諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【Funky Sounds前夜】【1960年代】TV番組の躍進と「危険なJazzとエレキサウンドとマカロニウェスタン」

1960年代日本というと「まだまだ後世に名を残す様な名作邦画が目白押しだった時代」というイメージがありますが、実際はTVに観客を奪われていく過程における最後の抵抗戦の時代だったのです。

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 一方、当時のテレビ番組(特にバラエティ番組)は、奇妙なまでに(映画界から黙殺されてきた?)ジャズ系人脈に支えられていたのでした。「即興性」という観点から重なる部分が多かったせいかもしれません。

 「ウォーキング・ベース」の起源

ジャズ創世記からベースは使われていたが、発展は大きく遅れた。
*1894年頃に撮られた、初代ジャズ王バディ・ボールデン(コルネット)が率いたバンドの写真にベーシストが写っている。もちろん、録音はない。

30年代末に天才ジミー・ブラントン1918年〜1942年)が出現するまで、他の楽器で現れたような革新者は出ていない。それは置かれた地位に起因する。ベースのコードを供給する機能はピアノやバンジョーで、ビートについてはベース・ドラムの4ツ踏みでまかなえた。実際、ベースを入れていない録音も少なくないのだ。音量とインパクトに乏しいベースは、“無くても困らない”楽器だったように思える。そんな地位から革新者が出てくる確立は低い。
*オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドによる史上初のジャズ録音や、ルイ・アームストロング(トランペット)の史上名高い“ホット・ファイヴ”の録音にベースは入っていない。

当初、ベースはアルコ奏法(弓弾き)によって、チューバ流にツー・ビートで弾かれていた。

*4拍子の1拍目と3拍目を弾き、何小節かおきにオカズを入れることが多い。

 
ピチカート奏法(指弾き)は、演奏中に弓が折れ、とっさに指で弾いたことが起こりだとされる。いかにもジャズらしい話だが、事実は躍動的なビートを求めた結果だろう。さらに、音量とインパクトを増すため、スラップ奏法が編み出された。デューク・エリントン楽団のウェルマン・ブロー(1891年〜1966年)とルイ・ラッセル楽団のジョージ・フォスター1892年〜1969年)は、こうした初期のベース奏法を伝える名手だ。
*弦を指板にたたきつけるか、弦を指板に弾きかえすパーカッシヴな奏法だ。アーリー・ジャズの粗末な録音技術では、ドラマーのリム・ショットやウッド・ブロックと紛らわしいことがある。

ダンス向けに編成が大型化するなか、チューバが重用され、音量の乏しいベースは日陰の身になっていく。チューバからベースへの移行は、バンジョーがギターに置き換えられたのと同様に、サウンドの洗練とマイクロフォンの進歩によるものだろう。エリントン楽団がチューバをベースに置き換えたのは27年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団は30年だ。しかし、しばらくはアルコが併用され、ツー・ビート基調だった。ピチカート奏法もスタッカート感が強く、コードは単純な分散や単一音で、打楽器の類に聴こえなくもない。

30年代に入ると、アルコ奏法から(スラップ奏法を使わない)ピチカート奏法への移行と、ツー・ビート基調からフォー・ビート基調への移行が並行して進む。カウント・ベイシー楽団のウォルター・ペイジ(1900年〜1957年)は、カンサス・シティ・ジャズ伝来のオフ・ビート感をともなう、ウォーキング・ベース(コード・スケールを順次進行させる)を打ち出す。それは多くのベーシストが倣う業界標準となり、今日まで続いている。そんななかからブラントンが出現し、ベースのソロ楽器としての機能を真の意味で切り拓いた。

