諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【シェークスピア史劇】「英国版ジャンヌ・ダルク」の罪深さについて

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中世の女性観というのは非常に残酷である。純潔性をことさら重視して身体の純潔性と魂の純潔性とを相互に補完させることを求める。一方で性的な暴力の危険は実に多く存在する。

「中世の司法は、ごく若い娘と聖別された処女の強姦を非常に厳しく罰する。しかし、抵抗しなかったり、叫んだり助けを呼ばなかったりした被害者は、合意しているとみなされる。もっともこの身体の純潔を防御するという点では、神は奇蹟によって処女たちを救う。」(コレット・ボーヌ「幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会」P152)

ゆえに、前述のジャンヌの戦友たちの証言は魂と身体の純潔性とが結びついた存在としてジャンヌを見ていた結果として理解できよう――ジャンヌに魂の純潔性を見ていたがゆえにジャンヌの身体に対する性的な欲求を、おそらく意図せず至極当然のこととして自ら抑えていた――そういう中世的心性が見え隠れする。このように一次史料をただ受け入れるのではなく当時の心性を考慮して読み解くというのは史料にあたる上での面白さの一つである。もちろん、復権裁判での供述の総体が導こうとしている方向が、その彼女の純潔性ゆえの異端判決の棄却であるという点も考慮しなければならない。

改めて 「ジャンヌ・ダルクはただの悪魔主義者の淫売で、処刑判決が下ると英国大貴族との不倫と妊娠を仄めかし助命を乞うた」としたシェークスピア史劇の罪深さが確認された形となった?
*逆に当時の中世的倫理観を共有しつつ「真逆」を狙った結果とも。

 ウィリアム・シェイクスピア史劇「ヘンリー六世 第1部(The First Part of King Henry the Sixth、1588年〜1590年頃)」 - Wikipedia

シェイクスピアの戯曲でも初期のもの。アルマダの海戦(1588年)でスペイン無敵艦隊を破って以来、イングランド愛国心は頂点に達したが、この愛国心が観客の史劇への関心を高めることになった結果である。
司馬遼太郎は「アメリカ素描(昭和60年,1985年)」の中で、この戦いを「ビジネス=後期ハイデガーいうところの集-立(Gestell)システムの勝利」と表現している。

「ビジネス」とは?

ビジネスとは素朴に言い直すと「家業」や「仕事」の事で、辞書を引くと商業、商取引、売買といった古代から存在する経済的定義がズラリと並んでいる。だけど今更誰が「貧しい羊飼いが、たまたま牝羊が仔を生んだので、知り合いの農民に小麦と交換で引き取って貰った」といった牧歌的風景をわざわざそう呼ぶだろうか。やはり今日的意味合いでのビジネスは一味違ってしまっているのである。

その今日的意味合いにおけるビジネスでは(軍隊なら戦闘に勝つ為、商社なら金儲けの為といった具合に)まず単純かつ強烈な目的意識が必要となる。そしてその実現の為に人々が機械の様に組織を編成されなければならない。以降は、その組織自体が目的達成の為に自らを機械化し、交換部品化し、参加者に部分としての義務を倫理付け、しばしば限定的判断権利まで付与する様になる。時代が変われば時宜に応じた最適策も刻々と変貌していくから、それへの対応も怠れない。
*最近の投稿で繰り返し言及している「後期ハイデガーいうところの集-立(Gestell)システム」そのもの。私にとっての初見はまさに司馬遼太郎のエッセイにおける「ビジネス」概念だった。

「ビジネス」が理解出来なかったスペイン王国ジェノヴァ商人

15世紀末までにレコンキスタを達成し、16世紀に「黄金世紀」と呼ばれる繁栄時代を築き上げながらた英国にアルマダの海戦で敗れたスペイン。「冒険者達の庇護国」として名を馳せ植民地維持を支え得るだけの大海軍と大陸軍を擁していたものの、元来レコンキスタを主目的として編成された農本主義的ビジネス集団(すなわち「政経分離」とは無縁の領主連合)であり、宗教戦争の枠内でしかまともに動かないという制約を抱えていた。その遠征事業も粗雑で個人的な冒険精神に依存し、組織として動くのを苦手とし、実質スペイン国王から私的に征服事業を請け負った冒険家達が世界中を帆走して植民地を獲得し、熊手で引き寄せる様に現地の財宝や特産物を掠奪して本国に持ち帰り続けただけに過ぎなかった。

