諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【解放者としてのトランプ】まるで圧政が打倒されたかの様だった「リベラリズムの敗北」

メリークリスマス、ミスター・ローレンス…

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実は既に大統領選のあった2016年のクリスマスから起こり続けているドラマ。ちなみに当時のネット上では「Happy holiday!」派の視線が怖くて(最初からそんな制約を気にせず制作されており、しかも冬コミ宣伝で大量生産されていた)日本人絵師の二次創作系グリーディングカードが「あくまで引用だから!!」的言い訳とともに大量回覧されていたのです。それでも既に、まるでナチスドイツか第日本帝国の圧政が終わった開放感の様なものはしっかり感じられたものでした。

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http://jmadorran.tumblr.com/post/154952612571/i-hope-everyone-is-having-a-happy-holiday-d

jmadorran.tumblr.com

 あくまで個人的所感に過ぎませんが、少なくとも米国ネット空間上における「圧政」は「ウォール街を占拠せよOccupy Wall Street運動2011年9月17日〜2012年9月17日?)」を契機に始まった印象があります。実はこの運動、なまじ全米規模に広がり、かるその主要時期が冬季だったが故に連日死者を出し続ける展開となったのです。日本のマスコミは情報統制体制を敷いて徹底的ブロックを続けましたが、主要因はそのリベラル派的理念故に「万人に門戸を開いてしまった」事。その結果、浮浪者が紛れ込んで朝までに凍死してたり、犯罪組織からの逃亡者の逃げ込み先となって突如銃撃戦が始まるといったトラブルに連日の様に巻き込まれ続け、文字通り「死者が出ない日の方が珍しい」地獄絵図を招いてしまったのでした。

*もしコミケが毎回の様に死者を出し続け、しかも主催者が「自由を守り続ける為の戦いです。この程度の犠牲に怯んではなりません!!」みたいなアナウンスしか出さなかったらどういう有様となるか考えてみれば、どれほどの異常事態か想像もつこうというもの。この運動が次第に一般人の支持を失い、どんどん孤立していったのにはそういう背景もあったのである。一方、最後までそれを非難しなかった米国リベラル勢は非公式に「死んでいくのは別に参加者じゃないから、運動自体とは無関係」なる言い訳を繰り返し、人命軽視の立場を露呈させている。

*ちなみにイスラム教徒にとっては聖なる義務の一つとされる「メッカ巡礼」も、現状は似た様な状況にある。ちょっとしたジャガーノート状態?

ジャガーノート((juggernaut) - Wikipedia

止めることのできない巨大な力、圧倒的破壊力の意味を持つ単語。イギリスでは巨大な重量を持つトラックの意味も持つ。

語源はヒンドゥー教ヴィシュヌ神の八番目の化身であるクリシュナの異名、ジャガンナート (Jagannāth) である。イギリスの植民地時代のインドでは、ラト・ヤートラー(ରଥଯାତ୍ରା(Rath Yātrā)、「山車の行進」)祭に際して狂信的ヒンドゥー教徒が救済を求めてジャガンナート像を載せた山車の車輪の下に身を投げたとキリスト教宣教師が本国に伝えたことによる。
*ちなみにこの「ジャガンナート像を載せた山車」は、祇園祭の山鉾の大源流ともいわれている。やはり日本人は死者を出す事を喜ばない?

①それにつけても考えるだに恐ろしい状況です。「何ヶ月も泊り込みを続けてるせいで風呂にも入らず、シャワーも浴びず、着替えもせず悪臭も酷い」くらいまではマスコミも報じましたが(例えどれだけ実際に遭遇する確率が低くても)隣で寝ていた人間が朝になったら死んでたり、突如銃撃戦が始まって自分まで巻き添えになって死傷する可能性に絶えず曝され続ける事で、彼らの間に(試練を潜り抜けた事による)選民意識や「自分達を見捨てつつある市民への復讐心」が育まれていった可能性については、そもそも隠蔽以前に視野内に入っていなかった(そして今だに入ってない)のだと思われます。

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  • 実は(試練を潜り抜けた事による)選民意識や「自分達を見捨てつつある市民への復讐心」は、大日本帝国の侵攻作戦によって上海に続いて南京も奪われて重慶に逃げ込んだ国民党政府にも現れている。要するにある意味、重慶爆撃(1938年12月18日〜1943年8月23日)の落とし子だったとも。
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    重慶爆撃(1938年12月18日〜1943年8月23日) - Wikipedia

