諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【Funky Sounds】「ズンドコ節」のグローバル性について。

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*カバーでロータリー・スピーカーを使ったオルガン音がさらに強調されてる…

それにつけても、やはり細野晴臣のズンドコ・ベースのオリジンは「ズンドコ節」なのでしょうか?

何かと何かが交じり合ったところにいつもおもしろい音楽ができる。それはある特定の場所ではなく、音楽家の頭の中でごった煮になるんだ。 

そう、そもそもここでいう「ズンドコ節」の定義自体が難しいのです。

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ズンドコ節 - Wikipedia

日本の歌謡曲の楽曲のひとつである。ヅンドコ節と表記されることもある。

元々は「海軍小唄かいぐんこうた)」と呼ばれていた。軍歌のひとつといわれることもあるが、実際のところは戦地に赴く男たちの本音を歌った流行歌のようなものである。炭鉱や漁港で歌われていたリズムを元に門司出身の学生M・Kが作曲したものとされている。1945年頃に流行った曲である。

作詞・作曲者が不詳であり権利上の問題が発生しないため、多くの歌手によってリメイク版が製作されている。なお、リメイク版の多くは七五調の歌詞となっている。
*要するに「日本音楽界のリリー・マルレーン」という側面もあるという事。

リリー・マルレーン(Lili Marleen、1938年) - Wikipedia

ズンドコ節街の伊達男、1947年)」

戦後まもなく田端義夫により「ズンドコ節街の伊達男)」としてリリースしたものがヒットする。この時初めて「ズンドコ節」の名前が付く。

田端のエレキギターによるリードギターと伴奏のアコースティックギターの二本の演奏によって歌われている。田端は四国への巡業のため大阪の天保山から乗り込んだ連絡船の中で、闇屋が歌う歌に感銘を受け、それをブギにアレンジして昭和22年(1947年)に吹き込んだ。
*当時のリードギターのライン取りに後世のベースリフの原型を感じる? また当時は「東京ブギウギ(1947年)」が大流行中だった。

東京ブギウギ(1947年) - Wikipedia

作詞鈴木勝、作曲服部良一、歌唱笠置シヅ子。ブギのリズムを日本でヒットさせた歌謡曲であり「青い山脈」「リンゴの唄」などと並んで、戦後の日本を象徴する曲として有名である。

1947年、作曲家服部良一終戦直後一面焼野原となった銀座で「星の流れに」を耳にし、ブルースをイメージする。

『焼け跡のブルース』はどうだろう。」 意見を求められたジャズ評論家、野川香文は「今はブルースではない、明るいリズムで行くべき。」と助言、服部は戦時中に楽譜を入手していたアンドリュー・シスターズの「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」を思い出す。

翌1948年1月鈴木勝の作詞、服部良一の作曲、笠置シヅ子の歌唱による「東京ブギウギ」発売。明るく開放的なこの歌は大きな反響を呼び、その後の一連のブギウギ作品と共に一世を風靡する。

東京ブギウギの大ヒットは、当時笠置が10月14日から翌月まで公演を行っていた「踊る漫画祭・浦島再び竜宮へ行く(日劇)」の挿入歌として歌われたことがきっかけとされている。ただし、この曲が最初に歌われたのはそれ以前の9月、大阪の梅田劇場(現・HEP)でのことであった。

作曲した服部は、電車に乗っている時レールのジョイントの音と吊革の網棚の淵に当たる音からメロディを思いつき、急ぎ駅を降り飛び込んだ喫茶店のナプキンに書いた。ただし、小川寛興の証言では、楽譜を紛失した服部が記憶をもとに書き直したものとしている。なお、笠置の吹き込み時にはスタジオに米軍関係者も詰めかけ、彼らの声援の中大乗りの雰囲気で行われた。

このあと「大阪ブギウギ」・「名古屋ブギウギ」などご当地ブギが作られた。

NHK紅白歌合戦では、1953年12月の「第4回NHK紅白歌合戦」で笠置によって歌唱されている。1993年の「第44回NHK紅白歌合戦」では「服部良一メドレー・紅白バージョン」の一節として少年隊が、2005年の「第56回NHK紅白歌合戦」では松浦亜弥が本楽曲を歌唱した。

日本音楽著作権協会JASRAC)の著作権使用料分配額(国内作品)ランキングでは、2012年度と2013年度の2年連続で年間4位、2014年度の年間5位[3]、2015年度の年間8位と4年連続でトップ10入りを記録した。

また、アメリカでもColumbiaから笠置シヅ子が歌ったものが、なぜかTokyo Columbia Orchestra名義で45回転のシングルレコード(レコード番号Columbia 4-39954)として発売されている。

歌詞の内容は「海軍小唄」を当時の伊達男の恋に置き換えている。
作詞:佐々木英之助
作曲:能代八郎
編曲:田端義夫

東京ズンドコ節(1951年7月

安城美智子と鈴村一郎によってリリース。

作詞:大高ひさを
作曲:長津義司

 ズンドコ桜

「ズンドコ桜」は、「ズンドコ節」の変形のひとつである。1952年4月に田端義夫安城美智子によってリリース。
作詞:大高ひさを
作曲:不明編曲:倉若晴生

アキラのズンドコ節

1960年に小林旭がカバー。『海から来た流れ者』シリーズの第2弾『海を渡る波止場の風』のテーマ曲として誕生した。

歌詞は大きく変わり、曲のテーマは「若い男女の恋物語」となった。発売年のレコード売上は30万枚に達した。元々は小林の「鹿児島おはら節」のB面曲であったが、こちらのほうがヒットした。
作詞:西沢爽/補作曲:遠藤実/編曲:狛林正一

お座敷ズンドコ

朝丘雪路が「お座敷ズンドコ」としてカバー。オムニバスCD『スタコイ・ポップスVol.2』収録。
作詞・作曲:不明
編曲:長洲忠彦 

ドリフのズンドコ節(1969年

8時だョ!全員集合(1969年〜1985年)で有名なザ・ドリフターズの楽曲で、3枚目のシングル。1969年11月1日にリリースされ、150万枚を越えるヒットとなった。。

テーマは小林旭と同じく「若い男女の恋物語」だが、原曲の「海軍小唄」の歌詞も6番(ほぼ原曲の1番である)をはじめとして所々に使われている。1番から6番まであり、1番を加藤茶、2番を仲本工事、3番を高木ブー、4番を荒井注、5番をいかりや長介、6番をメンバー全員で歌っている(6番に入る前に、いかりやが「元歌!」と叫んでいる)。

1 - 5までの歌詞はある男性の女性遍歴を辿る(学生 - 親元を離れ下宿生活 - 新入社員 - 会社に慣れて相手に物申せる立場 - 倦怠期)様になっている。

1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』で、途中の白組応援にドリフが登場、坂本九と一緒に応援の替え歌をうたった。1969年公開映画『ズンドコズンドコ全員集合!!』の主題歌。1970年の『第12回日本レコード大賞』で「大衆賞」を受賞、またこの年から始まった『日本歌謡大賞』の「放送音楽賞」も受賞した。

志村けんドリフターズに加入後「志村けんバージョン」も発売(シングル「ゴーウェスト」のB面に収録)されたが、CD『ドリフだヨ!全員集合青盤)』のライナーノーツによると、この「志村けんバージョン」は、荒井注がソロを担当している4番だけを志村に差し替えて編集した以外は1969年版と全く同一の録音であるという。しかし、明らかに歌い方が異なるだけでなく、メンバーの掛け声も1969年版には聴かれないものが多いため、ライナーノーツの記述には疑問符が残る。

この他、「ズンドコ節海軍小唄)」という題名で、元の歌詞通りに歌っているバージョンも存在する。アレンジは同じ。4番まであり、4番は1番と同じ歌詞。「ドリフのズンドコ節」とは違い、全て全員で歌っている。このバージョンは、最近発売されたCDでは、2008年10月22日に発売された「ドリフの軍歌だよ 全員集合!!」に収録されている。

*ドリフの場合「8時だョ!全員集合(1969年10月4日〜1971年3月27日、1971年10月2日〜1985年9月28日)」で、コント切り替え時に舞台回転と同時に流れる曲も8Beatだった。

八田英士のズンドコ節 「さすらい」

1970年代に八田英士(元・永田英二)によって、「さすらい」というタイトルでリリースされたシングル。
作詞:喜多条忠
作曲&編曲:高田弘

零心会のズンドコ節

1986年に零心会によるカバー。

テレビドラマ『ザ・ハングマンV』のエンディングテーマ。
作詞:中西冬樹
作曲:不明編曲:水谷公生
*以外にも映画「Times Square(1980年)」主題歌やYMO「Ballet(1982年)」の流れっぽい。1980年代前半のサウンド!! 

