諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【非マキャベリ的君主論】ヴァイキングのハスカール制からパクス・ブリタニカ(Pax Britannica)へ?

これまでの投稿で述べてきた様に、歴史上「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマは、おそらく「主権者間の勢力均衡」によってしか緩和し得ないのです。

しかも、曲がりなりにも「三国鼎立状態」とか「冷戦体制」みたいな比較的安定した状態に到達する事は少なく、それは現実には主権者間の実力格差が著しく正面からの対峙が不可能であるケースが大半だったからとも。

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そこで調整手段としてカール・シュミットの政治哲学でいうところの「友-敵関係Freund-Feind Verhältnis)」を支点に各主権者間の関係が推移していく歴史的展開がクローズアップされてくる訳です。

こうした枠組みに基づいて大英帝国は18世紀には(欧州大陸に割拠する列強のほぼ全てを敵に回しながら、その利害不一致に付け込んで生存に成功したプロイセン王国を、20世紀前半には(当時のユーラシア大陸極東部において、陸海ともに帝政ロシアの南下に対抗し得る唯一の存在だった大日本帝国をパートナーに選びます。他の諸勢力との関係も合わせ「友-敵関係Freund-Feind Verhältnis)」をより忠実な(すなわち植民地における民族分断政策も含め、真の意味で冷酷無比な)形で体現してきたのはドイツというより大英帝国だったと考えるべきかもしれません。

英国議会政治の起源をヴァイキング北欧諸族の略奪遠征)時代(Viking Age、800年〜1050年)のハスカール(従士)制度に見るとは、要するに以降のイングランド王国発展過程の基盤を「ロマネスクromanesque時代10世紀〜12世紀には確かに実在した汎欧州規模の部族的紐帯」の延長線上に見るという事になります。

ロマネスク(romanesque)時代(10世紀〜12世紀) - Wikipedia

ハスカール(従士)制によって組織されたヴァイキングカール大帝ザクセン戦争(772年〜804年)を契機に文明化が始まった北欧諸族の略奪遠征)のうちデーン人がグレートブリテン島侵略後に祖国で王国群を建築し、ノルマン人(ノルマンディ泊地に拠った集団)がフランス国王の家臣となる一方でイングランドシチリアと中東で国王となってイスラム世界の技術を習得しつつ(西ゴート王国末裔たるアストゥリアス貴族や(ランゴバルト王国末裔たるロンバルディア貴族や(ブルグント王国末裔たるブルゴーニュ貴族と(アニミズム色が強い壮麗な)クリューニュー修道会運動や(日本でいうと修験道に近い僻地での修行に執着する)シトー修道会運動を展開し、ロシア平原に進出したヴァリャーグが冒険商人として東欧に都市国家群を建築したり黒海まで出て東ローマ帝国の傭兵になったりしている。とはいえ彼らの多くは次のゴシック時代(12世紀〜14年)に名家として残れず、圧倒的多数を占める領民にただ飲み込まれていってしまったのだった。
*そして西欧ではこれ以降「強力な部族的紐帯を有する別の辺境部族が台頭して全文化圏を席巻する」サイクルが繰り返されず、独自の歴史を歩み始めるのである。

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  • それでは英国における「ロマネスク時代的熱狂の残滓」とはいかなるものだったのか。ある意味その出発点は「継承すべき所領を持たない領主の次男坊以降や、全ての希望を失い格好良い死場所を探している遍歴騎士を集めイングランドを征服した私生児ギヨームの冒険」に求められるという事になる。
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    「征服王(William the Conqueror)あるいは庶子王 (William the Bastard)」ウィリアム1世(William I 、ノルマン朝(Norman dynasty、1066年〜1154年)イングランド王1066年〜1087年、ノルマンディー公ギヨーム2世1035年〜1087年) - Wikipedia

    ウィリアムは英語式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人もフランス語を使っていたため、むしろフランス語式にギヨーム(Guillaume)と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓にはラテン語風に GUILLELMUS と綴られている。

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    ノルマンディー公時代ノルマン人の支配するノルマンディー地方の君主であるノルマンディー公ロベール1世の庶子として、フランスのファレーズで生まれた。母は北西フランスの皮なめし職人の娘アルレット。出生のため庶子公ギヨーム(Guillaume le Bâtard)とも呼ばれる。


    1035年、父から継承者に指名され、エルサレム巡礼に出発して戻る途中に没した父の後を継いでフランス王の臣下であるノルマンディー公になったが、若年のため重臣達との争いが起こり、1047年にフランス王アンリ1世の助けを得てヴァル・エ・デュヌの戦いで諸侯の軍に勝利、領内の安定化に尽力して勢力を蓄えると、1049年にウェセックス王アルフレッド大王とマーシア王オファの子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダと結婚したが、近親であることを理由にローマ教皇レオ9世から婚姻の無効を申し立てられた。

    *何かこう「本来の出自が日本列島先住民系部族か渡来人か定かではないが、とにかくヤマト王権内における渡来人代表の地位を保つ為に何世代にも渡って渡来人との政略結婚を重ねてきた結果、血統的には渡来人そのものと成り果ててしまった蘇我氏」とか「モンゴル世界帝国に対して臣従を誓う為に何世代にも渡ってモンゴル人王妃を迎え続けてきた結果、血統的にはモンゴル人そのものと成り果ててしまった高麗王室」を連想させる。実際の「臣」は、こういうプロセスを経て形成されてくるのである。

