諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ホビット族】【フローレス原人】巣穴のリアリズム。

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そういえば「ホビット族は実在した!!」と騒ぎになったフローレス原人って天然の鍾乳洞に住んでましたよね。

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彼らは(ホビット族の元イメージとなった)ウサギの様に自力で穴を掘ってそこに住む事はなかったという事なの?

それにつけても大英帝国における穴居人のイメージは色々複雑。そもそも七王国Heptarchy、ヘプターキー)時代に覇権を競い合ったアングロ・サクソン族系諸族も、ノルマン・コンクエストThe Norman Conquest of England、1066年)に際して征服王ウィルアムと一緒に渡ってきた「ノルマンディ地方の食い詰め者集団」も先住民ではありません。

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◎そう、征服王ウィルアムと一緒に渡ってきた「ノルマンディ地方の食い詰め者集団」も、これを迎え撃ったイングランド諸侯もこの時代までにバイキング(北方諸族の略奪遠征)を最強となさしめていたハスカール(従士 / 食客)制を導入済みだった。

◎それ以前にブリテン諸島に割拠してきた部族連合も、基本的に大陸から渡ってきた連中だった。

七王国(Heptarchy、ヘプターキー、409年〜825年) - Wikipedia

中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が同島南部から中部にかけての地域に建国した7つの王国のこと。この時代を七王国時代とも呼ぶ。歴史区分としてはホノリウス帝がブリタンニアを放棄してから(409年、End of Roman rule in Britain)、ウェセックスのエグバート王がカレドニアを除くブリテン島を統一するまで(825年、エランダンの戦い)に該当する。

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ヘプターキー」という言葉は古代ギリシア語の数詞で「7」を指す「ἑπτάヘプタ)」と「」の「ἀρχήアーキー)」を足した造語である。最初にこの語を記したのは12世紀の史家ヘンリー・オブ・ハンティングドンであり、16世紀には用語として定着した。

アナキズム(Anarchism) - Wikipedia

アナキズムAnarchism)」という語は、「支配が無いwithout rulers)」を意味するギリシア語の「ἄναρχοςanarchos)」からの派生語で「~が無い」を意味する接頭辞「ἀν-an-)」と、政府や統治や権力を意味する「ἀρχήarchê)」と、思想や主義を表す「-ισμός-ism)」から構成される。

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*その概念の形成史上、古代人が「牧人の楽園」として理想したアルカディアを巡る諸概念の影響を色濃く受けている。

アルカディア(Ἀρκαδία / Arcadia, Arkadia) - Wikipedia

アルカディアは、ギリシャペロポネソス半島中央部にある古代からの地域名で、現在のアルカディア県(さらにエーゲ海沿岸のキヌリア地方をも含み、県都トリポリ)にあたる。農耕に適さない貧しい山岳地帯で、牧畜を主としていた事から後世に牧人の楽園として伝承され、理想郷の代名詞となった。

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その名称はギリシア神話に登場するアルカス(アルカディア人の祖)に由来する。英語風にアルケイディア、アーカディア、アーケイディア等と表記される場合もある。ラテン文字による綴りには「Arcadia」と「Arkadia」の2種が混在しているが、これは「Αρκαδία」が ギリシア語の「κ」をローマ字転写する際に「k」と「c」が混在することになったせいで、現在は両方とも普通に使われている。

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実在のアルカディアペロポネソス半島中央部に位置する古代アルカディア人の住地で、マンティネイア、テゲアなどのポリスがあった。前4世紀にはアルカディア同盟が成立し、中心地としてメガロポリスmegalopolis)が建設されている。

プラトンの「饗宴」においてソクラテスは自らの思想を「マンティネイア出身の婦人ディオティマ古希Διοτίμα、羅Diotīma)」の語る諸概念を代弁させるが、これも「アルカディアの地こそギリシャ人発祥の地」なる発想に基づく。とはいえ歴史のその時点においてそれは既に「ドーリア人が語り継いできた諸伝承」の影響を色濃く受けていたのだった。

ディオティマ(古希Διοτίμα、羅Diotīma)ないしはマンティネイアのディオティマ(英Diotima of Mantinea) - Wikipedia

プラトンの「饗宴古希Συμπόσιον、シュンポシオン、英Symposium)」において重要な役回りで言及される女性哲学者、巫女(祈祷師)。彼女の思想とされるものがプラトニック・ラブという概念の起源となった。

