ここまでネットで話題になった以上、放置も出来なくて…
しかし本当にネタバレになるのが怖くて何も語れない作品です。そこで今回はあえて「鑑賞者の頭の整理に役立つ抽象的な話」に専念する道を選んでみました。
「カメラを止めるな!」
— 上田慎一郎 (@shin0407) August 18, 2018
色んなメディアで『低予算でも無名でもヒット作作れんじゃん!』って言われてるけどカメ止めは『低予算だから、無名の監督と俳優だから』できた映画です。≪無知×無名×無謀=無敵≫を生かして繰り出した一回限りの大技です。次は次で違う戦い方を探すのだ!!
本人もこういってるし「戦い方の作法」の解説に徹するなら問題なし?
- 最近このブログは意図的に「あらゆる既存の集-立(Ge-Stell)システム(すなわち「目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」)は真理(アレーティア)の世界への到達を妨げる後期ハイデガー哲学」や「(集-立(Ge-Stell)システムの掲げる達成目標が軸ズレしまくる)後期ウィントゲンシュタインの言語ゲーム(Sprachspiel)やベンヤミンのパサージュ(Passage)論」への言及分量を増やしている。
*ここでいう真理(アレーティア)の世界とは「英雄アキレウスや英雄ヘラクレスや英雄王テセウスや名宰相諸葛孔明や英雄ヤマトタケルや白雪姫やかぐや姫といった(概ね迫害を逃れて)僻地で隠遁生活を送る傑物は(人類未発見の方程式の様に)いつか必ず発見され、世に出る」なる信念を指す。
- こうしたジレンマを正面から抜こうとするとアナーキズムや頓悟禅の世界へと突入するが、実は「相応の工夫を経てすっかり自動化し果てた集-立(Ge-Stell)システムに、生き生きとした遂行上の実感を取り戻す」なる裏口が存在する。ヒントは孫子の兵法あたり…
四 形篇(必勝の形をつくる)
昔の戦いに巧みと言われた人は、普通の人では見分けのつかない勝ちやすい機会をとらえて、そこで打ち勝ったものである。だから、戦いに巧みな人が勝った場合には、知謀優れた名誉もなければ、武勇優れた手柄もない。そこで、彼が戦争をして打ち勝つことは間違いない。間違いないというのは、その勝利を収めるすべては、既に負けている敵に打ち勝つからである。それゆえ、戦いに巧みな人は絶対の不敗の立場にあって敵の態勢が崩れて負けるようになった機会を逃さないのである。以上のようなわけで、勝利の軍は開戦前にまず勝利を得てそれから戦争しようとするが、敗軍はまず戦争を始めてからあとで勝利を求めるものである。
*「カメラを止めるな!」は「(目的どんどんブレていく)集-立(Ge-Stell)システムが生み出すスペクタル」をかなり上手に利用した作品である。多くの人が三谷幸喜原作脚本作品「ラヂオの時間(演劇化1993年、映画化1997年)」を連想した様だが、私個人はアラン・パーカー監督映画「ザ・コミットメンツ(The Commitments、1991年)」 や沙村広明「波よ聞いてくれ(2014年〜)」を思い出した。進行過程こそライブ感が物凄いが、その集-立(Ge-Stell)システム(及びそれが複合して滲んだ結果顕現する言語ゲーム(Sprachspiel)やパサージュ(Passage))としての全体像が極上のエンターテイメント作品として成立させる為の「調整」を複数の人間が超越者的立場から(その割には誰もが超越者的立場らしからぬ形で)成し遂げていく意外性の連続性にこそこのジャンル作品の面白さがある。こうした全体構造を読み解く上で欠かせないのが ①(「カメラを止めるな!」におけるゾンビ映画、「ザ・コミットメンツ」におけるソウル・ミュージックといった)そのジャンルが蓄積してきたイメージのパサージュ(最初から揺らいでいる)、②(「カメラを止めるな!」における製作陣、「ザ・コミットメンツ」におけるバンド関係陣、「ラヂオの時間」「波よ聞いてくれ」におけるラジオ番組製作陣といった)集-立(Ge-Stell)システムとしての制作体制の全体像(本来なら銃弾を打ち出す密閉機構としてカッチリした形で組み上がってるべきだが、現実には揺らぎまくって目的達成上を邪魔したり、逆にその達成に貢献したりする)、③それらと無関係に各登場人物が抱える「(個別対応が必須の)状況」、④およびそれらのインプロビゼーション(improvisation)が次々と即興的/一期一会的に生み出すユニークな「ソリューション(solutio、おのおのの状況に応じた処方箋を指すが、観客を含む各人の状況把握能力の限界から全体像が公平に評価可能となるのはほとんど物語の結末近くとなる)」の連続、なる四次元で構成される比較的シンプルな状況認識から決して離れない事。実際には物凄いDDoS攻撃に晒されて鑑賞中はほとんど不可能となるが、まさにそれこそがこうしたジャンル作品を特定の集-立(Ge-Stell)システムとして成立させる最重要な思惑である以上、これが見切れなければ作品解釈の入り口にも立てないのである。
五 勢篇(全軍の勢いを操る)
〈奇と正は混沌としている〉
およそ戦闘というものは、定石どおりの正法で不敗の地に立って敵と会戦し、状況の変化に適応した奇法で打ち勝つのである。したがって、うまく奇法をつかう軍隊では、その変化は天地の動きのように窮まりなく、長江や黄河のように尽きることがない。終わっては繰り返して始まる四季のように、暗くなってまた繰り返して明るくなる日月のようである。