ところでスペインの雇う船乗りには少なからぬ比率でジェノヴァ冒険商人が含まれ、新大陸を「発見」したコロンブスからしてそうであった。ポルトガルがアフリカを回ってインドに到達する西回り航路を開拓する際も大いに活躍している。この宗教や党争に熱しやすく、戦いの帰趨は個々の勇によって決まると信じ、一攫千金を夢見る請負制を好むという点でスペイン人やポルトガル人と同質のラテン気質の連中は十字軍を中東に運び、彼らが国家を打ち立てると癒着してレパント貿易の最初の独占者となった。しかしここでも最終勝利を収めたのは個人的功績を競い合うあまり内紛で自滅しやすい彼らの弱点を逆手に取ったヴェネツィア共和国ジェノヴァ人もまた、ここでいう「ビジネス」の意味が最期まで理解出来なかった人々と考えてよい。

スペインの無敵艦隊アルマダ)が軍艦こそ小粒ながら各部署が勇敢かつ組織的に動き、全艦隊がまるで一つの有機体の様に機動する英国艦隊に敗れた1588年は日本で言うと豊臣秀吉政権末期に当たる。そしてこんな極東の地でもスペイン・ポルトガル商人は撤退を余儀なくされ、代わって徳川政権初期の慶長18年(1633年)には英国東インド会社職員のリチャード・コックスが平戸に商館を開いたが、彼は国王の寵臣ではなく給料をもらって働くただの株式会社の社員に過ぎなかった。やがて同じ株式会社の社員であるオランダ商人に敗退するが、これもまた純然たる商戦の結果に過ぎない。

スペイン王国はチェリニューラの戦い(Battle of Cerignola、1503年)においてフランス騎兵とスイス槍歩兵の密集突撃を野戦陣地に篭る鉄砲隊を撃破。「火器を大量装備した常備軍を中央集権的官僚集団が徴税によって養う主権国家登場に先鞭をつけている。

また、その頭脳の中枢たるサラマンカ大学は、新大陸からの金銀の収奪が欧州に「価格革命貨幣経済が果てしなくインフレに見舞われ続けた結果、商業の影響力が急拡大する一方でフッガー家ジェノバ銀行家の様な旧金融階層や領主の様な地税生活者が没落を余儀なくされた)」を引き起こすと「貨幣数量説」を、コンキスタドールConquistador=15世紀から17世紀にかけてのスペインの新大陸大陸征服者、探検)のインディオ虐殺に対して非難の声が上がると「人類平等論」を実質上発明。ある意味、欧州の経済学と人道主義の基礎を打ち立てている。

*当時(スペイン王国の栄光を支えたポトシ銀山の枯渇を受けて)世界最大級の金銀輸出国となった日本でも価格革命は進行した。かくして江戸期の町人社会では既に現金を見る事なく為替で商業が動き、現物を見ずに信用で取引が動き、見張り台経由で遠隔地間を飛び交う種々多様な情報が様々な商品の市価を決定づける様になったのである。

 これだけ当時先進性を示したスペイン王国が欧州先進国群からの脱落を余儀なくされたのは、英国やフランスと異なり「国王及びその権力を支える中央集権的官僚団伝統的地方分権制度の維持に執着する大貴族連合の戦い」が大貴族連合側の勝利に終わったからだった。ハプスブルグ君主国やオスマン帝国も同様の経過を辿り、こうした諸国が(第一次世界大戦(1914年〜1918年)敗戦を契機に一掃される)「後進大国群」を形成する展開を迎える事になるのである。

*特にスペイン王国の場合(国王の中央集権的権威への対抗上)大貴族連合が「ローマ教会の庇護者」なる肩書きに執着し続けた事がこの流れを加速した。

  • 一般的にそれが執筆されたのは1588年から1590年にかけてとされているが、その創作時期には諸説があり、学者の意見は、『ヘンリー六世』三部作のうち最初に書かれたという説と、反対に最後に「前編(Prequel)」として書かれたという説に分かれている。
  • 劇作家ロバート・グリーン(Robert Greene)は、『ヘンリー六世 第3部』は1592年に書かれたと言及している
  • 研究者の中には、文体を引き合いに出し、『第1部』はシェイクスピアが単独で書いたのではなく、3人以上の劇作家チームで合作されたと主張しており、その中には、トマス・ナッシュ(Thomas Nashe)、ロバート・グリーン、クリストファー・マーロウがいたという。しかし、この説は18世紀・19世紀に作中におけるジャンヌ・ダルクの扱いが嫌われた結果であるという意見もある。

