諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【できるかな】【のっぽさん】【ヒッピー文化】何が御洒落かなんて移り行く?

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そういえばしばらく前、アメリカのネットで「娘が箪笥を勝手に漁って、チューリップハットベルボトムジーンズを発掘して、大喜びして身につけて学校へ行くんです」なる悲鳴を投稿するブームがありました。
*間違いなく下駄箱の「厚底ミュール」も狙われたと思われる。

パンタロンとかラッパズボンとも呼ばれていた、膝下が裾に向かって広がっているズボンといえば思い出したかな。丈長のブーツが下に履けるためにブーツカットと呼ばれることもあるよ。1960年代の中頃にパリコレクションから生まれたスタイルと言われていて、ヒッピー文化として定着してからは1970年代の後半まで世界中の若者に親しまれたんだ。

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日本で流行り出したのは1960年代も末になってからだから、ぼんくら少年は、まさに流行の最先端をいっていたことになる。2年近くに及んだ田舎暮らしから解放された反動で髪も長く伸ばしていたから、ベルボトムを穿けばチビながらヒッピー・スタイルが完成した。さすがに学校や友達と遊ぶ時は穿かなかったけど、ちょっと遠出する時はお気に入りのバンダナで長髪を縛り、妹にメタル系のブレスレットを借りて、いっぱしのロック・ミュージシャン気取りもいいところだった。

日本では70年代の前半に空前のヒットとなって、真夏の公園や行楽地なんかは、帽子といったら麦わら帽子とチューリップハットだらけという一種、異様な光景になっていた。値段も安かったし、クシャッと折り畳んでポケットに突っ込める手軽さもあったんだけど、やっぱり当時の「右向け右」式の典型といえる流行りだったと考えたほうが正解かもね(笑)。
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ぼんくら少年も小学生の頃はバンダナかチューリップハットが普通だったよ。これにベルボトムかお古のジーパンをちょん切ったハーパンを穿き、コンバースのスニーカーかサボ(靴底が木のサンダル)でまとめる。で、悪行の数々を働くために街に繰り出してたんだけど、以前にその辺は散々書いたからもういいよね^^;

当時始まったNHKの児童向け番組「できるかな1970年〜1990年)」は、まさにこの頃の最先端の流行のアーカイブだった訳です。

主題歌も当時流行の黒人音楽そのものですね。そういえば赤塚不二夫原作の東映魔女っ子シリーズ第2作アニメ「ひみつのアッコちゃん第1期1969年〜1970年)」のエンディングテーマ「すきすきソング作詞 - 井上ひさし山元護久 / 作曲 - 小林亜星 / 歌 - 水森亜土 )」や「オバケのQ太郎1971年〜1972年)」の主題歌(作詞 - 東京ムービー企画部 / 作曲・編曲 - 山本直純 / 歌 - 堀絢子&ニューロイヤル)もそうでした。

その一方で当時日本で放映されていた米国アニメ「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘Josie And The Pussycats、1970年)」の主題歌、オリジナル版と日本放映版ではこんなに違ってたのですね。

*そしてカリキュラ・マシーン(1974年~1978年)…

ちなみに今回の投稿を思いついたインスピレーション元。

  • 夜会服」…実はただ単に「時代遅れで誰も着ない服」になっただけでなく、それを利用して芝居界が「(物語を勧善懲悪で終わらせる為のスケープゴートとしての悪役」の衣装に採用したのが重要。そのせいでそれは吸血鬼ドラキュラ伯爵ばかりか、ガストン・ルルーオペラ座の怪人Le Fantôme de l'Opéra、1909年)」やモーリス・ルブランアルセーヌ・ルパンArsène Lupinシリーズ1905年〜1939年)」のイメージにも採用され(原作にそういう衣装を着る描写はないが、表紙や挿絵においてこういうタイプのキャラは必ず夜会服を着た姿で描かれてしまう伝統が存在した)、江戸川乱歩少年探偵団シリーズ1936年〜1962年)」の怪人二十面相「怪人」は「怪盗」の「盗」の字が当時の検閲で禁止されたので生まれた言葉)や武内直子美少女戦士セーラームーン1992年〜1997年)」のタキシード仮面に継承されるが、その過程で「(その不死性ゆえに時代倒錯な振る舞いを繰り返す間抜けキャラ」なる新たな属性を獲得。