    日中戦争支那事変)中の1938年12月18日から1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃

    開始に至るまでの経緯

    1937年の第二次上海事変の結果、日本軍は中華民国の首都南京を攻略し占領した(南京攻略戦)。これに対して、蒋介石中国国民党政府は首都機能を南京から漢口に移転。しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である四川の重慶への首都移転を実行。大本営は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶が天然の要害の地である事や、兵站の問題もあり、即時攻略は困難であるという結論に達した。

    こうした状況を受けて大本営は1938年12月2日、中支那方面軍に対し「航空侵攻により敵の戦略中枢に攻撃を加えると共に航空撃滅戦の決行」との指示を出した。しかし、直ちに大規模な爆撃を行う能力は当時の日本陸・海軍には無く、また中国軍航空部隊の迎撃も無視する事は出来なかった。中央統帥部は現地部隊に対し「航空侵攻作戦は概ね1939年秋以降に実施するので、各部隊はそれを目処として、整備訓練に努めるように」と通達した。

    フライング・タイガース - Wikipedia

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    稼働率や飛行性能の劣るイ式100型重爆撃機イタリアフィアット社製BR.20)や防御火器が貧弱な九三式重爆撃機では、中国軍の迎撃や対空砲火で被害が増大した。

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    それで防備の固められた重慶に対しては、より新鋭の九七式重爆撃機九六式陸上攻撃機を主体とする陸海軍航空兵力による長距離侵攻を実施する事となったのである。

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    推移

    日本軍爆擊後の重慶1941年)爆撃は主に1939年から1941年の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年には延べ4333トンに達した。爆撃は海軍航空隊、陸軍航空隊それぞれが日程調整のうえ実施した。爆撃目標は「戦略施設」であり、1939年4月の現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかし重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生する可能性があった。そのため後期からは目標付近に対して絨毯爆撃を行った。

    重慶爆撃のなかでも特に大規模な絨毯爆撃であったのが、海軍主導によって行われた1940年5月17日から9月5日までの百一号作戦、および1941年5月から8月までの百二号作戦である。日本の軍中枢で日中戦争とは別に対アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が取りざたされはじめたことから、海軍、特に中国方面で作戦指導にあたっていた井上成美支那方面艦隊参謀長らが、日中戦争の早期終結を目的に提言した作戦であった。

    一方で陸軍ではこの百一号作戦と百二号作戦に対して飛行部隊を一時協同させたものの、効果が薄く無意味かつ非人道的・国際法に反する行為であるとして絨毯爆撃に強く反対する声があり、第3飛行団長として重慶爆撃を実施していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、上級部隊である第3飛行集団長木下敏陸軍中将に「重慶爆撃無用論」を1941年9月3日に提出している(遠藤第3飛行団長は実際に重慶を爆撃する九七式重爆に何度も搭乗し、その無意味さ・非人道性を確認している)。この「重慶爆撃無用論」は参謀本部作戦課にまで届き採用され、陸軍は重慶爆撃への参加を中止することとなった。

    爆撃の効果

    日本軍の航空部隊は蒋介石の国民党政府を屈服させることは出来なかった。また、百二号作戦で蒋介石の司令部の位置を特定し施設を狙った爆撃を行ったとしている資料もあるが、そもそも当時の航法の限界(無線やレーダーなどの誘導方法は当時存在しない)もあり、司令部施設に命中弾は無かった(2発命中とも言われるが、どちらにせよ蒋介石は無事だった)。国民党司令部をピンポイントで狙ったという主張に対しては、成功の可能性や被害地域の広さから疑義が呈せられている。当初はある程度そのように意図した作戦だったものの、効果が上がらない為に目標付近を虱潰し攻撃する絨毯爆撃にシフトしていったとする説が有力である。

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    国民党政府は軍事施設を重慶市内に置き住民を盾として、空爆に対する充分な都市防御策を取っておらず、防空壕の不足や換気装置の不備による事故などもあり、多数の犠牲者が発生した。
    *実は南京攻略戦当時から既に「(近代砲撃戦においては全く無力な)歴史的城塞に関する伝統的信頼感」から軍民がこれに籠城し、本格的突撃の前段階に遂行される準備射撃段階において早くも土台から瓦解して全員が生き埋めになる事故が多発しており、重慶爆撃初期にも同種の誤謬による死者を多数出している。大日本帝国に対する本土空襲に際しても同種の悲劇が起こっているが、国民が一応は揃って近代教育を受けている大日本帝国臣民の対応は早く、損害は最小限で食い止められている。