そもそもコード進行の概念自体がジャズの歴史と密接に絡んでくる訳です。

コードの歴史を深くたどれば、17~18世紀のバロック時代にたどり着きます。

そのバロック時代に存在した「通奏低音」が、現代のコードに最も近い音楽理論にあたると思います。

これは、楽譜にベースとその和音の番号を書いて、和音自体は演奏者のセンスに任せられるというシステムです。

現代のコードネームの使い方とかなり近いですね。「Am」と書かれてあったら、ベース音と和音構成はすぐにわかります。

ですが、通想低音は演奏家のセンスに任せるということは、作曲家の意図する音楽にはならないということです。

なのでこの通奏低音は18世紀以降は使われなくなってゆきます。

そして、それから100年ほどたって、また同じように体系化された法則が、20世紀になって登場します。

これが現在の「コード」です。コードの歴史は、誕生から実はまだ100年程度の若い音楽理論なんですね。

ジャズのように即興で演奏するジャンルでは、共通言語として意思疎通をする手段が必要でした。そして「コード」とう概念がうまれたのです。

その場での即興演奏を主体とするジャズというジャンルでは、一目で楽曲の法則を理解できるコードという方法がとてもマッチしました。

楽譜にコード進行だけでも書いてあれば、とりあえずは演奏はできますよね。

それほど「コード」という概念は優秀なシステムなのです。

しかし、歴史は繰り返します。

作曲家優位の楽曲制作の時代か、演奏家優位の時代かによって使われる手法も変わります。

現代のようにジャズが高い地位にある現代では演奏家が優位であり、コードという手法はとても有用です。

ですがこのコードは万能ではありません、

1つの完成された音楽作品として記録に残すにはあまりにも答えがありすぎて、悪く言えば不安定な音楽になってしまいます。

また、また100年ほどたったら、作曲家優位の時代がやってくるかもしれません。

それでは具体的にはどんな人達が活躍したのでしょうか?

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ワタシは本ブログで戦前モダニズムのことを書いています。

今のところ日本に限定して書いているのですが、もう少し広げて海外のことも書かなきゃな、と。でないと何故戦前にレビュウの舞台が花開いたかわかんないなとね。

日本のレビュウの源流はふたつあって、ひとつはパリのレビュウショウ、もうひとつはフレッド・アステアのレビュウ映画です。とくに戦前の日本人を、いや世界中の人々を熱狂させたのが、数々のフレッド・アステアのレビュウ映画で、後世にも多大な影響を残しました。

翻って我が日本はというと、以前書いた通り、戦後は宝塚歌劇など一部を除いて日本におけるレビュウ文化は萎んでしまいました。たしかに積極的にというかムーヴメントになるほど舞台でも映画でもレビュウが作られた形跡はありません。

が、1953年から始まった新興産業であるテレビジョンは戦前のレビュウ文化を引き継ぐ存在になっていきます。

とくに日本テレビはウエスタンバンドで活躍していた井原髙忠がいたため音楽に強い局として、数々のバラエティー番組を作っていったのです(ちょっと信じられないけど、当時の日本テレビ音楽班の主要ディレクターは、ほぼ全員楽譜を読めたってんだから凄い。カット割りも小節を元にやってんだから。そりゃ音楽的なクオリティは高いわな)。


一応念のために書いておきますが、バラエティー番組とは昨今のものとはまったく異なり、音楽とギャグがサンドイッチ状になった番組のことで、これは当然舞台のバラエティーショウから来ています。

音楽があればダンスがある。映像を見せるテレビなんだからこれも当然で、井原髙忠は「音楽」「ダンス」「笑い」を一体にしたモダンな「光子の窓」などを手がけることになります。

井原髙忠の番組のチーフADだった秋元近史は渡辺プロダクションと組んで、後に「シャボン玉ホリデー」と題される番組にとりかかります。

秋元近史は、モダンすぎてハイブロゥになりがちだった井原髙忠の路線に若干大衆味を加えて、モダンさは保ちながらも、より親しみやすい番組作りをしていきました。(などと見てきたかのように書いてるけど、当然ワタシの年齢ではリアルタイムでは見られるわけがない

シャボン玉ホリデー」は全体の構成も、井原髙忠番組よりさらにわかりやすく、レビュウとコントのサンドイッチ状で、コントは主にクレージーキャッツが、レビュウはザ・ピーナッツが中心になってやっています(もちろんコントにもピーナッツが、レビュウにもクレージーが出てきますが)。

レビュウにおいては、振り付けは小井戸秀宅、音楽は宮川泰という超強力な布陣を揃えて、どこに出しても恥ずかしくない国産レビュウを創造していきました。小井戸秀宅と宮川泰はふたりがかりで、少し歌が上手い程度だった名古屋出身の双子(いうまでもなくザ・ピーナッツ)を超一流のレビュータレントにまで育て上げたんだからすごい。むろんピーナッツ自身に才能があったからこそ、ですが。