きよしのズンドコ節

2002年に氷川きよしがカバー。歌い出しは、小林旭のものに似ている。

曲のテーマは当初「若い男女の恋物語」にする予定だったが、氷川と作詞者・松井の意向で急遽「故郷にいる母親への思い」が3番として追加された。オリコン週間チャートで最高5位の大ヒットとなり、この年以降全国の盆踊り大会で使われている。

 レ・ロマネスクのズンドコ節(Zoun-Doko Bushi

「Zoun-Doko Bushi」は、日本人デュオレ・ロマネスクによってフランス国内でカバーされた。2011年発売のアルバム『Dandysme!』に収録。

全編フランス語で歌われており、概してフランス生活で見られるおかしなところを皮肉った内容となっている。曲調は「ドリフのズンドコ節」に近い。

作詞:TOBI
作曲:不明
編曲:KC

*「フランス文化にとっての日本文化」が「フランス人自らの手になるフランス批判」の体裁の良い隠れ蓑に利用されてきた歴史はアカデミア芸術の批判に浮世絵を用いた19世紀まで遡る。まぁ日本でも「外国人やLGBTQA系のタレント」はそういう役割を負わされがち?

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そう「ズンドコ節」はあくまで格好悪い。しかしそれ故にフォルス(中央集権的統制)に対抗する絶対不服従ヴィオランス(対抗手段)であり続けるという側面も。

  • 要するにここで想定すべきは「罰を設ければ、逃げる楽しみも生じてしまう」ジレンマ。そう、まさしく江戸幕藩体制が身分制維持の為に身分を超えた結婚を禁止すると心中事件が多発して芝居によって美化され、男女の絡みを描いた春画を禁止すると「男の娘」が生まれ、人間同士の絡みそのものを禁じたら「触手責め」「妖怪強姦物」が生まれた流れ。

  • 絶対王政期フランスにおいて(ポンペイ遺跡発見を契機として古代ギリシャ・ローマ時代の質実剛健さに回帰する新古典主義運動が起こり、「馬鹿馬鹿しいまでに派手で誇大妄想的過ぎるバロック芸術や「華美で優弱に過ぎるロココ芸術が宮廷から追放されるとドイツや北欧や東欧や帝政ロシアの宮廷は却って(太陽王ルイ14世の栄華や宮廷文化の洗練度に深く結びついた)それに深くのめり込んでいった。

    http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000895872/71/img6b070af8zik1zj.jpeg
    http://sworldnews.com/wp-content/uploads/2012/08/Neuschwanstein-Castle_1.jpg 

    応仁の乱(1467年〜1477年)で京都が焼け落ちると、全国各地の戦国大名が自らの所領の首府を小京都化しようと試みた流れにも通じる。

  • そう、要するにフランスにおける「自由人Libertin)」、日本史上における「婆娑羅」や「傾奇者」「蘭癖」の世界なのである。
    リベルタン(Libertin) - Wikipedia
    ばさら - Wikipedia
    かぶき者 - Wikipedia
    蘭癖 - Wikipedia

そして「ドリフのズンドコ節1969年)」がリリースされた時期には、国際的に平安時代末期に「田楽」が爆発的流行をした様な「泥臭い下からのヴィオランス」が渦巻いていたのでした。

  • エレキギター日本上陸…国際的に1960年代を席巻したが、当時の曲を聞き返していると最初に取り入れたのはジャズの分野で「007は殺しの番号007 DR.No、1962年)」がやり過ぎた反省からか(今から聞くと、その執拗な繰り返しが逆にサンプリング音楽の先駆けに聞こえる)しばらくは「数小節のみ挿入」という時代が続く。

    植木等 「ハイそれまでョ(1962年)」…エレキじゃないが曲調の暗転時にズンドコしてる。

    *フランスではHot Bloodの怪奇ディスコ曲「Soul Dracula(1976年)」の段階に至っても「数小節のみズンドコ」の伝統は残っていた。ところでこの音楽グループ、スタジオミュージシャンが匿名で集まって結成したもので、メンバーの名前や人数、経歴など詳しいプロフィールが明らかにされていない。まだまだ「ディスコで踊れる曲」が低俗と軽蔑されていた時代だったせい? ならば、あの馬鹿馬鹿しい派手なコスチュームには「素顔を隠す」意味合いもあった可能性もある。

    日本へは1960年代後半に上陸。たちまち江戸時代の「三味線」上陸に続く「不良アイテム」として煩方(うるさがた)の批判対象となった。

    青春デンデケデケデケ - Wikipedia

    エレクトリック・ギター(Electric Guitar) - Wikipedia

    1965年1月の『ザ・ベンチャーズ』の来日以降、ベンチャーズの人気と共にエレキ族と呼ばれる若者を中心に爆発的にエレキギターに注目が集まり「エレキブーム」が訪れた。テレビ番組『勝ち抜きエレキ合戦』等のテレビ番組や加山雄三主演映画『エレキの若大将』等の後押しもありブームに拍車をかけていった。

    しかし1965年10月に栃木県足利市教育委員会の働きかけで起こった小中学生のエレキ購入禁止や大会参加禁止等を定めた通称「エレキ禁止令」が出されると、新聞で大きく取り上げられるなど社会問題化し、一方的に「エレキギターは不良少年がするもの」とレッテルを貼られ、コンサートを見に行っただけで高校を退学させられるなど全国で激しい「エレキギター追放運動」が波及していった。

    条例は後に廃止されたもののブームは次第に沈静化していくことになる。その後寺内タケシによるハイスクールコンサート等の熱心な努力もあり改善されていく

    この時期には作曲家の宮内國郎1932年〜2006年)の仕事が面白い。ジャズ畑出身ながらエレキギターサウンドへの関心も高く、特撮TVドラマ実現の可能性を探っていた円谷皐(円谷英二の次男)に誘われる形でテレビ業界に根を下ろして「ウルトラQ1966年)」「ウルトラマン1966年〜1967年)」の主題曲を手掛け、さらにハンナ=バーベラプロダクション制作TVアニメの日本語版にも関わっているのである。この時期に次第に8ビート基準の「(コード進行に合わせてそのままリズムラインがスライドしていく、既存のメロディアスな展開に比べたらいささか下品なベースリフ」の概念が定着していくが、まさにその端境をたった一人で顕現した人物…


    米国ハンナ=バーベラプロダクション制作TVアニメ「スーパー・スリーThe Impossibles、1966年、日本放映1966年〜1967年)」は、同じエレキサウンドながら(あえて当時日本を席巻していたベンチャーズグループ・サウンズから離れた)温和な方向に。

    スーパースリー (アニメ) - Wikipedia

    怪獣王ターガンThe Herculoids、1967年)」も宮内國郎作曲。交響曲風のオリジナルと異なり、日本版は完全にグループサウンド。ただしズンドコ展開は控え目?

    こうして全体像を俯瞰してみると、当時のマカロニウェスタンの台頭には「エレキギターサウンドの逆襲」という側面もあった事は明白?

