諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【米禍再び】たかが豚足、されど豚足?

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流通網が全世界を網羅した」商業至上主義時代の貿易戦争は、思わぬ範囲に思わぬ影響を及ぼす様です。

米中貿易戦争が始まる以前には、米国の豚肉加工企業が輸出する豚の足や頭部の9割が、中国・香港市場向けだった。なぜなら、他のどの国よりも高い価格で売れたためだ。足や頭部以外にも、ほとんどの米国人が食べようとしない心臓、舌、胃、腸などの豚の部位は、中国の食文化の中でも、ひいては米国の豚肉輸出業者の利益率という点でも、特別なポジションにあった。

「こうした製品のおかげでプラントを維持していける、という声をよく耳にする」と、米国食肉輸出連合会でエコノミストを務めるエリン・ボラー氏は語る。

高い利益率を誇るこうした豚肉の部位は総称で「くず肉」と呼ばれるが、中国が米国産豚肉輸入に課す2種類の関税を合計で50%に引き上げたことで、その販路は急速に閉ざされつつある。

このため、米豚肉加工企業は、これらの部位をペットフードや畜産飼料の原料として、安い価格で売らざるを得ない状況に陥っている。

米農務省の最新のデータによれば、中国が4月に初めて25%の関税を米国産の豚肉に課したことで、副産物であるこれらの部位の米国輸出量は、4月から5月にかけて約3分の1減少した。

中国向けに輸出される部位のうち、豚の後足は他の国ではほぼ無価値だという。

アイオワ州立大学で農業エコノミストを務めるダーモット・ヘイズ氏によれば、後足には食肉処理工場で豚を逆さまに吊す際につけられた穴が空いており、消費者から嫌がられるため、中国以外でこれを販売することは不可能に近いという。

「中国市場が完全に開放されているならば、中国以外の国ではほとんど価値のない後足にもかなりの値がつくだろう」とヘイズ氏は語る。

中国の打撃は限定的か

中国が、米国に代る新たな豚くず肉の供給源を見つけることは、それほど難しくないとアナリストはみている。

中国の養豚産業は拡大しており、貿易を巡る対立が始まる以前から、バイヤーのあいだでは米国産豚肉への依存度が低下していた。

また、中国バイヤーが、欧州から豚肉を輸入することも可能だとアナリストは指摘する。欧州における豚肉価格は、少なくともここ2年間で最も低い水準で取引されている。

「米国産豚肉に対する今回の報復関税導入によって、中国側が打撃を受けることはない」。米最大手の豚肉生産社マシュホフスのケン・マシュホフ会長はそう断言する。「チリや欧州、あるいは他の誰かが、『使われない豚の胃やレバー、足はたくさんある』と言い出すだろう」

スミスフィールド・フーズや、シーボード(SEB.A)傘下のシーボード・フーズ、そしてブラジルJBS(JBSS3.SA)傘下のJBS米国事業部といった米国の大手食肉加工会社は、今回の輸出鈍化によって打撃を受けている。

昨年、米国全体で豚くず肉の収益が過去最高の11億ドル超に達する中で、こうした企業もその恩恵にあずかっていた。

そういえばアメリカ独立戦争American War of Independence、1775年〜1783年)勃発の遠因の一つになったのって(当時ラム酒の原料に使われていた糖蜜への課税と密輸取り締まりとかじゃなかったでしたっけ?