プラトンの『饗宴』において、宴に集まった人々は、愛の意義について議論を交わす。そこでソクラテスは、自分が若かった頃に、予言者で巫女であったディオティマから「愛の哲学」を教えられたと述べる。ディオティマという名は、「ゼウスによって讃えられた」という意味で彼女の出身地とされるマンティネイア(Mantineia)は、ペロポネソス半島にあった古代ギリシア都市国家であり、ペロポネソス戦争の際に、その最も大きな戦闘(マンティネイアの戦い(紀元前418年))が戦われた場所でもあった。

彼女について言及した史料は、プラトンによるものしか存在していないため、彼女が歴史上の実在の人物であったのか、架空の人物に過ぎないのかは定かではないが、いずれにせよ、プラトンの対話篇に登場する人物のほとんどは、古代のアテナイに実在していた人物に対応していることは明らかになっている。実際ソクラテスはディオティマが「アテナイにおける疫病の蔓延を遅らせることに成功した人物」でもあったと述べている。

19世紀から、20世紀初頭にかけての研究者たちは、ディオティマは、ペリクレスの愛人であったアスパシアの知性とウィットに感銘を受けたプラトンが、彼女をモデルに創作した架空の人物であると考えていたが、ディオティマが結局のところ誰なのかは、判明しているとは言い難いままである。アスパシアは、プラトンの対話篇『メネクセノス』に、そのままの名で登場するので、一部の研究者たちは、プラトンは言及する人物に仮名などは使っておらず、ディオティマも歴史上実在した人物だったはずだ、と考えている。

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饗宴(古希Συμπόσιον、シュンポシオン、英Symposium)において「マンティネイア出身の婦人ディオティマ」が語る「ギリシャ文明における元来の形での愛の概念」- Wikipedia

愛(エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち愛は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。このような生産的な性質をもつ愛には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。愛は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。愛がもとめるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデアであり、美のイデアを求めることが最も優れている。美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の愛である。

マンティネイアのディオティマ(英Diotima of Mantinea)が語った「プラトニック・ラブ」の世界 - Wikipedia

ディオティマはソクラテスに、性愛=エロースの誕生について、エロースが「資源と需要」の息子である、と語る。ディオティマの見解では、愛は神性の黙想へと上昇する手段である。ディオティマにとって、他の人々への愛の最も正しい用い方は、自らの意思を神性への愛に向けることであった。純粋なプラトニック・ラブにおいて、美しい、愛らしい他者は、人の意思と魂に霊感を与え、その意識を霊的対象へと向ける。人は、他者の美しさの認知から、特定の個人からは切り離された美そのものへの賞賛へ、さらに美の源泉である神性の考察へと進み、神性への愛へと至る。

*つまり最後に勝つのは「(「人体そのもの」たる)筋肉(及びその動き、すなわちスポーツや歌や踊りや生産活動が人間の心に引き起こす感動)」への愛という事? それにつけても防弾少年団「Mic Drop」の歌詞に「俺達ゃイソップ童話の時代からその出現が予言されてきたその英雄さ」とかあるの凄いなぁ…ある意味「翼をつけた虎の様に調子に乗らせたら際限を知らない」韓国のホルホル文化の最終到達型とも? 何が凄いって2PMの野獣ドル路線の延長線上なのに、この「野獣」もはや脱がない(脱ぐ必要を感じさせないタイプのパフォーマンスで観客を圧倒する)んだぜぇ…  