     

  • ファンク登場…当時のアメリカにおいては公民権運動に勝利した黒人音楽はまだまだ危険視されており、子供番組の主題歌に採用される可能性なんて皆無に等しかった。ところが当時の日本の子供番組にそんな制約は存在しなかったので、皮肉にも先行してギターもベースもキーボードも唸り回ってインプロバイゼーションが大展開…

    カリキュラマシーン1974年~1978年)」主題歌も結構Fanky

    funky」は「funk」を形容詞の形にしたもの。そして「funk」は元々(今もですが)「悪臭」という意味です。この単語は1620年に初めて英語で使われているのですが、語源はラテン語の「fumigareたばこを吸うの意)」です。これがフランス語の「fungiere」になり英語になりました。ですから、「funky」にも「すごく臭い、カビの臭いのする、イヤな臭いのする」という意味があります。

    そして1960年台にはアフリカ系アメリカ人が、ソウルミュージック、ジャズ、リズム・アンド・ブルースなどを組み合わせた新しい音楽を生み出します。この頃までに「funk=臭い」という言葉は「土臭い」「素朴で洗練されていない」などの意味を持つようになっており、この新しいジャンルの音楽が「Funk Music」と名付けられた、と言われています。またアフリカ系アメリカ人の体臭が臭いということで揶揄して「Funk Music」と名付けられたという説も存在します。そして「Funk Music」のようなサウンドを「funky」と形容詞で修飾するようになり「funky」は「(音楽がファンキーな」となりました。音楽から転じて芸術にも「funky」は使われていて「funky art」という現代美術の1つの流れも形成しています。

    そしてこの「Funk Music」の国際的成功が「funky」に「カッコいい、イカした、型破りな」という意味を付加する事になったのです。

    一方、ハンナ・バーベラも「チキチキマシン猛レースWacky Races、1968年〜1969年)」辺りでかなり追いついてくる?(まだちょっとジャズっぽい

  • タンゴ…日本コンテンツにとって「大いなる反革命」があったとされる1969年にイタリア発の「黒ネコのタンゴ」が流行。日本人は初めてこの世にタンゴという音楽ジャンルが存在する事を知ったのだった。

    黒ネコのタンゴ(1969年) - Wikipedia

    原曲は、1969年3月のイタリアの童謡コンテスト「第11回ゼッキーノ・ドーロゼッキノ・ドロとも表記される)」で第3位に入賞した曲「Volevo un gatto nero黒いネコがほしかった、作詞マリオ・パガーノ(Mario Pagano、「フラマリオ (Framario)」の筆名で投稿)、アルマンド・ソリチッロ(Armando Soricillo)、フランチェスコ・サヴェリオ・マレスカ(Francesco Saverio Maresca)作曲、マリオ・パガーノ(オリジナル歌唱者ヴィンチェンツァ・パストレッリ(Vincenza Pastorelli))」。

    • 『本物のアリゲーターやキリン、ゾウ、動物園丸ごとあげるから、代わりに黒ネコがほしい』と言ったのに、友達がくれたのは白ネコだった、嘘をついたんだからもう遊んであげない」というのがオリジナルの歌詞の内容である。最後には「もう黒でも白でもどっちでもいいけど、嘘つきには何にもあげない」と締められる。ヴィンチェンツァ・パストレッリの歌うレコードは900万枚を売り上げた。1969年当時、イタリアでは同じく第11回ゼッキーノ・ドーロの入賞曲である「Il Pesciolino Stanco「疲れた小魚」の意味。歌:ナタリーノ・ディ=メッツォ(Natalino Di Mezzo))」とカップリングされてシングルレコードとして発売された(レーベル:Antoniano/Rifi、品番:RFN NP 16344)。歌手のクリスティーナ・ダヴェーナが2012年の第55回ゼッキーノ・ドーロでこの歌を歌うなど、ゼッキーノ・ドーロの曲のうちでもとくに親しまれている楽曲のひとつである。

    • 日本では1969年10月5日に皆川おさむのデビュー曲として発売された。見尾田みずほが日本語の詞を付けて邦題を「黒ネコのタンゴ」とし、小森昭宏が編曲した。たまたま皆川おさむの叔母である皆川和子が主宰するひばり児童合唱団に日本語版リリースのオファーが来たことから皆川おさむが歌うことになった。フィリップスからシングル盤『黒ネコのタンゴ』(規格品番:FS-1092)が発売されるとオリコンで14週連続1位を記録、シングルセールスは公称260万枚(資料によっては230万枚)の大ヒットとなった(1969年の年間第5位・1970年の年間第1位)。ニッポン放送のラジオ番組「オールナイトニッポン」が日本におけるヒットの発信源とされる。なお、この日本語版の歌詞は原詞の翻訳ではなく独自に作詞したものである。シングル盤「黒ネコのタンゴ」は発売当時のコピーが「大人のための子供の歌」であった。当時、童謡のレコードでは物品税が非課税扱いだったが、東京国税局では幹部による試聴会を開いた上で童謡と判定した。一方でレコードはプレス場所で納税する規定があり、他の国税局管内では歌謡曲扱いで課税対象という不統一が起こった。また皆川おさむは「黒ネコのタンゴ」をレコーディングした当時、「タンゴ」が音楽用語とは知らず、ネコの名前だと思っていたという。ちなみにB面は「ニッキ・ニャッキ」。

    1999年4月7日に皆川の楽曲が「だんご3兄弟」のカバーと両A面シングルとしてシングルCDで発売され、オリコン最高40位を記録した。これに伴い、「黒ネコのタンゴ」は1999年4月19日付オリコンシングルチャートで1970年7月12日付以来1501週後の再チャートインという記録を達成した。

    日本でのカバー1974年には「ママとあそぼう!ピンポンパン1966年〜1982年)」の挿入歌として石毛恭子にカバーされた。童謡集などでは、稲村なおこ、大和田りつこらも歌っている。また、コロムビアゆりかご会によるコーラスバージョンやCHOCOLATE FASHIONによるバージョン、ザ・カミカゼによるディスコアレンジバージョン、The Phanky OKstraによるヒップホップバージョン(曲名は『TPOの黒ネコのタンゴ』)などがある。

    2005年には時東ぁみがミニアルバム『①さなぎのバスローブ』でカバー。2002年には、星野隆子がイタリア語の原歌詞でカバーした。2007年にはwyolicaがコンピレーション・アルバム『Lingkaran for Baby』でカバー。2008年には大橋のぞみがアルバム『ノンちゃん雲に乗る』でカバー。2009年には野中藍がアルバム『夏のあらし! キャラクターソングアルバム 歌声喫茶方舟』でカバー。2010年にはROCOがアルバム『こどもじゃず』でカバー。2011年にはミゲル・ゲレイロがアルバム『しあわせソングス★はじめまして、ミゲルです』でカバー。2016年にはムジカ・ピッコリーノ メロトロン号の仲間たち(ゲストヴォーカル:もも(チャラン・ポ・ランタン)がアルバム『ムジカ・ピッコリーノ Mr.グレープフルーツのブートラジオ』でカバー。

    ああ、この展開あっての 岡村靖幸聖書バイブル、1989年)」、Hyunaの「Trouble maker2011年)」、2Ne1「Norza2011年」、そして東京ゲゲゲイなのか…

    時計の針を巻き戻すと、その一方で「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘Josie and the Pussycats 、1970年)」の日本語版も「怪獣王ターガン」同様、原曲の雰囲気を軽くスルーしてタンゴアレンジ。おそらく武内直子美少女戦士セーラームーン(原作1992年〜1997年)」のアニメ版主題歌もこの系譜に位置付けられる。

日本の「大人の為の子供音楽」は、こうした試行錯誤を経て独自のスタンス確立に向かった訳ですが「オイル・ショック和製英語 oil + shock)」のせいで一時後退を余儀なくされた感があります。

オイルショック(和製英語 oil + shock) - Wikipedia

1973年(第1次)と1979年(第2次)に始まった(ピークは1980年)、原油の供給逼迫および原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱である。石油危機(oil crisis)または石油ショックとも称される。

OPEC諸国の国際収支黒字は1973年には10億ドルであったが、1974年には約700億ドルに急増。一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は1970年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった。世界各国はユーロ債市場から資金を調達した。OECD加盟国は長期の固定金利債を起債することができたが、非産油途上国はカントリー・リスクのためにそうした手段がとれず、代わりに負担が大きい変動金利シンジケートローンに頼った。 

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  • 和製ジャズ・ホラーの流れにファンクの影響が加わってTV系サイバーパンクの世界に。そう、元来根底にあったのは屈強なヴィオランス…