主に材源にしたのは、ラファエル・ホリンシェッドの「年代記Chronicles、1587年出版の第2版)」で、それが劇に「目標terminus ad quem)」を与えた。エドワード・ホールEdward Hall)の「ランカスター、ヨーク両名家の統一The Union of the Two Illustrious Families of Lancaster and York、1542年)」も参考にしたようで、研究者たちは他にも、サミュエル・ダニエルSamuel Daniel)の薔薇戦争を題材とした詩にシェイクスピアは通じていたのではと示唆している。

  • 基本的に年代順に描かれているが、劇的効果のために変更された部分もある。その変更は愛国的な理由からなされたように見える。おそらく1415年のアジャンクールの戦いイングランド人の間に、イングランド兵がフランス兵より優れているという考えを植え付けたせいであろう。

    *実際に戦いの帰趨を決定したのは「長弓の威力そのもの」というより、敵の密集突撃を無効化する為の野戦築城(突入方向と投入可能兵力に限りがある狭隘な地形に歩兵が携帯してきた木杭を隙間なく並べる)だった。そしてそれ自体は欧州諸侯軍がオスマン帝国軍と激突したニコポリスの戦い(1396年)におけるイェニチェリの振る舞いから着想されたと考えられている。この時も殲滅されたのは「猪突猛進を尊ぶ」フランス騎兵だった。しかしこの戦いでは勝利したイングランド軍も延々と続く戦乱の最中に(養成に多大な時間を要する)長弓兵を次第に失い(比較的容易に兵力補充が達成可能な)火器の導入に力を入れたフランス軍に追い詰められていく。

    アジャンクールの戦い(仏Bataille d'Azincourt、英Battle of Agincourt、1415年10月25日) - Wikipedia

    フランス軍の最重要課題は、下馬騎士とロングボウを持った弓兵の連携というイングランド軍の基本戦術を、いかに打ち破るかであった。1346年にクレシーの戦いで大敗して以来、彼らはその方法を模索していた。1356年のポワティエの戦いでは、フランス軍の騎士も馬から降りて戦ったものの、隊形が混乱して動けなくなり、国王ジャン2世が捕らえられる結果に終わっている。

    アジャンクールの戦いでは、フランス軍は中央に下馬した騎士と歩兵による大部隊を、左右に重装甲の騎兵部隊を配置した。フランス軍総司令官のドルー伯シャルル1世(英語版)とフランス元帥ジャン2世・ル・マングル(通称ブーシコー)が立案した作戦は、中央の大部隊で正面からイングランド軍を攻撃する間に、重装騎兵が敵背後に回り込んで弓兵を駆逐するというものだった。ロングボウによる射撃を無効化するために、重装騎兵は馬にも馬鎧を着せていた。

    こうしたフランス軍の作戦を、ヘンリー5世は捕虜からの情報で正確に把握していた。そこでヘンリー5世は、全ての弓兵に約1.8mの長さの杭を持ち運ぶように命じた。杭は両端を尖らせ、フランス軍の重装騎兵が来たときに、地面に撃ち込むことで騎馬突撃を難しくさせることを目的としていた。ヘンリー5世は杭を持ち運ぶ戦術を、1396年のニコポリスの戦いから着想したと言われる。ニコポリスの戦いでは十字軍の騎馬突撃にイェニチェリの弓兵が無数の杭を地面に打ち込んで対抗した。この戦術をヘンリー5世は発展させたのだった。ヘンリー5世はV字になるように中央に下馬騎士による部隊を、左右に弓兵による部隊を配置した。

    綿密な作戦を立てたドルー伯だったが、フランス軍の指揮系統は乱れていた。フランス軍が動かないことを観たヘンリー5世はイングランド軍を動かし、午前中半ばには弓の射程距離内であるアジャンクールの最も狭い場所まで前進した。ここでイングランド軍の弓兵は杭を打ち込み、その後に敵の軽率な行動を誘うように射撃を開始した。

    イングランド軍の弓兵の攻撃に対応して、フランス軍の重装騎兵が両翼から攻撃をはじめた。だが、狭隘な地形で待ち構えたイングランド軍に重装騎兵は当初の作戦の通りに回り込むことができなかった。泥濘状態だった地面と彼ら自身の重装備は騎行速度を鈍らせ、イングランド軍の敷設した杭と降り注ぐ矢に阻まれて、ほとんどの重装騎兵は反転して逃れるしかなかった。その結果、重装騎兵は徒歩でイングランド軍に向かう下馬騎士と歩兵の大部隊の進路を妨害し、混乱を生み出した。フランス軍の投射兵は活用されることなく、前衛の後ろに置かれていた。