    この頃のイングランドはサクソン七王国の支配の後、一時デーン人の支配を受けたが、再びウェセックス王家のエドワード懺悔王(デーン人に祖国を逐われノルマンディ公と政略結婚したエゼルレッド2世の末裔)がイングランド王に即位した。その地位は周辺国の微妙な力関係の上に依拠するもので、世嗣のいないエドワード懺悔王の跡を周辺国の王や諸侯達は虎視眈々と狙っていた。

    「エゼルレッド無策王/無思慮王(Æthelred the Unready)」イングランド王エゼルレッド2世(Æthelred II、在位978年〜1013年、1014年〜1016年) - Wikipedia

    エドガー平和王とその妻エルフリーダ・オブ・デヴォンの子。兄のエドワード殉教王が暗殺されたため10歳で王位についたが、その治世を通じて絶えずデーン人の侵入に苦しめられた。デーン人が侵入する都度、イングランドは「デーンゲルド」と称される退去料を支払ってきた。これは一時的な平和には寄与したものの、度重なる支払いでイングランド財政には大きな負担となった。
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    エゼルレッドは、デーン人がノルマンディーを拠点としてイングランドに攻撃を仕掛けることを恐れた。そのため、ノルマンディー公国と友好関係の樹立を図り、ノルマンディー公リシャール1世の娘エマと結婚した。またデーン人に対する懸念から、国内のデーン人を虐殺した。このことは、当時のデンマーク王スヴェン1世の反発を招き、デーン人の侵入を激化させることになった。イングランドの国内勢力をまとめ上げることもかなわず、ついに1013年、デーン人の攻撃に屈して姻戚関係にあったノルマンディーへの亡命を余儀なくされた。
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    こうしてスヴェン1世にイングランド王位を奪われたが、翌1014年にスヴェン1世が急逝した。そのため、エゼルレッドはイングランドに帰国して復位を果たした。しかし、デーン人のカヌート(のちのデンマーク王クヌーズ2世)がイングランド遠征を引き継いだため、引き続きデーン人との攻防は続いた。だが、1015年には3代の国王に仕えて「デーンゲルド」政策推進の中心人物であった重臣エアドリチがカヌートに内応して離反してしまう。これによってイングランド側は苦境に立たされる。こうした状況の中、生涯を通じてデーン人と争ったエゼルレッドは、1016年に病没した。

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    その後、エゼルレッドの息子エドマンド2世が王位を継承した。しかし、間もなくエドマンドも死去したため、デーン人のカヌートがイングランドの王位につくことになる。エゼルレッドは旧セント・ポール大聖堂に埋葬されたが、その墓は1666年のロンドン大火で聖堂とともに焼失した。

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    デーン人に国を奪われたために後世「無思慮王」と呼ばれ、歴代のイングランド王の中でもジョン王と並ぶ暗君と言われ続けたが、その一方で同時期の古文書の研究の進展とともに、エゼルレッドの治世において初めて文書による行政運営が行われたことや、法典編纂などが進められた事がわかり、その後のイングランドの政治の範となった要素も少なくないことが知られてきた。

    イングランド国王エドワード懺悔王 / 証聖王(Edward the Confessor、在位1042年〜1066年) - Wikipedia

    エゼルレッド2世と2度目の妃エマの子。エドマンド2世の異母弟。聖公会カトリック教会で聖人。白子(アルビノ)で柔弱な性格であったといわれる。「エドワード懺悔王」は Edward the Confessor の定訳だが、この「Confessor」とは、迫害に屈せず信仰を守った聖人を呼ぶ際の称号のひとつで、日本のカトリック教会ではこれを「証聖者」と訳している。そこから、近年ではこの王のことをエドワード証聖王(エドワードしょうせいおう)と記した書籍も多い。

    デーン人のデンマークノルウェー王スヴェン1世の侵略を逃れ、幼くして母エマの故郷ノルマンディーの宮廷に亡命する。4半世紀をそこの修道士達と過ごし、ノルマンディーの風習を取り入れる。1041年、異父弟であるハーディカヌートデンマークノルウェーイングランド王クヌートとエマの息子。スヴェン1世の孫にあたる)に招かれて共同統治者となった。ハーディカヌートの死後の1043年4月3日、ウィンチェスター寺院でイングランドの王として戴冠された。

    1045年に結婚した妻エディスの父であるウェセックス伯ゴドウィンの勢力に対抗するため、ノルマン人を教会と国家の高い地位につかせ勢力の均衡を図った。ロバート・オブ・ジュミジエールをカンタベリー大司教に据えたことなどが挙げられる。ゴドウィンはエドワードを王に推戴したのであるが、エディスとは形式として婚姻関係を結んだにすぎず、エドワード自身は修道士としての純潔にこだわったため、後継ぎをもうけることがなかった。1051年にマーシアノーサンブリアの伯と共同し、ゴドウィンを宮廷から追放することに成功したが、翌年にゴドウィンと息子ハロルド(後のハロルド2世)は亡命地から帰還し、逆にノルマン人の有力者を追放することになった。

    1066年死去。甥で異母兄エドマンド2世の息子エドワード・アシリングを後継者に定めていたが、1057年に亡くなると又甥エドガー(エドワード・アシリングの息子)を改めて後継者に指名した。しかし、若すぎたことから諸侯会議はハロルドをイングランド王に指名、ハロルド2世として即位したが、弟トスティとノルウェー王ハーラル3世、ノルマンディー公ギヨーム2世(エドワード懺悔王の従甥)が反発、最終的にギヨーム2世がイングランドウィリアム1世として即位した。