    意外なのが「たべちゃうぞ1975年)」との音楽的連続性…

    一般公募の歌詞で「言うことを聞かない子供に対する母親の苛立ち」を歌った内容だっったが、苦情が多くて途中で打ち切られている。後半次第に「食べる」の意味合いが変質してエロティックな色彩を帯びてくるのも嫌われた原因とも。

    ところで「粗末に扱われた玩具が復讐してくる」というテーマ自体は国際的に普遍的E.T.A.ホフマンエドガー・アラン・ポーの怪奇世界に取材したVisageMind of a Toy1980年)」でも耽美寄りのスタイルで表現されている。商品とその消費者の非対称性…

    My painted face Is chipped and cracked.
    My mind seems to fade too fast clutching straws.
    Sinking slow nothing less, nothing less.
    私の塗装された顔はあちこちが欠けてヒビだらけ。
    その心も恐るべき速度で藁束へと変貌しつつある。
    早過ぎも遅過ぎもしない沈降…

    A puppet's motions controlled by a string by a stranger I've never met.
    A nod of the head and a pull of the thread.
    I can't say no, can't say no
    人形の動作。
    一度も会った事のない見知らぬ人の制御。
    拒否権なきYESを引き出す糸の引き。

    When a child throws out a toy
    When I was new you wanted me
    Now I'm old you no longer see
    子供が玩具を捨てる。
    最新版の頃は求められてた私が
    今や完全に眼中にない。

    When a child throws out a toy
    Spiteful girl
    Hateful boy
    When a child throws out a toy
    玩具を捨てる子供。
    意地悪な女の子。
    憎しみに満ちた男の子。
    子供が玩具を捨てる時…

    I'm all dressed up and nowhere to go on a music box.
    That never stops
    I'll dance for you
    If you want me to
    Move in time, move in time
    全員が着飾っていてオルゴールの前に出向く事はない。
    これは止められない過程。
    私はただ貴方の為に踊るだけ。
    もし貴方が私にそれを望むなら。
    望まれてる間だけ…望まれてる間だけ…

    A wooden head and a broken heart
    Used, abused and torn apart.
    I gave you my best and you gave me the rest.
    It's time to die, time to die
    木製頭部に秘められた心傷。
    使い古され、虐待され、引き裂かれてきた。
    これが貴方にベストを尽くしてきた私の残骸。
    もはや寿命…もはや寿命…

    When a child throws out a toy
    When I was new you wanted me
    Now I'm old you no longer see
    子供が玩具を捨てる。
    最新版の頃は求められてた私が
    今や完全に眼中にない。

    When a child throws out a toy
    Spiteful girl
    Hateful boy
    When a child throws out a toy
    玩具を捨てる子供。
    意地悪な女の子。
    憎しみに満ちた男の子。
    子供が玩具を捨てる時…

    (Instrumental)

    When a child throws out a toy
    When I was new you wanted me
    Now I'm old you no longer see
    子供が玩具を捨てる。
    最新版の頃は求められてた私が
    今や貴方の目には見るに耐えない有様…

    When a child throws out a toy
    Spiteful girl
    Hateful boy
    When a child throws out a toy
    玩具を捨てる子供。
    意地悪な女の子。
    憎しみに満ちた男の子。
    子供が玩具を捨てる時…

    およげ!たいやきくん1975年)」も鯛焼きという卑近な題材を選びながら深い含意に満ちている。 

    こうした流れの一つの到達点がHot Bloodの怪奇ディスコ曲「Soul Dracula1976年)」だったとも。少なくとも日本人が国際的流行の波に乗れたのはこうした先史のせい?
     

  • 当然、マカロニウェスタンの流れは確実に刻印されている。

  • そして、これまでの投稿で「空前絶後」としか評価出来ずしてきた魔法少女の主題歌が歴史に足跡を刻む訳で…

    この当時の音楽の「有り得なさ」については、当時の雰囲気にトリビュートし、なおかつフェミニズム色が同じくらい強い「Oceans 82018年)」と比べるとイメージしやすい。このラテン色の強さが捏造?

いずれにせよ国際的にディスコ音楽がブームとなった1970年代には8-Beatベースリフは(それまでの抵抗感が嘘だったかの様に)当たり前のものとして広く定着していきます。

ディスコ(disco)またはディスコテーク(discothèque[2]) - Wikipedia

音楽を流し、飲料を提供し、客にダンスをさせるダンスホールである。音楽はほとんどの場合はレコードを流す。単にレコードを順番に掛けるだけの場合や、DJが現場に合わせた選曲を行ったり、曲紹介やミックス、スクラッチ再生中のレコードの音程やタイミングを意図的に崩す演出)を行う場合も有る。生バンドが演奏する場合もある。

  • 音楽ジャンルの1つであるディスコ音楽の場合、現在のクラブでは、かつてニューヨークに存在した伝説的なゲイ・ディスコ、パラダイス・ガレージ、ギャラリーなどでプレイされていた複数のジャンルの音楽を指し、ディスコは現在ハウスやガラージュ等と呼ばれる音楽の元となった音楽である。
  • 電気楽器を主体として作られてきたディスコ音楽は、電子楽器を主体として作られる実験的なディスコ音楽であるポスト・ディスコの時代を経て、Hi-NRG,ハウス,テクノ等の電子楽器を前提とする新たなダンス・ミュージックを生み出して行った。この時代に生まれた電子的なダンスミュージックは、電子楽器の進化に伴って更に高度な表現を行うサブジャンルを生み出し続けている。それはDTMが前提となり、世界中でヒット曲を生み出しているEDMでも同様である。従って、ディスコ音楽は電子的なダンスミュージックの祖であると言える。

現在の日本ではディスコはクラブという名称に変わり、ディスコと言った場合、過去に存在していたダンスホールの形態を指す。

その起源

語源となったのはフランス語のdiscothèqueであり、マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味であった。

  • 形態としては第二次世界大戦中に生バンドの演奏が困難となったナイトクラブでレコードを代わりに掛けるようになったのが始まりであり、第二次大戦後にパリにラ・ディスコテークと呼ばれるクラブが出現したことにより定着した。
  • この生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコもしくはクラブという形式)」が本格的な発展を遂げたのは1960年代以降のアメリカのニューヨークのゲイ・シーンである。客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であり、掛けられる音楽はファンクやソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウル(Philadelphia (or Philly) soul)と呼ばれる滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。

    フィラデルフィア・ソウル(Philadelphia (or Philly) soul) - Wikipedia

    '70年代前半に一世を風靡したフィラデルフィア発のソウルミュージックの一形態。作品の大半がシグマ・スタジオで制作されたことによりシグマ・サウンドとも言われる。ストリングスを要した華麗で柔らかく甘めのサウンドが特徴である。それまでのソウル、R&Bをより洗練された都会的雰囲気のサウンドに変貌させた。

    • ロックンロールが隆盛下のフィラデルフィアでは、黒人人口が多い割にはソウルは栄えず、アイドル歌手等による白人のポップ・ミュージックがヒットしていた。1950年代後半から1960年代前半にかけて、勢力があったレーベルはフィラデルフィアで唯一のレーベルであったキャメオ・パークウェイのみであった。扱っていたのはボビー・ライデルらの芸能人的アイドル歌手や、流行のダンス・ミュージックであり、白人受けしたものであったが、このレーベルも1968年には倒産する。
    • このレーベルに替わり、フィリー・サウンドを作ったのが、フィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)である。このレーベルは、1971年にケニス・ギャンブルとリオン・ハフによるプロダクション・チーム「ギャンブル&ハフ」により設立され、コロムビア・レコードと配給の契約をした。オージェイズ、ビリー・ポール、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツや、後にソロとなったテディ・ペンダーグラス等が代表的なミュージシャンである。彼等のサウンドを特徴付けるのはストリングスやブラス・アンサンブルであり、これはPIRのハウス・バンド「MFSBMother Father Sister Brother)」によるものである。MFSBのヒットにはスリー・ディグリーズの歌をフィーチャーした「ソウル・トレインのテーマ1974年)」がある。