【英】【米】1764年04月05日 英国議会が「砂糖法」を可決する 

  • アメリカ歳入法(American Revenue Act)あるいはアメリ関税法American Duties Act)とも呼ばれる。当時の英国では7年戦争(1754年〜1763年、主な戦闘は1756年〜1763年)およびそれに連動する形でアメリカ植民地で展開したフレンチ・インディアン戦争1754年〜1763年)で負った莫大な負債をどうするかが最大の課題だった。

  • 砂糖法の制定以前にも糖蜜法(1733年成立)があったが、これは英領でない植民地から輸入される糖蜜に1ガロン当たり6ペンスを課すことによって英領西インド諸島産の糖蜜を保護するためものだった
    *ただし植民地の課税逃れのために実際に徴収されることはなかった。

  • それに対して砂糖法は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する一方、徴税の強制力を強めたものであるが密貿易者とそれを取り締まる職員にはまだまだ甘い内容だった。

  • 七年戦争が始まると初代チャタム伯ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, 1708年~1778年:大ピット)が当時の内閣の実質的な指導者となったが地所ハノーファーのある欧州大陸にしか関心を持たないジョージ2世や戦争指導力に欠けるニューカッスル公と意見があわず辞職。

    初代チャタム伯ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, 1708年~1778年:大ピット)

    1735年にホイッグ党庶民院議員に当選し、政界入り。ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判するタカ派若手政治家として頭角を現し、庶民院で影響力を拡大させた。

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    1757年から1761年にかけて第2次ニューカッスル公爵内閣で南部担当大臣を務め、七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸や北アメリカや西インド諸島などの植民地でフランス勢力を駆逐することに成功し、大英帝国の基礎を築いた。

    その後、首相(在任1766年〜1768年)も務めたが、この時には大きな業績は残していない。

  • しかし大ピットは「偉大なる庶民」と呼ばれるるほどの強い世論の支持により復帰し、今度はニューカッスル公と共同で政権を維持。国務大臣・外相として戦争を指導。その際に欧州大陸での展開は同盟国のプロイセンに対する資金援助に止め、フランスとの戦争についても深入りせず、北アメリカ大陸とインド等の植民地での対フランス戦争(フレンチ・インディアン戦争カーナティック戦争)に兵力を集中する事で決定的勝利を導き出した。ただし英国の国庫も空っぽになってしまったのである。

    第3代ビュート伯ジョン・ステュアート(John Stuart, 3rd Earl of Bute, KG, PC, 1713年〜1792年、トーリー党、首相任期1762年~1763年)

    スコットランド貴族の家に生まれ、ジョージ3世が皇太子の頃にその家庭教師を務めていた。ジョージ3世が7年戦争中の1760年に即位すると、その立場を利用して政敵に代わって宮廷内で実質上の首相の立場を得た様な権謀術数家。

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    • ウィリアム・ピット大ピット)…能力主義の人材登用で戦争を有利に運んだが権威主義には反抗的でジョージ3世から「反逆のラッパ」と揶揄されていた。ジョージ3世から不興を買い下野を余儀なくされる。

      ニューカッスル…戦争に必要な資金を議会の承認の下で調達し続ける役割を担ったが単独での戦争指導力には欠け、大ピットが下野した後は完全にレームダック化した。


    政党政治的な「愛国王」の理念に則ってウォルポール以来の「ホイッグ党寡頭支配」を終焉させ、万年野党だったトーリー党からも閣僚登用を行った。また元々インドで知事の子供として生まれた事もあってロバート・ウォルポールの平和外交政策に批判的で急進的な商工業者グループ「青年愛国者」のリーダーとして知られた「海洋派=自由貿易主義者」だった。


    七年戦争における対スペイン政策を利用して1762年5月には実際の首相にも就任ししてパリ条約で七年戦争を英国に有利な形で終結させる事に成功する。
    *「七年戦争における対スペイン政策」…そもそも大ピットが辞任した直接の理由はフランス宰相ショワズールが植民地戦争でスペインに協力を求める動きを見せた時にスペインとの開戦を主張してジョージ3世と議会を敵に回した事だった。

    *結局スペインはイギリスに宣戦したが、逆にイギリスが強力な海軍力をもってスペイン植民地たるハバナやマニラを占領する結果となる。戦後のパリ条約ではスペインがフロリダをイギリスに割譲する代わりに両地域がスペインに返還された。