    フランス軍の歩兵攻撃は無秩序かつ混乱状態にあったため、イングランド軍に損害を与えることができなかった。下馬騎士と歩兵の大部隊は遠距離ではイングランド軍の弓兵によって消耗され、近距離では待ち構えていたイングランド軍の下馬騎士によって撃退された。主力が敗れたことを観たフランス軍は逃走をはじめた。イングランド軍は弓兵ですらフランス軍本隊に押し寄せ、多くの貴族や騎士を捕虜にした。戦闘は1時間ほどで大勢が決したが、フランス軍の1部隊がイングランド軍の背後に回り込んで輜重車輌を略奪したため、ヘンリー5世は降伏したフランス軍の捕虜が再び戦闘に参加しないよう殺すことを命じた。その後は虐殺となり、イングランド軍の完全な勝利に終わった。

  • フランス人は愚かで破るのも簡単なように描かれていて、イングランドの敗退はフランスのせいでなく、内部分裂と貴族のつまらない喧嘩(グロスター公対ウィンチェスター司教、サマセット公対ヨーク公)が原因であるとほのめかしている。

    *こうした「戦えば負ける(あるいはあっけなく降伏する)」フランス軍事貴族への侮蔑は、後世における「Cheese-eating surrender monkeys(チーズを食べながら降伏するサル野郎ども)」概念の大源流ともなっている。このエスニックジョーク、実は(歴史的に親フランス派の拠点としてイングランドを長年苦しめてきた)スコットランドも一緒くたに皮肉ってる辺り、根が深い。

  • さらにシェイクスピアは、フランスの国民的ヒロインであるジャンヌ・ダルクを魔女・売女として描く。シェイクスピアに限らず、15世紀以降の入手可能な英語の文献ではジャンヌは同様に描写されている。ジャンヌはこの戦争でイングランドの敵だったからである。
    *もちろん「魔女」認定されたのはジャンヌ・ダルクだけではなかった。

    *そういえば英国史的には1662年、ポルトガルからキャサリン王妃がイギリス国王チャールズ二世に嫁いだのが大きい。なにしろこれを契機に喫茶の慣習を王室も嗜む様になって「砂糖を入れた茶」が階層を超えて広まり始めたし、持参金として北アフリカのタンジールとインドのボンベイが割譲されたのを契機に英国のインド進出が始まり、国内にキャラコが伝わり始めるのである。フランスが一応は「イタリア・ルネサンス文化の伝播者」としてはカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis、1519年〜1589年)やマリー・ド・メディシス(Marie de Médicis, 1575年〜1642年)を敬ってる態度を見習うべきではなかろうか?

フィリップ・ヘンスロー(Philip Henslowe)の日記には1592年3月3日、Lord Strange's Menによって『ヘンリー六世』が上演されたと記されている。同年のトマス・ナッシュの『Pierce Penniless』は、「少なくとも1万人の観客」が見たタルボット卿を扱った人気劇のことを言及している。『ヘンリー六世 第1部』を除いて、タルボット卿を扱った劇の存在は知られていない。『ヘンリー六世 第3部』(タルボット卿は出ていない)が上演されたのも1592年で、ロバート・グリーンの1592年の『A Groatsworth of Wit』というパンフレットでその1行がパロディにされている。つまり、『ヘンリー六世』三部作はすべて1592年には上演されていたということになる。ところで『ヘンリー六世 第1部』はその後1906年までほとんど上演された記録がない。出版も1623年の「ファースト・フォリオ」までされなかった。

そういえば原典においては「フランス王室に嫁いだ末娘の女婿が率いてきた軍勢すなわちフランス軍の勝利」に終わる「リア王King Lear、1604年〜1606年頃)」が、一旦シェークスピアの手によって「フランス軍が敗北して末娘も女婿も殺され、リア王は発狂死に至る悲劇」へと改変された後、後世にはさらに「フランス軍はやっぱり敗北するけど、末娘と女婿は勝利してリア王を救出」なんて謎展開へと再改変されたのもこうしたイングランドナショナリズムと無縁ではなさそうなのです。 