    支配者というより心情としては修道士で、柔弱と無為無策ぶりでサクソン国家を定着させる機会を逸し、彼のノルマン人への信頼はノルマン・コンクエストの下地をつくったとされる一方、後世に徳の高い王者として聖人視され、王朝の守護者として尊崇された。その信仰心は、1045年から1050年にテムズ河上流に基礎を造られたウェストミンスター寺院によってもうかがい知ることができる。ヘンリー3世以後、イングランド王はエドワードが建てた聖堂で戴冠され、代々の王たちはエドワード懺悔王の法を守ることを誓うこととなった(ヘンリーの王子エドワード1世は懺悔王にちなんで命名されたという)。しかし実際のところ、懺悔王自身は立法者ではない。

    ノルマン・コンクエスト以前の最後の王として「自由なイングランド」に普及していたとされる法を象徴する人物として、年代記において理想化され伝説となった。死から95年後の1161年に列聖されている。

    1052年にイングランドへ渡海、懺悔王から王位継承を約束されたとされる。懺悔王の母エマがギヨームの大叔母であることがギヨームの王位継承権の根拠となっており、また懺悔王はデーン人の支配をのがれて20年あまりをノルマンディーに亡命生活を送ってギヨームとは親しい関係にあった。
    ノルマンディーへ帰還後の1053年にマティルダと改めて結婚、レオ9世の結婚禁止令は1059年になって教皇ニコラウス2世によって解除され、イングランド王家と縁戚を得るに至った。マティルダとの間にノルマンディー公ロベール2世、イングランド王ウィリアム2世、ヘンリー1世、アデル(スティーブンの母)などが生まれた。後に腹心となる(ブルグント族末裔たるブルゴーニュ貴族出身だったアンセルムス同様、ランゴバルト族末裔たるロンバルディア貴族出身だったという伝承が存在する)ランフランクともこの頃に出会い、彼をルーアン大司教に任命した。1063年にル・マンとメーヌを征服、領土を拡大した。

    カンタベリーのランフランクス - Wikipedia

    アンセルムス - Wikipedia

    翌1064年、懺悔王の義兄でイングランド王家と連なるハロルド・ゴドウィンソン(後のハロルド2世)がフランスに渡ろうとして嵐で難破、ノルマンディーに漂着した。ギヨームはハロルドを歓待、ハロルドもギヨームに臣従の礼を取り、懺悔王亡き後のギヨームの王位継承を支持することも約束した。しかし、ハロルドはイングランド帰国後にこの約束を破ることになる。

    ノルマン・コンクエスト1066年1月にエドワード懺悔王が死去すると、ハロルドが名乗りをあげてイングランド王ハロルド2世に即位した。その弟トスティはこれに不満を持ちノルウェー王ハーラル3世を誘って、ヨーク東方のスタンフォード・ブリッジに攻め込んだ。ギヨームもエドワード懺悔王とハロルドとの約束を掲げて9月28日、6000人の騎士を含む12000の兵を率いてイングランド南岸に侵入した。両面に敵を受けたハロルド2世は、まずトスティとハーラル3世を9月25日のスタンフォード・ブリッジの戦いで討ち取ると、反転して10月14日にヘースティングスでギヨーム軍と戦った(ヘイスティングズの戦い)。騎兵を主力とするノルマン軍ははじめ歩兵中心のイングランド軍に苦戦を強いられたが、敗走すると見せかけて後退し、それを追って敵軍が陣形を崩したのを機に反転して攻勢をかけ、ついにハロルド2世を討ち果たした。ドーバーカンタベリーも落とし、12月にロンドンを降伏させた。
    *ここで興味深いのはハロルド2世も「私生児ギヨーム」同様に家臣団をハスカール制に基づいて組織していたとされる点。

    ハスカール(古ノルド語:Huskarl)

    暗黒時代から中世初期にかけてのゲルマン民族、特に北欧やイングランドなどにいた職業軍人、傭兵の一つ。ハウスカール(英Housecarl)とも。

    封建制度が確立した中世ヨーロッパ社会であれば土地を媒体として騎士を戦争に参加させるなどして職業軍人を確保できるが、封建制度が無い、あっても未成熟な社会においてはハスカールは必要な存在であった。彼らは小規模ではあるが常備軍であり、幼少の頃から高度な戦闘訓練を受けて、首領や王侯貴族に私兵として仕え、その報酬として主に金銭や略奪品の分け前などを受け取っていた。しかしこうした首領や王侯貴族が十分な略奪を行わずハスカールへの報酬を払えない場合、ハスカールは彼らを排除したり見捨てたりすることもあった。自発的な戦闘集団であったため、このように主君に絶対服従を誓う決定力のある戦力とは言いがたかったが、ヘイスティングズの戦いでは例外的にハロルド2世が戦死した後も彼の配下であったハスカールは最後の一人に至るまで果敢に戦い、討ち死にしていったという。 また、時代が下ると傭兵全般を指してハスカールと呼ばれた。

    文献として初めて記録されたのは11世紀初頭からで、スヴェン1世がイングランドを征服しハスカールの制度をイングランドに持ち込んだことから始まる。イングランドでのハスカールは王宮に住み、1人の伯に対して250~300人が仕えていたという。当時のイングランドとしてはほぼ最強の戦士集団であり、相次ぐ戦いでハスカールを消耗したこともハロルド2世がウィリアム1世に敗北した要因の一つだと言う。

    1066年12月25日、ギヨームはウェストミンスター寺院イングランドウィリアム1世として戴冠した。こうしてウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を得た。