    1トン足らずの爆弾しか積めない日本軍の爆撃機による爆撃の効果については、日本軍内部に疑問視する声もあった。しかし、現実には中国軍に与えた心理的な影響は大きく、蒋介石の日記によれば、ほとんど戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれたと感じていたという。

    この重慶爆撃に際しては、当時の日本軍戦闘機の航続距離が爆撃機のそれに及ばないため、奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生した。重慶爆撃以前に立案され開発が進められていた十二試艦上戦闘機が零式戦闘機として制式化、初めて戦線に投入され13機の零戦で27機の国民党軍機を全滅させる戦果を得るなど、重慶爆撃に貢献している。

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    爆撃への評価と戦史上の位置づけ

    重慶爆撃はアメリカなどの連合国軍による日本本土空襲や広島・長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠としても利用された。一方で、日本の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判では、連合国による大規模な日本無差別爆撃で重慶爆撃は問題とされず起訴もされなかった、絨毯爆撃を提案し百一号作戦と百二号作戦を推し進めた井上成美海軍大将なども戦犯指定はされていない。この爆撃による被害の規模については推測に頼る部分も大きい。さらに、それを日本軍がどの程度意図していたか、または作戦の付随的影響として許容されると判断していたかについても諸説あり、現在も論争の対象となっている。

    また重慶爆撃は日中戦争第二次世界大戦と続くこの時期の世界戦争の中で、1937年のゲルニカ爆撃に続く最初期の組織的な戦略爆撃に位置づけられる。

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  • 大日本帝国が太平洋戦争に敗戦した後、朝鮮半島は「日帝強占期」から脱したが、独立国として国家を運営するノウハウを曲がりなりにも保持していたのは日韓併合期朝鮮における「親日派チニルパ、朝: 친일파, 英: Chinilpa=対日協力者」ばかりだった。この辺りの事情は明治維新後も幕臣が実務官僚として重用され続け、尊王攘夷志士が不満を爆発させた構造と良く似ている。GHQ朝鮮総督府を接収して一時的に占領体制として利用した後、被占領民に「韓国政府」として下賜したから、実質上は彼らこそが朝鮮半島支配の継承者だったが、困った事に彼らは明治時代の幕臣以上に国民に人気がなかったのである。

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    韓国民主党(韓民党) - Wikipedia

    米軍政時代から大韓民国初期にかけて存在した保守政党。解放(光復)直後の1945年9月16日にソウルで結成された。 右派独立運動家・宋鎮禹が初代主席総務となったが同年12月に暗殺されたため、金性洙がその後を担った。

    呂運亨ら朝鮮国内にいた左派系・中道系の独立運動家たちによって結成されていた「朝鮮建国準備委員会建準)」に否定的な立場を採っていた民族主義保守系勢力が中心となり韓民党は結党されている。結党に際しては金性洙の湖南財閥など財界の支援があり、建準への対抗から重慶に亡命していた大韓民国臨時政府臨政)の支持を打ち出した。さらに米軍政府にも多数の党員を送り込み、米軍政内部で大きな影響力をもった。
    *実は韓国民族主義者が事あるごとに掲げる「歴史を忘却した民族に未来はない」なるスローガンは、対日爆弾党争を遂行した義烈団に「朝鮮革命宣言(1922年)」を提供した無政府主義者という側面も有していた忠清道出身の「民族史家」申采浩が、ヴォルシェキビズムに接近する朝鮮独立運動家に対して放った「先人達(その多くが3.1.万歳運動を契機に上海へと脱出したものの、本国から忘れ去られRice communistへの転身を余儀なくされ、中国共産党に迂闊に接近して粛清された)の過去を忘れたか!!」というニュアンスで新聞記事上で放ったもの。要するに元来は「左の左(ヴォルシェキビズム)VS左の右(無政府主義者)」という対立構造に由来する。そして呂運亨こそ(迂闊に中国共産党へと接近せず生き延びた)当時のRice communistの末裔の一人だったが、当時のしがらみを清算し切れず、結局暗殺されてしまう。