    フィリー・ソウルを仕立てたフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR/Philadelphia International Records)のハウス・バンド、MFSBによる流麗なサウンドが、ヴァン・マッコイやバリー・ホワイトらに影響を与えた。PIR以外でもヒットしたミュージシャンにスピナーズやザ・スタイリスティックスがおり、PIRのプロデューサー、トム・ベルが一役を買った。 

  • 70年代半ばから世界的なディスコ・ブームとなり、ニューヨークの「スタジオ54」や「ニューヨークニューヨーク」などの巨大ディスコが人気となった。一方、ディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージ、セイント、フラミンゴ、ギャラリーなどが挙げられる。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリー(女性や非メンバーもメンバーのゲストとして入場する事ができた)のディスコであり、ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、流行の発信地でもあった。この中でもっとも有名であり、後世に影響を与えたのパラダイス・ガレージとそのメインDJ、ラリー・レヴァンである。因みに1984年、パラダイス・ガレージと人気を二分したセイントでは、DJ・中村直が日本人として初めてレジデントとして迎えられた。

現在のクラブ音楽の基本的パターンである、DJがヒット曲ではなく自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を躍らせるというスタイル、二枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、クラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などは、この時期にラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズ達によって確立された。やがてラリー・レヴァンフランソワ・ケヴォーキアンなどの有名ディスコDJ達はレコードを発掘するにとどまらず、自らプロデューサーとして、ダンスのためだけに特化したレコードを多数リリースしたり、リミックスを手がけるようになる。ダンスフロアとダンサーの心理やツボを知り尽くした彼らは、それまでの音楽プロデューサーが思いもよらなかったような様々なテクニックやスタイルを導入した。こうしたダンス・レコードをリリースしてディスコ文化を支えたレコードレーベルとしてはサルソウルカサブランカ、ウエスト・エンドなどが挙げられる。

日本へと輸入されたディスコ

当初のそれは白人大衆向けにソフィスティケイトされたものであり、黒人音楽の要素は非常に薄いものも多かった。

その黎明期1960年代〜1970年代前半

日本では1960年代にオープンした渋谷の「クレイジースポット」や新宿の「ジ・アザー」が最初とする説もある。中川三郎ディスコティークは、1965年にオープンし、GSのテンプターズらがライブ演奏をおこなった。中川は、給料の安い若年層が来やすいように、値段が安くラフな服装でも訪れやすいようにしてダンスの普及をした。

  • 一般的には1968年(昭和43年)に赤坂と歌舞伎町に出来た「ムゲン1968年〜1987年)と赤坂の「ビブロス」がディスコの走りといわれている。ムゲンでは70年代半ばから、コンファンク・シャンがハウスバンドとして2年ほど演奏していた。
  • 当時はエレキバンドが出す大音響の演奏にあわせて踊るゴーゴークラブやゴーゴー喫茶が流行しており、ゴーゴーガール目当てに通う者もいたが、それらの店とは一線を画して主に芸能人やモデル、富裕層や外人客(米兵を含め)を主な客層としたことで、一気に時代を先んじた存在になった。この頃の「ムゲン」は、渋沢龍彦三島由紀夫三宅一生加賀まりこ沢田研二安井かずみ前野曜子グッチ裕三などの時代の先端を行くそうそうたるメンバーで賑わっていたという。当時は生バンドとレコードの両立であった。60年代のディスコはジェームス・ブラウンテンプテーションズなど、本物のソウルをかけていた。
  • 1971年(昭和46年)六本木にオープンした「メビウス」が、日本で最初にレコード演奏のみで営業した。これは生バンドの人件費を抑えるための方策であったが、結果的に現在のディスコやクラブと同じくレコード演奏のみのスタイルとなった。

地方でも、1967年(昭和42年)6月23日、広島市中区鉄砲町に「JAZZ FIVE」が開店し、アメリカの最新の曲を流して、若者や米兵などから人気を集めた。

第一次・第二次ディスコブーム1975年〜1979年

第一次のディスコブームは、1975年(昭和50年)から1976年(昭和51年)ごろにかけての時期であり、DDサウンドなどのディスコ・バンドが日本で商業的なヒットを出した。

そして短い時期の空白があった後、1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)にかけて第二次のディスコブームが巻き起こった。それが1978年(昭和53年)、ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバーSaturday Night Fever、1977年)」が日本公開されて大ヒットしたことで新宿、渋谷、六本木、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業した現象である。この映画のヒットで、世間の偏見による不良のたまり場というディスコのイメージがやや変化し、ディスコは大衆化した。同名のサウンドトラックには、タバレス、イボンヌ・エリマン、クール&ギャング、KC&サンシャイン・バンド、トランプスらの楽曲が収録されていた。

1970年代終わりから1980年代初めにかけては、ディスコの定番となる曲が数多く生まれた。Chicのような、本物のブラック・ミュージックも存在したが、多くはドナ・サマーやBee Gees、アラベスクジンギスカンなどは、本物の黒人音楽とは似ても似つかない、踊らせることだけが目的のサウンドだった。ヴィレッジ・ピープルのヒット曲「Y.M.C.A.」は、西城秀樹が若者向けポップス歌謡「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーした。

さらに、YMOのもたらしたテクノブームが新宿のディスコにも影響を与えた。彼らの髪型はテクノカットと呼ばれる、もみ上げを鋭角にカットした刈り上げだった。また、ニューウェイブ・ディスコではマッドネス、スペシャルズなどのツートンスカも小流行した。原宿の歩行者天国ホコ天)でラジカセを囲み奇抜な衣装で踊る竹の子族が流行ったのもこの頃である。

この頃の東京を代表するディスコは、新宿の「ツバキハウス」、「ワンプラスワン」、上野の「ブラックシープ」、浅草の「シャトー」などであった。しかしながら1982年(昭和57年)に刑事事件が発生したことも1つの原因となり、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取締りが強化され、新宿のディスコは衰退した。

シンセ・ディスコ / サーファーディスコ・ブーム時代1980年〜1984

この頃のディスコブームを象徴するのが六本木スクエアビルである。地下2階から10階までの12階中、1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになった。中でもNASAグループの「ネペンタ」「ギゼ」が人気店となる。

六本木スクエアビル以外では、六本木「エリア」の前身である日拓系列の「マジック」、伝説的な存在となった六本木「キサナドゥ」「ナバーナ」、外人顧客が中心の老舗「レキシントンクイーン」などが、JJ誌やFine誌などの雑誌メディアに紹介された。新宿ディスコでは「ゼノン」でお馴染みのジョイパックグループの渋谷「ラ・スカーラ」が人気店となった。これらディスコに共通するのがサーファーブームに乗った「サーファーディスコ」である。そしてこの頃のディスコの主役は女子大生であった。田中康夫の「なんとなく、クリスタル」や深夜番組「オールナイトフジ」が大きな影響力を及ぼした時期であった。ファッションはスポーツ系のブランド服を基本として、レイヤードのヘアースタイルの女子高生、女子大生を中心にしたものだった。六本木を震源地に広がったサーファーディスコブームであったが、当時の流行発信性の高かった六本木地域から、徐々に渋谷、新宿へと文化が移転するにあたり、大衆化が進み、そのパワーは次第に廃れていった。新宿の「PUKA PUKA」はそんなサーファーディスコの最後の砦であった。しかしサーファーディスコはカフェバーやプールバーの人気と共に終焉を迎える。