    エドワード懺悔王の又甥で後継者に指名されていたエドガー・アシリングを擁立したスコットランド王マルカム3世(エドガーの姉マーガレットと再婚していた)とデンマーク王スヴェン2世は1068年に北部貴族の反乱を支援してイングランドに侵攻したが、1071年に阻止、マルカム3世を臣従させてエドガーと和解、イングランド支配を安定させた。

    イングランドの統治ウィリアム1世は旧支配勢力のサクソン貴族を駆逐して土地を奪うとノルマン人の家臣に与え、同時に戦時への参戦を約束させ、イングランド封建制度を確立した。王領もイングランド全域の5分の1に達し、御料林の拡大と直轄軍所有で王権も拡大した。1070年にランフランクをカンタベリー大司教に任命、1072年にランフランクがヨーク大司教を従属させようとして生じた争いに干渉し、カンタベリー側に肩入れしてこれを第1位の大司教と定め、イングランド宗教界を傘下におさめることにも成功した。ローマ教皇グレゴリウス7世は世俗君主による聖職者の任免を問題としていたが、ウィリアム1世イングランド国内の聖職者に対する国王の優越を主張、後にイングランドにも叙任権闘争が生じるきっかけとなった。

    エドワード懺悔王の財務・文書制度は継承したが、国王裁判所の設置などで司法制度も整え、1085年には最初の土地台帳とも言うべきドゥームズデイ・ブックDomesday Book)が作成され税制度も定められ、同時に軍事力も把握された。1086年にソールズベリーでイングランド全ての領主を集め、自分への忠誠を誓わせた(ソールズベリーの宣誓)。この宣誓は以後のイングランド王も繰り返し行い、貴族の家臣である陪臣も国王と直接忠誠を誓う義務を負った。

    ノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England) - Wikipedia

    以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯(earl)が各地に割拠している状態だったが、ウィリアム1世イングランドの統一を推進した。ノルマンディー式の封建制を取り入れて、ヘイスティングズの戦いなどで戦死・追放した諸侯の領土を没収し、配下の騎士たちに分け与えた。さらに、各州(シャイア、shire)に州長官(シェリ)を置いて、王の支配を全土に及ぼした。

    緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、当初、ハロルド2世の一族やエドガー・アシリングをかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された。その後も1070年にデーン人、スコットランド王などの支援を受けてヨークシャーなど北部で反乱が起きた。所領を奪われたサクソン人やデーン人達はロビン・フッドのモデルの1人といわれるヘリワード・ザ・ウェイクを首領として、ウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧された(1074年)。これ以降、イングランドは安定した。


    エドガーはスコットランドに逃亡し、その姉マーガレットは後にスコットランド王マルカム3世と結婚した。2人の間の娘イーディス(マティルダ)は後にサクソン人とノルマン人の融和の証としてヘンリー1世と結婚することになる。

    ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く死亡したり、司教、修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた。また、カンタベリー大司教もサクソン人のスティガンドが解任され、イタリア人のランフランクスが就任しているが、これはローマ教皇の意向が働いており、以降イングランドにおけるローマ教会の影響力は強くなり、ウィリアム2世の時代のイングランドにおける叙任権闘争につながっていく。

    ノルマン・コンクエストとは、ノルマン人の農民が大挙襲来して、サクソン人の農民が大挙追放されたことではない。サクソン人の領主が追放されて、ノルマン人の領主が取って代わっただけにすぎない。その意味で、ノルマン・コンクエストとは、国民全体から見ればごく少数の領主・貴族に限った征服だとも言える。当然ながら、民衆の中から古英語やイングランド文化が消滅したわけでもない。

    ウィリアム1世の支配の下で、サクソン人は土地を奪われた。サクソン人の一部はスコットランドや各地に逃亡し、はるか東ローマ帝国に傭兵として雇われるものもいた。

    ウィリアム1世は所領を与える際、まとまった一地域を与える代わりに各地の荘園(マナー manor)を分散して与えた。征服が少しずつ進んだことによる必然でもあるが、このため一地域を半独立的に支配する諸侯は生まれなかった(王族などに例外はある)。諸侯は所領が分散しているため反乱を起こしにくく、また支配地域の安定のために王の力に頼る必要があったため、王権は最初から強かった。一方、諸侯はお互いに頼りあうことになるため、王に対しても協力して対抗しやすく、後にマグナ・カルタイングランド議会の発展につながる要因となっている。

    また全国の検地を行い、課税の基礎となる詳細な検地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を作り上げた。当時のフランス、ドイツ、イタリアは大諸侯が割拠する封建制であり、イングランドの体制は西欧で最も中央集権化が進んでいた。

    フランス王の封建臣下であるノルマンディー公が同時にイングランド王を兼ね、フランス王より強大になったことによる両者の争いは、プランタジネット朝においてさらに激しくなり、百年戦争を引き起こすことになる。また、それまでのイングランドではスカンディナビア、ゲルマン文化の影響が強かったが、フランス文化がこれに取って代わることになり、政治的にもフランスと深く関連することになる。

    ウィリアム1世に従う北フランス各地の貴族たちは、ひとまずイングランドに定着したが、その後しだいにウェールズアイルランド東南部、スコットランドにも広がってゆき、フランス北西部とブリテン諸島は北フランス文化圏に組み入れられることとなった。

    ノルマン人の子孫であるノルマンディーの貴族たちは、移住してから100年程度たち、風習、言語ともにフランス化していたので、イングランドではそれまでのテュートン系古英語に代わり、ノルマンディー方言(ノルマン・フレンチ、アングロ・フレンチ)を中心とする北フランスの言語が貴族社会の言語となった。また、英語もこれらの言語の影響を強く受け、中英語へと変化した。

