諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【七面鳥効果】【1970年代と1980年代を結んだ「うる星やつら」】「バットマンの乳首」事件なる一つの到達点。

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七面鳥Meleagris gallopavo)は英語圏では「トルコから来た」、トルコでは「インドから来た」、インドでは「ペルーから来た」、東南アジアでは「オランダから来た」といわれます。正解は「南米が原産」なのですが、伝播過程で様々な誤解が生まれた好例…

誰もが自国起源と認めたがらず、かつ「外国から伝播してきた」とした方が破壊力が増すエロ文化の世界はさらに強烈。例えば所謂メイド服の起源はビクトリア朝時代の大英帝国。本国では「東欧からの出稼ぎ女子使用人が着ていた民族衣装に産業革命の結果、大量生産に成功したばかりのレースをゴテゴテ貼り付けた成金趣味」といったニュアンスだったのですが、これがアメリカに伝播すると、そのエスニックさも合間ってBDSMニュアンスを帯びて水商売業界のセックス・シンボルとなり「フランス風メイド服French Maid)」と呼ばれる展開を迎えます。しかも、さらにこれが日本に伝播すると「和風セックス・シンボル」と目される展開に。

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*さらにこれを男性に着せるという倒錯まで登場…この「メーターが振り切れるまで女性的エロティズムの引き立て役として発展して着たアイテムが、最終的に男性に着せられてエロティズムの極北を迎える」なる展開は割と最近のトレンドで、現在の最高峰は「魔法少女トニー・スターク」とも。ちなみに魔法少女系列とアイアンマン系列とLGBTQA問題を結びつけたのは「正体のカミングアウト」問題だったりする。

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 ところで最近「1970年代文化と1980年代文化を結んだ重要作品」として高橋留美子うる星やつら1978年〜1987年)」を読み返してるのですが、そもそもこの作品って面堂終太郎なる主人のライバルが登場し、ラムも同級生として転校してきて完全にラブコメ的世界観に推移した1980年代以前から既に大成功を収めていて、その成功は(アジア系ながらその枠を超えたダイナマイトボディの持ち主として話題となった)アグネス・ラムのグラビアアイドルとしての大流行を契機に構想された作品であり「(日本人として標準的な意識と肉体性を備えた幼馴染)三宅しのぶ(ただし同じ日本人女性でもナイスバディで大人の魅力に満ちた巫女さくらがライバルとして登場し怒り狂う)」と「(日本人としての標準から大幅に外れる意識と肉体性を備えた異星人)ラム」の異文化デスマッチなる構成で勝ち取られてきたという歴史的経緯があったりするんですね。 

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*そう、おそらくは同時代の有名外国人としてユリゲラーやエマニュエル夫人が上がるあたりにラムちゃん出生の秘密が隠されているのである。とはいえ映画「エマニュエル夫人(Emmanuelle、1974年)」「続エマニュエル夫人(Emmanuelle II L'Anti Vierge、1975年)」上陸に伴うエマニュエル夫人(シルビア・クリステル)人気やアグネス・ラムブームはあくまで短く、ラムちゃんのイメージもグリーンブロンド(?)の欧米系美少女の伝統に吸収されていく。何この「売れれば売れるほど整形によって白人化していった」マイケル・ジャクソンを思わせる変遷? そういえば鬼族の肌は原則浅黒いが、ラムの肌の色は最初から白かった。この辺りにも当時独特のマーケティング感覚の暗黒面を感じずにはいられない?

*ところで実は「エマニュエル夫人(Emmanuelle、1974年)」や「続エマニュエル夫人(Emmanuelle II L'Anti Vierge、1975年)」なる作品、「外交官である夫と一緒に赴任してきて性に目覚める」エマニュエル夫人(シルビア・クリステル)や、彼女の属する上流外国人の社交界のメンバーこそ白人だが、舞台はバンコクでそこに描かれるのは描かれるのは「(白人を圧倒する)エスニックかつ豊潤なアジア人の伝統的性文化」なのである。実はこのあたりに「グラビアアイドル」アグネス・ラムの大ブームの源流があったとも。