    しかし彼がスコットランド人であるが故の不人気もあり、それまで続いていたホィッグ党優越の時代の終焉はそう簡単には訪れなかった。まずは世論から「もっと有利な講和が可能だったのではないか」等と批判され、当時の新聞などのメディアや庶民院議員ジョン・ウィルクスの攻撃の恰好の矛先とされる。それでもジョージ3世の信任は全く揺らがななかったが、七年戦争講和後の財源としてリンゴ酒への消費税導入が議会を通過すると国民の反発はいや増し、1763年4月に辞任を余儀なくされてしまう。

  • 具体的にはどれくらいの負債だったのだろうか。戦争開始前には7,500万ポンドだったそれは戦争終結時点の1763年1月には1億2,260万ポンド(当時の税収総額の約半分)にまで膨れ上がっており、しかも還付期限が1764年初頭に迫る借金だけで8億ポンド以上という有様だったのである(その多くを英国政府は国債発行で賄ってきた)。さらに戦争が終わった1763年2月、ビュート伯が首班を務める内閣は、植民地にイギリス陸軍の正規兵1万名を駐屯させておく決断を下ししたが(同年5月からポンティアック戦争が勃発した事を考えてみても、この判断は正しかった)。当時、大陸の植民地と西インド諸島で軍隊を維持していくための費用推計額は毎年約20万ポンドに達していた。それに対してこの時提案された歳入増加計画は毎年推計78,000ポンドの域を超えるものではなかったのである。すなわち当時の英国政府はこの時、植民地が利益に繋がるとか負債の償還に貢献するなどとは一切期待しておらず、ただ植民地の防衛のためにアメリカ人が幾らかでも費用を負担してくれたら嬉しいと考えていたに過ぎなかったのだった。

  • ところでこの法案が可決される当時英国首相だったジョージ・グレンヴィルは、強力な指導力を発揮出来る立場になかった。ビュート伯の影響力が1765年頃まで少なくとも宮廷内では残留した上、就任直後におこったウィルクス事件に強い態度で臨んだ事が結果として王室と政府の威信を傷つける結果に終っていたからである。

    ジョージ・グレンヴィル(George Grenville, 1712年~1770年 ホイッグ党員 任期:1763年~1765年)

    1741年にホイッグ党庶民院議員として政界入りし、閣僚職を歴任した。

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    第3代ビュート伯爵ジョージ・ステュアートの辞職後、ビュート伯の推挙で首相(在任1763年〜1765年)に就任。1763年にはジョン・ウィルクスを「一般逮捕状」で逮捕したことでウィルクス事件を引き起こした。1765年には印紙法で北アメリカ植民地人の反発を買い、この反発がアメリカ独立戦争の遠因となった。イギリス国内でもビュート伯の傀儡政権と見做されて批判に晒された。1765年の摂政法をめぐって国王ジョージ3世とも対立したため、2年ほどで退陣を余儀なくされた。

    在職中に爵位を受けなかった首相はウォルポール以来。大ピットは妹ヘスターの夫で、小ピットは甥に当たる。

  • すなわち砂糖法(課税対象は後にワイン、コーヒー、衣類などに広げられた)も、これに続いて1765年に可決された印紙法(新聞・パンフレットなどの出版物、法律上有効なあらゆる証書、許可証、トランプのカードなどに印紙を貼ることを義務付ける内容)も(庶民派議員の仕切る)下院内のコンセンサスに基づくものと考えられる。当然激しい反発があるばど予想だにされていなかったし、これを機に本国と植民地の隔たりが大きくなってゆき、やがてアメリカ独立戦争に至るとは考えられていなかった。
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ここにも神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家とフランス王統ブルボン家の歴史的和解を意味した外交革命(1756年)とプロイセン王国の消極化(実質戦闘などなかった「バイエルン継承戦争(1778年〜1779年)」別名「じゃがいも戦争」が最後)によって欧州本土から戦争の種が途絶え、かつフランス国内において政敵が軒並み衰退して国王一人勝ち状態が現出した事がフランス王室に国民の不満が一極集中化してフランス革命が勃発してしまった様な不手際が存在した様である。