    動物を示す英語と、その肉を示す英語が異なる(例:豚 - pig, swine/豚肉 - pork; 牛 - cow, bull, ox/牛肉 - beef; 羊 - sheep/羊肉 - muttonなど)のは、イングランドの被支配層が育てた動物の肉を、ノルマンディーからの支配層が食用としたために、二重構造の言葉となったケースの典型といわれている。その他 yard と garden、dove と pigeon などの例が挙げられる。

    このほかにも、文化的な語彙を中心に、多くのフランス語が英語に流入した。なお、当時のフランス語では ch (多くラテン語の c /k/ に由来)と書いて /tʃ/ と発音したが、その後転訛が進み、現代フランス語では /ʃ/ となった。当時の発音は英語の中に遺されているということになる(例:Charlesはフランス語ではシャルル、英語ではチャールズと読む)。

    また、法廷や公文書などもフランス語で表記された。これは1362年に『訴答手続規則』(The Statute of Pleading)において英語を用いるように定められるまで続けられた。

     1087年、フランス遠征中に落馬して受けた傷が原因で、ルーアンに近いサン・ジャーヴェにて60歳で亡くなった。死因はマンテの攻城戦の折、落馬した時に鞍頭で受けた胴部の傷が原因だった。遺体はノルマンディーのカーンにあるセントピーターズ教会で埋葬された。

    次男ウィリアムはウィリアム2世としてイングランド王に即位し、長男ロベールがノルマンディー公に叙位された。後にロベール2世はフランス王フィリップ1世と結んで2度に渡ってウィリアム2世と対峙した。

    ウィリアム1世イングランド征服の後、イングランドが外国軍によって征服されることはなく、後の王家は全てウィリアム1世の血統を受け継いだ。またウィリアム1世の宮廷ではノルマンなまりのフランス語が使用されたが、時代と共に現地の言葉と融合し現代に至る英語が形成されていった。

    実際には似た様な制度は国際的に見受けられる。特に中国の食客制は中国官僚制度における「」の概念の起源となった。

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    食客 - Wikipedia

    中国の戦国時代に広まった風習で、君主たちが才能のある人物を客として遇して養う代わりに、主人を助けるというもの。門客(もんかく)とも言う。 彼らの中には任侠の志を持つ者が多く、場合によっては、命を差し出すこともあった。逆に主人を裏切り殺害することもあった。

    多数の食客を抱えたことで有名な人物は、戦国四君(斉の孟嘗君、 趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)、秦の呂不韋などがいる。彼らの食客は俗に三千人と言われた。

    食客は、その土地に封土を有さないため、諸侯などの「館(『官』が原字)」に起居し、「官」の起源となった。また、生計を封土からの収穫ではなく、その特別な技術・才能からの報酬により立てたので、「論客」「剣客」「刺客」等の語源ともなる。

  • 一方、欧州大陸諸国においては、十字軍・大開拓時代(12世紀〜14世紀)に同様の「継承すべき所領を持たない領主の次男坊以降や、全ての希望を失い格好良い死場所を探している遍歴騎士を集めての冒険新たなる所領を獲得出来れば成功者、失敗して全滅しても口減らし成功という冷酷なゲーム)」への挑戦がノルマン人を筆頭とする部族区連合外まで広がる。しかしあまりの成功率の低さからリュジニャン家や、王弟シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou)を祖とするアンジュー=シチリア家の様な「外征に取り憑かれた名家」を例外として次第に修道騎士団がその役割を担う様になっていく。

  • そしてイングランドにおいてはイングランドエドワード1世(在位1272年〜1307年)が、そしてフランスにおいてはフランス国王フイリップ4世(在位1285年〜1314年)がそれぞれユダヤ人追放を敢行して両国の中央集権国家化が本格化するのである。そして大飢饉の勃発(1315年〜1317年)と英仏百年戦争1337年/1339年〜1453年)と(最終的には西廻り航路開拓に至るポルトガルのアフリカ十字軍開始が時代の節目となる。

    カバラユダヤ神秘主義の成立11世紀〜12世紀

    最初の契機となったのはマグリブチュニジア以西の北アフリカ沿岸部)およびアンダルス(イベリア半島南部)を支配したベルベル人イスラム王朝ムラービト朝Almoravid dynasty、1040年 / 1056年〜1140年)やムワッヒド朝Almohad Caliphate、1130年〜1269年)によるキリスト教徒やユダヤ教徒に対するイスラム教への改宗の強制だった。これを嫌って現地のキリスト教徒やユダヤ人のキリスト教圏への亡命が始まり、所謂「12世紀ルネサンスRenaissance of 12th Century)」が花開く。

    12世紀ルネサンス(Renaissance of 12th Century) - Wikipedia

    アメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズ(Charles Homer Haskins 1870年-1937年)が「12世紀ルネサンス(The Renaissance of the twelfth century,1927年)」の中で提唱した概念。14世紀頃イタリアでルネサンスの文化運動が始まり、やがて周辺国に影響を及ぼしたとされる。また、ルネサンス以前の中世は暗黒時代とみなされ、中世とルネサンスの間に断絶があると考えられてきた。こうした従来の中世観・ルネサンス観を相対化し、中世と近世、近代の連続性を強調し、中世の再評価を図ろうとした。現在では多くの文化が当時イスラムビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、大きな刺激を与えて哲学、美術、文学など様々な分野で新しい動きがみられた事実が認められている。