*日本だと「四畳半襖の下張事件(1972年〜1980年、映画化1973年)」や(阿部定事件に取材した)大島渚監督映画「愛のコリーダ (仏L'Empire des sens / 英In the Realm of the Senses、1976年)」の擬古調ポルノ、村上龍限りなく透明に近いブルー(原作1976年、映画化1979年)」における(ベトナム戦争最中の)駐日米軍基地周辺の米軍住宅地区(治外法権で、当時は連日ドラッグまみれの乱行パーティが開かれていたとされる)、池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ(原作1977年、映画化1979年)」における地中海沿岸地域(性的に奔放なギリシャ)などが「ある種エスニックなエロティズム」の対象とされてきた。

大島渚(1932年〜2013年) - Wikipedia

父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。母親は広島県呉市出身。父親は農林省の水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々とし、カニやエビの研究をしていた。「渚」という名前もそこから付けられた。6歳の時、農林省水産試験場の場長をしていた父が死去し、母の実家のある京都市に移住した。その後、旧制京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学したが、学制改革とその後の学校再編に伴い、京都市立洛陽高等学校(後の京都市立洛陽工業高等学校。現在は移転の上京都市立伏見工業高等学校と統合し京都市立京都工学院高等学校)に移った。

1950年、京都大学法学部に進学。同窓には推理作家の和久峻三建築学者の上田篤や俳優の辰巳琢郎の父親がいる。在学中は猪木正道に師事した。また、京都府学連委員長として学生運動に携わり、全日本学生自治会総連合田豊昭委員長とともに京大天皇事件(1951年)や松浦玲が放校処分になった荒神橋事件(1953年)などに関わった。法学部助手試験は不合格となった。その際、猪木には「君に学者は向きませんよ」と諭されたという。また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。

京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。大船撮影所で大庭秀雄野村芳太郎などの元で助監督を務めた。1959年(昭和34年)、長編『愛と希望の街』で映画監督としてデビュー。同作のタイトルは当初『鳩を売る少年』であったが、松竹幹部から「題名が暗くて地味」だと指摘され、妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という改題を提案したが、公開時には本人の知らないうちに『愛と希望の街』へと変更されていた。翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになったが、自身はそのように呼ばれることを望まなかったという。

1960年(昭和35年)10月、日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧』を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優の小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立した。その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わった。この間、1961年秋に信州上山田温泉で按摩を呼んでも来ないことに業を煮やし、宿の女中を殴打するスキャンダルを起こす。この事件により松竹ヌーベルバーグ運動は終焉を迎えた。

1962年(昭和37年)の『天草四郎時貞』の興行失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げるようになった。1963年(昭和38年)の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は話題となり、翌1964年に脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』は芸術祭文部大臣賞を受賞した。その他にも『日本映画の百年』(1995年)など20本以上のテレビドラマやドキュメンタリーを手がけた。テレビでの仕事を通じて親交を深めたディレクターの一人に実相寺昭雄がおり、後に映画監督として創造社系の脚本家と多くコンビを組んだ。

1960年代後半には『白昼の通り魔』(1966年)や『忍者武芸帳』(1967年)、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など政治的・社会的な作品を矢継ぎ早に発表し、国内外での認知度も急速に高まった。

1971年(昭和46年)には創造社時代の集大成とも言われる『儀式』を発表。同作はキネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。翌1972年(昭和47年)の『夏の妹』の発表後、「創造社」は翌1973年(昭和48年)7月に解散した。その後は映画製作の資金を稼ぐためにテレビ出演などの活動を行った。1975年(昭和50年)、新たに「大島渚プロダクション」を設立。『愛のコリーダ』の製作に着手した。

1976年(昭和50年)、阿部定事件1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』を発表。同作は検閲を避けるため、若松孝二アナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた。第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、ハードコア・ポルノを思わせる過激な性描写が観客や批評家の間で話題となった。同作はシカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を受けた。2000年のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、依然としてボカシ修正が入り、日本では現在でも完全な状態での視聴は不可能となっている。また、1979年(昭和53年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。同年、東映のヤクザ映画大作『日本の黒幕』の監督に抜擢されたが、脚本の最終段階で降板。

その後は日本国外資本での映画製作が中心となり、1978年(昭和53年)に再び日仏合作による『愛の亡霊』を発表。性的描写は前作よりは抑制されたが、不倫した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという前作と類似する題材を扱った。同作は第32回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。

