諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【現状確認】自分なりの「正義のイメージ」について。

最近、過去投稿のこの辺りについて随分と踏み込んだ検討をしてるんですが、根幹の部分は意外と揺らいでいないので却って驚いていたりします。

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  • 出発点はあくまで「ロシア革命1917年によるソ連誕生まで、事実上マルクス主義思想の最終勝者と目されていた修正主義Revisionismusの領袖」ベルクシュタインの「私には道程こそが全てであって、目標などないに等しい」なる基本スタンスであり続けている。

    *実際の歴史上のベルクシュタインはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 在位1888年〜1918年)の軍事的積極主義や第一次世界大戦(1914年〜1918年)を支持して色々言われているが、そもそもそうした事前策動があったからこそ戦間期における社会民主党SPD)政権誕生が準備されたという事実もまた見逃せないのである。

  • エドマンド・バークが「フランス革命省察Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中で提唱した「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法prescriptive Constitution)」概念や、ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーが「大転換(The Great Transformation、1944年)」の中でのイングランドにおける囲い込み運動の研究を通じて到達した「運動推進側も反対側も同じくらい正しく、かつ間違っていた。しかしながら歴史上重要だったのは、両者の衝突が現地住人の価値観変遷に必要な時間を稼ぎ出す事に成功した事、それのみだったのである」なる結論については相変わらず熟慮に値すると考え続けている。
    *ただインターネット上を徘徊する「添削AI」に指摘された様に、この問題における「程度の判定」は困難を極めるのである。

  • 英国映画「アメージング・グレースAmazing Grace、2006年)」や、スティーブン・スピルバーグ監督作品「リンカーンLincoln、2012年)」において展開する「(人間の多様性と多態性を重んじる泥臭い議会制民主主義」を信じる。

    *その立場から「ユーロコミュニズムの祖」グラムシにも相応の敬意を払っている。「市民社会の成熟が十分でなかった帝政ロシアにおいて暴力革命が不可欠だったからといって、市民社会が十分に発達したイタリアにおいても同じことがいえるのだろうか?」まさに彼のこの獄中における閃きこそが暴力革命路線とプロレタリア独裁論を破棄し、民主集中制と分派禁止規定を廃止したユーロコミュニズムの出発点となるのである。

    *そういえば上掲の投稿をしてた2016年頃に国際的に話題となっていたスペインの急進左翼政党ポデモス(Podemos)は相変わらず覇権達成には至ってないらしい。ポデモスが開発した「勝利の方程式」を模倣した保守政党が現れて票を奪われたりして色々苦労を重ねている模様。日本の政治の回転速度向上の為には、この種のダイナミクスが必要なのである!!

こうした立場ゆえに「バージョンアップ履歴の管理」が重要となってくる訳ですが、その部分においてナポリ出身の「近代歴史哲学の創始者」ジャンバッティスタ・ヴィーコの主著「新しい学Principi di scienza nuova、1725年)」における「歴史的事象の集合体としての歴史観は、それ自体のみでなく後世のパラダイムシフトに備えその策定過程にあった全ての論議も履歴として残さねばならぬ」なる立場を採択。

 流れ上必然的にイタリア・ルネサンス晩期にパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部で流行した新アリストテレス主義、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」とする立場も継承する展開に。

要するに「(「事象や言語ゲームの地平線としての絶対他者」への態度決定が不可避な正義そのものについての定義」はおろか、後期ハイデガーいうところの集-立(Ge-Stell)システム、すなわち「特定目的実現の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」の根幹たる「特定目的」については一旦完全にカプセル化し「状況に応じた入力に、どんな出力を返すか」について逐次確認を続けるスタンス。何かその「内側」に特定の構造が見通せたら、どんどん切り離していってしまうのでそれ自体はずっとブラックボックス状態のままという…どうやらこうした態度は私自身の「信仰」に対するスタンスと重なってくる様です。「自分自身の内側から届く良心の声そのもの」を信じていない訳でもないのですが、後期ハイデガー同様、それが既存の集-立(Ge-Stell)システムのどれかの打算に汚染されている可能性が認められる限り「真理アレーティアそのもの」としては認めないという懐疑主義的立脚点…
*「全ての集-立(Ge-Stell)システムからの脱却=人類が人類となってから構築してきた文明の全否定」だから、迂闊にこの方面に流れた反近代的自然主義者は「お前らもう、服も火も捨てて森に帰れ、野蛮人!!」と罵られる展開を迎える事になるのが重要。

*フランスにおいては、「レッドタートル ある島の物語(英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge、2016年)」封切り時にフランスの有識者達がこぞって「これぞ英国式ロビンソン・クルーソーを打倒するフランス式ロビンソン・クルーソー!!」と誉めそやして、若者からこの反応を引き出した。

*かかる若者の拒絶で「レッド・タートル」が爆死する一方、同じフランスの若者の熱狂的支持を得て大ヒットとなったのが(日本人オタクの目には田中ロミオ人類は衰退しました(2007年〜2016年、アニメ化2012年)」系アプローチとも映る)フランス音楽界の新星ギエドレのPV「百獣の王(GiedRé - LES ROIS DES ANIMAUX)」。おそらく2017年、フランスにおいて「この世界の片隅に」がどう評価されたかについては、元来こうした前史を踏まえた上で読み解かねばならなかった様である(もしかしたら「英国文学が伝統的にシェークスピア作品の拘束下に置かれてきた様に、フランス文学は「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」自由主義のジレンマを体現した「太陽王ルイ14世」に対して伝統的に向けられてきたアンビバレントな感情に振り回されてきた」みたいなファクターの確立が重要?) それにつけても(E.T.A.ホフマン神経症幻想文学を起点に据えた「プリンセス・チュチュ」から「ぼくらの」を経て「魔法少女まどかマギカ」に続く「セカイ(作者)が残酷」系の流れを読み取った)アメリカのアニメおたくが、この作品を「アリーテ姫」「ちょびっツ」「Black Lagoon」を繋げて吟味するフェニミズム文脈で掌握しようとしたのと随分と対象的な評価軸…

*まぁそれでも人はそういう文脈抜きに「スピットファイアー!! スピットファイアー!! スピットファイアー!!」とか「エリザベス・スワン!! エリザベス・スワン!! エリザベス・スワン!! 」とかは叫んじゃう訳なんですがね。

*そして同じ文脈で「メーテル!! メーテル!! メーテル!!」とは叫ばないが「コブラ!! コブラ!! コブラ!!」とか「キャプテン・ハーロック!! キャプテン・ハーロック!!  キャプテン・ハーロック!! 」とは叫んできたフランス人…

フェミニズム文脈において同様の立ち位置にあるのが「メトロイド(1986年〜)」のサムス・アラン(Samus Aran)という事になるのかもしれない。
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上掲の考え方で、こうした主張にも十分ついていけるので今は特にそれ自体の更新は考えていません。むしろ「どの概念がどのタイミングで更新されてきたか」について、もっと細かく調べ込んでいきたいという欲求が高まるばかり…