  • タップダンス」…元は黒人音楽文化起源で、それをミュージカル界に根付かせたフレッド・アステアFred Astaire, 1899年〜1987年)もまた(祖父がユダヤ教徒からカソリックに改宗し、東プロイセンアルザスから渡米した)ドイツ系移民という異邦人(Stranger)振りだったが(映画製作原価を高騰させた)それにもかかわらずトーキー化とカラー化の過程でハリウッド映画界が手元に残そうとしたのはスペクタクル映画とミュージカル映画だったのである。

    そして、こうした流れは最終的にここへと行き着く?

つまり、これ「(産業至上主義という名の集-立(Gestell)システムが、あらゆるポテンシャルを食いつぶしていく地獄の碾臼としての資本主義」案件なのですね。

  • コール&レスポンスといえば「Hard Rockの雄Led ZeppelinのBlack Dog(1971年)にもバリバリ採用されていたのを思い出す。 
  • もしかしたら「Germany's answer to The Beatles, The Who, The Kinks, and The Rolling Stones.ビートルズやフーやキンクスローリング・ストーンズに対するドイツの回答)」と言われたKraftwerkの「Roboter1978年)」や「Das Model1980年)」や「電卓1981年)」におけるボーカル(ボコーダー)と楽器(電子音)の掛け合いにも影響を与えてる?


    歌詞と言語

    テクノ業界におけるそれには単なる演奏上のインプロヴァイゼーション的面白さというだけでなく(新左翼運動の政治的敗北をルサンチマンを込めた)独特の説教臭さというかプロパガンダ臭がKraftwerkの「Radio-Activity/Radio-Aktivität1975年)」とかVisageの「In The Year 25251978年)」とか坂本龍一のデビューアルバム「千のナイフThousand Knives、1978年)」といった前風景もあったりする。

    そしてYMOを最初に欧州に紹介したのがVisageを率いるスティーブ・ストレンジだったりと、この界隈は意外と狭い…そのスティーブ・ストレンジが時代の寵児でなくなった1980年代後半以降の本拠地に選んだのがスペイン領イビサ島で、M.I.A.がマドンナやレディ・ガガについて「1980年代後半以降のイビサ島のヒット曲のパクリ」と酷評した事が一つに繋がってくる訳である。
    *「イビサ島のヒット曲のパクリ」…当時騒がれたMadonna「Vogue(1990年)」「Bedtime Story(1995年)」Lady Gaga 「Bad Romance(2009年)」辺りが念頭?

    M.I.A. (エム・アイ・エイ、本名:Mathangi "Maya" Arulpragasam(タミル語表記:மாதங்கி 'மாயா' அருள்பிரகாசம்;マータンギ・"マーヤー"・アルルピラガーサ)) - Wikipedia

    1975年生まれのイギリスのミュージシャン、美術家、デザイナー。民族的にはタミル系スリランカ人 。 芸名は「Missing In Action戦闘中行方不明)」の略で、連絡の取れないLTTEのメンバーとして活動中のタミル人の父親に対するメッセージである。

    タミル・イーラム解放のトラ - Wikipedia

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    両親が仕事の都合でイングランドに滞在していた頃にロンドンのハウンズローにて生まれ、半年後には両親とともにスリランカに渡る。しかしLTTEのオリジナル・メンバーである父はまもなく政府に身を追われるようになり、彼は家族と生き別れになる。内戦を通じてマヤ達一家は多くの親戚や友人をなくし、マヤが11歳になる頃には母はマヤ達三人の子供を連れ難民としてイングランドに移住する。そこでマヤはパブリック・エナミーなどのヒップホップ、およびダンスホールレゲエといったクラブミュージックに初めて触れる。その後、マヤは著名なデザイナーが多数輩出している事で有名なセントラル・セント・マーチンズ に入学。在学中にはファインアートと映画を専攻し高い評価を受けていたため、ヴィジュアル・アーティストとして将来有望だった。卒業後、マヤはエラスティカのセカンドアルバムのジャケットを製作し、2001年の全米ツアーに映像ディレクターとして同行する。その時に前座を務めていたカナダのエレクトロ・ヒップホッパー、ピーチズのステージを見て感動し、音楽の道に進むことを決意する。

