諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【所詮はマルクス主義もネトウヨ?】「エログロ作品こそ時代変遷を貫いてきた錐(きり)」なのに?

最近「時代を超越して生き延びてきた化物作家のサバイバル術」の分析から独特の歴史観を浮かび上がらせられないか考える様になりました。

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*例えば、たった今検索を掛けて見つけたのが集英社が発行する少女向け漫画月刊誌「りぼん (RIBON)」の昭和47年(1972年)新年号付録に掲載された弓月光 「現代むふふ忍者伝どろん」 。「女の子に自分の運命を狂わされた少年の悲劇の記録」が少女向けエンターテイメント娯楽物として消費される興味深い構造。そしてその背後で恋愛至上主義を煽るラジオ番組(既に日本独自とされる「告白」文化がしっかり根付いている)。当時の風俗に関連してくるパワーワードに満ちている…

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*この人の「エリート狂走曲(集英社週刊マーガレット」1977年〜1978年連載)」および続編「サインコサイン三角関係」は、永井豪けっこう仮面集英社月刊少年ジャンプ」1974年〜1978年)」や小林よしのり「(集英社週刊少年ジャンプ」1976年〜1979年)」同様に当時の受験地獄を背景としつつ、柳沢きみお「月とスッポン(秋田書店週刊少年チャンピオン」1976年〜1982年)」「翔んだカップル講談社週刊少年マガジン」1978年〜1981年)」「新・翔んだカップル講談社マガジンSPECIAL」1983年〜1985年)」がラブコメ路線に舵を切り始めている点で重要。 

弓月光「エリート狂走曲 (1977年〜1978年)」- Wikipedia

*ちなみに「数理としての恋の三角関係」なるパワーワード池野恋ときめきトゥナイト集英社「りぼん」1982年〜1994年、アニメ化1982年〜1983年)」のアニメ版OPに「(女の子だけが持ってる)第六感コンピューター」とともに登場している。

 要するに全体像を俯瞰する基本的構図は「下部構造芸術家が食べていく為に甘受を余儀なくされる経済的制約が上部構造後世に残される作品を決定する」図式となります。

*この立場に立脚すると、最近流行の「作品発表者にとっては自らの作品が人に照覧される事自体が喜びなのだから、一銭も払わない我々の要求にもしっかり応えない限り社会的義務を果たした事にはならず駆除対象となる」式の論調がどれだけ傲慢か見えてくる。ちなみに、かつてそういった連中の一人から「それを言ったカール・マルクスなる時代遅れの人物がどういう人なのか知らないが、明らかに我々の信奉する(全人類に共通する「正義を貫かんとする良心の声」はあらゆる個人的事情に優先するという)社会的自由主義の理念から反しており、間違いなく狂ったネトウヨの大源流の一人なのは間違いない」などと暴言を吐かれた事もある。実はカール・マルクスも所詮はネトウヨだったですと? その一方で意外にも久米田康治原作/ヤス作画「じょしらく(原作2009年〜2013年、アニメ化2012年)」が思わぬ国際流行語を生み出した。「(一銭も払わねえ)冷やかしなんて客じゃねぇ」。まぁ、それ以前に「モンティ・パイソン海賊版に収入を大幅に脅かされてきたテリー・ギリアムが「モンティ・パイソンが本当に気に入ったなら、正規ライセンス盤も買って。でないと制作スタッフはこのコンテンツから一銭の利益も得られないんだ」と発言し、ネット上で「生温いな、制作者側はもっとはっきり自分の立場を表明していいんだよ」なる応援コメントが溢れ返っていたからこそ起こった現象。

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*もちろん「下部構造」としてのフリーミアム(Freemium)収支モデルと「タダ乗り(Freerider)問題」自体はさらに複雑怪奇な展開を迎えている。
フリーライダー(Freerider) - Wikipedia

 