ユーロ・Hi-NRGブーム1985年〜1989年

1980年代中期からハイエナジーユーロビート)ブームが起こり、全国的に人気となり第2次ディスコブームが発生する。

ユーロビート(Euro Beat) - Wikipedia

ユーロビート (EUROBEAT) とは、主に電子楽器を使用したダンス・ミュージックの一種である。Hi-NRGをルーツとしているとされる。

  • 主にシンセサイザー等の電子楽器を多用した、4/4拍子で、BPMが120〜160前後の速いテンポの楽曲である。元はヨーロッパで1970年代より流行していた「ユーロ・ディスコ」、またイギリスで1980年代前半に登場し、その後ヨーロッパ全土で流行した「Hi-NRGハイ・エナジー)」、そして同時期にイタリアで生産されヨーロッパ大陸を中心として流行した「イタロ・ディスコ」に端を発しており、1980年代中頃よりヨーロッパ全土で流行した。中でもイギリスの有名プロデューサーチームであるストック・エイトキン・ウォーターマンがプロデュースしたアーティストたちがヨーロッパに留まらない世界的なヒットを飛ばしたが、流行は数年で終息した。
  • 一方1980年代後半、ユーロビートハイエナジーイタロ・ディスコなどといった当時のヨーロッパのダンス音楽がまとめて「ユーロビート」の名称で日本に持ち込まれ、「ユーロビート」というジャンルは日本のみで独自の発展を遂げたのである。1990年代以降も日本のレコード会社・エイベックスなどから発注を受けたイタリアのプロデューサーによってユーロビートが制作され、日本のパラパラなどのダンスカルチャーにおいて消費される状況が続いており、さらには日本のアニメやゲームなどにユーロビートが採用され、それらの作品が海外に輸出されることで、ユーロビートは日本文化の一部としての「スーパーユーロビート」として世界に再発信されている。

この様に1985年当時の日本ではハイエナジーユーロビート、イタロディスコなどのジャンルが区別されず、同時期のヨーロッパのダンス音楽が全て「ユーロビート」の名称で受け入れられた。

当時をリアルタイムに生きた人間は(大映TVドラマの影響もあって)、ほぼ確実に「サタデー・ナイト・フィーバーSaturday Night Fever、1977年)」「Times Square1980年)」「フラッシュダンスFlashdance、1983年)」「フットルースFootLoose、1984)」「ストリート・オブ・ファイアーStreets of Fire、1984)」を連続する音楽文化として体験してきた筈。とりあえず私がエビデンス

2010年代後半には、当時へのこの文化をトリビュートした新海誠監督アニメ「君の名は(2016年)」やグレタ・ガーウィグ監督「レディ・バードLady Bird、2017年)」の様な青春映画がリリースされている。

グレタ・ガーウィグ監督「本作で起こる出来事に実話は1つしてないけれど、故郷、幼少期、巣立ちに対する想いに繋がる核心部分は本物である」。

  • 日本国外におけるユーロビートの人気が無くなった1990年代以降も、日本ではユーロビートが長く人気を保った。この時期の「ユーロビート」は、日本のメーカーが直接ユーロビートのアーティストと契約を行い日本のみでリリースされるユーロビートのほか、ユーロビートのアーティストがプロデュースした日本人の楽曲、または日本人が制作したユーロビート調の楽曲などがほとんどとなり、いずれにせよ、ヨーロッパと言うより日本市場の嗜好に完全に特化した曲調となった(これらの音楽は海外では「Japanese Eurobeat」「J-Euro」等と呼ばれるか、あるいは単に「J-POP」の一種とみなされている)。日本人好みの「泣き」のメロディーが多い。他のジャンルと比較して、4つ打ち主体のユーロビートはリズム感に乏しい日本人でもリズムが簡単に取れる点も、長年の人気の理由の1つである。1980年代後半から1990年代前半にかけて「ザッツ・ユーロビート」というコンピレーションCDがアルファレコードから発売され、ブームに火を点けるとともに、ユーロビートの名称が定着した。同シリーズはVol.44まで続き、今ではユーロビートの古典的存在となっている。また、同時期には、他社からも「ユーロビート・ファンタジーポニーキャニオン)」、「ベスト・ディスコビクター)」というシリーズが発売され、ディスコ・ブームとともにユーロビートは日本で一世を風靡した。ダンス音楽として制作されたユーロビートの楽曲はシングル単位で消費される例がほとんどだが、キング・コング&ジャングル・ガールズ(『BOOM BOOM DOLLAR』)、マイケル・フォーチュナティ(『GIVE ME UP』)、ポール・レカキス(『Boom Boom (Let's Go Back to My Room)』)などは一般消費者にも受け入れられ、アルバム単位でもヒット作となった。また、ロングセラーになる曲も多く、Melaの『Help Me』などが代表格である。

  • 日本の歌謡曲にも影響を与え、特にアイドル歌謡ユーロビートアレンジを採用する例が多かった。当時のヨーロッパでヒットしていたユーロビートを日本のアイドルがカバーした作品としては、荻野目洋子『ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)』、森川由加里Show Me』、長山洋子ヴィーナス』、BaBe『Give Me Up』、Wink愛が止まらない 〜Turn It Into Love〜』などが挙げられる。アイドルがカヴァーしたことによって、オリジナルもヒットするという現象も多々あった。また、日本の歌謡曲に日本人プロデューサーがユーロビート風のアレンジを行ったものをアイドルが歌った作品としては、森高千里17才』が挙げられ、1970年代の南沙織の同名のヒット曲を斉藤英夫ユーロビート風にアレンジし、大ヒットさせた。

  • 1980年代当時、日本人アイドルの歌った日本製の「ユーロビート」は、DEAD OR ALIVEカイリー・ミノーグなどの本家のユーロビートとともに日本のディスコのフロアで流されていた。またポップスの方面でも、小室哲哉率いるTMNはプロデュースやリミックスをユーロビートの本家であるイギリスのPWLレーベルに委ねており、ダンス音楽に限らず、ユーロビートは日本国内で広く浸透していったことが分かる。また、アジアにおけるユーロビートの流行が、日本を起点に香港や韓国などのアジア諸国に拡大していく例もあった。特に、荻野目洋子ヴァージョンの『ダンシング・ヒーローEat You Up)』は、香港などでカヴァーされる際に、オリジナル曲ではなく、日本での編曲が使われた。韓国では「ザッツ・ユーロビート」のコピー盤が流通したり、90年代にはR.efやNRG、Koyoteといったアイドルグループがユーロビート調の楽曲を歌っていた事があった。

  • 1990年代以降、海外ではほとんどの「ユーロビート」のミュージシャンは人気を無くしていった(カイリー・ミノーグなどごく少数、スタイルを変えて人気を保つアーティストもいた)が、日本では1990年代以降も人気を保った。そのため、1980年代末よりユーロビートのクリエーターが最初から日本市場を優先して楽曲制作を行う例が増え、Mr. Zivago『Tell by Your Eyes1992年)』などは、日本盤と日本人アイドル田原俊彦によるカバー『雨が叫んでる1992年)』の方が、ヨーロッパ盤(1993年)よりも先に発売された。この時期以降のユーロビートは、日本でしか発売されていない楽曲がほとんどである。

  • ダンス音楽の方面におけるユーロビートの人気については、ユーロビートに合わせて踊る日本特有のダンス文化「パラパラ」が生まれたことが大きく、エイベックスから「スーパーユーロビート1990年〜)」、「ユーロビートフラッシュ1995年〜1999年)」、「ユーロマッハ!1999年〜2002年)」というコンピレーションCDシリーズが発売され始め、特に「スーパーユーロビート」は現在でも続いている長寿シリーズとなっている。『SUPER EUROBEAT』シリーズの長期的な商業的成功については、エイベックスの経営者が直接イタリアのユーロビート・レーベルと契約し、日本市場向けの嗜好に特化して制作してもらったことが大きな理由で、これらのレーベルの作品は、現在ほとんど日本国内で消費されているのみである。日本国内でのみ人気のあるジャンルをイタリアのレーベルが長年に亘って制作しつづけるという珍しい現象が起きている。そのため現在では、いわゆる洋楽であるにもかかわらず、日本国内のみで発売されているコンピレーション盤がほとんどである。