これはもう系譜、といっていいと思うのです。

戦前のレビュウ文化は、間に井原髙忠の「光子の窓」などを挟みつつ、「シャボン玉ホリデー」の中で生き続けた。が、何度も書くけど、これらの仕事が如何に偉大なものだったか、自覚があったかどうかはともかく、いろんな事情でまったくVTRが残ってないってのはもったいなさすぎる話なのです。

ハナ肇とクレージーキャッツ(1955年〜) - Wikipedia

1960年代に一世を風靡したコミックバンド。バンド結成時にその資金を出したのが渡辺晋であり、そのため、結成当初から渡辺プロダクションに所属した。無名時代からクレージーファンで、一時期はクレージーのブレーン役でもあった小林信彦は、「クレージーで一番面白いのは『生』、次が『テレビ』、一番面白くないのが『映画』」と語っている。著名なファンに「実年行進曲」を作曲した大瀧詠一や植木とドラマで共演したこともある所ジョージ、声優の関智一サザンオールスターズ桑田佳祐、シンガーソングライター兼俳優の星野源が挙げられる。「この際カアちゃんと別れよう」なるというオリジナル曲もあるが、実際のメンバーは全員良き家庭人であり、スキャンダルや人格批判にはほとんど無縁というグループでもあった。

  • 1955年の結成後、ジャズ喫茶での音楽ギャグで人気を博し、『おとなの漫画フジテレビ、1959年〜1964年)』、『シャボン玉ホリデー日本テレビ)』などのテレビ出演をきっかけに人気が爆発した。

    おとなの漫画(フジテレビ、1959年〜1964年) - Wikipedia

    シャボン玉ホリデー(1961年〜1972年、1976年〜1977年、提供牛乳石鹸) - Wikipedia

    ジャズ喫茶 - Wikipedia

    主にジャズのSP・LPレコード音源をかけ、客は鑑賞を主目的として来店する形式の喫茶店。昭和初期にもジャズの普及と共にはじまったが、戦争により一時消滅。戦後まもなく再開して1960年代に隆盛を迎え、1970年代に下火を迎えた。諸外国ではほとんど見あたらず、日本特有の形態であるとされる。

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    • 1950年代は輸入盤のジャズのLPが高価であったため、何千何万枚もの所蔵レコードがある店もあり、コーヒー1杯で本場のジャズのレコードを聴け、リクエストも受け付けてくれるジャズ喫茶はジャズファンやミュージシャンの溜まり場ともなっていた。現在、プロとして著名な日本人ジャズミュージシャンの中にも「開店から閉店までコーヒー1杯でねばった」という人もいたという。

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    • 家庭ではなかなか揃えることのできない高価なオーディオシステムを装備し、音質の良さを店の特徴としたり、経営する「名物オヤジ」の独自のジャズ観・口調を売りにしていた店もあった。現在でもその傾向は一部の店で受け継がれている。

    • 一部にはジャズ以外にもカントリーやロカビリー、グループ・サウンズ、ロックなど、幅広いジャンルの音楽を聴ける店もあった。そしてこれらのジャンルのライブステージ主体の音楽喫茶もジャズ喫茶とよばれていた

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    • 近年ではレコード音源鑑賞を主とするジャズ喫茶は衰退し、経営形態が多様化。営業開始時間を夕方以降に遅れらせてジャズを聴きながら酒を呑むジャズバー、定期的にジャムセッションを開くジャズライブバー、若年層・女性をターゲットとするレストラン風の店などが現れてきた。なお、世相の影響を受け、伝統的なジャズ喫茶の形態でも禁煙店が増えている。

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    現在、営業中のジャズ喫茶、ジャズ・バーは全国で約600軒。その約9割はレコードでの再生をしている。

    *この時代の時代のバラエティ・ショーでは「ロマンティック」という言葉が「おセンチ(Sentimental=感傷的)」の同義語として使われてる。

    *「センチメンタル」については既に終戦直後にはもう大坪砂男虚淵玄の祖父)が(しばしばタフな私立探偵が運命の女に翻弄される)米国ハードボイルド文学を「泥の大海に蓮乗の花を探すが如き感傷主義」と表現している。つまり起源はあくまで「タフでなければ生き延びられない。タフなだけでは生き延びる資格がない」の世界。実は1960年代前半に一斉を風靡したクレージーキャッツの流行歌には「涙で男を騙して破滅させる女」を戯画化したケースが多い。

