諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】ユートピア概念とディストピア概念は表裏一体?

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そもそもユートピアUtopia)概念の起源は英国思想家トマス・モアが著したラテン語著作「ユートピアUtopia、1516年)」に登場する架空の国家名に由来します。登場時期から見て明らかに後期ハイデガーいうところの集-立(Ge-Stell)システム、すなわち「特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」としての主権国家の成立と密接な関係がありそうですが、概ね主権国家なるものが存続の為に他の主権国家との拮抗状態を必要とするのに対し、かかる理想都市や理想国家は諸般の状況から孤立して「小さな世界帝国」を為している辺りがミソ。

要するにここで「国民の主観」というファクターが台頭してくるのです。イタリア経済学には「徴税や兵役などの負担」を縦軸に「公共サービスへの満足度」を横軸にとった指針なども存在しますが、そうした数理だけでは把握し切れない何か…

①そもそも実際の歴史を参照すると、第一次世界大戦1914年〜1918年)によって帝政ロシアやハプスブルグ君主国やオスマン帝国が解体を余儀なくされる以前には(天下統一などに成功したせいで)他の主権国家との均衡状態にない主権国家の多くが、その国を主権国家たらしめている諸制度が次第に麻痺して実質上「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の分割統治状態に退化してしまうのを常としていた。

  • 主権国家主権国家たらしめる諸制度」とユートピアの「発見」主権国家の原義は「(古代から連綿と続いてきた王朝交代の歴史を断ち切った)相応の火砲を装備した常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う政治制度」。すなわち多くの地域が交通インフラ未整備で地図も海図も空白だらけの時代に羅針盤やコンパスだけを頼りに(概ね国家か政商の全権委任を受けて)往来する軍隊や冒険商人を支える本拠地となる訳だが、当然、当時の技術レベルでは事故率が高くユートピアを最初に「発見」するのは概ねその被害者と相場が決まっていた。すなわち、当時の人間の想像力においてすら既にユートピアはそうした僻地でのみ存続可能とイメージされていたが、その一方でそれが(文明圏=既知の主権国家群に教訓を与えてくれる様な)理想都市や理想国家である可能性は随分と高く見積もられていた。
    *「レーダーや人工衛星まで登場した時代になお未発見」となるとさらに難易度が上がり何らかの形で「バリアー」が張られている必要が出てくる。「キングコング(King Kong、1933年)」に登場する髑髏島(Skull Island)は謎の濃霧(後付けでレーダー遮断能力があるとされた)で覆われていたし、アメコミの世界でもブラックパンサーの故郷ワカンダ王国やワンダーウーマンの出身地パラダイス島は超技術で隠蔽されている。そして「天空の城ラピュタ(1986年)」に登場するラピュタは(ジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記(Gulliver's Travels、1726年〜1735年)」の記述通り)宙に浮いていたが、既に廃墟と化していた。

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  • 「発見」後のユートピアの末路…古典的には一旦そこを離れると(地図や海図の曖昧さや現地そのものの破壊によって)2度と戻ってこれないケースが大半を占めた。そのまま鎖国を続ける事は許されないし開国したらしたで国際的な貨幣経済網や流通網に組み込まれてしまい独自性を維持出来なくなってしまうと考えられていたからである。そうまさにペロポネソス戦争紀元前431年〜紀元前404年)に勝利したスパルタが伝統的共同体への貨幣経済浸透によってあっけなく瓦解してしまった様に。
    *しかも火砲や衛生管理の技術が飛躍的に向上した19世紀後半以降は(大日本帝国タイ王国の様な例外を除き)戦争などによって滅ぼされ植民地化されてしまうケースが大半を占める様になっていく。

  • 「フロンティア消失」以降のユートピア概念…(1890年におけるアメリカのフロンティア消滅宣言に象徴される様に)人類は19世紀一杯で地上と海上を原則として制覇してしまった。以降「ユートピアの遺跡)」を発見するのは(各国家が威信を込めて送り出す)極地探検隊が中心となる。

    *その一方でフィクションの世界においては、かつてユートピアが占めていた役割を(僻地潜伏能力を備えた)海底人や地底人や宇宙人が担わされる様になっていく。またドラキュラ伯爵の様に(狼男の先例に倣って)東欧の山奥から(隠れて暮らしやすい)都心部に移住する輩も現れる。いずれにせよ文明圏側の態度が敵対的となったので、彼らもまた攻撃的な姿でイメージされる様になった訳である。しかも不利な状況を覆す為に単体で発見されるケースでは強大な破壊力を振るう様になり(怪獣化)、小集団としてスタートする場合には人間社会への潜伏能力や、急速に仲間を増やす感染増殖能力を備える(怪人化)様になったのだった。