  • 1990年代中盤より、ユーロビートのアーティストであるデイブ・ロジャースが安室奈美恵やMAX、V6と言ったエイベックス所属のアーティストのプロデュースを行い、非常に大きな商業的成功を成し遂げた。ユーロビートは依然として日本の幅広い層に人気であった。そしてアニメの『頭文字D1998年〜)』の放映が開始され、デイブ・ロジャースがユーロビートの楽曲提供を行った。1990年代後半には音ゲーのブームによって、ゲームに1980年代のユーロビートが収録されたことで、1980年代のユーロビートの再評価も行われた。特にKING KONG & D'JUNGLE GIRLSの『BOOM BOOM DOLLAR』は『Dance Dance Revolution 2ndMIX』に収録されてアメリカにも輸出されたことで、アメリカでも「初期DDRを代表する曲」として知られるようになった(なおKING KONG & D'JUNGLE GIRLSはF.C.F.のマウロ・ファリーナの変名であり、「BOOM BOOM DOLLAR」は東芝EMIと契約を結んで日本市場向けにリリースされた楽曲である。イタリア人が日本人向けに英語で書いた楽曲であるため、ネイティブの英語話者から見ると英語の歌詞の文法が出鱈目なのも典型的なユーロビートの特徴である)。『頭文字D』、『Dance Dance Revolution』、『SUPER EUROBEAT』などは、2000年代以降も続く人気シリーズとなっている。

こうしたWikipedia記述から得られる最も有用な情報は「泣きメロディーが日本人の好み」「4つ打ち主体のユーロビートはリズム感に乏しい日本人でもリズムが簡単に取れたのが長年の人気の理由」「イタリア人が日本人向けに英語で書いた楽曲であるため、ネイティブの英語話者から見ると英語の歌詞の文法が出鱈目」辺りが典型的なユーロビートの特徴として挙げられてる辺り。

*こうしてDA PUMP「U.S.A.」への道は開かれたのだった。 
U.S.A. (曲) - Wikipedia

DA PUMP「U.S.A.」歌詞

DA PUMP『USA』の歌詞の意味をチェック!作詞と作曲は誰? - My News23

当時のディスコの曲は、よりポップス色を強める一方で、デッド・オア・アライヴ、リック・アストリー、カイリー・ミノーグバナナラマに代表されるストック・エイトキン・ウォーターマンPWLサウンド)によるプロデュース作品や、マイケル・フォーチュナティなどのイタリアからのユーロビートに代表されるような、コンピュータを用いた打ち込み系の音楽が多く使用され始めるようになる。日本の歌謡曲に似たメロディーに、無機質で単調なリズムを強調したアップテンポな曲が日本人にマッチして流行し、ユーロビート・ブームとなった。邦楽では荻野目洋子、Winkなどがユーロビートの曲をカバーしヒットした。

このブームは全国的に波及し、「大阪マハラジャ」「福岡マリアクラブ」「金沢サムライ」など、都内では、比較的大規模な店や豪華な内装を売り物にしたディスコも展開され、絨毯バーやカラオケパブを展開していたNOVA21グループによる麻布十番マハラジャ」青山「キング&クイーン」、パチンコ店展開の日拓系列による六本木「エリア」「シパンゴ」、会員制エスカイヤクラブの大和実業グループによる日比谷「ラジオシティ」などが人気店になった。また後に有名になったグッドウィルの折口氏は「ジュリアナ東京」「ヴェルファーレ」陣経営に参画していた。

しかし1988年(昭和63年)、鳴り物入りで登場したばかりの六本木「トゥーリア」で、電動で上下する巨大照明装置(バリライト)が吹き抜けの天井から落下し、「死者3名、負傷者14名」を出すという「六本木ディスコ照明落下事故」が発生し、都内のディスコブームは衰退し始めた。

この第2次ディスコブーム・第1次ユーロブームに乗って濫立された六本木界隈のディスコは1989年(平成元年)から減少に転じる。次にディスコが息を吹き返すのは、ジュリアナ東京ブームが始まってからである。

バブル期においては、東京では、それまで倉庫街や流通関連施設が立地しているに過ぎなかった湾岸地区が「ウォーターフロント」と呼ばれ、六本木周辺の地価高騰から新たな再開発地区として、またプレー・スポットとして注目を集めるようになっていた。
同地区では、比較的大規模な施設の建設が可能だったこともあり、1988年(昭和63年)に開業した総合施設、MZA有明江東区有明)に始まり、「オーバー2218」「イカ」「ゴールド1989年)」「横浜ベイサイドクラブ1987年)」などのナイトクラブやディスコが次々誕生した。

当時のウォーターフロント地区には、レストランやバーなども多く立地し「ウォーターフロント・ブーム」とも呼ばれる盛り上がりをみせた。これら飲食店の多くは、一見普通の倉庫にしか見えない外見を持ちながら、中に入ると非現実世界を思わせるお洒落な空間であるというミスマッチを特徴としていた。また、自家用車やタクシーでしか訪れることの出来ない不便な立地が、翻ってステータスに繋がっていた。

音楽的には、ディスコ=ユーロビートだったが、ハウスやニュージャックスウィングやR&Bなど、店のコンセプトに合わせてジャンルが枝分かれ始めたのがこの頃であった。


*個人的記憶としては「ニュージャックスウィング」といわれるとミネアポリスを中心としたプリンスの活躍を思い出す。そしてティム・バートン監督映画「バットマンBatman、1989年)」…

クラブハウス、ユーロビート時代1990年〜1994年

バブル経済期の1991年(平成3年)5月、巨大ディスコ「ジュリアナ東京」が、東京・芝浦に開業した。アイルランドDJ・ジョン・ロビンソンが本格的なMCを行い、ユーロビートに代わって人気となったテクノサウンドレイヴテクノ)が流された。

同ディスコが開業して程なく、ボディコンの女性たちが、羽根付き扇子を振り回し、高さ約130cmの巨大お立ち台で踊るといった現象がみられるようになった。「ボディコン」とは、体のラインを意識したボディ・コンシャス (body-conscious) の略称。主にノースリーブの丈の短いワンピースで体にフィットするものを指す。女性客のなかには、水着や下着、手作りしたボディコンを着用してセクシーさを争う者も現れた。また、女性たちが振り回していた扇子は「ジュリ扇じゅりせん)」と呼ばれた。水着・Tバック下着等過度の露出はジュリアナ東京は禁止していたものの、他店のお立ち台でTバック着用で狂喜乱舞する女性客らの姿は注目を集め、マスメディアでも盛んに報じられた光景がジュリアナ東京と思われた。人気が衰えていた他のディスコもこのジュリアナ東京ブームに便乗、「マハラジャ祇園京都市)」では、「スーパーお立ち台」が設置されたほか、東京の赤坂「ロンドクラブ」や、六本木「エリア」では「Tバックナイト」、「Oバックナイト」、「水着ナイト」、「日拓舞踊宴」などと称して、露出度の高い服装で来店する女性客を優待する企画を打ち出した。このようなブームのなか、荒木久美子(荒木師匠)、飯島愛といった、これらの流れを汲む女性タレントも登場した。

使われていた音楽は、「ジュリテク」や「ハイパーテクノ」と呼ばれたもので、ハードコアテクノユーロビート風にアレンジしたサウンドであった。初めはT99「Anasthasia」、LAスタイル「James Brown is Dead」、2アンリミテッド「Twilight Zone」などに代表されるインスト的な楽曲が中心であったが、後にはエイベックスによる「Explosion」、「Can't Undo This!!」などの和製ジュリテクが生まれ、さらに、DJ・ジョン・ロビンソンは自ら「Tokyo Go!」を歌った。また、エイベックスから発売されたCD「Juliana's Tokyo」シリーズは驚異的なセールスを記録した。おまけにそれらの楽曲を収めたコンピレーション・アルバム「スーパー・クラブ・グルーヴィン」シリーズも改名、改称を重ねて長期に渡って発売された。

このブームは東京から地方都市にも飛び火し、女性客による肌の露出競争が露骨になった名古屋や京都などでは、ついにニップレスや下着のみだけで踊る女性まで現れた。またジュリアナ東京でも、それまでダンスや雰囲気を楽しんでいた常連客らの足が遠のいていく一方、他店と混同された世論の批判や警察の指導などを受けて、名物だったお立ち台が撤去された。代わってクリスタルサイドステージが設置されたものの、以前のような集客と盛り上がりは得られず、1994年(平成6年)、遂に閉店となった。閉店日は感謝と称し入場料が無料となったこともあって全国から客が詰めかけた。数千人入る巨大ディスコにも入りきらない訪問客らによって田町駅から行列ができ、アンコールの声は閉店翌日の昼過ぎまで続いたという。