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    ペストの流行によって検疫の都合上人が簡単に出歩けなくなった事は農奴制強化に繋がる一方で死を日常の一部として受け容れざるを得なくなった人々を時としてスケープゴートたるユダヤ人の迫害に走らせ、また時として表面上は平静さを保つ為の内省的な神秘主義に走らせたとされる。

    • 最近の研究によって魔女狩りはまだなかった事が明らかになっている。

    • 12世紀ルネサンスでヨーロッパに流入したヘブライ語文献やギリシャ語文献やアラビア語文献やそのラテン語訳の影響なら確実にあった。また中継貿易で栄えていたケルンなどライン川流域の諸都市のユダヤ人社会経由でカバラーが広まってゲルマン神秘主義に影響を与えた可能性も皆無ではないものの、いずれにせよこの時代まではカバラーもゲルマン神秘主義密教で言う雑密の様なもので体系立てられたものではなく、それ故に後世に与えた影響も限定的なものにならざるを得なかった。

    • この次元ではあくまで数秘術やセフィロトの樹を巡る様々な議論は出てこない。

    いずれにせよ後世に名を残したパラケルスス錬金術士のヨハン・ファウスト博士、占星術師のノストラダムスなどが台頭してくるのは15世紀から16世紀にかけてであって、神秘主義全体の歴史から俯瞰すれば当時の展開など些細な前史に過ぎないとも。

    英国王エドワード1世(在位1272年〜1307年)によるユダヤ人追放(1290年) 

    リュジニャン一族を優遇し、ウェストミンツァー寺院を当時フランスで流行していたゴシック様式に建て替えさせた「親仏派」ヘンリー3世(在位1216年〜1272年)が第二次バロン戦争(1264年〜1267年)で打ち倒されると、第8回十字軍(1270年)に従軍中だったエドワード1世(在位1272年〜1307年)が即位して以降フランスとスコットランドとの戦争に明け暮れた。当然軍資金と国家運営資金の調達が問題となり,1275年にユダヤ人に対する借金を棒引きにし、以降ユダヤ人が金貸し業に携わる事も禁止する旨を宣言。さらにユダヤ人社会の指導者達を投獄し多額の身代金を要求し,1290年にそれが支払われると全ユダヤ人を国外に追放した。

     

    • イングランドでは、この時代までにすでに封建制土地の接受を通して主君と家臣が主従関係を持ち、家臣が主君に対して軍役奉仕義務を負う制度)は消滅過程に入っていた。領主と土地保有者の間の土地接受関係は続いていたが、土地保有者が領主に対して負う義務は軍役奉仕より金銭に移行しつつあり、したがって両者の関係は「主君と家臣」というより、「地主と借地人」といったほうが適切になりつつあったのである。

    • この流れに拍車をかけたのは1290年に制定された再下封禁止法だった。これは国王や領主から土地を受封している土地保有者が土地を誰かに売却する再下封をした場合、購入者は売却者に対してではなく、国王や領主に直接に封臣としての奉仕責任を負うことを規定していた。

    • 国王や領主の封建的収入を上昇させる目的の法律だったが、これにより国王直接受封者の数が急増し、諸階層の水平化が進んで封建制度の精神の崩壊を招いた。すなわち国王の直接封臣であることがもはや何の自慢にもならなくなり、議会招集を受けることこそが自慢になったのである。
      薔薇戦争による大貴族連合没落後のジェントリー階層躍進を準備したとも。

    • これには封建社会から議会制国家への移行を促す効果もあったとされるが、いずれにせよ国王の封臣は急増し、国王の封建的収入は増え、王権強化に資したとされる。

    王室とユダヤ商人の関係の清算」もまた、こうした流れと同進行で進んだと考えられている。

    • 中世ヨーロッパにおいてユダヤ人はキリスト教会が禁じていた金融業によって財力をつけたが、高い金利で債務者から憎まれることが多く、ユダヤ人が頼れるのは国王の保護だけであった。保護を受ける代わりにユダヤ人は国王に命じられるままに金を献上せねばならなかった。ユダヤ人は国王の「私有財産」「奴隷」状態だった。もし国王が保護の手を引きあげればユダヤ人虐殺が起こるのが常だった。

    • イングランドユダヤ人が最初に入ってきたのはノルマン・コンクエストの時にウィリアム征服王に従ってであった。それ以前のアングロサクソン時代はあまりに原始的な社会だったので、金融業が入り込む余地はなかったが、フランスから来たノルマン朝プランタジネット朝の国王たちは他の大陸諸国の王たちと同じくユダヤ金融業者を必要とした。

    • ところが1290年になってエドワード1世はユダヤ人をイングランドから追放した。要因としては国王がユダヤ人を追放すると人々からは自己犠牲の行為として称賛されること、「微利金貸し」のキリスト教徒から金融を受ける目途が立ったため、財産没収による一時的な収入増加が見込めることなどである。

    ユダヤ人追放後イングランド金融はフランドル人、イタリア人、さらに後にはイングランド人資本家によって担われるようになっていく。ユダヤ人が再びイングランドに移民するのは近世のステュアート朝以降である。

    フランス国王フイリップ4世(在位1285年〜1314年)によるユダヤ人追放(1306年)

    国家運営資金とイングランドとフランドル伯に対する戦争の費用捻出に悩んでいたこの王がエドワード1世の政策を真似て遂行したもの。パリ高等法院を創設して売官できるようにしたり、三部会を設置して市中からも資金を吸い上げたりしたが、全て戦争を戦い抜く為とされた。しかし実際には国王が封建関係の頂点に立ち、従来の慣習を超えて国家の防衛や国益の為に動く先例が次々と積み重ねられていったのである。