    *この意味合いにおいてはクトゥルフ神話に登場する海底都市ルルイエ(R'lyeh)やレン高原(Leng)辺りが「古典的定義におけるユートピア概念の成れの果て」という事になる。

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②一方「完全コンピューター統制化の主権国家もしくは世界帝国」なるイメージはジュール・ヴェルヌ二十世紀のパリParis au XXe siècle、1861年)」辺りを初出とする。しかし時はまさに「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世の主導下、フランスへの産業革命導入が着々と進んでいた 時期であり、出版社はこれを「暗く荒唐無稽な作品」として出版しなかった。
*フランスにおいては産業革命による大量生産・大量消費スタイルが広まる過程で伝統的共同体の崩壊が進み、これを新しい時代に相応しい形で再建したいという願望が社会学という新ジャンルを生んだ。一方アメリカは増加する一方の移民管理の為にタピュレーティング・マシン(パンチカード・システム)を導入。こうした流れが「全てがコンピューターによって管理される主権国家」なるビジョンに結実していくのである。

二十世紀のパリ(Paris au XXe siècle、1861年) - Wikipedia

100年後の1960年8月13日、16歳のミシェル (Michel) はパリの「教育金融総合公社」を優秀な成績で卒業するが、授賞式で嘲笑を浴びる。
*当時のフランスは東欧などへの投機熱に浮かれていた。
実は20世紀のフランスは科学万能主義が支配し、文化や芸術は金銭換算でのみ評価され、政治も世襲政治家によって占められており、ミシェルの専攻するラテン語や詩には、何の価値も与えられていなかった。
*イタリアのロンブローゾが「天賦の才能」について論じた「天才と狂気(Genio e follia、1864年)」に続いて骨相学、観相学、人類学、遺伝学、統計学などの手法を動員し、人間の身体的・精神的特徴と犯罪との相関性を検証した「犯罪人論(L'uomo delinquente、1876年)」を上梓して生来的犯罪人説を展開するのも、フランスのガブリエル・タルドが「模倣の法則(Les lois de l'imitation: Etude sociologique、1890年)」を発表してこれに反駁するのもまだ先。それどころかエミール・ゾラに自然実証主義文学執筆を思い立たせたクロード・ベルナールの「実験医学研究序説(初版1865年)」にすら先行する。かかる科学万能主義はまさに当時のフランスに横溢していた空気だったと思われる。
1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド|松岡正剛の千夜千冊

 「世の中を動かす巨大な計算機」が差配する街には「地下や高架を走る鉄道」や「太陽に匹敵する照明」の照らし出す大通りを「ガスで走る馬の要らない馬車」が埋め尽くしていた。そして「交通渋滞」や大気汚染の蔓延する社会で「石油から合成されたパン」を食す人々の心はないがしろにされ、友情や家族の縁も薄れていた。
*石油生産の一大画期をなした機械掘りの油井の出現が1859年で、当時は内燃機関の燃料としてはまだまだアルコールが中心だった。それにつけても「石油から合成されたパン」とは画期的過ぎる。とはいえ皇帝ナポレオン三世自身が(やっと実用化したばかりの)アルミニウム製食器を好んで使う様な先取派だったので開発に成功したら商品化されてたも。

失意のうちに、銀行で計算機を扱う職に就いたミシェルはある日、恩師の娘に恋をする。ままならぬ日々の中でパリは大寒波に見舞われ、ミシェルは職を失い無一文となってしまう。そして、なけなしの小銭でパンではなく、彼女に贈るため花を買うのだった。

  • ジュール・ヴェルヌ二十世紀のパリParis au XXe siècle、1861年)」はパリのみ、 テア・フォン・ハルボウ脚本・フリッツ・ラング監督映画「メトロポリスMetropolis、1926年)」はメトロポリスのみを舞台とする物語であって主権国家の影はまるで感じられない。後者には支配的権力者フレーダーセンが別の都市と交易を行う場面もあるが、そこから想起されるのはせいぜい崩壊した世界帝国か世界経済網くらいのものである。一方、オルダス・ハクスリーは「すばらしい新世界Brave New World、 1932年)」において「終戦争後に建設された世界帝国」を「Island、1962年)」では「東洋文明と西洋文明の接点に生まれた理想郷的孤島」を描くが、前者におけるディストピア設定が、後者ではそのままユートピア設定として流用されている。まさしく「主観の問題」という切り口。特に、ここでその一環として挙げられた「慎重な計画に基づく効果を計算され尽くしたドラッグ投与」なる概念はヒッピー世代に大きな影響を与えていく。