  • 元来、作家は権力や富裕層のパトロネージュを受ける形でしか生存不可能だった。かかる厳しい環境下において独自路線を打ち出した代表的存在としては①明日をも知れぬ毎日を送る身上ゆえに本能的欲求に忠実に生き様としたコンドッティエーレcondottiere、イタリア傭兵隊長)をパトロンに迎え「ウルビーノのヴィーナス伊Venere di Urbino、英Venus of Urbino、1538年)」を残したティツィアーノTiziano Vecellio、1488年/1490年頃〜1576年)②「フランス宮廷芸術は古代ギリシャ・ローマ時代の質実剛健さに回帰すべき」と主張する新古典派から「都落ち」を強要されつつ(王宮から縁遠く、それ故に「国王の取り巻き連中」に反感を抱いていた)田舎貴族達のパトロネージュが受けながら「ぶらんこ1767年頃)」を残したフラゴナールJean Honoré Fragonard、1732年〜1806年)などが挙げられる。権力者や金持ちの中にも「変態」なら混じっていたからこそ成立した戦略だったといえよう。

    http://www.gallerianazionalemarche.it/wp-content/uploads/2016/08/Venere-Urbino.jpg
    http://www.wallpaperlink.com/images/wallpaper/2007/0707/03614x.jpg 

    *日本では荒木村重の子として生まれ福井藩松平忠直のパトロネージュを受けた岩佐又兵衛の「残酷絵」辺りがこの範疇に入る。
    岩佐又兵衛(1578年〜1650年) - Wikipedia

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  • こうした「パトロンと芸術家」の関係史上、イタリア・ルネサンス晩期(1480年以降)における「ヴェネツィアの三大発明」の意義は思うより大きい。①(比較的安価で携帯可能で大量流通に適した文庫本。②(カーニバル同様、重要な人寄せの観光資源でもある、豪華な劇場で上演される形式のオペラ。③(東欧のイコン文化の影響で生まれキャンバス地に描かれ、観光客に土産物として売れる搬送可能な油絵がそれだが、もちろんヴェネツィアは別に芸術家の事を思ってこういう発明をした訳ではない。オスマン帝国レパント海の制海権を奪われ、レパント交易に代わる収入源を至急確保する必要が生じたから次々とこういうものを生み出したに過ぎない辺りがヴェネツィア的といえばヴェネツィア的。逆をいえば、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロが活躍したフィレンツェルネサンスやローマ・ルネサンスの時代(イタリア・ルネサンス初期〜盛期)にはまだそんな便利な作品の発表手段は広まっておらず、従ってパトロンとの関係にあれ程振り回され続けなければならなかったともいえる訳である。
    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/60/Aldus_in_His_Printing_Establishment_at_Venice_Showing.jpg
    http://livedoor.blogimg.jp/kzfj0409/imgs/1/5/15efba68.jpg
    https://d18gmz9e98r8v5.cloudfront.net/ptr/20140725102634_1474200459_10137_8.jpg

    *実はこうした文化展開は、コーティザン(courtesan)と呼ばれる高級娼婦(クルチザンヌ)の歴史と表裏一体の関係にあったとされている。

  • 17世紀以降、欧州経済の中心は地中海沿岸から大西洋沿岸に推移。それでオランダにおいて画家は(良い意味でも、悪い意味でもカメラが発明されるまで)市民団体やブルジョワ家庭の肖像画を描くのを主な仕事を黙々とこなしてきた。もちろんこうした経済状況下においても相応のチャレンジなら存在したのである。例えば有名なレンブラントの「夜警De Nachtwacht、1642年)」。「隊員を平等に目立たせなかったから支払い額が減らされた」「その後肖像画の受注が激減した」なんて伝承があったりする。実際はこのセレモニーで話題になって大金をせしめ、その後は制作ペースを落としただけとも。
    http://yo-roppatabiannai.up.n.seesaa.net/yo-roppatabiannai/image/E383ACE383B3E38396E383A9E383B3E38388E5A49CE8ADA6.jpg?d=a1

    *この構造においては「エロ=反体制」の図式は成立しない点が重要。エロティズムは、むしろそれが政治動員されず放置されている状況下において自然状態へと回帰する。

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    5分でわかるデザイン様式:フランス宮廷の室内装飾、ロココ様式
    ロココ 絵画解説 世界の名画 有名絵画

  • そして19世紀後半に入ると産業革命の国際的波及が未曾有の規模での供給過多状態を生み出し、欧州大陸西部においては大不況時代(1873年〜1896年)を通じて消費経済の主体が王侯貴族や聖職者といった伝統的ブルジョワ=インテリ=政治的エリート階層から(産業革命によって高まった製品量産力に対応した大量消費者として台頭したブルジョワ階層や一般階層に推移する。

    ①「ファンクラブ」の登場。江戸幕藩体制下の日本においても贔屓の芸人を後援する「連」を組織する慣習が育ったが、欧州大陸西部においても各国のブルジョワ婦人が「超絶技巧派ピアニスト」フランツ・リストFranz Liszt、1811年〜1886年)の後援会を競い合う様に設立し、キャラクター・グッズを群がる様にして買い漁った。

    http://media.npr.org/assets/img/2011/10/22/gettyimages_50683158_wide-7d75271fb84a7857f978d7687ee6c17b67ea127d-s900-c85.jpg

