷宮」の画像検索結果

  • 後期ハイデガーによれば「集-立Ge-Stellシステム」、すなわち「(その必要が生じた際には特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」には、必然的に(邪魔さえ入らねば)自然と顕現に至る「アレーティアἀλήθεια、Aletheia、真理)」の本質に逆らう側面が存在する。

    パルメニデス(BC544年頃~BC501年頃)

    古代ギリシャの哲学者で、哲学史上初めて「ある」とはどのようなことかについて論理的に問いかけた、エレア学派の創始者ギリシャの植民地だった南イタリアのエレア出身で、ピタゴラス学派のアナクサゴラスの弟子・クセノファネスから教えを受けて哲学の道を歩むこととなった。同じくピタゴラス派のアメイニアスからも教えを受けたとされる。クセノファネスやエンペドクレスに倣い、伝統的なギリシャ叙事詩(ダクテュリコス・ヘクサメトロス:dactylikos hexametros)をモチーフに著した『自然について』が断片的に残されている。これは女神が真理を語るとの体裁を採り、自分の思想が高遠なものであるため、人の口からではなく女神の口から語ってもらうのが相応しいと考えたとされる。

    『自然について』は2部構成であり、「真理(アレーティア)に従うもの」と「意見(ドクサ:思惑とも)」に分けられる。第一部の「真理に従うもの」では、「有」の概念について説いている。これは、それまでのミレトス学派アルケー探求を土台から否定するものであり、後の哲学的思索の流れに大きな影響を与えた。パルメニデスは、真の意味で「ある」ということは、他の何ものの助けもなく、それ自身で完全にあり、しかも永遠にあり続けるということと説いた。それ以外のあり方は中途半端で不純なあり方で、本来の意味で「ある」ものが無から生じてきたり、あり方が変化して無にかえったりすることは、本来の存在にはありえないこととした。こうしてパルメニデスは、アルケーと呼び得るのは不変不動の一者であり、更にそれは球形であると結論付けたのである。

    またパルメニデスは、我々が心理を知り得るのは正しく考えることによってのみだとも主張をした。考えるという作業は必ず何かについての思考であり、ないものを思考の対象にするのは不可能である。すなわち、正しく思考され得るものだけが本当の意味で存在し、我々が世界を知るためには、まず何よりも知ること自体に立ち返りそれを成立させる条件を考えなければならないとしたのである。これをパルメニデスは、「思考(されるもの)と存在(するもの)は同一である」との命題で表現をした。そして、思考のみを真理への道とみなすことで、感覚に映る現象がいかに多様で変化に富んでいようとも虚偽(思い込み)にすぎないと主張をした。これは、それまでのアルケーに関する思索を全面的に否定する発想である。

    例えばニワトリは、卵・ひな・成鳥と姿を変えるが、それは見た目が変化しているに過ぎない。変化しない「ニワトリである」との概念こそが本当の意味での「存在」であり、本当の存在とは変化や現象の背後にある永遠に変わらないもののことを言うとした。パルメニデスは、感覚に頼るべきではなく理性によって論理的に考えるべきだとし、論理的な考えを哲学史で初めて哲学に持ち込んだ人物なのである。後の人々はこの永遠不変のものを、現象の背後にありその現象を成り立たせているものとして「実体」との言葉で表した。

    第二部の「意見」では、世界には真の「有」のほかに人間の感覚の前に現れる様々な現象があるとしている。これらが絶えず生成消滅しているかのようにみえるのは感覚によるものとしながらも、それらを体系的に説明している。それによると様々な現象は2組の不変な要素の混合から説明され、全てのものは暖かいものと冷たいもの、即ち火と土の混合とした。暖かいものは「有」と結び付けられ、冷たいものは「無」と結び付けられたのである。これは、無は本来の存在ではないとした第一部の内容と矛盾しているものである。ただし、第一部が真理に従い必然的なことを確信するのに対し、第二部は事物のその時々の偶然的な外観に感覚的に惑わされて矛盾したことをいう愚衆の見解とされたといわれるため、パルメニデス自身の考えは矛盾していないのかもしれない。

    1495夜『ソクラテスと朝食を』ロバート・ロウランド・スミス|松岡正剛の千夜千冊

    古代ギリシア語の「真理」を意味する「アレーティア」は、「眠る・忘れる」を意味するレーティアの否定形である。「眠りを忘れる」ほうが真理に近づく方法なのだ。伏せられたものをいろいろな角度で布をめくってみること、そちらのほうが真理っぽい。 