    申采浩(1880年〜1936年) - Wikipedia

    朝鮮民族の源流を檀君朝鮮に求め、朝鮮民族主義歴史学を提唱し「歴史とは我と非我の闘争である」と植民史観からの脱却を主張した。

    ただしアナキズムに傾倒して以降は民族主義の主張を弱め、大衆という表現を用いるようになった。この変節について、民族間の争いが歴史を作るのであれば、日本の侵略も正当化できてしまう自己矛盾に気づいたためとの指摘がある。

    申の歴史記述の特徴は古代史に重点を置き、それまでの三韓新羅中心の歴史観から檀君・夫余・高句麗中心の歴史観へと転換して高麗時代を「(祖国が渤海と高麗に分断された南北朝時代」と位置付けた点にある。この歴史観北朝鮮に継承され「(高句麗渤海の末裔たる先天的支配民族としての北朝鮮人の三韓百済新羅の末裔たる朝鮮半島南部住民によって構成される先天的奴隷民族としての韓国人に対する人種的優位」なる歴史観を形成するに至る。

    しかし、臨政派は韓民党やその支持母体に親日派が多いことから、やがて両者は対立する。国連による朝鮮半島信託統治が提案されると両者は共に反対の姿勢を示すが、韓民党は他方では米軍政と協力し、臨政派による過激な反対運動を非難した。さらに、臨政派が左派との合作(左右合作運動)を始めると、これに反発した。そのような状況の中で韓民党は孤立を深め、李承晩に接近していく。

    その後、アメリカ軍政の仲介によって李承晩を支える役割を担った。10月韓民党は、アメリカから帰国直後の李承晩とともに政府準備組織「独立促成中央協議会独促)」を発足させた。李承晩・韓民党連合は臨政・建準両派に対抗し、アメリカ軍政の力も借りて彼らを排除した。ほどなくして、韓民党は李承晩とともに解放直後のソウル政界で主導権を握るにまで至った。

    1948年5月の制憲議会選挙では29議席を得たが、李承晩系の「大韓独立促成国民会独促)」や無所属勢力が多数派を占め、韓民党は第3党にとどまった。そして韓民党と李承晩の連合は大韓民国樹立前の短い一時期にしか成立せず、後に両者は激しく対立。最初の対立は憲法制定において大統領制か議院内閣制を採用するかを巡っておきる。韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。

    つづいて国務総理の人選をめぐって両者の対立が起こる。金性洙を推す韓民党に対し、当初李承晩は李允栄を国務総理に任命しようとしたが、27対120の大差で否決される。しかし李承晩は続いて李範奭を国務総理に任命し、110対84で承認を得る。さらに李承晩は初代内閣の組閣にあたり韓民党の勢力を徹底的に排除する。韓民党からは金度演のみが財務部長官に任じられた。こうして韓民党は野党となる。

    韓民党は1949年1月26日に、申翼熙の大韓国民党、池青天の大同青年団と統合して民主国民党(民国党)へと再編された。翌年1950年6月に勃発した朝鮮戦争により、湖南財閥の中心企業であった京城紡績の設備が著しく破壊された上に、李承晩は京城紡績の預金引き出しを停止し、圧力をかける。こうした結果、京城紡績は与党自由党に資金供給を行うようになり、民国党は湖南財閥の支持を失い、金性洙も政治の表舞台から姿を消していく。

    1955年には民主党へと再編・改称され、李承晩政権における野党勢力の中核を担い、1960年4月の四月革命で李承晩が退陣した後で成立した第二共和国の与党となった。韓民党の流れをくむ政党は、複雑な離合集散はあったものの、第六共和国に至るまで野党勢力の中核をなして政権と対立しつづけた。そのため、李承晩と韓民党との連合は後の目から非常に奇妙なものとして映っている。

  • こうした経緯から韓民党は、当初、当時重慶にあった大韓民国臨時政府臨政)を本土に呼び戻そうと考えたが「これまで大日本帝国支配に盲従してきた先天的奴隷民族の全財産を接収し、奴隷労働供給源として絶滅まで酷使し続け、その過程でいくらでも好きなだけ気晴らしに強姦したり虐殺しても良いなら偉大なる支配民族として凱旋しよう」と返答されて諦めざるを得なかった。彼らは3.1.万歳運動後に見捨てられ「泥水を飲まされ続けてきた」経験を決して忘れておらず、残忍な復讐者へと変貌していたのだった。とはいえこの発言自体については「韓民党の傀儡政権として生き残る恥辱への絶対的拒絶の意思に過ぎなかった」と見る向きも多い。またこの発言が不確かな形でしか残っていない事から「帰還した大韓民国臨時政府に政治的イニチアシブを握られるのを嫌った韓民党内勢力が流したプロパガンダ」と見る向きも。