    まったくの自己流で楽曲の制作をはじめ、2003年秋にインディーズレーベルからアナログで「Galang」をリリース。500枚の限定生産だったが、ロンドンのDJ達に人気となり、晴れてXLレコーディングスとの契約にこぎつけ、2004年には「Sunshowers」で正式なデビューを果たす。その後フロリダのDJ、ディプロと共に、ミックステープ「Piracy Funds Terrorism」を2004年冬にリリースする。
    *彼女が2002年に開いた美術家としての最初の個展では、俳優のジュード・ロウが全て買い求めた。それで得た豊富な資金でセント・ヴィンセント島に旅行し、ダンスホールレゲエにインスパイアされたという。それが翌年の“Galang”への大きなキッカケとなったという。

    そして、2005年にはついにファーストアルバム『Arular』をリリース。このアルバムは当時としては非常に画期的であり、その後の音楽シーンに多大な影響を与えたと言われる。マヤの才能に惹かれたミッシー・エリオットは、彼女の6thアルバム『The Cook Book』に収録されている「Bad Man」にてコラボーレーションを実現している。
    *アルバムタイトルの「Arular」(அருளர்;アルラル)は父親のコードネーム、「Kala」(கலா;カラー)は母親の名前である。

    2007年、セカンドアルバム『Kala』をリリース。ビザの関係や自身の意向により大物プロデューサー勢からの打診を断って製作。プロデューサーはSwitch、Blaqstarr、ディプロ、ティンバランド、Morganicsとマヤ自身である。ローリング・ストーン誌の評価では2007年のベストアルバムと絶賛された。このアルバムには、ポルトガルのクドゥーロ・バンド、ブラカ・ソン・システマと共演した「サウンド・オブ・クドゥル」のスペシャル・エディションが収録されている。2008年に結婚。2009年1月に出産。

    2012年2月5日、アメリカン・フットボールの優勝決定戦であり、全米生中継される第46回スーパーボウルのハーフタイムショーにマドンナと出演し、そのステージで中指を立て、物議を醸した。2004年にジャネット・ジャクソンがステージ上で不適切な演出をして以降、ハーフタイムショーについてはディレイ中継放送を行っていたが、当日中継をしていたNBCはその行動を判別できず、そのまま放送してしまったため、謝罪を行うこととなった。

    2013年に「マタンギ」をリリース

    ライブのオープニングに革命家の外山恒一政見放送に英語字幕を入れたものを流したことがある。


    *日本音楽界は、この路線へ追随する流れで韓国音楽に決定的遅れを…

ところが司馬遼太郎アメリカ素描1985年)」によれば「音楽シーンをリードし続けてきた」黒人音楽には「(黒人音楽が黒人音楽であり続ける為に非黒人アーティストに成功を模倣される様になったら新境地開拓に向かう」悲壮な宿命が宿っているというのです。新たな出発点となったのはおそらくフランス発のHOT BLOOD「ソウルドラキュラSoul Dracula、1976年)」が引き起こした「怪奇ディスコ」ブームと裕福な住人も多い華やかで都会的なマンハッタンを、ブルックリン橋を渡ったらすぐの労働者街ブルックリンから見上げる若者達が「行き場のない青春エネルギー」を週末ごとに晴らすディスコを舞台に選んだ「サタデー・ナイト・フィーバーSaturday Night Fever、1977年)」辺り。

HOT BLOOD - Wikipedia

フランスのスタジオミュージシャンが集まって結成された。メンバーの名前や人数、経歴など詳しいプロフィールは明らかにされていない。

代表曲「ソウルドラキュラSoul Dracula、1976年)」が日本で大ヒットし、オリコンチャートでは7位にランクイン、売り上げは40万枚以上と好成績を収めた。