    ②「ポルノグラフィ売春芸術)」概念の登場。江戸幕藩体制下の日本においても各藩の経済的自立を担う御用商人が(参勤交代を実践する為の交通インフラ整備が生み出した富農・富商の全国規模ネットワークとしての)株仲間に打倒されたのを契機に官許の遊郭京都島原、江戸吉原、大阪新地)・が岡場所や宿場女郎の発展に脅かされる様になったが、「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン3世が海外から次々と産業融資家を招いてやっと本格的に産業革命導入が始まったフランスでも同様の展開ならあった。問題は当時の日本の場合、遊郭文化がそのまま時代をリードする最先端文化の一つとして受容されていたのに対し、フランス保守層はその存在そのものを従来通り黙殺し続け様とした事。そのせいで「ポルノグラフィ売春芸術論争」が勃発する一方で「どんなエロも聖書や神話に擬えた象徴性が与えられてい限りエロではなく神聖」なるフランス・アカデミーの倫理フォーマット受容を甘受したアカデミズム画家達が「(後世の観点から見たエロ絵画」が黙々とただひたすら黙々と量産され続けるという恐るべき展開を迎えてしまう。

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    京都島原 (1589年〜)- Wikipedia
    吉原遊廓(1590年〜1957年) - Wikipedia

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    アカデミズム絵画 19世紀 フランス
    アカデミズム絵画(アカデミック美術)
    アカデミック美術 - Wikipedia
    *なぜ江戸時代の浮世絵に性交を題材とする猥褻画は存在しても「(西洋の様な形での)裸体画」が存在しなかったかというと、こういう形で「裸体」を消費する文化そのものが存在しなかったから。そして、その導入にあたっては改めて「どんなエロも聖書や神話に擬えた象徴性が与えられてい限りエロではなく神聖」問題との直面を余儀なくされている。

    *ちなみに当時の「ポルノグラフィ論争」には「ナチ曽根死ね」運動の成功体験(むしろ最後まで成功しなかった事によって、左翼陣営の間でカール・シュミットの政治哲学いうところの「友敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」が醸成された)の延長線上に構築された「安倍死ね運動」のさらなる大源流と目される「(あらゆる矛盾を露呈させながら)皇帝ナポレオン3世のあらゆる政策に反対するインテリの反体制運動」という側面も存在した。かかる党争至上主義はドレフェス事件(1894年〜1906年)を通じてさらに先鋭化され、遂には「これまでの人類の歴史の大半は党争至上主義者同士の不毛な動員合戦に過ぎなかった」と断言し「次の段階への進化」を促するジョルジュ・ソレル「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年初版)」が登場してくる訳である。

    *ここで重要なのが「ヨーロッパで最も危険な一揆主義(Putchism / Blanquisme)信奉者」オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)の「革命に勝利はない。体制転覆の成功は常に新たな反体制運動弾圧の始まりに過ぎないのだから」なる諦観にせよ、現代の階級闘争を「(党争至上主義者同士の不毛な動員合戦の巻き添えになる形での)支配階級の上からの権力発揮(フォルス)」と「(「神話」に立脚してこれに抵抗し自らの正義を貫こうとする)被支配階級の下からの暴力(ヴィヨランス)」との闘争としてとらえたソレルにせよ当時のフランス急進派自体は「体制側と反体制側が入れ替わってなお成立し続ける普遍的正義」には強い不信感しか抱いてない辺り。まぁ「国民主権」や「生得的人権」の擁護を大義として掲げる集団ほど、冷徹なまでに敵勢力や内ゲバの対立相手からはあっけなくそれを甘受する権利を剥奪し大量粛清やホロコーストを引き起こす現実をしっかり認識していた世代だったのである。とはいえドレフェス事件に先駆ける形でブーランジェ事件(1989年)が起こってる辺りを見ても、当時のフランスでこうした考え方が主流を占めていたとは限らない。そもそも上掲の「皇帝ナポレオン3世のあらゆる政策に反対するインテリの反体制運動」もまた、その根底には「(18世紀絶対王政期におけるフリードリッヒ大王包囲網以降)ドイツに向けられる絶対憎悪」にまで遡る民族感情が存在する。