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  • いずれにせよ、こうした「復讐の正当性」を強調する発想が(彼らが重慶で寄食していた)国民党政府の立場から派生した事だけは疑う余地がない。実際に国民党は(それまで大日本帝国支配下にあった)台湾に転戦した後、現地で文字通りこの政策の実施をそのまま試みているのである(当然支配政策として適切でなく、次第に緩和)。

    ところで当時の国民党は、その首長が「総統」と称されるのを見ても明らかな様に(大日本帝国と対抗する為に手を組んだナチス・ドイツの影響を色濃く受けていた。(議会制民主主義と資本主義への反感から生まれたファシズム要素をほとんど含まず、むしろナチス・ドイツ台頭以前からドイツ民族の関心を集めてきた(民族間の争いが歴史を作るのだから、植民地獲得も侵略も正当化される)民族闘争史観が主体となったナチズムのバリエーション。北朝鮮金正恩が「我が闘争Mein Kampf、第1巻1925年、第2巻1926年)」の熱烈な愛読者で、北朝鮮において立身出世を目指す人間にとって必読書なのは有名な話だが、確かにヒトラーの考え方は北朝鮮が使用した(申采浩の民族闘争史観に立脚する歴史観と合致する箇所が多かったりする。

  • そして最終的にこうした有象無象の復讐欲の断片は(まさしくカール・シュミットの政治哲学が述べる「友敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」理論に基づいて)「仮想敵日本民族に対して集約的に向けられる様になり、最終的に「先天的ナチス民族たる日本人は、その全財産を北朝鮮人と韓国人に差し出した上でその全員が過酷な奴隷労働によって絶滅するまで人道主義と人類平等の阻害要因であり続けるその過程で我々は日本人を面白半分に強姦したり虐殺するが、日本人はかえってその事によって自らが少しでも過去の罪を償える立場となった事を歓喜し、決して怨嗟の感情を抱いてはならない。まさにその怨嗟の感情こそが 、日本人が先天的ナチス民族たる動かぬ証なのである)」なるスローガンに結実する事になる。「ナチスは民族ではない」「日本人の歴史はナチズム登場より遥かに遡る」なんて現実的指摘をしても相手には一切通用しない。要するにこれは史記にある「指鹿為馬秦の2代皇帝胡亥の時代、宦官の趙高が宮中に鹿を曳いてこさせ『珍しい馬が手に入りました』と皇帝に献じて『これは鹿ではないか』と指摘した廷臣を皆殺しにして独裁力を高めた故事)」式の踏み絵であり、かえってその主張が矛盾だらけで馬鹿げたものであるほど真価を発揮するのである。

  • いずれにせよ、かかる民族闘争史観の暴走の先に待つのは、必然的に(勢力均衡によってしか緩和し得ない)「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマのみである。そもそも、よく考えてみるとこうした展開の主体は元来(明治時代日本の征韓論同様朝鮮半島内の権力闘争に過ぎず「日本人」は(カール・シュミットの政治哲学が述べる「友敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」理論に基づいて呉越同舟を強要する便利な)民族団結のダシに使われているに過ぎない。それなのに日本のリベラル層がこの問題に割って入ろうとするから話がややこしくなる(ちなみにナチス台頭期のユダヤ人も中にもドサクサに紛れて同様の自己批判を繰り返して世論に媚び様とした論客が少なからずいたが、残らず最終的には亡命か悲惨な末路を遂げている。そういえば沖縄基地反対運動も始めたのは本国に居場所をなくした米国ヒッピー達だったが、そういう「民族主義的に都合の悪い歴史」は完全に抹消されてしまっている)。まぁ、それを言うならこの問題、そもそも朝鮮半島に民族闘争史観を持ち込んだ「民族史家」申采浩が「忠清道出身」だった時点まで遡らねばならなくなるのだが。これこそがまさに「歴史を忘却した民族に未来はない」なるスローガンがもたらす最大級のブーメランとも。