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  • ドーリア人が語り継いできた諸伝承」の歴史ギリシア神話において彼らの祖とされるヘレーンの息子ドーロスが移住したとされるドリス地方(Doris or Doris in Asia(Δωρίς ἡ ἐν Ἀσίᾳ))を故郷と考えていた古代ギリシャエスニック・グループの一つが語り継いできた。歴史学上はミケーネ文明が衰退した紀元前1200年頃から鉄の武器で先住民を征服しながらペロポネソス半島エーゲ海の島々への侵入を開始し、紀元前800年頃までに軍事に特化したスパルタや商業に特化したコリントゥスといったポリス(都市国家)を中心とする古代民主制を構築し「ギリシャ史上の暗黒時代」を終焉させたギリシャ人三大源流の一つと目される。ちなみに残り2つは紀元前3000年頃にドナウ川流域から移住してきて紀元前2000年頃にギリシャ本土中部のテッサリア地方やボイオティア地方を獲得した後にレスボス島経由でアナトリア半島西部に植民した北方諸族系エスニック・グループのアイオリス人、そして紀元前2000年頃にバルカン半島を南下してギリシャ中部やアナトリア半島小アジア)北西部に定住してミノア文明を滅ぼしアナトリア半島に勢力を持ったヒッタイト新王国時代紀元前1180年〜紀元前700年頃)の粘土板文書や、エジプトの碑文に、アヒヤワ(Ahhiyawa)の名前で登場するアカイア人紀元前8世紀頃にホメロスイーリアス」「オデュッセイア」で讃えられた英雄達の故郷にして「紀元前1200年のカタストロフ」以降衰退したミケーネ文明の構築者にして、旧約聖書においてエジプトから移住してきたヘブライ民族の前に強敵として立ちはだかった先住民の一つたるペリシテ人の祖先とも目されているの少なくとも一部)。そして、アナトリア半島において「世界で初めて硬貨コイン=金と銀が混合したエレクトロン現地における軍事的動員の対価として支払う形で導入した遊牧民族帝国リディアやアケメネス朝ペルシャが台頭すると、ペロポネソス半島への引き揚げ組が(アルカディア半島内陸部同様に「牧畜民の無政府状態」が長く続いてきた、フルリ人やヒッタイトと縁が深いアナトリア半島内陸部と深く関係する現地有力者起源譚が混淆したとされる。

  • ドーリア人が語り継いできた諸伝承の内容…「(「紀元前1200年のカタストロフ」以降、メソポタミアを席巻した破壊神ネルガル信仰のアナトリア半島伝来を起源とするヘラクレス信仰(これに対抗する形でアテナイ海上帝国が英雄王テセウスの伝承を形成)」や「(アイオリス人発祥の地とされるボイオキアやテッサリアに由来しコリントゥスの創健者とされる)シジフォス(シーシュポス、古希Σίσυφος, Sīsyphos、羅Sisyphus)」がこれに該当。そもそも現代人が知るギリシャ神話の大元となった(紀元前700年前後にレスボス島よりボイオキアに移住したとされる)詩人ヘシオドス (希Ἡσίοδος、Hēsíodos) が残した「神統記テオゴニアー、希θεογονία、英Theogony)」や「労働と日仕事と日々、農と歴、希Ἔργα καὶ Ἡμέραι, Erga kaí Hemérai)」について(当時新ヒッタイト帝国残党がアナトリア半島に割拠していたヒッタイト伝承の影響が指摘されている。

  • そう、地中海沿岸全域を支配していたフェニキア人商圏から東地中海沿岸を奪ったのはあくまでドーリア人商圏であり、アテナイ海上帝国は政治的にはペルシャ再襲来に備えてデロス同盟Delian League、478年〜404年)が締結され、それがペロポネソス戦争古希Πελοποννησιακός Πόλεμος、英Peloponnesian War、紀元前431年〜紀元前404年)によって破棄されるまで続いたにすぎないのである。そういえば紀元前5世紀にアナトリア半島からイタリア半島南部に移民した歴史家ヘロドトス希Ἡρόδοτος, Hēródotos、羅Herodotus)もまたドーリア系だった。

②「相応の火力を装備した膨大な維持費を必要とする常備軍を中央集権的官僚制度が徴税によって養う絶対王政時代に入ると、バロック時代にロココ芸術の基礎を築いた(ノルマンディ地方出身の)ニコラ・プッサンがフランス宮廷側の要請に従う形で「アルカディアの牧人たち1637年〜1638年)」を制作。墓石にラテン語で"Et In Arcadia Ego"(我はアルカディアにもある)と書かれているのを牧人たちが覗き込んで想いにふける様を描いているが、ラテン語の名言である、Et in Arcadia ego とは「死神アルカディアにおいてでさえも、存在している」という意味であり、生のはかなさと死の不可避性を説いたメメント・モリの一例である。

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③派生語「アルカディア」を意味する英語「Arcadian」は、形容詞としては「牧歌的な」「純朴な」、名詞としては「アルカディア」「アルカディア住民」を意味する。