*蟻が内包する本能が単純極まりないのに、その行軍経路が複雑怪奇なものとなるのは地形の複雑怪奇さの影響が取り込まれているからである。同様にこの種のジャンル作品の解読には、まず全体像を「集-立(Ge-Stell)システムとしての製作陣」が如何なる状況に直面して如何なるソリューションに到達したかの連続として把握しなければならないのである。音は宮・商・角・徴・羽の五つにすぎないが、その五音階の混じり有った変化はとても聞き尽くせない。色は青・黄・赤・白・黒の五色に過ぎないが、その五つの混じりあった変化はとても見尽くせない。味は酸・辛・しおから(酉咸)・甘・苦の五つに過ぎないが、その五つの混じりあった変化はとても味わい尽くせない。
*「複雑な行軍をこなす蟻が内包する本能自体は単純極まりないが、対応すべき状況の複雑さが反映されるので…」についての別表現。「ゾンビ映画」や「ライブ番組」をパサージュとして構成する要素、およびそれが問題解決の為に必要とした個々のソリューションそのものは(特に作品に登場した状況のみに注目するなら)箇条書きで列記可能なほど有限だが、それらが後に残すインプロビゼーションの連続は幽玄無比の領域に到達する。戦闘の勢いは奇法と正法の二つに過ぎないが、その混じりあった変化はとても窮め尽くせるものではない。奇法と正法が互いに生まれでてくるありさまは、丸い輪をぐるぐる回って終点のないようなものである。だれにそれが窮められようか。
*かつて日本の武将や軍人は伝統的にこの描写を「奇襲こそ最強の戦略」と誤読してきた。実際には「現在稼働中の集-立(Ge-Stell)システムは何か?(現状は如何なる目的を達成する為に動いているか)」ちゃんと見切れてなければ個々の要素についての正奇の判断が正しく下せる筈もなく、その現実を利用して敵将の判断ミスを誘い続けるのが名将の条件といっているのである。〈勢いのメカニズム〉
水が激しく流れて石をも漂わせるに至るのが、勢いである。
猛禽が急降下し、一撃で獲物の骨を打ち砕くに至るのが、節目である。
だから、巧みに戦うものは、その戦闘突入の勢いは限度いっぱい蓄積されて険しく、その蓄積した力を放出する節目は一瞬の間である。勢いを蓄えるのは弩の弦をいっぱいに張るようなものであり、節目は瞬間的に引き金を引くようなものである。
混乱は整治から生まれる。憶病は勇敢から生まれる。軟弱は剛強から生まれる。
*人間が演じる映像作品である以上、最大の華は「勢(すなわち目の前に顕現した状況に最終的ソリューションを決定的な形で供給する)」を担う役者の演技という事になる。この作品もそれにもれず「決定的な形での役者の演技(課題発生に対する応答)の連続」として全体像が構成されているが、そもそも観客が「(どれが「名演」でどれが「迷演」だったのかについての)正奇の判断」を下す材料が終盤近くまで揃わない。なんたるフラストレーション、そして何たるカタルシス…
*英国演劇を支える「The Empty Space」理論によれば、こうした戦略は観客に対して「想像力を刺激し」「集中力を高め」「俳優の心的距離を一気に縮めてその感情やエネルギーをよりダイレクトな形で伝える」効果があるという。「カメラを止めるな!」は、こうした観点からも基台の成功例とも。
なにもない空間
「これは本当はホラー作品ではないのかもしれない」という指摘もありますが、最大の鍵はヒロインがラストに浮かべるあの表情…まさしく冒頭から「サイゴン、くそ俺はまだサイゴンにいる」と呟き始め最終的にとうとう完全な形で「帰るべき現実」を見失うフランシス・フォード・コッポラ監督映画「地獄の黙示録(Apocalypse Now、1979年)」の主人公ウィラード大尉…
地獄の黙示録(Apocalypse Now、1979年) - Wikipedia
公開当時、70ミリ版で3回、35ミリ版で1回見たという村上春樹は、評論『同時代としてのアメリカ』の中で次のように述べている。「『地獄の黙示録』という映画はいわば巨大なプライヴェート・フィルムであるというのが僕の評価である。大がかりで、おそろしくこみいった映画ではあるが、よく眺めてみればそのレンジは極めて狭く、ソリッドである。極言するなら、この70ミリ超大作映画は、学生が何人か集まってシナリオを練り、素人の役者を使って低予算で作りあげた16ミリ映画と根本的には何ひとつ変りないように思えるのだ」。
映画の公開前に映画監督の長谷川和彦がコッポラにインタビューしている。長谷川が「この映画のテーマは何だ」と質問したら、コッポラは「撮っていて途中で分からなくなった」と答えたという。萩原健一は「さんざんお金を使った挙句に監督自身がテーマが分からなくなっただなんて、お前は馬鹿かと一瞬思ったが、よく考えてみるとコッポラは、それくらい難しいものに挑戦していたんだな。これは腹のでかい男だと思い直した」と話している。
そして(「ポンの人」の大源流に位置付けられるかもしれない)映画 「遊びの時間は終わらない(1991年)」の本木雅弘…いや実は「遂に最後までトイレに行かせてもらえなかった」エリート深川こそモデルとも?
いずれにせよ、あの「覗いてはいけない向こう側を覗いてしまった人間固有の表情全てが消えた顔」があったからこの作品は(邦画に有り勝ちな)小ぢんまりとしたコメディに終わるのを脱したと思うんですね。それでは、一体彼女は何を覗いてしまったのか? そこからの逆算でこの作品を鑑賞するのも十分アリかと。