    *TV系サイバーパンク文学における「Artistic(凝り性)」「Neuromantic(神経症ロマン主義。音楽ジャンルNew Romanticに掛けてある)」、士郎正宗攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL、原作1989年〜、映像化1995年〜)」における「死神」。ハードボイルド文学でよく描かれる「手段を選ばず戦い続ける形でしか生き延びられない非情の世界の住人を、或る日突然捕まえる致死性の病」といったニュアンス。

    *1980年代の商業至上主義はこれを恋愛至上主義と結びつけてたドラマや音楽を量産する様になっていく。あえて両者の接点となる大源流を上げるなら、業病で早逝するヒロインとの恋を主題に選んで大ヒットした実録往復書簡集「愛と死をみつめて(1963年出版、吉永小百合主演による映画化1964年)」や、映画封切りに合わせ角川春樹自らがメディアミックス効果を狙って小説版を翻訳した逸話で知られるエリック・シーガルある愛の詩(Love Story、1970年)」辺り。

    *あぁ、眼帯美少女の起源に思わぬ大物が…

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  • 映画でもクレージーの出演作は東宝のドル箱シリーズとなり(東宝クレージー映画)、挿入歌として発表されたシングル『スーダラ節』『ハイそれまでョ』『ドント節』なども軒並み大ヒットを記録する。
    *数多くのコミックソングを世に送り出した。グループ名義の楽曲は、大半は植木の独唱であるが、サビの部分のみメンバー全員で合唱する場合もある。デビューシングルの「こりゃシャクだった」にはメンバーによる寸劇が挿入されている。「五万節」「ホンダラ行進曲」「悲しきわがこころ」「新五万節」は植木を含む全メンバーが1コーラスずつ歌っている。また「実年行進曲」は全員の合唱・谷・ハナ・植木の順で1コーラスを4小節ずつ歌い継ぐ構成になっている。

  • しかし、1965年を過ぎた頃から、植木・ハナ・谷・犬塚ら主要メンバーの個人活動が多くなっていく。1971年1月に石橋エータローが脱退後、4月 - 9月末に諸事情から『8時だョ!全員集合』のつなぎとして企画された『8時だョ!出発進行TBS)』へのレギュラー出演を最後に、グループとしての活動機会は目に見えて激減した。1980年代以降は、コメディアンというよりは各メンバーとも俳優としての性格が濃くなり、グループとしては実質的な解散状態を迎えていた。

  • その後、1993年9月にリーダーのハナ肇、94年に石橋エータロー、96年に安田伸が死去した。それでも、メンバーの半分以上は存命で、2006年には新曲も発表しているが、翌2007年以降メンバーの他界が相次ぎ、現在存命のメンバーは旧メンバーを除くと犬塚弘ただ一人となっている。そのため、幾つかの文献で「既に解散したバンド」として扱われているが、グループとしての活動が出来ないだけであり、現在も解散していない現役のバンドである。

所属事務所、渡辺プロダクションの後輩にはザ・ドリフターズザ・ピーナッツクレージーを含めたこの3グループで「ナベプロ3大タレント」と言われることもある)がいる。ザ・ドリフターズが1964年に再結成した際に、メンバー全員の名付け親となったのはハナ肇である。また、ザ・ピーナッツとは映画や番組での共演が多数あった。なお、渡辺プロダクションは、1960年代に数多くの人気タレントを抱えていたことで、反発を買うケースも多かったようだが、事務所の黎明期から在籍し、才人ぞろいのクレージーキャッツザ・ピーナッツが同プロダクションの看板タレントであったことが、その反感をやわらげる上で大きく役立った面もあったようである。

かっぱの唄<黄桜>1959年〜1980年)」…おっぱいむきだし画像が公然とお茶の間を流れていた時代の産物。

  • もちろんそこには「(飲酒による酩酊によってのみ到達可能な現実世界から全く乖離した桃源郷の話だから」という言い訳が存在したのである。ちなみに高橋留美子うる星やつら1978年〜1987年)」にも「河童桃源郷」回があり、これには(別ワールドたる「エマニエル夫人(Emmanuelle、1974年)」由来のドリフコント「ちょっとだけよ」や南国桃源郷イメージ由来の)ラムが登場してない。

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007 ドクター・ノオDr. No、原作1958年、映画化1962年)」…4ビートJazzとエレキギターサウンドの結びつきはこの時代まで遡る。実は物語の舞台に選ばれたジャマイカの音楽が世界に広まる契機となった作品でもあった。

*ちなみにジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godard)の「勝手にしやがれ(仏À bout de souffle、英Breathless、1959年)」「気狂いピエロ(Pierrot le Fou、1965年)」がこんな感じ。ある種の典型的フィルム・ノワールからの脱却期。最初の契機となったのが日本の太陽映画というのが興味深い?