    ブーランジェ事件(1989年)事件

    1889年、フランス第三共和政に対し軍国主義者が共和制転覆を謀った事件。首謀者ブーランジェ将軍が突然亡命して失敗に終わった。

    1889年、第三共和政に対する軍部・右派からのクーデター未遂事件。陸軍大臣だったブーランジェ将軍は、1887年に当時ドイツ領だったロレーヌ地方でフランス人が国境侵犯の疑いでドイツ側に拉致された事件(シェネブレ事件)が起きると、外交交渉による解決をはかる首相・外務省に対して、即時軍事行動による報復を唱え、閣内不一致で罷免された。一斉に将軍支持の世論が高まり、日頃対独復讐を唱え、軍備拡張を主張している王党派(ブルボン王朝の復活を主張)やナポレオン派(ナポレオンのような強力な国家指導者の出現を求める一派)などが愛国者同盟を結成し、共和政府打倒に動き出した。また急進的な労働組合主義、アナーキストブランキの系統)らは議会政治を否定する立場から共和政を倒し軍事独裁政権の樹立を支持した。普仏戦争の敗北後、当時は共和政政府の混乱や腐敗もあって、大衆はブーランジェ将軍を救国の英雄と期待していたので、同年に行われた選挙で多くのブーランジェ派(ブーランジェスト)が当選し、街頭では共和政府打倒、独裁政権樹立を叫ぶ群衆のデモが盛んに行われた。1889年にはクーデタの決行寸前まで行ったが、政府はコンスタン内相がブーランジェ将軍を国家転覆の陰謀の容疑で告発することで対抗した。その渦中でブーランジェは突然ベルギーに亡命したため、運動は急速に衰退した。

    愛人に殉じたブーランジェ将軍

    将軍にはマルグリット=ドゥ=ボムマン夫人という愛人がいた。将軍は陸軍大臣を罷免された後、クレルモン=フェランの地方司令官に左遷されたが、謹慎中であるにもかかわらず司令部近くの「マロニエの家」という旅館で、夫人と逢い引きを重ねていた。将軍には妻がいたが、離婚協議中であり、夫人にももちろん夫がいたが、二人は深く愛し合っていた。将軍が亡命先のブリュッセル、ロンドン、ジャージー島にも密かに夫人はついて行った。その間、夫人は肋膜炎で病に伏す。将軍は政治的な野心と夫人への愛情の板挟みで悩んだが、ついに愛を選び、夫人の死のあとを追い、1891年9月30日彼女の墓の前で拳銃自殺した。将軍のスキャンダルによって、ブーランジェ派の反共和政の運動は急速にしぼんでしまった。<大佛次郎『ブゥランジェ将軍の悲劇』1935 現在は大佛次郎ノンフィクション全集8(朝日新聞社)に収録>

    大佛次郎の警鐘

    大佛次郎は昭和5年(1930年)の『ドレフュス事件』に続いてフランス史に題材を採り、小説であるが史実に忠実に、軍部クーデター事件をとりあげ、昭和10年1935年)、『ブゥランジェ将軍の悲劇』として雑誌『改造』に発表した。それは日本でもまさに議会政治が危機に瀕し、軍部が台頭するという時期であった。そして翌年には二・二六事件が勃発する。大佛次郎はフランスという舞台を借りて、軍部独裁への警鐘を鳴らしたのだった。

    ブーランジェ将軍が独裁者になりきれずに自滅したので、フランス共和政の危機は救われたが、普仏戦争の敗北という中でフランス国粋主義に火がついたことは事実だ。フランスではいわばボヤのうちに消し止められたわけだがが、第一次世界大戦ヒトラーが現れたようなことがフランスで起こらなかったという保障はない。それは議会政治の危機、軍国主義的な風潮の復活という現代の日本においても、十分な警鐘となっている。