1983年(昭和58年)にはビートたけし坂本龍一デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。第36回カンヌ国際映画祭に出品された際にはパルム・ドール最有力候補と目されたが、無冠に終わった。同作で初めて映画音楽を担当した坂本龍一英国アカデミー賞作曲賞を受賞した。

1986年(昭和61年)の『マックス、モン・アムール』では人間とチンパンジーの愛を描いた。同作は主演にシャーロット・ランプリング、脚本にジャン=クロード・カリエール、撮影監督にラウール・クタールを起用し、全編フランスで撮影された。

*「HOUSE(1977年)」や「転校生(1982年)」「時をかける少女(1883年)」「さびしんぼう(1885年)」の尾道三部作で知られるも「少年ケニア1984年)」で「風の谷のナウシカ1984年)」に大敗を喫した大林宣彦監督同様、日本の映像史上大きな役割を果たした人。


*一方、村上龍は「限りなく透明なブルー」が吉田秋生「河より長くゆるやかに(1983年)」に影響を与える一方、そのSM売春や援助交際への関心が庵野秀明監督作品「ラブ&ポップ(原作村上龍1996年、映画化1998年)」につながる。

*性的に奔放なギリシャ…実際現地はそうでもないが「筋肉美賛美」の伝統がそういう幻想を産んだとも。

*ちなみに当時横溢していた「(日本女性の伝統美を脅かす)黒髪で破天荒なアジア系美女」なるイメージについては、当時アグネス・ラムを熱狂的に推した一人として知られる「こちら葛飾区亀有公園前派出所(1976年〜)」の秋本治が「いいゆだね!(1994年〜)」のヒロインでラム同様に「押掛姉さん女房」的立場にあるブラジル人三世の美女マリアが(あの独特の吊り目感も含めて)割と正確に再現している。何かこう「ジャクソン5の頃のマイケル・ジャクソンこそ本物」みたいな主張性を感じずにはいられない? そういえばアニメ版うる星やつらの主題歌って当時には珍しく南米ポピュラー音楽っぽいアレンジ…

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*この「心細いな」辺りは南米ポピュラー音楽の枠を超えてAswad「Shine(1994年)」みたいなDeepなレゲエ音楽に繋がる流れを感じる。同じAswadの「Fire(1990年)」がいとうせいこう「ワールズ・エンド・ガーデン(1991年)」と結びつけて語られる事が多いのと重ねて考えると中々感慨深い。

*そう、当時のTVアニメの中でこの作品だけ音楽面で「1980年代風」に追いついてくるのに一瞬ながら間があるのである。この放送事故的展開って一体何だったのか?

*実は昔から作品内容との関連で「ラストダンスは私と」との関連を疑ってきた。そもそもこの曲で「浮気な男子を辛抱強い女子がじっと耐えて待つ」アレンジになってるの日本のみで、他は全部逆だったりする訳で…

*そして背後に浮かび上がってくる化物めいた日本のプロデューサーの存在…

秦豊吉(1892年~1858年) - Wikipedia

舞台演出家、翻訳家、随筆家。日劇の創出者。1892年東京日本橋に生まれ64歳で亡くなった。ペンネーム丸木砂土

東京府東京市に生まれる。父は、歌舞伎役者の7代松本幸四郎の出身である、三重の秦家での長兄であり、秦豊吉幸四郎の甥にあたる。

東京府立一中を経て、一高では文芸部に。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事に勤めるが、文学趣味が強く、ドイツ文学を翻訳した。1917年から1926年まで社命でベルリンに滞在し、1923年結婚のためいったん帰国、その際関西に移住していた谷崎潤一郎を訪ね、谷崎は秦の様子が変わったのを見て「友田と松永の話」のモデルにしたと言われる。
谷崎潤一郎の名前が出た時点で人脈網が「脚本家」虚淵玄のそれに接続。

大正6年から昭和7年まで三菱商事に勤める傍ら、ゲーテの「ファウスト」やレマルク西部戦線異状なし」を翻訳。特に後者は当時の大ベストセラーとなった。

またフリッツ・ラングメトロポリス (1927年)」原作となるハルボウの同名小説(1924年産業革命の成果を謳歌する富裕階層と彼らに奴隷として酷使される労働者階層の対立を描く)の翻訳も手掛けている(岩波文庫の先駆けとして流行した円本の一つ改造社「世界大衆文学全集第十五巻(昭和3年(1928年)11月初版)」として刊行)。一方、サディズムの語源となった異端作家の名前に由来するペンネームで「世界艶笑芸」など性風俗に関する著作を多く書いた。