  • もちろんいうまでもなくレゲエは黒人音楽の大源流の一つ。

    レゲエ(Reggae) - Wikipedia

    1959年に自治権を獲得し、1962年に英連邦王国として独立を果たしたジャマイカでは、これを機にミュージシャンが自らのアイデンティティを象徴する音を模索し始めた。そしてサウンドシステムやプロデューサー間の競争が激化したことによって生まれた音楽がスカであった。

    スカは、カリプソ、メント等の従来のジャマイカ音楽に、ジャズやリズム・アンド・ブルースなどのアメリカ合衆国の音楽が融合し誕生した。ウォーキングベース がリズムをリードする点、ホーンセクションが主旋律を担当することが多い点などはジャズと類似しているが、ビートがジャズのようにシャッフルせず、1小節の2拍目と4拍目にイーブンにアクセントを置くアップテンポな裏打ちのリズムはスカ特有のものである。

    スカ誕生によってジャマイカ音楽は新たな時代を迎え、ヒッグス・アンド・ウィルソン「マニー・オーManny Oh、1959年)」は2万5千枚を超える売上を記録し、ジャマイカの音楽産業における最初のヒット曲となった。

     また 、同年プリンス・バスターがプロデュースしたフォークス・ブラザーズ 「オー・キャロライナOh Carolina、1958年)」はカウント・オジーによるナイヤビンギドラムを取り入れており、ラスタファリ運動の精神をジャマイカ音楽に反映させた最初の楽曲であった。

    中国系ジャマイカ人 のバイロン・リーが映画『007 ドクター・ノオ1962年公開)』に出演したことなどをきっかけに、スカはジャマイカの上流階級や海外にも徐々に認知を広げていった。 1964年には当時のジャマイカで最も有名なスタジオミュージシャンであったドン・ドラモンド、ジャッキー・ミットゥらによってスカタライツが結成され。また同年にミリー・スモール の歌った「マイ・ボーイ・ロリポップMy Boy Lollipop) 」は全世界で600万枚を売り上げる国際的ヒット曲となり、スカ人気は頂点に達した。しかし、そのわずか二年後の1966年後半にはスカ人気は終焉することとなる。

     

    ロック・ステディRock Steady)の登場

    1966年に発表されたホープトン・ルイスによる「テイク・イット・イージー(Take It Easy)」やアルトン・エリス「ロック・ステディ(Rock Steady)」などの楽曲を端緒にジャマイカではスカに代わりロックステディが流行する。

    スカよりも遥かにゆっくりとした新しいリズムワンドロップを強調するドラム、シンコペーション感覚のあるメロディアスなベースラインと、甘く滑らかなサウンドを特徴とする。ロックステディのテンポがスカよりも遥かにスローダウンした理由は、単なる音楽的流行の変化という説と、1966年の夏にジャマイカを襲った激しい熱波によって、人々がアップテンポなスカではダンスすることが出来なくなったためという説、さらにスカタライツのメンバーであったドン・ドラモンドが起こした殺人事件を機にスカへのバッシングが行われたためという説がある。

    このロックステディ期にはインプレッションズなどのソウル・ミュージックに影響を受けウェイラーズ、ヘプトーンズ、テクニクス、パラゴンズ などのトリオによるコーラスグループが流行した。さらにジャマイカ国内の社会状況の悪化などの影響からデリック・モーガン「タファー・ザン・タフ (Tougher Than Tough)」やプリンス・バスター「ジャッジ・ドレッド (Judge Dread)」などのルードボーイ(不良少年)を主題とした歌詞が流行した。

    ルードボーイ(rude boy, rude bwoy) - Wikipedia

    レゲエの誕生

     

    ロックステディの流行は短命に終わり、1968年にはレゲエが取って代わった。「レゲエ」という言葉が最初に用いられた曲はメイタルズ「ドゥ・ザ・レゲエDo the Reggay、1968年)」であるが、最初にレゲエの音楽的特徴が取り入れられた楽曲ははっきりしていない。

