原則として美術様式を時代区分に採用しようとする私のスタンスからすれば「アラベスク時代(Arabesque Age 750年〜16世紀)」というのが存在し得ます。始まりはアッバース革命と(古代ギリシャ・ローマ時代の古典や併合したシリア文化やペルシャ文化の吸収を目指した)ムゥタズィラ学派(المعتزلة 、al-muʿtazilah、9世紀初頭〜10世紀)の興亡、終わりは希臘人やアルメニア人が幅を利かせ始めたオスマン帝国を見限て絶対王政期の欧州に移住した時代…
モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。幾何学的文様の選択と整形・配列の方法は、人物を描くことを禁じるスンニ派のイスラム的世界観に基づいている(シーア派ではムハンマドを除いて描くことは認められている)。
- ムスリムにとってこれらの文様は、可視的物質世界を超えて広がる無限のパターンを構成している。イスラム世界の多くの人々にとって、これらの文様はまさに無限の(したがって遍在する)、唯一神アラー(イスラムで言う無明時代では「アラート」という女神)の創造のありのままを象徴する。さらに言うなら、イスラムのアラベスク芸術家は、キリスト教美術の主要な技法であるイコンを用いずに、明確な精神性を表現しているとも言えよう。
- とはいえアラベスク形式の幾何学的文様を用いた芸術作品は、イスラム世界でも、黄金時代(750年頃〜1200年頃)を迎えるまでは広く使用されていなかった。イスラム黄金時代には、バグダードの知恵の館では古典古代のギリシャ語やラテン語のテキストがアラビア語に翻訳されていた。また後のヨーロッパのルネサンスのように、数学、科学、文学、歴史などの研究がイスラム世界に大々的に広まり、プラトンや、とりわけユークリッドの著作が教養人の間で人気を博した。
- 事実、アラベスクの原型となった様式の発生を促したのは、まさにユークリッド幾何学であり、ピタゴラスが体系化し、Al-Jawhari (800年 - 860年頃)が拡張した三角法の基礎であり、Al-Jawhariの『ユークリッド原論注釈』であった。また、我々の届かないところに永遠不滅の完璧な存在がある、とするプラトンのイデア論もアラベスクの発展に影響があったと考えられる。
西洋人にとってアラベスク美術は、反復する一連の幾何学的形式で、時々カリグラフィーをともなっているようなものに見える。しかしイスラム教の敬虔な信者にとって、アラベスクは彼らの共通の信仰の象徴にして、伝統的イスラム文化が示してきた世界観の象徴である。
- アラベスク美術には2つのモードがある。第一は世界の秩序を支配する原理を表現している。これらの原理は、物体を構造的にしっかりとしたものにし、さらに拡張することによって美しくする根本原理(つまり、角度そのものや、角度が作り出す静的なかたち、とくに三角形をつなぎ合わせたトラス構造)が含まれる。
- 第一モードにおいては、いずれの反復する幾何学形式も、それぞれに固有の象徴性を有している。たとえば、四角形は四つの等辺を持っているところから 、自然界の等しく重要な要素と考えられていた、「土」「空気」「火」「水」の四大元素を象徴する。四大元素のどの一つを欠いても、物質的世界(四角形に円を重ねることで表現される)は崩壊し、滅亡してしまう。
- 第二のモードは、植物の動的な性格に基づいている。このモードは、生命を与える母性(女性性)を表現する。
- 加えて、アラベスク美術の例を多く検証し、第三のモード、すなわちアラビア書道に基づくモードの存在を主張する者もいる。ムスリムにとって「カリグラフィー(書道)」は、「イデア」(真のリアリティ)と関係するなにかを表現することではなく、あらゆる芸術のうちのもっとも優れたものとされる「ことば(思考と歴史の伝達)」を可視化した表現である。イスラム教において、口頭で伝達されるべき至上の記録は、むろん、「クルアーン」である。アラベスクには、今日でもクルアーンの一節やことわざが織り込まれていることがある。これら三つの形式があわさってアラベスクを作り出しており、それは多様性から生じる唯一性というイスラム信仰の基本原理を反映している。
アラベスクは、一部の主張に拠れば、美術と科学のいずれとも見なしうる。なぜなら、アラベスクは数学的に正確であり、美的に目を悦ばせるものであり、そして象徴的であるからだ。そして、この二面性ゆえに、アラベスクの芸術的側面は、さらに世俗性と宗教性へ細分して考えることができるとされる。ただし、多くのムスリムにとってはこのような区別は意味をなさない。あらゆる芸術も自然界も、もちろん数学も科学もすべて唯一神の創造であり、同一のものの反映だからだ。言い換えれば、アラベスクを構成するかたちを人は発見したが、これらは常にそれ以前から神の創造の一部として存在していたのである。
当時は「千夜一夜物語 /アラビアンナイト(アラビア語: ألف ليلة وليلة, ペルシア語: هزار و یک شب)」の成立期でもありました。