 クラブジャングル、テクノ時代1995年〜2000年

レイヴテクノが大流行していたことにより冬の時代を迎えていたユーロビートが、ジュリアナ東京の閉店に伴い復活した。1994年(平成6年)-1998年(平成10年)までユーロブームが神楽坂「ツインスター」や上野「ARXアルク)」そして六本木「エリア」中心に起こった。この頃のユーロビートを湾岸系ユーロと呼ぶこともある。これはNOVA21グループの舞浜「エデンロック」と新浦安「ロイヤルトン」がジュリアナ東京ブームの最中でも独自にユーロビートを押し続け、両店の店名に「TOKYO BAY湾岸)」が冠していたことから湾岸系ユーロと呼ばれるようになった。(ただし、この2店舗の集客状況は千葉県であったためかなりシビアであった)このユーロブームの特徴は何と言っても「パラパラ」である。店ごとに振り付けが違ったり、サビの部分しかパラパラがなかった第一次ユーロブーム時とは違いパラパラビデオの普及により振り付けが統一され、曲の最初から最後まで複雑な振り付けが付いたのが特徴である。さらにエイベックスからリリースされたCD『スーパーユーロビート』シリーズが順調なセールスを出し、極めつきはエイベックス主催の東京ドームイベントで全国から集結したパラパラ愛好者でドームが満杯に成る程であった。この頃のファッションはルナマティーノや「ヴェルサーチ」が人気だった。また、安室奈美恵やMAXなどが同時期にユーロビートのカバー曲を多々リリースしたこともブームに拍車をかけていた。

しかしジュリアナ東京が閉店した1994年(平成6年)、六本木に最後の大型ディスコと呼ばれた「ヴェルファーレ」がオープンするも、この頃から自分に合った音を求めるコアな常連客だけで営業が成り立つクラブが主流を占めるようになり、またドレスコードの高級スーツやボディコンから、カジュアルなファッションが人気となり、いわゆる「ディスコ」から「クラブ」への変化が始まった時でもある。集客スタイルも豪華な店や黒服からDJやオーガナイザーに変わり、1999年頃に全国的に大型店の閉店が相次ぎディスコ時代の終焉となる。

クラブ、ドラムンベース、2ステップ時代2000年〜現在

1990年頃から、ディスコはクラブ に移行したが、ジャニーズ系タレントがバックダンサーにパラパラダンサーを起用し、TVで露出が増えた事をきっかけに、パラパラが人気になった。そして1999年(平成11年)から2003年(平成15年)にかけてパラパラブームが起こった。 しかし、現在のトランスシーンと同様、低年齢層・大衆層でのブームは両刃の剣であった。特に2000年以降、エイベックス社と「TwinStar」の極端な商業主義によりミッキーマウスマーチにまでパラパラが付く有様になると、客層の反発を招いた。更にスーパーフリー事件も起きて、ギャル層がパラパラからトランスに移動すると商業的にも壊滅的状況に陥り、最後に残った大型クラブ「TwinStar」は2003年(平成15年)に閉店した。

なお、この時期に、台湾及び香港でも、日本のアニメ等と並んで日本のディスコ文化・ダンスとしてパラパラが注目され流行するに至った。東京が、大都市のニューヨークやロンドンのダンス文化を、一方的に受信して真似ていたのに対して、パラパラを海外に輸出できたのはいいが、アニメ等と異なり日本本国のブームは腰砕けになってしまった。

また、2000年(平成12年)以降、24時(東京都では条例により商業地の場合午前1時)閉店が義務づけられる「ディスコ」に代わって、風営法の網をくぐった飲食店でのDJイベント「クラブ」が流行した。

現在、ディスコは風営法により24時(東京は条例により午前1時)までの営業しか認められていない。このため、開店当時はアルコールだけでなく、食事も提供し、表向きは飲食店として届け出をする店舗も多い。4月に閉店するディスコやクラブが多いのは、人事の月でもあり新任の警察本部保安部長や署長の方針(ノルマ)で、違法営業を摘発される店舗が増えるからである。

一般的に、店舗面積が広く、オール・ジャンルの音楽をかけ、スーツにネクタイ着用を義務付ける(女性客は贔屓して甘くする)ドレス・コードのディスコに対して、カジュアルな服装でも入場可、音楽ジャンルが明確にされている箱をクラブと呼ぶ場合が多い。法的な相違点は、風適法3号営業のいわゆるディスコ登録店は原則24時(東京は条例により午前1時)の閉店が義務付けられているのに対し、クラブは飲食店登録(深夜酒類提供飲食店営業)のため終夜営業が可能な点である。本来24時閉店を義務づけられているディスコが、営業時間を延ばすために、飲食店で行われていたDJイベントを模したことがクラブの始まりである。日本の風営法によるものなので、海外ではディスコと特に区別していない。2010年代に入るともはや「ディスコ」という呼称は消滅 し、店舗形態に関わらず「クラブ」と呼ばれるのが一般的になっている。クラブで遊ぶことをクラビングともいう。

2005年(平成17年)以降、一部のディスコは、団塊の世代の憩いの場としてその方向性を模索してきたオールディーズライブハウスと融合し、懐古的な社会、文化潮流を興隆しつつある。それまで1950年代から1970年代のオールディーズを中心に生バンド演奏を行ってきた店が、主要な顧客層の老齢化から、新たなターゲット層を模索してきた中で、ダンスフロアのスペースを広げ、1980年代のファンクを生バンドで聴かせ、躍らせる店が出現してきている。チークタイムの伝統さえも守っている店舗もある。これらの主流は六本木、銀座、新宿、横浜等にあるKENTO'S(ケントス)である。

また2005年(平成17年)、東京六本木で最大級のディスコ「ヴェルファーレ」を経営するエイベックスは、「六本木のディスコ営業を明け方まで許可してほしい」と要望。「ロンドンやニューヨークのディスコは明け方まで営業している。近年、六本木地区のディスコは半減しているが、明け方まで営業すれば衰退に歯止めがかかる」と説明。いわゆる「ディスコ特区」を都に要望したが2006年(平成18年)2月、警察庁が「犯罪の温床になる可能性がある」として見送りになった。エイベックスは「ディスコは文化的なレジャー施設」とし、同年6月に再申請したが認められなかった。その後「ヴェルファーレ」は12年の定期借地権満了で2007年(平成19年)1月1日を持って閉店された。

クラブとして現存するスペースとして、店舗面積が広い東京都新木場にあるSTUDIO COASTのクラブイベント、ageHaなどが有名。一方、ディスコ文化の中心でもあった六本木では2006年(平成18年)〜2008年(平成20年)に、Vanilla、Core、Yellowなど老舗の大型店舗が相次いで閉店し、ディスコ時代の完全終焉となった。

このサイトはこれまでこの時代について、こんな歴史観を描いてきました。

 

  • まだ無名だった時代のSteave Strange率いるVisage の「In The Year 25251978年)」や「千のナイフThousand Knives、1978年10月25日発表)」がリリースされた「Techno/Newromance前夜」の景色


  • それまで「Daddy Cool1976年)」「Sunny1976年)」「Ma Baker1977年)」をヒットさせてきたドイツのディスコバンドBoney M.が「怪僧ラスプーチンRasputin、1978年)」を国際的にヒットさせるとある種のエスニックブームが生じ、坂本龍一細野晴臣高橋幸宏を誘って「YMOYellow Magic Orchestra、1978年〜1983年)」を結成し、これを初めて英国で紹介したSteave Strange率いるVisageが「Moon Over Moscow1980年)」を発表。

  • しかしながら、こうしたムーブメントは1080年代前半までしか続かず、YMOは解散。Steve Strangeはイビサ島に流れ着いてDJとして余生を過ごす。その流れが(イビサ島の音楽を大源流とするといわれる)マドンナやレディ・ガガへと継承されていく。

 

今回の投稿でずいぶん視野が広がった気がします。広がり過ぎてまとめきれなかった…この辺りを何とか整理するのが今年の課題?