  • 太陽王ルイ14世はまさにこの展開を恐れ、皇太子のルイ15世宛に「国王の権力は互いに直接対話が不可能なほど根深い対立関係の調停に当たっている時が最も安泰なのだ。自分だけが勝って全員から憎まれたらひとたまりもなく袋叩きにされてしまう」「大貴族連合と異なり自らの代表者を持たない新興産業階層を味方につけよ。英国王室がジェントリー階層に対してやっている様に彼らの身分を引き上げ藩屏とせよ」といった内容の遺言を残している。しかしこうした警告は一つも守られる事がなかったのだった。

  • 実はフランス革命の引き金を引いた「バスチーユ牢獄襲撃事件」および「十月行進」を遂行した実働部隊は(半ば公然と王統交代の機会を虎視眈々と狙っていた)オルレアン公の宮廷パレ・ロワイヤルにおいて徴募され、そこから進発している。それで彼こそ「フランス革命の引き金を引いた男」とする説もあるのだが、いずれにせよ一度燃え盛った革命の炎を制御化に置く事など誰にも出来ず、気取って「フィリップ・エガリフリップ平等公)」を名乗った当人もほどなくギロチンの露と消えてしまう。

    とはいえ「実家が太い本拠地オルレアンがサフランの産地で、当時オルレアン家は「フランスで一番の素封家」と呼ばれていた)」アドバンテージは絶大で、最終的にこの一族は7月革命(1830年)を契機にブルボン家との王統交代を果たす事に成功するのだった。

アメリカ植民地の場合は、なまじ「第二次百年戦争」の決着がついて英国軍がフランス軍の一掃に成功した事が裏目に出た。フランス軍の脅威が去った後、彼らが恐れ憎み警戒する相手は英国しか残っていなかったのである。

そういえば英国史においてはこの段階で「ウォルポールの平和1713年〜1739年)」を現出させたホイッグ党寡占政権が在野に降るのを余儀なくされた展開が「責任内閣制最初の政権交代」にカウントされているのですね。

しかも下野した議員の末裔達(概ねカリブ海砂糖農園の不在地主で食べるのに困る事はなかった)は再選に賭けるどころか(日本では失脚した天皇や公家が反乱の首謀者に担ぎ上げられる事を拒絶して歌集などを編纂して余生を送った様に)退廃的なゴシック文学に耽溺する道を選んだのです。かくして生まれたのが(ウォルポールの平和」を現出させたロバート・ウォルポール首相の三男ながら別荘のストロベリー・ヒル・ハウス(英語: Strawberry Hill House)を古風に改築し(工事は1750年頃から数十年にわたった)敷地内に印刷所も設けた)ホレス・ウォルポールの手になる「(神聖ローマ帝国皇統ホーエンシュタウフェン家の断絶にまつわる伝説に取材したオトラント城奇譚The Castle of Otranto,1764年)」に(バイセクシャルとしての側面を暴かれたパウダーラムスキャンダルによって逼塞を余儀なくされ、私領内にシトー修道院風の建物を建ててそこで暮らした)ウィリアム・トマス・ベックフォードの手になる「(神をも恐れぬカリフとムスリムの王子や王女達の振る舞いをあえてフランス語で綴ったヴァセックVathek、1786年)」となる次第。

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ロココ時代を動かした「やんごとなき方々」が(貧富格差の拡大という極めて深刻な経済的状況に置かれていたにも関わらず)揃いも揃って軽薄短小志向だった事も手伝って、既に18世紀欧米は「何をしでかすと何が引き起こされるか連鎖関係が皆目見当がつかない」迷走状態にあったのですね。そしてトランプ政権下でも同じ展開が繰り返されつつある?