諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【イスラム教圏史】アラベスク時代(Arabesque Age 750年〜16世紀)なる歴史区分

原則として美術様式を時代区分に採用しようとする私のスタンスからすれば「アラベスク時代Arabesque Age 750年〜16世紀)」というのが存在し得ます。始まりはアッバース革命と(古代ギリシャ・ローマ時代の古典や併合したシリア文化やペルシャ文化の吸収を目指した)ムゥタズィラ学派(المعتزلة 、al-muʿtazilah、9世紀初頭〜10世紀)の興亡、終わりは希臘人やアルメニア人が幅を利かせ始めたオスマン帝国を見限て絶対王政期の欧州に移住した時代…

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 アラベスク(arabesque) - Wikipedia

モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。幾何学的文様の選択と整形・配列の方法は、人物を描くことを禁じるスンニ派イスラム的世界観に基づいている(シーア派ではムハンマドを除いて描くことは認められている)。

西洋人にとってアラベスク美術は、反復する一連の幾何学的形式で、時々カリグラフィーをともなっているようなものに見える。しかしイスラム教の敬虔な信者にとって、アラベスクは彼らの共通の信仰の象徴にして、伝統的イスラム文化が示してきた世界観の象徴である。

  • アラベスク美術には2つのモードがある。第一は世界の秩序を支配する原理を表現している。これらの原理は、物体を構造的にしっかりとしたものにし、さらに拡張することによって美しくする根本原理(つまり、角度そのものや、角度が作り出す静的なかたち、とくに三角形をつなぎ合わせたトラス構造)が含まれる。
  • 第一モードにおいては、いずれの反復する幾何学形式も、それぞれに固有の象徴性を有している。たとえば、四角形は四つの等辺を持っているところから 、自然界の等しく重要な要素と考えられていた、「土」「空気」「火」「水」の四大元素を象徴する。四大元素のどの一つを欠いても、物質的世界(四角形に円を重ねることで表現される)は崩壊し、滅亡してしまう。
  • 第二のモードは、植物の動的な性格に基づいている。このモードは、生命を与える母性(女性性)を表現する。
  • 加えて、アラベスク美術の例を多く検証し、第三のモード、すなわちアラビア書道に基づくモードの存在を主張する者もいる。ムスリムにとって「カリグラフィー(書道)」は、「イデア」(真のリアリティ)と関係するなにかを表現することではなく、あらゆる芸術のうちのもっとも優れたものとされる「ことば(思考と歴史の伝達)」を可視化した表現である。イスラム教において、口頭で伝達されるべき至上の記録は、むろん、「クルアーン」である。アラベスクには、今日でもクルアーンの一節やことわざが織り込まれていることがある。これら三つの形式があわさってアラベスクを作り出しており、それは多様性から生じる唯一性というイスラム信仰の基本原理を反映している。

アラベスクは、一部の主張に拠れば、美術と科学のいずれとも見なしうる。なぜなら、アラベスクは数学的に正確であり、美的に目を悦ばせるものであり、そして象徴的であるからだ。そして、この二面性ゆえに、アラベスクの芸術的側面は、さらに世俗性と宗教性へ細分して考えることができるとされる。ただし、多くのムスリムにとってはこのような区別は意味をなさない。あらゆる芸術も自然界も、もちろん数学も科学もすべて唯一神の創造であり、同一のものの反映だからだ。言い換えれば、アラベスクを構成するかたちを人は発見したが、これらは常にそれ以前から神の創造の一部として存在していたのである。

当時は「千夜一夜物語 /アラビアンナイトアラビア語: ألف ليلة وليلة, ペルシア語: هزار و یک شب)」の成立期でもありました。 

 インドの性典「カーマ・スートラサンスクリット語: कामसूत्र, 英: Kama Sutra)」成立期ともイメージが重なります。

 そして話は「イスラム黄金期の終焉」という方向に…

ハドラマウトアラビア半島南岸を本拠地にアジアやアフリカにまで進出した紅葉民族)出身のイブン・ハルドゥーン

そういえば「ホルスの眼」に対する伝統的敬意からの逆算で、古代エジプト王朝を最初に開闢したのもまた遊牧民内陸リビア内陸系)と推察されてる模様。ちなみに沿岸部のフェニキア人(古希Φοινίκη / Phoiníkē、羅Phoenices(ポイニーケー)、Poeni、英Phoenicia)は紀元前1世紀の間じゅう、地中海交易の覇者たる立場を墨守し続けた。「内陸部のフェニキア」アラム人(Aramaeans)や「交通の要所カナン=パレスチィナを故郷と見定めたユダヤ人と割礼の慣習等、文化的共通点が多いのです。
ホルスの目 - Wikipedia

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 そしてモンゴル世界帝国(1206年〜1634年)によるユーラシア大陸制覇の野望…

あえて繰り返すが、彼のオリジンたるハドラマウトアラビア半島南岸を本拠地にアジアやアフリカにまで進出した紅葉民族)は、インド半島南岸部のタミル人(ドラヴィタ系)やシルクロードと密接な関係を築いてきたタジーク(イラン系)と並ぶユーラシア大陸商業民族なのですね。

そう、私はイスラム教圏の中心がアラビア人の衰退を契機に テュルク系のオスマン帝国ムガル帝国に推移したと考えているんですね。

一方、19世紀後半に大英帝国帝政ロシアグレート・ゲームの舞台となった中央アジアは…

まさしく森薫乙嫁語りThe Bride's Stories、2008年〜)」の世界…