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  • 俗語(アメリカ英語)においては、ゲームセンターの客を指す。語源は異なり、「アーケードの」から来ている。

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  • カナダの地名アカディアアルカディアが語源と言われる(現地語説もある)。

とどのつまり、様々な反体制ロマンの重要な源泉の一つ… 

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 英国史の特徴は7王朝時代まで遡っても「無政府状態」が存在しない事。さらに遡るとローマ支配に現地の蛮族連合が対抗した時代となってしまうが、英国人は「ローマ支配によって文明化された事」をかえって誇りに思っている。

実際にアングロ・サクソン人が建国した王国は7つのみではなく、多数の群小のアングロ・サクソン人および先住のブリトン人の小国家群とともに林立したが、次第にその中で有力な国家が周囲の小国を併呑して覇権を広げていった。7つという王国の数は、これらの覇権を広げた有力な国を、後世7つの大国に代表させたものである。

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上記以外にも以下のような小国が多数存在した。

こうした王国群の中から後のイングランドが形成され、その領土は「アングル人の土地」という意味で「イングランド」と呼ばれることとなる。

*ここで思い出すべきは、フランク王国カール大帝が絶大な権力を掌握した時に「ブリテン諸島有識者層」 が官僚供給階層として機能した辺り。例えば修道院学校(abbey school)を優れた人材育成場に整備してカロリング朝ルネサンスを代表する修道士/神学者となったアルクィン(Alcuin、735年? - 804年)は、イングランドブリテン島のヨーク出身だった。

その歴史

アングロサクソン人の登場は5世紀くらいだと伝えられているが、実際のところは分かってはいない。伝承では南サクソンのエール、西サクソンのチェルディッチ、キュンリッチ父子、または史書ブリトン人の歴史』に登場するヴォーティガンの宿敵ジュート人(ケント王国)の長ヘンギストなどが挙げられるが、どれも伝説的な人物像であり、ブリテン島に上陸した年月も考古学から出た年代の整合性が合わないでいる。しかしそれぞれが5世紀中頃から覇権を争ったものとは考えられている。

彼等サクソン人は西進を続けるものの、ブリトン人の反撃を受け「バドン山の戦い」と呼ばれる激戦で大敗北、数世代に渡って膠着状態となった。この戦いはどこでなされたかは分かってはいないが、劣勢のブリトン人を指導したと伝えられる者がアーサー王のモデルとなったと考えられている。とくにサクソン人は壊滅的な打撃を受け、再び進攻が始まったのは西サクソンのチェウリンが王になった頃からだと言われている。

王国が形成されつつある当初はアングル人の建てたノーサンブリアマーシアが隆盛を誇り、ノーサンブリア王のエドウィンデイアラ王)、オスワルド、オスウィ、そしてマーシア王ペンダなど非常に強力な王が存在した。彼らはしばしばブレトワルダと呼ばれ、イングランドの覇を競ったと伝えられるが、この覇王の称号が実際使われたものなのか、それとも後世の年代記者の創作の賜物かは分かってはいない。またこの時代ローマ系キリスト教が再上陸し、ケント王エゼルベルトを最初にイングランド各地に広まった。同時にウェールズコーンウォールブリトン人が保持してきたケルトキリスト教は劣勢となった。

ブレトワルダ(Bretwalda) - Wikipedia

*日本でいうと「ヤマト大王の概念の成立史」に該当する研究。雄略天皇の即位が「群臣応挙」によって形式上承認される儀式が、この領域では「盾に乗せた国王を群臣が持ち上げる」儀式に対応する。

ウェセックスが台頭し始めたのはキャドワラ王となってからである。数世代前に父祖の地をマーシアに獲られたウェセックスは東に進撃、サセックス、ケントを侵略した。同時にこの時代から大陸よりノルマン人の一派であるデーン人がブリテン島に定住し始め、東沿岸部のノーサンブリアイースト・アングリアはこの侵略の前に守勢になる。その中でウェセックスはデーン人に対抗するアングロサクソン人の求心力を得て、825年のエランダンの戦いでエグバートの率いるウェセックスマーシアに勝利してイングランドを統一した。