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②こうした理不尽な復讐欲に最初に邂逅したのは当時「親世代を喜ばす為にFacebookが監視サービスを充実させ出した子供達」や「ネット自警団からFacebookより追い出されたマイノリティや女性達」や「(Poor-Black層と「公民権運動の勝者」として彼らを支持する米国リベラル勢から挟撃されたBlack Establishment層」や「(そもそも米国ネット社会に居場所がないカソリック系=ヒスパニック系」などの梁山泊として急成長を遂げつつあった国際SNS上の関心空間でした。「ウォール街を占拠せよOccupy Wall Street運動」主催者側としては数百万人を動員して米国議会にSOPA(Stop Online Piracy Act)の採決を覆させた動員力が喉から手が出るほど欲しかったのでしょう。しかしながら、手に入らないなら(カール・シュミットの政治哲学が述べる「友敵関係(Freund-Feind Verhältnis)」理論に基づいて、敵に回った場合の勢いを削ぐべく)ただただ焼き払うのみ。しかしながら相手の数が多過ぎて、逆に「焼き返される」展開に。

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*「ウォール街を占拠せよOccupy Wall Street)運動」主催者側…実は本部はカナダで、メンバーもアメリカ人その多くがですらなく「(ビジネス上の競合相手たる)アメリカの没落」を望む立場だった。

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  • バットマンの正体であるブルース・ウェインは大富豪。余興感覚でヒーローごっこをやってる最低最悪の偽善者。我々が政治的に勝利した暁には、こんなマヤカシに少しでも騙された売国奴の精神病患者は全員、精神病院送りにしてやる!!」。要はこれも「指鹿為馬」式踏み絵で、少しでも譲渡の気配を見せたアカウントはオルグの標的にされるのみという寸法だった様だが、いかんせん選んだ題材が悪過ぎた。むしろ逆に仕掛けた側のアカウントの方が次々と焼かれ削除を余儀なくされてあっけなく決着がついたのである。デジタル・デバイス嫌いのクリストファー・ノーラン監督の耳に、こうした展開がどこまで届いていたか不明だが、公式には「ディケンズ二都物語を題材にした」と伝えられている「ダークナイト ライジンThe Dark Knight Rises、2012年)」は、まさにこうした修羅展開を描いた内容。ただしこの作品において「それまで一方的に搾取されてきた貧困層は、復讐として富裕層の全財産を剥奪するばかりか家族一同を輪姦し、散々楽しんだ後に虐殺する権利がある」なるテーゼは、あくまで非常にネガティブな形で描かれる。それにつけても、どうして当時のネット上には突如として「大富豪の育ててきた娘を目にしたらたちまち勃起し、顔を二、三発殴りつけてボールの様に膨れ上がらせて輪姦し、気付いたら首を絞めて殺してたくらい義侠心に富む人間だけが人道主義や人類平等を主張してよく、それが出来ない人間は全て似非平和主義者として同じ目に遭わされる」なんて苛烈な思想が横溢したか。絶対に背景には上掲の様な「ウォール街を占拠せよOccupy Wall Street運動の行き詰まり」があったとしか思えないのが私の立場なのである。
  • 実際、学生運動敗退後に彼らの支持を得た日活ニューアクション映画(1868年〜1971年)といい、(米国ヒッピー文化を終わらせたシャロン・テート事件の後にポランスキー監督が製作した「マクベスThe tragedy of Macbeth、1971年)」といいこんな感じ。むしろ鬱屈した敗者のルサンチマンがそういう方向に向かわなかったとしたら、その方が史上初の奇跡として歴史に残りそうな勢い。