    *たとえば江戸幕藩体制下においては身分制を維持する為の結婚統制が心中事件やこれを題材とする芝居の流行を、さらには「男女が絡む性的表現」の禁止が「男の娘」概念を、「人間同士が絡む性的表現」の禁止が触手責めや妖怪強姦物というジャンルを誕生させてきた。こうした歴史の積み重ねこそが元来は「フォルス(体制側の統制)に対するヴィヨランス(統制を嫌う反体制側の抵抗)の対峙」の現実だった訳で、実際ソレルがいうところの「神話」も、その大源流を辿れば(特定の宗教儀礼の否定への反感に立脚していたが故に)どれだけ軍事力を投入しても鎮圧不可能だったフランスのユグノーやロシア分離派(古儀式派)の反乱や江戸幕藩体制下における隠れキリシタンの潜伏などに行き着く。そして、こうした「リバティー(Liberty、様々な闘いや運動を通じて獲得される許認可)を巡る闘争」は、「フリーダム(Freedom、漠然と存在している自然発生的自由権)を巡る闘争」と異なり、決して処方箋として「体制側と反体制側の逆転」を選ぶ事はないのである(あえて選ぶとすれば、地下活動の延長戦としての「別天地への統制なき楽園建築」あるいは亡命)。

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    カミザールの乱(La guerre des Camisards、1702年〜1705年) - Wikipedia

    ミサへ行く事を避けたい、迫害から逃れたい、神の命じ給う通りに神に仕える自由を得たい。これが我々の武装蜂起の主な理由だった。だから森の中でも荒野でも我々が最も必要としたのは信仰の実践だった。
    *カヴァリエ著「フランス・プロテスタントの反乱 カミザール戦争(1702年〜1705年)の記録(日本語版2012年初版)」より。

    *そもそもあえて勢力均衡の継続によってのみ、その弊害から免れ得る「究極の自由主義は先制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを超越した普遍的正義を設定するのはフォルス(体制側暴力)の戦略なのである。ところがそもそもその弊害を心配する以前に「全体を統制可能な中央集権の不在」が様々な問題を引き起こしていた革命後のロシアやイタリアやドイツの様な国々においては、かえってその登場こそが最終的処方箋と解釈される逆転現象が発生してしまう。その結果地上に産み落とされたのが民主集中制スターリニズム、大統領内閣やファシズムやナチズムだったという次第。 この段階に至っては、もはやその選択肢を選んでも「ヴィヨランス側の勝利」には行き着かない。それを体現していたのはむしろ(ロシア革命における)白系ロシア人や(ナチス台頭期に社会民主党とドイツ共産党ナチスの全てから弾圧され続けた)スパルタクス団(Spartakusbund、1915年〜1918年)残党や革命的オプロイテ(revolutionäre Obleute)だったという事。

    スパルタクス団(Spartakusbund、1915年〜1918年) - Wikipedia

    *日本の場合は特にこのエピソードを思い出す。 数百年前から何も変わってない?

    福井藩のお雇い外国人として明治維新を経験したW.E.グリフィスが「The Mikado's Empire1876年)」の中で描いた日本人独特の宗教観。
    *ウィリアム・グリフィス(William Elliot Griffis, 1843年〜1928年)…アメリカ合衆国出身のお雇い外国人、理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者。

    • 日本人は(「お天道様が見ている」といった)素朴な自然崇拝に従って生きている限り、善良なキリスト教徒として振る舞う。もし自分の内面から届く良心の声を「イエス・キリストの声」として聞く様になったら、まさしく善良なキリスト教徒そのもの。
      *ここでは「神=システムそのもの、イエス・キリストインターフェイス」と見立てられているっぽいのが興味深い。プロテスタント神学の一種だろうか?

    • ところが実際にキリスト教徒に改宗し、より確かな考え方を得てしまうと(徒党を組んで周囲の迷惑も顧みず布教して回るとか「法律を改定して全日本人にキリスト教を強制しましょう」と言い出すとか)狂った様な状態に陥ってしまう人がいる。かえって内面からの良心の声が自分に届かなくなってしまうのである。
      *自らの経験談らしい。

    マーティン・スコセッシ 監督映画「沈黙 -サイレンス-2016年)」の中で、かつては自身も信者の一員だった長崎奉行井上筑後守イッセー尾形)がキリシタン狩りを厳しく遂行し続けるのもこのせいとも。

    *この井上筑後守のモデル、あるいは大隈重信だったのかもしれない。

    ③一方、小説家にとっては「前門の虎、後門の狼」の展開だったとも。大衆なるもの、決っして王侯貴族や教会などと比べて機嫌を取り結びやすい相手ではなかったからである。

こうした壮絶な展開下「世代交代」は如何なる形で行われてきたのでしょうか?

 むしろ「私を殺せるなら殺してみろ」的開き直り?

これはいつの時代にもあった模様。そして…

この問題もやはり最終的には「究極の自由主義専制の徹底によってしか達成されない」ジレンマが勢力均衡によってしか克服出来ないという話に… 

 まだまだこの問題については書き足りてませんね…