同じころ、デーン人の侵入が活発化しており、イングランドを侵略、ノーサンブリアイースト・アングリアが滅亡する中でウェセックスは唯一生き残ったアングロサクソン王国となる。878年5月、劣勢の中でアルフレッド大王がエサンドゥーンの戦い(古英語: Battle of Ethandun、現在のウィルトシャー州エディントン付近)でデーン人に勝利、同年末にウェドモーアの和議が締結されデーン人の支配地域をデーンロウとして認め一種の均衡状態による和平を築いた。そしてこの時代、彼の元で古英語文献の集大成が行われ、ウェセックス王国アングロサクソン文化の伝統を築き上げる。このことがデーン人の侵略という困難の中でかえってアングロサクソン人の求心力を呼び、後に全てのアングロサクソン諸国を統一し、スコットランド王国の恭順を受けたウェセックスは後のイングランド王国の母体となった。その後デーン人、ノルマン人とイングランドの支配階級が変わることになっていくが、デーン人は支配階級として政治に参加する者はアングロサクソンの出自であっても「デーン人」と呼ぶのを慣わしとしており、また後世11世紀に数多くのノルマンディー公国出身のノルマン人貴族が支配者として入ってきた際にイングランドにある数多くの階級制度に驚いていることから、七王国時代の社会制度はこの時まで温存されていたものと思われる。

その社会制度

5世紀になって帝政ローマの影響力がなくなるとアングロサクソン人がブリテン島にやってきたが、彼らは後に記されるような単独の王を持つ王国というよりは部族の連合体に近い形で、ウェセックスノーサンブリアイースト・アングリアを形成してきたものと思われる。またアングロサクソン年代記に記される歴代ウェセックス王の系譜の中に統治時代が重なる複数の王が存在していることから、七王国時代の、少なくとも初期においては必ずしも王権は1人の王のもとで集約されているものではなく、複数の王たちが共有していたものだと思われている。

この時代、アングロサクソン部族の構成員は「メイズ (maegth・mœgth)」と呼ばれる7 - 9親等の父系制部族に属して暮らしていた。メイズの首長たちは各村落の家族に「ハイド (hide)」と呼ばれる分配地を与えていた。そして部族が戦争、開拓で新たな土地を得られたときにはメイズ単位で移動し、また別部族との抗争もメイズ単位での行動となった。各部族の構成員は自由人であれば基本的に平等で、このメイズによって保護された。もし抗争で犠牲者が出た場合、相手に復讐するか相手側から「人命金 (wergeld)」でもって購われた。しかしこの人命金は上位の自由人(貴族)、自由人、奴隷との間で差異があった。

しかし貧富の差が時代を下るうちに広がり、各構成員が首長のもとで平等であったメイズの体制がほころびを見せ始め、代わりに貴族が自由人の保護の保障をする保証人制度と呼ばれる制度が確立していった。しかしこの制度は同時に自由人はメイズの保護下から特定貴族の支配に受けることを意味しており、上位の階層の庇護を必要とする下層自由民は次第にその地位を隷属民のそれへと降格、後の農奴身分の形成へとつながった。これは一種の封建制であり、後のデーン人の支配ではさらにこの傾向を強めていく。

その宗教

帝政ローマ支配下の属州ブリタンニアではキリスト教の布教がローマ人の入植とともに広まっていたが、5世紀にブリタンニアが放棄されると廃れてしまっていた。七王国時代の初期の王は古代ゲルマンの多神教信仰であったが、アイルランドからキリスト教が伝播してくる。このキリスト教は大陸のカトリックの発達とは関係なく独自に発達したケルトキリスト教であり、イングランドへは6世紀聖コルンバにより最北部にあるノーサンブリアから広まった。
*最近の研究では東方正教会の影響を見る向きも。まぁシスマ(東西教会大分裂1054年)以前だし、ローマ教会が力をつける以前の時代だったので様々な進学が辺境で発生し得たという側面も。

これに対してカトリック側が再び上陸する。教皇グレゴリウス1世は聖アウグスティヌスブリテン島に遣わし、エゼルベルトの統治するケント王国へ伝道、エゼルベルトの改宗に成功する。そして聖パウリヌスがノーサンブリアへ伝道、エドウィンを改宗させることに成功した。その後異教徒であったマーシア王ペンダの隆盛で速度が停滞するものの、オスワルド王の治世にリンデスファーン修道院を建設、その影響力は隣国マーシアイースト・アングリアまで及んだ。この影響力と比較してケルトキリスト教は太刀打ちできず、ウィットビー教会会議を期に減退していった。