岩波文庫から復刊した千夜一夜物語(全十三巻)出てたから、まず四巻まで買った。読み終わったら残りも買う予定(ワクワク)
— けむ (@kemunopasokon) December 20, 2018
インドの性典「カーマ・スートラ(サンスクリット語: कामसूत्र, 英: Kama Sutra)」成立期ともイメージが重なります。
舞台が「イスラム世界、インドとシナの間にあるサーサーン王朝でシャハリヤール(ペルシャ語で時の主の意)王の治世」という砂漠の砂嵐のようなぼんやりした設定なんすね
— けむ (@kemunopasokon) December 20, 2018
なんか一番最初の「シャリヤール王とシャハザヤーン王の物語」のパンチ力が強すぎてビビった。さすが傑作と呼ばれるだけはある(尻込み)
— けむ (@kemunopasokon) December 20, 2018
そして話は「イスラム黄金期の終焉」という方向に…
『アッバース朝の支配がほとんど及ばないマグリブ地域はチュニスを中心に様々な王朝が興亡していた。そこに14~15世紀、ファーティマ朝滅亡後のエジプトから大量の遊牧民が侵入してきた。海を越えたイベリアではキリスト教勢力が大攻勢をかけてきており、マグリブの全ての共同体は潰滅状態だった』
— けむ (@kemunopasokon) December 21, 2018
『この時代を生きたイブン・ハルドゥーンはマグリブーイベリアに広がっていた伝統的なベルベル社会が滅んでいく様に絶望し、イスラームが危機に瀕していることに苦悩して『歴史序説』を著した。彼は初めて哲学を歴史に当て嵌めたイベリア最大のフィラスーフ(哲学者)だった』
— けむ (@kemunopasokon) December 21, 2018
(悲)
ハドラマウト(アラビア半島南岸を本拠地にアジアやアフリカにまで進出した紅葉民族)出身のイブン・ハルドゥーン…
ファーティマ朝はベルベル軍人が中心になって東進してエジプトを征服した王朝だったけど、アイユーブ朝はイラク方面から西進して来た遊牧民が興した王朝だから、クルド人と一緒になってベドウィンとか大量に来ちゃった感じか
— けむ (@kemunopasokon) December 21, 2018
そういえば「ホルスの眼」に対する伝統的敬意からの逆算で、古代エジプト王朝を最初に開闢したのもまた遊牧民(内陸リビア内陸系)と推察されてる模様。ちなみに沿岸部のフェニキア人(古希Φοινίκη / Phoiníkē、羅Phoenices(ポイニーケー)、Poeni、英Phoenicia)は紀元前1世紀の間じゅう、地中海交易の覇者たる立場を墨守し続けた。「内陸部のフェニキア」アラム人(Aramaeans)や「交通の要所カナン=パレスチィナを故郷と見定めた」ユダヤ人と割礼の慣習等、文化的共通点が多いのです。
ホルスの目 - Wikipedia
ベルベル人はラクダ持ってなかったらしいからなぁ…アラブの大量入植で初めてラクダやアラブ馬が持ち込まれてて、砂漠に優れた騎馬を持ってる相手に碌な駄獣もない連中が勝てるわけないだろ!いい加減にしろ!
— けむ (@kemunopasokon) December 21, 2018
そしてモンゴル世界帝国(1206年〜1634年)によるユーラシア大陸制覇の野望…
フィラスーフ「歴史学は哲学より下。永遠の真理ではなく移ろいゆく物事を扱うからだ」
— けむ (@kemunopasokon) December 21, 2018
イブン・ハルドゥーン「諸々の歴史的事件の中には普遍的な社会の法則が存在する。ある民族が他の民族を支配できるのは奇蹟でもなんでもなく、強固な連帯意識(アサビーヤ)があるからだ」
アサビーヤが重要と言う一方で「農耕民には連帯意識はなく、遊牧民の連帯意識も200年くらいしか持たない。定住生活を始めればすぐに農耕民と同じになる」と達観もしてて、多分自分が暮らしてたベルベル社会を頭に置きながら言ってたんすね(納得)
— けむ (@kemunopasokon) December 21, 2018
あえて繰り返すが、彼のオリジンたるハドラマウト(アラビア半島南岸を本拠地にアジアやアフリカにまで進出した紅葉民族)は、インド半島南岸部のタミル人(ドラヴィタ系)やシルクロードと密接な関係を築いてきたタジーク(イラン系)と並ぶユーラシア大陸商業民族なのですね。
あるいは7世紀に大征服を達成したのに9世紀頃には惰弱化して誇りも戦闘意欲も失ったアラブのことか
— けむ (@kemunopasokon) December 21, 2018
そう、私はイスラム教圏の中心がアラビア人の衰退を契機に テュルク系のオスマン帝国やムガル帝国に推移したと考えているんですね。
一方、19世紀後半に大英帝国と帝政ロシアのグレート・ゲームの舞台となった中央アジアは…
千夜一夜物語の冒頭でさらっと「サマルカンドは夷的の地」と書かれてて、漢人だけでなくペルシャ人からも蛮地扱いだったのか中央アジア
— けむ (@kemunopasokon) December 21, 2018