600夜『リア王』ウィリアム・シェイクスピア|松岡正剛の千夜千冊

愉快で機知に富んでいた流行劇作家のシェイクスピアが、突如として悲劇を書きはじめたのは、1599年の『ジュリアス・シーザー』からだった。ここからシェイクスピアになぜか暗い影がつきまとっていった。批評家はこの理由についていろいろ言うが、こういうことは表現者にはよくおこることで、シェイクスピアだからといって例外ではない。それが約10年続いた。そのあいだに14篇の戯曲が書かれ、そのうち9篇が悲劇だった。順に『ジュリアス・シーザー』『ハムレット』『トロイラスとクレシダ』『マクベス』『オセロー』『リア王』『アントニークレオパトラ』『アセンズのタイモン』『コリオレイナス』である。「悲劇時代」といわれる。
*お気づきだろうか。実は「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、初演1595年前後)」はこの時代の作品ではないのである。

ところがシェイクスピアは『コリオレイナス』を最後に、まるで憑きものが落ちたように悲劇を書かなくなる。これも理由を云々するまでもなく、よくあることだ。最後の1611年の『テンペスト』だけがそうした流れを超越していたが、魔術師プロスペローと精霊エアリアルを配したこの作品は、喜劇の中の悲劇という、あるいは変化するものの本質とは何かということをめぐっての、まったく新しい方法の提示だった。

それにしても四大悲劇が5年ほどのあいだに次々に連打されたことは、信じがたいほど驚異的な「内爆」ともいうべきもので、シェイクスピアがなんらかの方法で人間が到達した悲劇的形而上学の秘密の内奥に完全に触れたことをおもわせる。

それはのちにゲーテドストエフスキーニーチェが、日本でいうなら世阿弥近松が総力をあげて挑んだ主題でもあったけれど、それをシェイクスピアはやすやすと成し遂げた。しかし、あえて劇作としての悲劇とは何かと問うのなら、四大悲劇にはそれぞれの編集的特質がひそんでいて、これを横並びの似たような悲劇と見ないほうがいい。だいたいここにはすべて種本や素材や伝説が先行していて、シェイクスピアはこれを組み立て、多様な変奏を加え、そこに深甚な主題を圧縮していった。悲劇を発酵させるための劇作法である。その劇作法は一作ごと異なっていた。そこがシェイクスピアの異能というものだったが、そうであればこそ、四大悲劇を同じように感心してしまうというのは、つまらない。

先にその感想を書いておく。

まず『ハムレット』だが、これは劇的構造としての悲劇性を定着しきれなかった。ここには、ハムレットの揺れ動く心に対応する何かの装置か機能かが欠けている。T・S・エリオットもそういう文句をつけたことがあったと記憶する。ただし、その欠陥をシェイクスピアハムレットの独得の行動で撃破した。独得の行動とは人間にひそむ演戯性というものである。われわれは『ハムレット』を読んで、またその芝居を見て、半分は人間における憂鬱の本質を、もう半分は人間における演戯の本質を体験する。だから王子ハムレットを追うかぎりは、この芝居にはつねに永遠の共感がある。けれどもこれは悲劇というほどのものではない。憂鬱と演戯の哲学なのだ。

厳密なことを言うようだが、『オセロー』も本格的な悲劇とはいいがたい。オセロー自身は悲劇の烙印を被るものの、決して行動をしない。自分の宿命を変えるために周辺にはたらきかけるのはイアーゴーであって、オセローではない。オセロー自身にはその内部に宿命を変える悲劇的推進力がない。最後の最後にオセローはデズデモーナを殺し、事態としての悲劇に結末をつけるのだが、それまでは福田恆存が言うように、オセローは歌舞伎でいう「辛抱立役」にすぎないのである。しかも、この最後の場面をもってイアーゴーの計画は完遂される。

そういう見方をすれば、『ハムレット』の宿命を動かすのは亡霊であり、『マクベス』もまた、マクベスを動かすのはマクベス自身ではなく、森であり、魔女なのである。そこには悲劇そのものを体現した悲劇的性格は乏しいままだった。『マクベス』はマクベスを見るのではなく、劇的構成の全体がすばらしいのであって、だからこそ黒沢明はそこを『蜘蛛巣城』に移してみせた。

こうしたことを比較すると、『リア王』こそがシェイクスピアがつくりあげた完璧に近い悲劇作品だったことになる。

こんなものすごい悲劇造形はめったにありえない。もし引き合いに出すのならギリシア悲劇の二、三であろうけれど、ギリシア悲劇では遼遠なる絶対事実の進行の裏で、見える理性が見えない神々とちょっとした取引をしていたし、多くの台詞がしばしば神話に譲歩させられていた。

リア王』にはそういう取引がない。いっさいの悲劇はリア王の魂が引き取ってなお深淵に引きずりこんでいる。そこには恐ろしいほどの「錯乱の悲愴」というものがある。

まぁ、これもまたナショナリズムの暗黒面?