ソウルドラキュラ」のヒットで日本では「奇怪ディスコ」がブームとなり、次々と類似した楽曲(「ソウル・フランケンシュタイン(キャプテン・ダックス)」、「セクシー・ドラキュラ(ムッシュ・ゴラゲール)」等)がリリースされ、自身もその後数曲を発表したが、ソウル・ドラキュラに匹敵するほどの大きなヒットは出なかった。
*だが「ヴァンパイア・クロニクルズ」シリーズのアン・ライス(Anne Rice)が1972年8月5日に長女ミシェルを白血病で失ったことを契機として1973年に脱稿した処女作にしてシリーズ第1作となる「夜明けのヴァンパイア(Interview With the Vampire、1976年)」を出版したのはまさにこの時期なのである。


*パチモンの「ソウル・フランケンシュタイン」では「Bizarre!!(キモい!!)」ばかり繰り返している。ある意味「怪奇ディズコブーム」の本質を突いた逸話?


サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever、1977年)から(1970年に活動拠点をシカゴからロサンゼルスに移した)アース・ウィンド・アンド・ファイアー(Earth, Wind & Fire、EWF、1969年〜)の国際的大ヒットへの流れは想像出来ないでもない。 

そしてドイツではボニーMが「Daddy Cool1976年)」「Ma Baker1977年)」「Rasputin1978年)」を次々とヒットさせたのでした。

ボニーM(Boney M.) - Wikipedia

1970年代〜80年代に活動したドイツ出身のディスコバンドである。ドイツのミュージシャン、フランク・ファリアンが当初自身の変名としてプロデュースし、メンバーを集めた上、影のボーカルも担当した。ドイツのバンドではあるがメンバーはすべて海外(中南米とアフリカ出身)から呼び集め、歌詞も英語だった。

デビュー曲にしてドイツで1位、イギリスでもトップ10に入った「ダディクールのち、韓国のヒップホップグループDJ DOCが2000年に「Run to you」としてアレンジし大ヒット。更にこれをDJ OZMAが「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」としてカヴァーし、これもヒットしている)」、イギリスで2位となった「怪僧ラスプーチン」が代表曲であり、他の代表曲に「サニー」「バビロンの河」などがある。ドイツのみならず世界各国でヒットを飛ばし、ベストアルバム『マジック・オブ・ボニーM』はミリオンヒットを記録。

 怪僧ラスプーチンRasputin、1978年)」は、同じくドイツのディスコバンドジンギスカンがデビューするきっかけとなったことで知られる。日本でも70年代末のディスコブームに乗って大ヒットした。

*この「Rasputin」の歌詞中に登場する「Love Machine」なる単語こそがモーニング娘Loveマシーン(1999年)」の元ネタ? 元来は「性具」というニュアンスで、さらなる元ネタは米国のファンク・バンドThe Miraclesの「Love Machine(1975年)」とも。当時英米ビルボード・チャート最高1位、英国シングルチャート3位。

「Love マシーン」歌詞

*一方当時はこれである。

*この曲は日本いおける謎の「言語ゲーム(Sprachspiel)」展開でも知られている。


*スティーブ・ストレンジ率いるヴィサージも「Moon Over Moscow(1980年)」で参入を果たしている。あくまで御洒落…

*この「Moon Over Moscow」、曲内で「Visage Best!!」とリフレインするが、その真逆に「本当にこんな曲、誰が聞くんですか?」というナレーションが入るのがYMO「B.G.M.(1982年)」の「U.T.」だったりする。

*そして、しばらく後に「ロンドン・パンクの異端児」としてデビューしたザ・ポリスを率いたスティングもこの時代にトリビュートする様な作品をいくつか発表している。

楽曲 Bahama Mama を「バハマ音頭」と称して、日本の夏の盆踊りの中で利用している地域がある。発祥は不明だが、神奈川県藤沢市・千葉県柏市松戸市流山市・東京都・長野県・大阪府大阪市などのそれぞれ限られた地域で確認されている、地域住民にとっては若い人が中心となって盛り上がる盆踊り恒例の曲として1980年代後半から親しまれている。