    メント風のリズミカルなギターにブールーやクミナ風のパーカッションを取り入れたリー・ペリーピープル・ファニー・ボーイPeople Funny Boy)」や、電子オルガンとディレイのかかったギターが特徴のラリー・マーシャル「ナニー・ゴートNanny Goat)」、レスター・スターリンバンガランBangarang)」、パイオニアーズ「ロング・ショットLong Shot)」、エリック・モンティ・モリス「セイ・ホワット・ユア・セイイングSay What You're Saying)」などの1967年から1968年に発表された作品群はロックステディからレゲエへの変化が顕著に現れている。

    ゆったりしたワンドロップ・リズムこそロックステディ期と同一だったものの、シンコペーションのある裏打ちを刻むギター・オルガンと、ベースラインの対比よりによってそれ以前のジャマイカ音楽とは異なるレゲエ特有のアンサンブルが完成した。この変化について1962年から1968年までジャマイカで活動したトリニダード・トバゴ出身のギタリストリン・テイトは「ロックステディはコモンタイム、レゲエはカットタイム 。フレージングが全く違う」と証言している。

    この変化の要因としてはリン・テイト、リコ・ロドリゲス、ローレル・エイトキン、ジャッキー・ミットゥらスカ、ロックステディ期に活動したミュージシャン達が国外に移住したことや、各種エフェクターや録音機器の進歩と、それに伴うリー・ペリーキング・タビー、バニー・リーら新興プロデューサー達の台頭があった。遂に自前のスタジオを持つことがなかったバニー・リーをはじめ、彼らの多くは楽曲制作において一層経済性を重視したため、コストのかかるホーンセクションの出番はスカ時代より減っていった。

    同時に歌詞の内容もアビシニアンズ「サタ・マサガナSatta Massagana)」やエチオピアンズ「エブリシング・クラッシュEverything Crash)」をはじめとする黒人としての誇りや社会問題について歌うものが多くなっていったが、その背景には1966年のハイレ・セラシエ1世ジャマイカ訪問や西インド諸島大学に在籍したガイアナ人講師のウォルター・ロドニー らの活動によってよりさらに勢力を増しつつあったラスタファリ運動や、同年独立を記念しジャマイカ政府によって創始された「フェスティバル・ソング・コンテスト」による文化的ナショナリズムの高揚、さらにジャマイカ労働党による経済政策の失策による景気・治安の悪化や、アメリカ合衆国で高まりを見せつつあった公民権運動やネイション・オブ・イスラムの流行などの様々な要因があったのである。

    *当時レゲエの影響を受けた曲としては「ザ・ビートルズ(通称ホワイト・アルバム、1968年)」収録の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ(Ob-La-Di, Ob-La-Da)」が有名。

    オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ(Ob-La-Di, Ob-La-Da) - Wikipedia

    本作は発表された当初はカリプソ・ソングに曲調が似ていることから「ビートルズ初のカリプソ・ソング」と宣伝されていたが、後にレゲエ・ソングに似ていることから「ビートルズ唯一のレゲエ・ソング」とも言われるようになった。この曲は日本、オーストリア、スイス、オーストラリアなどでも大ヒットした。しかしながら、2004年にインターネット上で行われた「50 Worst Songs Ever!」という投票において1位を記録している。

    歌詞は「市場に勤めるデズモンド・ジョーンズと、バンドで歌手をしているモリーが恋をして結婚する物語」を歌ったものである。ただし4番の歌詞は「デズモンドとモリーが逆になり、モリーが子供たちと一緒に市場で働き、デズモンドが化粧をしてバンドで歌う」というものになっている。これは収録の際にポールが間違って逆に歌ってしまい、録り直そうとしたところジョン・レノンが「この方が面白い」と発言してそのままにしたと言われている。デスモンドは、レゲエのデスモンド・デッカーから名前を取っている。