◎しかも最も先住民に近い立場にあるケルト人の伝承においてすら、彼らは大陸から渡ってきた事になっており、その伝承によればさらなる先住民は「地下に隠れた」事になっていたりする。

◎しかも英国には「ソニービーンAlexander "Sawney" Bean(e)伝説」なんてものも伝わっている。要するに穴居人は恐怖の対象でもあり続けてきたのである。

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ソニー・ビーン(Alexander "Sawney" Bean(e)) - Wikipedia

15世紀頃スコットランドにいたとされる人物。一族を率いて多数の人間を殺害、その肉を食したとして処刑されたという伝説で知られる。英語の綴りの表記からすると「ソーニー・ビーン」と読む方が適切と考えられるが、「ソニービーン」と表記する場合も多いので、便宜的に後者を用いる。

ビーン一族に関する話はロンドンのニューゲート監獄の犯罪カタログ『The Newgate Calendar』に掲載されたものが広く出回っており、エディンバラの観光産業の一端を担うほどである。コリン・ウィルソンなどもこれを参考に執筆したとされるが、ビーン一族を取り上げたものとしては1843年に刊行されたジョン・ニコルソンなる人物の著書『ローランドの昔話』が初出である。多くの歴史家はビーン一族と彼らの起こした事件が事件と同時代の公文書、書簡、日記、出版物などには一切登場しないことに注意を呼びかけているが、これは事件の残虐性を重く見たスコットランド王朝が全ての記録を抹消・封印したためとする説もある。

『The Newgate Calendar』によるとビーンスコットランドイースト・ロージアンで14世紀後半に生まれたとされる。父は庭造りや溝掘り、廃棄物処理等の日雇い労働に従事し、ビーンも若い頃はそれを手伝っていたが、怠惰で粗暴な性格であったため、労働を嫌って家を飛び出した。そして、性悪な女と知り合ってギャロウェイ(ブリテン島西岸のノース海峡に面した半島。現サウス・エアシャイア)付近にあるバナーン・ヘッドの海岸の洞窟に暮らすようになった。洞窟の入口は、満潮時に海面下に隠れるので人目に触れ難かった。労働を嫌った2人は、日々の生活の糧を得る為に、共謀して通り掛かる旅人を襲うことを思いついた。しかも自分達の存在や犯行が露見しないよう、必ず相手を殺し、死体を洞窟に持ち帰った。この様にして得た金品で食料品などを購入していたが、充分ではなく、飢えに迫られた彼らは、殺した人間の肉を食べることを始めたとされる。

ソニービーンと妻は共に性欲が旺盛であったとされ、男8人、女6人の子を儲け、さらにその子供達は、近親相姦を繰り返し男18人、女14人を産んだという。最終的にビーン一族は48人の大家族となった(50人とする意見もあり)。子供達は通常の教育は全く受けず、言葉もたどたどしかったが、旅人を襲って取り逃がすことなく殺害し、解体して食糧に加工する技術を学び、強力な殺人集団を形成した。彼らは普通の食べ物ではなく、専ら人肉を食料としたという。

ビーン一族は優れたチームワークで行動し、決してその犯行や存在を世間に知られることはなかった。襲う相手の人数は必ず5人以下とし、それ以上の集団には手を出さなかった。襲撃する場合は、相手がどの方向に逃げても対処できるよう仲間を配置した。そのため、ビーン一族に襲われて生還した者はなく、ギャロウェイの海岸一帯で人間の失踪事件が多発することが知られるようになっても、誰も真相を掴めなかった。行方を絶った旅人が最後に宿泊した旅籠の経営者や素行不良者、犯罪歴のある者などが治安当局に逮捕され、無実の罪で処刑されたが、もちろん失踪事件は跡を絶たなかった。スコットランドの人々は、超自然的な力や悪魔が跳梁していると噂した。彼らに殺され、食べられた人数は、30から40人、300人以上、1500人以上という説もあり、定かではない。