  •  一方、冷戦の影響下執筆されたレイ・ブラッドベリ華氏451Fahrenheit 451、1953年)」や「高い城の男The Man in the High Castle、1962年)」においては主権国家陣営同士の対立を背景に「警官や軍人による思想統制社会が人間から思考力を奪っていく有様」を描く。特に前者は読書の禁止とTV視聴の強要でこの流れを加速する設定で知られる。その一方で主権国家運営におけるコンピューターの役割はそれほど強調されない。弾道計算機や空港予約システムといった形で実用化が進行したせいで、当時の低脳過ぎる機器を「国土全体を管理下に置く主体」としてイメージするのが困難になってきたせいかもしれない。

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    その一方でロバート・A・ハインライン月は無慈悲な夜の女王The Moon Is a Harsh Mistress、1965年〜1966年)」には、政府所有物ながら月の住民に同情する様になり彼らの反乱を的確にサポートし、全てが終わると自分で自分を消し去る人工知能が登場。

    *「全ての政治的判断をコンピューターに委ねるべき」といった他力本願な思考様式はむしろ共産主義圏において力を持った。米国の科学的管理法(Scientific management)に由来する確固とした数理イメージが存在したからこそ成立し得た思考様式といえよう。

    科学的管理法(Scientific management) - Wikipedia

    ウラジーミル・レーニンは1913年の時点で科学的管理法理論について「同じ長さの労働日のなかで以前より三倍以上の労働力を労働者から絞りとろうとする」試みとして全面否定。しかし、翌1914年にはテイラーの理論を「プロレタリアートが社会的生産のいっさいを掌握し、労働者自身による、あらゆる社会的労働の適切な配分と合理化を目的とする委員会を定める時期を用意するものであった」と評価し、1918年にはその後の革命の成功に不可欠なものと考えるに至る。

    *しかしながら皮肉にも「サイバネティック理論は全くマルクスレーニン主義にそぐわない」といった思想統制のせいで1960年代以降の共産圏におけるコンピューター開発事業は完全な停滞状態に陥ってしまうのである。そしてスタワニム・レムやストロガツキ兄弟が「自分と全く似てない絶対他者との邂逅に打ちのめされる人間」を描く文学を発表。

  • 一方、ヒッピーの間で「(政府の事業や商品マーケティングなどに使われるTV放映網やメインフレームは人間の尊厳を犯す絶対悪」という考え方が広まり始める。その一方でパソコンが登場すると、それを「自由の戦士が体制を倒す道具」と考える様になっていく。

③こうした複雑怪奇な展開を想像力の赴くままにコラージュしたのが所謂「TV系サイバーパンク運動」となる。全体的にディストピア的だが、その大半は「(実際の組織的実践やコンピュータ上での駆動を意識した厳格な規律に基づく仮想化」に程遠い存在だったので読者層はおろか著者層もちゃんとした説明は出来ない状態が続いてきたのである。そして彼らの多くが実際のインターネット技術の進歩についていけず1990年代のうちに(長らく敵対関係にあったハイファンタジー勢と併せ)すっかり淘汰されてしまう。

*「(実際の組織的実践やコンピュータ上での駆動を意識した)厳格な規律に基づく仮想化」…正直、このハードルを潜る抜けられたのは一部ハードSF作家を除けばマイケル・クライトンJ.P.ホーガン、ルディ・ラッカーくらいだったとも。読者層の脱落も著しかった。

  • そして(人間の知性の模倣をやめ、純粋に数理や機械学習や量子コンピューティングの効率を追求する様になった)第三世代人工知能が登場すると(この時の脱落組も含めた)リベラル勢が一斉に反対派に回り「人間の思考能力を超越する前に人工知能にも倫理を持たせよ」などと連呼する様になっていく。

    人工知能を「正しい道」へと導くのは誰か──学会で語られたAIの倫理への懸念|WIRED.jp

    コンピューターサイエンス全般がそうであるように、マシンラーニングはより白人的で、より男性的で、より西洋的な方向へと向かっていっている。「Women in Machine Learning」は、長年にわたってNIPSと並行して開催されてきたテクニカルカンファレンスだ。

    そして今年初めて、そのなかで「Black in AI」と題したワークショップが予定された。その目的は、この分野で研究を行う非白人たちが自らの成果を発表できる場を用意することだ。

    NIPSの共同議長、Women in Machine Learningの共同創設者、マイクロソフトのリサーチャーという肩書をもつハンナ・ウォラックは、このダイヴァーシティーへの努力が個人とAIテクノロジー両方にとって役に立つと話す。「視点やバックグラウンドに多様性があれば、あるグループがほかのグループに対してもつバイアスが相互チェックされやすくなるのです」。つまり、黒人をゴリラと呼ぶようなコードが、世間の目に届きやすくなるということだ。

    ウォラックはまた、多様性のあるチームのほうが課題解決の際により幅広いアイデアを考慮するという、行動学の研究結果にも言及した。

何たる矍鑠たる混沌…ある意味、今こそユートピア概念とディストピア概念を立て直すべき 時期にきている?