    アコースティック・ギターを弾くときに意図的に録音機器の入力限界を超えた音を出し、締まった音を出している。イントロのピアノはジョン・レノンの演奏である。収録の際にポールから度重なる録り直しを要求されて嫌気がさしたジョンがトランス状態でやってきて、力任せに弾きなぐったものである。このような事情からジョンは本作を非常に嫌っている。また、ジョージ・ハリスンも「覚えていることといったら何回もやり直しさせられたことばかり」と発言している。この時期メンバーの仲は非常に悪く、本作のヴォーカル収録に際してポールがプロデューサーのジョージ・マーティンに横柄な態度をとったため、エンジニアのジェフ・エメリックが翌日の「クライ・ベイビー・クライ」のレコーディング途中で帰ってしまったというエピソードが残っている。

 

ピンク・パンサー(The Pink Panther 1963年〜) - Wikipedia

1963年のアメリカ映画『ピンクの豹』を第1作とする映画シリーズ.。

クルーゾー警部」、「アニメキャラクターのピンクパンサー」、テーマ曲「ピンク・パンサーのテーマ」の3大ヒットを生み出した、20世紀後半を代表するコメディ映画の大ヒットシリーズである。製作国は第2作まではアメリカ、第3作以降はイギリス。シリーズ全作通じて監督はブレイク・エドワーズで、音楽はヘンリー・マンシーニが担当した。

第1作『ピンクの豹』はデヴィッド・ニーヴン演ずる怪盗ファントムを主人公とし、世界屈指のダイヤモンド「ピンク・パンサー」をめぐるロマンティック・コメディとして製作された。しかし、準主役であったピーター・セラーズ演ずるパリ警察のクルーゾー警部のキャラクターが好評であったため、クルーゾーを主役としてシリーズ化された。2作が製作された後、11年の空白があったが、1975年に再開。セラーズの生前に5作、没後にも3作の合計8作が製作された。2006年からはスティーヴ・マーティンがクルーゾーを演じるリブート版が製作されている。

また、オープニングのアニメーションに登場するピンク色の豹のキャラクターが人気を博し、1964年以降、実写映画とは独立したアニメーション作品が、映画及びテレビアニメとして数多く製作された。

 ロシア民謡1週間」が「みんなのうた」で紹介される(1963年

一週間 (ロシア民謡) - Wikipedia

ロシアの民謡で原題は「Неделька」(ニェジェーリカ、「週」)。女性の一週間の様子を歌ったロシア民謡で、作詞・作曲者は不詳。19世紀頃に成立。

日本では「楽団カチューシャ」による訳詞(1954年)が有名で、その内容はロシア語原詞を比較的忠実になぞったものである。この他訳詞担当は不明だが、「日曜日はにこにこ」「月曜日はげんきに」と、曜日のだじゃれで構成されたのも有った。

1963年4月にはNHKの『みんなのうた』で紹介 。編曲は若松正司で、歌はボニージャックスが担当した。2016年12月現在音声のみ見つかっており、映像は見つかっていない。同年8月にはボニージャックスの歌唱でキングレコードからシングル発売され(品番はEB-921、モノラル録音)、同年12月の『第14回NHK紅白歌合戦1963年12月31日)』でもボニージャックスにより披露されている。また、同じくNHKの『おかあさんといっしょ』『歌はともだち』『歌のメリーゴーラウンド』『ドレミノテレビ』などでも歌われた。

2015年3月22日から、JR西日本大阪環状線野田駅の発車メロディに採用されている。楽団カチューシャの訳詞にある「日曜日は市場に出かけ」という歌詞と、大阪市中央卸売市場本場の最寄駅であることにちなむ。

  • 日本で歌われた歌詞から原曲のデンジャラスな原義は完全に失われ、その結果として歌詞が全体として意味不明になった。

    この曲の時代背景は1890年あたり。ロシア革命前夜というべき時代で、ロマノフ王朝が倒れつつありソヴィエトに移行する混乱過度期。

    男達は内乱の興奮の中で死んでゆくのに、私は毎日の夢のない退屈な生活を送って別の形で死人同然。恋人よ、早く私をこの町から連れ出して!! そのような 田舎の素朴な娘さんの心境を歌ったものと解釈できます。

    これは当時よくあった事。ニューオリンズを「終着点」とする「朝日のあたる家House Of The Rising Sun)」も「ギャンブラーに恋をして身を持ち崩した売春婦の後悔混じりの回想」を歌う民謡版が、国際的に大ヒットしたアニマルズ版(1964年)では「少年院送りとなった少年の回想」の歌に強引に改変されてあちこちが意味不明となり、ベンチャーズ版ではとうとうインストゥルメンタルにされてしまった。