そして、こうした当時の欧州における「露禍Russian Peril)」「黄禍独Gelbe Gefahr、英Yellow Peril)」ブームへの便乗を日本から狙ったのが、かの「黄色魔術楽団」すなわち「YMOYellow Magic Orchestra、1978年〜1983年)」だったという次第。本当に当時のこの界隈は驚くほど狭い…

そういえばYMOにおける細野晴臣の所謂「ズンドコ」ベースは既にボニー・M「怪僧ラスプーチンRasputin、1978年)」などに既にその片鱗が現れていて、UltravoxNew Europeans1980年)」を典型例とする「ブリティシュ・ビート日本におけるニュー・ロマンティックとロンドン・パンクの総称)」の世界への継承されていったのでした。
*「ズンドコベース」…ダンサブルで受けがいいから誰もが使っていた技法で、真の起源はまた別にあったとしても不思議ではない。これは横山光輝バビル2世(1971年〜1973年)」の「三つのしもべ」の元ネタとされる「怪獣王ターガン(1967年)」の主題歌日本語版を聞いても感じる辺りだが、もちろんそれがオリジナルの筈がない…

*そう、ウルトラセブン(1967年〜1968年)のカプセル怪獣のごとく「三つのしもべ」を召喚してる感じは日本語版主題歌にしかないのですね。 

*それにつけても「宇宙の平和を乱すヤツは、地獄の底へ突き落とせ!」か…「出てこいニミッツ、マッカ-サー、出て来りゃ地獄へ逆落とし」を思い出しますね。

当時の子供番組の音楽は割と素直にマカロニ・ウェスタンの影響も受けてたりしますね。「ムーミン1969年)」の「おさびし山の歌スナフキンのテーマ)」とか、手塚治虫原作アニメ「海のトリトン原作1969年〜1971年、アニメ化1972年)」とか。

いずれにせよニューロマもテクノもパンクもそれぞれこれを踏み台に次の次元へと進化していく。

*そしてもちろん、FunkyなカッティングギターといえばNile Rodgers率いるChic。ベース・スラッピングや曲中における「自バンド礼賛」の起源でもある?

*そして1980年代以降はこれに至る。過去改竄完了? まさしく「コリーダ(決闘)=虎と熊の喰らい合い(暗い愛)」という感じがする。

*当然「中国女(La femme Chinoise、1978年)」の元ネタはゴダール監督映画「中国女(La femme Chinoise、1966年)」な訳だけど、そこにはフランス映画「エマニエル夫人(Emmanuelle、1974年)」に込められた「欧米社会的オリエンタリズムがアジア的エロティズムに向ける憧憬混じりの眼差し」も投影されていたりするかやややこしい。

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*興味深い事にUltravox「New Europeans(1980年)」に実によく似たアン・ルイス「ラ・セゾン(作詞山口百恵、作曲沢田研二、1982年)」のアレンジはっこうした伝統から全く切り離された別物。第一「ラ・セゾン」はフランス語で「発情期」の暗喩で、歌詞内容も当時の日本における「エロといったらフランス」という思い込みに迎合した全く別物。こうしてこの系譜は「ブリティシュビートが日本のパンク界に与えた影響」とかとは完全に切り離されてしまうのだった。というか「ラ・セゾン」ってスラッピング・ベースじゃん…どういう混ざり方をしたらこうなる?

*その一方で当時のYMOはしっかり当時国際的に流行していたFusionの世界に通用する音楽を演っていたのだった。ただし、やはりそれはブリティシュビートの延長線上に現れたものではなかったのである…

こうして時代は「黒く」なっていく白人(ローリング・ストーンズレッド・ツェッペリン、そしてレゲエを取り入れたポリスやエリック・クラプトン。複雑怪奇な形で「日本人」を含む)と「白く」なっていく黒人(特に鍵を握るのはビサージやYMOに影響を与えたボニー・M、そして後にデビッド・ボウイと組むナイル・ロジャーズが率いたシック)の掛け合いという形で推移していくというお話…