    • この王は1307年にはテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕して全財産を没収した上,1314年に団長ら最高幹部を異端として火刑に処したが同年死亡。「アナーニ事件1303年)」でローマ教皇を憤死させ「アヴィニョン虜囚1309年〜1377年)」を敢行した悪名高い人物であったが同時に官僚制度を整備しフランスで初めてキリスト教会も例外としない全国的課税実施にこぎつけている。
      *ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」によれば、こうして誕生したアビニョン法王庁における贅沢三昧の日々が個人主義と資本主義の起源という事になる。教皇の膝下は同時にユダヤ人庇護地区でもあり、その「連日の宴会」を経済的に支えたのも彼らとも。実際、プロヴァンスにフランス王権が及ぶにつれ彼らはこの地においても居場所をなくしていくが、アビニョン教皇直轄領だけは終始その例外であり続ける。

    • 次の王の治世には帰国を認められたが1320年には「羊飼いの十字軍」と称する民衆運動の襲撃対象となり、翌年には5000人が「井戸に毒を投げ込んだ復讐」と称して生き埋めにされてしまった。こうした一連の弾圧の結果1322年までにフランス全土からユダヤ人の姿がほとんど見られなくなり,1394年にはほぼ完全に追放される事になる。

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    ちなみに追放されたユダヤ人の多くは、当時まだフランス領ではなかったプロヴァンスに逃げ込んだと考えられている。英国から逃げ出したユダヤ商人も合流。一方、ドイツに逃げ込んだユダヤ人はさらにこの地からも追放されポーランドリトアニアといった東欧諸国に逃げ込み、現地貴族の管財人という新たな立場を得る事に。ナチスドイツのホロコーストによってドイツ本国の何倍もの規模で虐殺され、アメリカに大量に亡命した東欧系ユダヤ人とは要するに彼らの末裔だったのである。

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    大飢饉の勃発1315年〜1317年)から英仏百年戦争1337年/1339年〜1453年)へ

    ロシアや南イタリアを含め欧州のほとんどの地域が大被害を被り、数百面人の餓死者を出したと推測されている。11世紀から13世紀にかけての成長と繁栄は完全に過去のものとなり、犯罪と疫病が蔓延。欧州はこの痛手から1322年まで回復する事はなかった。地域によっては幼児遺棄や共食いが横行。「ヘンゼルとグレーテル」の物語はこの地獄絵図の記憶から紡ぎ出されたと考えられている。
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    • 大飢饉」以外にも地域的飢餓が慢性化していた時代でもあった。フランスの場合は1304年〜1305年、1310年、1330年〜1334年、1349年〜1351年、1358年〜1360年、1371年、1374年〜1375年、そして1390年。イングランドも1321年、1351年、1369年に食糧不足に陥る。英国王室の公式記録によれば1276年時点の平均寿命は35.28歳。それに対して大飢饉を挟んだ1301年から1325年にかけては29.84歳、ペストが大流行した1348年から1375年にかけては17.33歳(産業革命以前の社会では幼児死亡率は非常に高くて当たり前だったので、この数字が直接成人の平均寿命に対応する訳ではない)。
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    • 1300年以前の中世温暖期、欧州人口は爆発的増加を経験してきたが、一方小麦の生産効率の低下は早くも1280年から始まっていた。そして北ヨーロッパは1310年から1330年にかけて(約5年に渡って続いたニュージーランドのタラウェラ火山の噴火の影響もあって)厳しい冬と雨と冷夏を経験する。

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    • そして当時の飢餓と疫病の流行で大被害を被ったポルトガルが起死回生を掛けて着手したアフリカ十字軍が、同時進行で(欧州経済の中心を地中海沿岸から大西洋沿岸に推移させる大航海時代を準備する。当初の目的は(岩塩と砂金を交換するサハラ交易の源を遡っての)西アフリカ沿岸到達だったが、以降は当時のオスマン帝国ヴェネツィアによるレパント交易独占に業を煮やしていたイタリア商人の融資が自然と集まってインドまで続く西廻り航路が開発される結果に。

    この時代の英国王エドワード2世(Edward II、在位1307年〜1327年)は英国史上最低の王とされる。優柔不断で政治への関心に乏しく全てをギャヴィストンやディスペンサー父子といった寵臣に丸投げして諸侯や議会との対立を深め(これらの寵臣は両性愛者の英国王と愛人関係にあると信じられていた)、1326年に王妃イザベラが起こしたクーデタで幽閉の身となり、その翌年に議会から廃位されたうえ、王妃の密命で肛門に焼け火箸を差し込む拷問などが繰り返された上で殺害されてしまうのである。そしてこれ以降、1330年までイザベラとマーチ伯がエドワード3世在位1327年〜1377年)の摂政として権力を握り続ける。

    エドワード2世 (イングランド王) - Wikipedia
    イザベラ・オブ・フランス(Isabella of France、 1295年頃〜1358年

    その美しさから、広くヨーロッパの各宮廷に「佳人イザベラ」として知られたイングランドエドワード2世の王妃。

    エドワード2世を廃位に追い込みエドワード3世摂政にして愛人だったロジャー・モーティマーと共に実権を握る。フランスと講和し、エディンバラノーサンプトン条約ではスコットランド王国の独立を認め、スコットランド王太子デイヴィッド(後のデイヴィッド2世)とエドワード3世の妹ジョーンの結婚による同盟を締結するなど数々の屈辱的外交を行い,1330年10月に親政開始を望むエドワード3世がクーデターを開始。