ビーン一族は、25年間に渡って犯行を続けたが、ある時、1頭の馬に乗って通り掛かった夫婦を襲って失敗し、妻は捕らえて殺すことが出来たが、夫は馬に乗って逃走、待ち伏せていた者達も疾走する馬は停められず、また大人数の集団が接近して来たので、諦めて撤退せざるを得なかった。逃げ延びた男はグラスゴーの役所に訴え、ついにその凶行が露見した。そしてスコットランド国王ジェームズ1世に報告され、事件を重く見た国王は、自ら400人の兵を率いて追捕に赴いた。ビーン一族の洞窟は人間には見付け難かったが、猟犬が臭いを嗅ぎつけ、一族は全員が捕縛された。洞窟内からは、盗品に混じって夥しい数の人肉や人骨が発見され、ビーン達の犯行が明るみに出た。

ビーン一族の所業は極めて邪悪なものとされ、裁判は行なわれず、全員が極刑に処せられた。男は両腕両脚を斧で切断されて失血死するまで放置され、女はその様子を見せられた後に火炙りになったということである。
*ここに見てとれる「更生不可能だから全員処刑するしかなく、処刑する側もそれを楽しんだ」という思考様式は、しばしばフランス革命政府が王党派に対して行った残虐行為(リヨンやトゥーロンといった国王庇護下で発展を遂げてきた都市におけるインフラの徹底破壊と住民の霞弾による無差別虐殺や王党派本拠地ヴァンデに対する「見つけ次第妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む」地獄部隊(Colonnes infernales)の派遣)の正当化に用いられてきた。そして、なぜかこうした残虐行為はやがてドイツ人(ナチスだけでなく第一次世界大戦の従軍兵も行っていたとされる)や大日本帝国軍兵士の専売特許と目される様になり「あらゆる先天的ナチス民族が自ら喜んで全財産を差し出し、輪姦され、拷問死を遂げる事によってのみ人類平等と人道主義の精神は本来の姿を取り戻す(こうした考え方に少しでも違和感を覚える異端者は、全員先天的ナチス民族の血族だから一緒に族滅される)」なる激烈な潔癖主義思想に辿り着く事になる。ただしドイツ人については最近、ユダヤ人が中東に建国したイスラエルがああいう有様なので「本当に滅ぼすべき先天的ナチス民族はユダヤ人だった」なる斬新な解釈から免罪されるケースも増えてきている。その結果(アジアにおいて国民党のナチズムと戦ってきた)大日本帝国こそが「先史時代から続く先天的ナチス民族の代表者」と目される斜め上の展開に。

こうした歴史があったので10世紀にヴァイキングイングランドの間で起こった「モールドンの戦いThe battle of Maldon、991年)」に取材した英国最古の叙事詩モールドンの戦い10世紀末〜11世紀成立)」の続編という体裁で「指輪物語」著者トールキンが発表した「ベオルフトヘルムの息子ベオルフトノスの帰還」において(当初は彼ら自身も「ブリテン島への侵略者」に過ぎなかったアングロ=サクソン系諸侯の子弟が「イーリヤス」や「テーバイ攻めの七将」や「ベオウルフ」と言った武勇伝を挙げてその偉業を礼賛すると、同行するイングランド人農夫(かつてアングロ=サクソン系諸侯に屈服し、今やデーン人への鞍替えを考え始めた先住民達を代表する立場)は「戦争など腹が減るばかりだ」とぼやくのです。

だが、ここで「戦争など腹が減るばかりだ」とぼやいた「先住民」は英国においていかなる姿でイメージされるべきだったのでしょう。

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おそらく、まさにこの疑問こそが(あらゆる歴史と無関係に悠々自適の穴居生活を送ってきたとされるホビット族が誕生した経緯。「塚人」の様な人食い穴居人や、力の指輪に魅せられて人間性を放棄したゴラムの様な世捨て人を切り捨てる事で誕生したある種のユートピア的部族誕生の瞬間だったとも。

そういえば穴居人はマイケル・クライトン北人伝説Eaters of the Dead、1976年)」にも独特な役割(一言で言うと文明の浸透を阻む絶対悪)を帯びて登場してました。

というか「北方諸族が冒険隊を組織する際、占いで異邦人アラブ人旅行者を仲間に加える」という「北人伝説」の展開自体、そもそも「ホビットの冒険」のパロディだった可能性もある?