  • 一方、実際の人間生活は普通、単一の「(それに向けての手持ちリソース総動員を許す様な集-立Ge-Stellシステム」に集約可能な形では成立していない。それで「認識上の遊び滲み)」の様なものが二時的に発生する。これを扱うのが「(後期ウィントゲンシュタインいうところの言語ゲームSprachspiel」であり「(ベンヤミンいうところのパサージュpassage」であり仏教における「縁起の世界」となる。

  • 啓典の民ユダヤ教キリスト教イスラム)が共有する「普遍史Universal history)」や、その反動として生まれたカール・マルクス史的唯物論Historischer Materialismus)などは、あえて後者としての「世界そのものの総体」を、あえて一つの集-立(Ge-Stell)システムとして認識しようとする「不可能への挑戦」に位置付けられる。このプロセスを「欠陥だらけの我々が何時達成されるか分からない完成に向けて仮想のバージョンアップを繰り返していく不断のプロセス」と認識するのが「私には道程こそが全てであって、目標などないに等しい」をモットーとするラッサールやベルンシュタインの方法論的修正主義であり、その意味合いにおける「仮想のバージョンアップによる漸進」を冷笑的に放棄してしまったのが文化相対主義Cultural relativism)」となる。

    普遍史(Universal history) - Wikipedia

    唯物史観 - Wikipedia

    フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」の概要

    豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。http://g01.a.alicdn.com/kf/HTB1qWgCIFXXXXa0XpXXq6xXFXXX3/%E7%A7%81%E6%9C%89%E8%B2%A1%E7%94%A3%E7%AB%8B%E3%81%A1%E5%85%A5%E3%82%8A%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%A3%85%E9%A3%BE%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC-%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%82%B9%E3%82%BA-%E3%81%AE-%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC-%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88-%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0-%E3%83%87%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96-%E3%83%91%E3%83%96-%E3%83%90%E3%83%BC-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3.jpg

    法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の「普遍精神Allgemeine Geist)」を唯一の源泉としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。
    普遍精神(Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志(volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ)法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。
    http://gutezitate.com/zitate-bilder/zitat-der-allgemeine-geist-der-gesetze-aller-lander-hat-sich-unverkennbar-die-aufgabe-gestellt-stets-jean-jacques-rousseau-127064.jpghttp://gutezitate.com/zitate-bilder/zitat-die-alleinige-quelle-des-rechts-ist-das-gemeinsame-bewusztsein-des-ganzen-volkes-der-allgemeine-ferdinand-lassalle-241770.jpg
    その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。
    http://ecx.images-amazon.com/images/I/51--qN-HuDL.jpg
    すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。http://pds.exblog.jp/pds/1/200709/24/21/a0071221_2303163.jpg
    ①神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
    https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTzbX9n9jeut1o9bm44L9k1y6X3X0ylpfeOogb-x0_IVPKzw5_0
    農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。
    http://www.tky.3web.ne.jp/~ashigal/ww1/kiso/pic/nodo.jpg

    ③ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
    http://mujaki666.up.n.seesaa.net/mujaki666/image/gahgahga.bmp?d=a0

    ④そして現在の世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面する事になっている。
    http://blog-imgs-64.fc2.com/g/i/a/gia44/fedora.jpg
    こうした思考様式は「ハノーファー王国1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツが受けてきた英国からの影響の総決算とも目される。

 

ここでいう「ルース・レイの愛」は後期ハイデガーいうところの「アレーティアἀλήθεια、Aletheia、真理)」や「中国古典における仁の理念」同様、こうしたシステムの枠組みの外側に存在する到達不可能な絶対他者だから厄介なのですね。
*「中国古典における仁の理念」…儒家は「人間を本来の姿に収める身分秩序意識の源泉(自然法法源)」としたが、「史記」の司馬遷は「(酷吏列伝に刺客列伝や遊侠列伝を対比させた様に)しばしば暴走する法への人間自身による人間らしさに立脚した抵抗」とした。もうこの時点で絶対矛盾が存在しており、特定の定義への収束が不可能なのは明らかだったりする。

おそらくこれに関しては、キルケゴールいうところの「時空間を超越した彼方で成就を待つイエス・キリスト」や宮沢賢治が理想した「(やはり同様に時空間を超越した彼方で成就を待つ法華経の久遠仏」の様に「理想としては放棄してはならないただし迂闊に真正面から目指すと死が訪れる何か」くらいにイメージしておくのが正しい生存戦略といえましょう。かくして現代人は「タフでなければ生き残れない。タフなだけでは生き残る資格がない」とか「絶望は死に至る病だが、実は闘病過程だけが人生」なんて方法論的修正主義に従ったモットーを掲げて生きる事を強要される展開に…