    シャロン・テートを殺害された後に作られた「マクベス」惨殺がポランスキーのトラウマになり映画に反映する・・ BRIAN ENO

    岡本喜八監督映画「激動の昭和史 沖縄決戦(1971年、東宝)」は(史実に基づいて)ただひたすら日本軍の敗北と、沖縄住民を見舞う悲劇と、アメリカ軍の勝利を描き続ける。一方、山本薩夫監督映画「戦争と人間第3部完結編1973年、松竹)」は、ただひたすら原住民への暴行(略奪と輪姦と虐殺)を遂行し続ける「悪の軍団」日本軍と、それを捕捉しては虫ケラの様に殲滅する「正義の軍団八路軍ソ連戦車隊を描き続ける。時期的に見て、後者は「政治的に敗退した新左翼運動に傾倒した学生運動家達への追い打ち」とも推察される。
    *ちなみに実際「現存する広報写真に残された八路軍」は吃驚するほど装備が充実してる。ルイス機関銃やブローニング自動小銃第一次世界大戦中の兵器)に、MG34(中独合作期(1936年〜1937年)に国民党軍に流入)…ちなみにガーランド小銃は第二次世界大戦終了まで1丁も中国大陸には届かなかった模様。こうした宣伝写真を間に受けると、そういう描き方になるのかもしれない。ちなみに日中戦争でもベトナム戦争でも、共産党軍は敵占領地区において「匪賊」というより「敵勢力への協力者を容赦なく粛清する処刑執行人」として恐れられた。「戦争と人間」では原作からして「これぞ民族意識の高揚」と手放しに礼賛されているが、ベトナム共産党はこの感情が資本主義的発展の阻害要因となると看過し、独立達成後は賞賛を控える様に。 

     

③国際SNS上の関心空間には一切介入出来ない(迂闊に騒いでも、突如として数十万単位で現れる匿名アカウント自警団に蹂躙されるのみ)と悟った「リベラル系アカウント」は、進出先をTwitterに変更。競い合う様に「ハロウィンに際して、インディアンなどの民族衣装のコスチュームをした少年少女」や「つい口癖で、クリスマスに際してメリー・クリスマスと発言してしまう人々」のTweetに際して「貴様の様なレイシストがいるから地上から差別がなくならないのだ、人類の為に一刻も早く自殺しろ!!」「まだ自殺してないのか、本当に羞恥心のないナチスだぜ!!」といった罵詈雑言を当該アカウントが削除されるまで続けるゲームを(それこそ大統領選でトランプが勝利するまで)続けてきました。まさしく太平洋戦争下の日本における外国語狩り同様の「指鹿為馬」式の勢力拡大運動。しかも主な標的が(手痛い反論を食らう恐れが少ない)子供達や(英語がうまく操れない)移民中心だったというおぞましさ。もしかしたら彼らは、国際SNS上の関心空間であまりに手酷く叩かれたので、自尊心を回復する為に同じ手口で誰かを叩く必要があったのかもしれません。

 

④こうした「リベラル側にとってはただの気晴らしの為のゲーム」が、本当の意味で臨界点を超えてしまったのが「シカゴFacwbook拷問Live事件2017年)」だったという訳です。

  • 女性や知的障害者を人間として扱わないほど尊敬される)Poor Black層のギャング文化に染まった若い黒人男女が、白人の知的障害者を拷問するFacebookライブ映像を配信。彼らはすぐに逮捕されたが、その直後、匿名で「この程度の懲罰は、それまで白人が黒人に為してきた悪行に比べたら物の数じゃない。いやそれどころか白人は社会的弱者たる我々黒人がもっと速やかに自尊心を回復可能し白人の数を減らす活動に貢献すべく、知的障害者や女子供を輪姦や虐殺の対象として喜んでどんどん差し出すべきだ」なる巫山戯た投稿が流れ、さらに匿名で「彼らが受けてきた屈辱を思えばこの発言にも一理ある。我々は確かに伝統的な負債清算の為にこうしたオファーに喜んで応じるべきなのだ」という巫山戯た返信がついて、マスコミが「もはやリベラル階層は誰も守ってない」と報道する展開に。

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  • 実際のネット上の黒人層はむしろ迅速に犯人を逮捕した黒人署長を褒め称え「身内の恥を少しでも減じてくれた」と絶賛。とはいえ今回の事件で「もはや黒人向けのアファーマティブ・アクションaffirmative actionなど不要。それを撤廃しても構わないから、我々を本当に同じ人間と認めてくれ」という黒人リベラル層の主張は当然遠のいた。先に述べた「巫山戯た匿名コメント」への密かなる賛同者が黒人側にも白人側にも少なくなかった事、さらには後者ほど実生活において近所に実際に黒人家族が引っ越してきたり、同じ職場で黒人と働く事を徹底拒絶する理由を喉から欲しいのでかかる主張を受容したに過ぎない事(実社会では黒人を目にしただけで射殺する事件が増加)などがその理由として上げられる。

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最近は国際的にこうした全体像が「リベラリズムの敗北」と呼ばれているという話…