    ノッティンガムで逮捕されたモーティマーは11月末の議会で「悪名高き罪」により絞首刑を宣告され市中引き廻しの上、タイバーン刑場で処刑され遺体を切り刻まれた。

    太后イザベラが一切の権限を剥奪されライジング城へ幽閉されただけで済んだのはカペー本家出身でフランス王位継承権まで主張可能な立場にあり、エドワード3世が傍系ヴァロワ家出身のフィリップ6世の即位に異議を唱え、自らフランス王位継承を求めていた立場上罪人として捌けなかったから。 

     

    一方フランス国王ルイ10世(Louis X、在位1314年〜1316年)はフランドルやブルゴーニュ公国やイングランドとの戦争に明け暮れ強情王または喧嘩王と渾名された。しかし略奪による食糧状況改善にも穀物禁輸措置にも失敗。1316年にあっけなく崩御した後、後を継いだジャン1世もわずか1ケ月で崩御カペー朝の直系男子は断絶の憂き目を見た。ルイ10世の弟に当るフィリップ5世(Philippe V、在位1316年〜1322年)やシャルル4世(Charles IV、在位1322年〜1328年)の治世もあまりパッとせず、カペー朝は断絶。王位が従弟のフィリップ6世(ヴァロワ伯シャルルの子、Philippe VI de Valois、在位1328年〜1350年)に移り、ヴァロワ朝が開闢されるのである。
    ルイ10世 (フランス王) - Wikipedia

    ジュ・ド・ポームテニスの原型)好きで世界初の屋内競技場を建築した事でも知られる。

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    フィリップ5世 (フランス王) - Wikipedia
    シャルル4世 (フランス王) - Wikipedia

    シャルル4世はシャルル5世同様、あくまで領土拡大による問題解決を志向し続けたらしく、1323年にはフィリップ5世が1320年に中止した十字軍の計画を再開し(翌年頓挫)、1326年には反乱に苦しめられていた東ローマ帝国への介入を試みている(シャルル4世崩御で頓挫)。

    フィリップ6世 (フランス王) - Wikipedia

    フランス王位継承権を有する英国王エドワード3世の政敵であるスコットランド王デイヴィッド2世の亡命を許し、英仏百年戦争(1337年/1339年〜1453年)の引き金を引いてしまう。

    • ちなみにフィリップ6世の時代に(王位継承権争いを抑え込む為に)ドーフィネ領を購入してフランス王太子に与え、フランス王太子が代々ドーファンの称号を継承していく伝統が始まる。そしてこれを契機として(それまでドーフィネ地方の郷土料理に過ぎなかった)グラタン料理がフランス宮廷に伝わる。
      http://asset.recipe-blog.jp/cache/images/recipe/be/91/daca12095c1ce97b90b5b77ee95b620c0431be91.400x0.none.jpg

    そして、こうして始まった英仏百年戦争1337年/1339年〜1453年)によって現在のフランスとイギリスの国境線が確定し、いよいよ主権国家間の勢力均衡が歴史を動かす近世へと突入するのであるが、歴史のこの時点においてはまだまだこうしたイングランドやフランスの戦いは「地中海文明圏の片隅で密かに進行した些事」に過ぎなかったのである。

こうして全体像を俯瞰してみると、大英帝国の歴史においてはテューダー朝Tudor dynasty、1485年〜1603年)時代におけるウェールズ冒険商人の大活躍や清教徒革命時代(Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms、狭義1642年〜1649年、広義1638年〜1660年)にクロムウェル護国卿が決断した「大西洋シフト」といった一連の歴史的判断が「継承すべき所領を持たない領主の次男坊以降や、全ての希望を失い格好良い死場所を探している遍歴騎士を集めイングランドを征服した私生児ギヨームの冒険」の延長線上に浮かび上がってくるのでした。そこで主役となったのは、テューダー朝以降王国の藩屏として「アメリカ大陸の煙草貴族」「ネイボッブインド成金)」「カリブ海不在地主砂糖王」といった形で成功を勝ち取ってきたジェントリー階層。そして彼らが「マンチェスターの新興産業階層」に政争で敗れ(ルネサンス末期のイタリア商人が選んだ様に)金融業界へのシフトを考える様になった事で一つの時代が終焉を迎えたとも。

 

 

アイルランドプロテスタント出身の政治家エドマンド・バークは「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中でフランス革命指導者の軽率を攻撃し、英国人に慎重さを喚起する目的で「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法(prescriptive Constitution)」の概念を提唱した。


ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーは「大転換 (The Great Transformation1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘している。

*要するに没落したジェントリー階層には海外植民地で自らを試す新たな機会が与えられたのである。「事業に失敗して破滅しても棄民は成功した事になる」冷徹なロジック…

*ここまでが農本主義的資本主義の発展期。そして機械式工場制の時代が始まる…

そして、その精神はやがてアメリカ合衆国ドイツ帝国大日本帝国やや南アフリカに継承される事になったとか、そういう感じなの? 

幕末の尊王攘夷志士動向から浮かび上がってくるのは欧州大開拓期の雰囲気に近い。要するに所領を継げない次男や三男坊、遍歴騎士などは「最前線」に送られる。現地で成功したら領主になれるし、全滅したらしたで後腐れがない。台湾出兵(1874年)に薩摩藩士が託した思い、そして中江兆民「三酔人経綸問答(1887年)」で豪傑君が披露する「大陸浪人ロマンス」イデオロギー

台湾出兵(1874年) - Wikipedia

三酔人経綸問答(1887年) - Wikipedia