昭和8年、東宝入社。日劇ダンシングチームを育て、日本に新しいショービジネスを根付かせたが、戦後、公職追放に遭う。その期間中もステージプロデュースに情熱を燃やし、ストリップショーの草分けといわれる「額縁ショー」を大ヒットさせる。東宝に復帰してからは重役として和製ミュージカルを手がけ、越路吹雪などの一流スターを育てた。

*ちなみに1980年代には「男が振り回されるバージョン」の方も「ブルームーン探偵社」の挿入歌としてブルース・ウィルスが歌ってヒットしたりしてる。Ricky Martin「Livin' La Vida Loca(1999年)」は突如として1990年代日本で流行した訳ではなく「(ある意味「ラムちゃんの色気」の大源流でもあった筈の)ラテン的エロさ」の潜在を背景にバックドラフトが起こったと考えるべき?

ロック・ユー! : 和訳-Kaoma

*ちなみに、こうした「ラテン的エロさ」の本場たるスペイン語圏において「アジアもここまでやる様になったか」と絶賛さえる一方、本国韓国の煩方(うるさがた)からは「何たる国辱!! 跡形もなく焼き払え!!」なる激烈な反感を引き出してしまい即刻国内放送一切を禁じられ訴訟の末に投獄スレスレまで追い込まれたのがヒョンナ(HyunAh)の「Trouble Maker」なのだった。

「トラブルが二人を引き寄せ、離れられなくして、最後の破滅まで追い込む(お互い死にたくないので一撃離脱を試みては失敗し続ける)」なる全体展開は「うる星やつら」における諸星あたるとラムの関係にも重なってきますが、もう「男と女どちらが待つか」なんてレベルの話じゃない。もし地球の支配権を巡る諸星あたるとラムの第1話の駆け引きが、この「Trouble Maker」のMVめいた国際謀略的緊迫感とエロティズムに満ちたものだったとしたら、果てさて「日本的価値観の代表」三宅しのぶはどう戦えばこの戦いに生き残れた事になってしまっただろう? ところでこうした(黒人音楽文化の延長線上に現れた)KPOP的エロティズムは、ディズニー映画にまで影響を与えていたりするのだが、さすがに当時国際SNS上の関心空間で最も話題となった「(倒錯した男尊女卑を象徴する)海亀ダンス」までは踏み込めなかった?

*「まぁ変と変を集めてもっと変にしましょう!!」なる日本でのコンセプトが1980年代前半には相応に突出していたにせよ、実際に顕現したそれは普通の日本人ついていけないほどエロティックだったのである。まぁ大体においてFrankie Goes to Hollywoodのレイズアップが悪い?

*実は(若者達を置き去りにして高度な技術合戦に突入したプログレやハードロックといった70年代音楽ジャンルへのカウンターとして一世を風靡した)拙い技術で政治的メッセージを連呼するロンドン・パンク・ムーブメントに対抗する形でスティングが名うてのスタジオミュージシャンを集めたポリス (The Police、 1977年〜1986年) の「ロクサーヌ(Roxanne、1978年、テーマは「売春」)」「高校教師(Don't Stand So Close to Me:1980年、テーマは「ロリータ・コンプレックス」)」「見つめていたい(Every Breath You Take、1983年、テーマは「ストーカー」)」も、今日の観点からすればそれなりに変態街道まっしぐら。

*そしてブリティッシュビート(ニューロマ+ロンドン・パンク)の象徴たるUltravox「New Europians(1980年)」からアン・ルイス「ラ・メゾン(作詞三浦百恵、作曲沢田研二、1982年)」への流れ…何故かどんどんエロくなる?


*この辺りから岡村靖幸が派生する。

*その一方で…

当時の認識では、こうした流れは「バットマンの乳首」事件こと「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲BATMAN & ROBIN、1997年)」の興行的失敗まで続いたとされています。ここにもまた決して忘れてはならない歴史区分が…

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