    家出娘の破滅の歌」といったらCab Calloway「ミニー・ザ・ムーチャMinnie The Moocher 、1931年)」を連想させる。密造酒と秘密酒場で大儲けするギャングと、彼らに群がるフラッパー・ガール(Flapper Girls)達が幅を効かせた禁酒法時代(Prohibition Age、1920年〜1933年)の落とし子。当時制定された史上初の映像統制コードHays Code(1930年制定、1934年〜1968年履行)は、こうした人々を映画の中で美化して描くのを禁じ、かつ物語中で悲惨な最後を遂げさせる事を推奨したのである。ただし、かかるファルス(体制側暴力)の強要には「そんなに奴らは悪いのか?」なるヴィオランス(反体制側の抵抗)を呼び覚ます効果もあった様である。「グレート・ギャツビーThe Great Gatsby、1925年)」に登場する「謎の成金大富豪」ジェイ・ギャツビー、かの大富豪ハワード・ヒューズ制作の「暗黒街の顔役Scarface、1932年、リメイク1983年)」、マーガレット・ミッチェル風と共に去りぬGone With the Wind、1936年)」における「(著者の密造酒業者の夫をモデルとした南部のアウトサイダー」レッド・バトラー…

    フラッパー(Flapper) - Wikipedia

    この中ではレッド・バトラーだけが悲惨な最後を遂げておらず(シャーロット・ブロンテジェーン・エア(Jane Eyre、1847年)のロチェスター伯爵すら半分焼かれるのに。当時は確実に日本の大隈重信同様、この様な怪男児を賞賛する雰囲気も存在したのである)、ニューオリンズ出身のトルーマン・カポーティティファニーで朝食をBreakfast at Tiffany's、原作1951年、映画化1961年)」におけるホリー・ゴライトリー(主演オードリー・ヘプバーンの「娼婦は演じない」なる強い意思表示を受けて映画版はキャラが大幅に改変されてる)も最後に活躍の場をニューヨークからアフリカに移すだけである。そういえばデキシー・ジャズ発祥の地でもあるニューオリンズは、奇しくもアベ・プレヴォー「マノン・レスコーManon Lescaut、1731年)」のヒロインがフランスで流刑に処されて悲壮な最後を遂げた地でもあった。近松門左衛門の心中物やサド侯爵の暗黒ロマン小説の様な「身分や親の定める処遇に逆らった結婚や駆け落ち逮捕を免れる為、大抵は悲惨な結果に終わる)」がヴィオランスとして通用した時代の残り香…そして、この地は後世アン・ライスヴァンパイア・クロニクルズThe Vampire Chronicles、1976年〜)」発祥の地としても足跡を残す事に。

    ところが、第二次世界大戦中の挙国一致体制を契機に「(英国やアイルランド上層階層出身移民のプロテスタント系旧移民」と「(南イタリア人や東欧出身者やアイルランド下層階層出身移民といったカソリック系新移民」の軋轢が解消すると規範の暴走が始まる。悪名高きコミック・コード制定、「悲惨な最後を遂げるべき対象」の同性愛者や「色気付いた少年少女」への拡大、そして(おそらく黒人公民権運動台頭の反動としての)黒人映像化反対運動…当時のGirls Comic弾圧の影響を受けてフランク・フラゼッタはGirls Comic漫画家からヒロイック・ファンタジーの扉絵作家への転身を余儀なくされたのである。

    フランク・フラゼッタ(Frank Frazetta, 1928年〜2010年) - Wikipedia

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    それから「小児麻痺のユダヤ人男性」という立場を黒人芸人の悲惨な境遇と重ねたThe Drifters「Save the Last Dance for Me1960年)」を「浮気者の男性の恋人を許容する女性の歌」に差し替えた越路吹雪ラストダンスは私に1961年)」。ここで興味深いのが、当時のラテン系ポピュラー音楽の系譜を継承したアニメ版「うる星やつら1978年〜1987年)」が(原作が主人公諸星あたるも「当初のメインヒロイン」三宅しのぶも「機会さえ与えられれば浮気する」基本構造になっているにも関わらず)「押掛け女房」ラムの「浮気な諸星あたる」に対する一途な心境を歌ったヘレン笹野「心細いな」の内容がメイン・イデオロギーをなしていたという事。しかも同じ1980年代には「探偵レミントン・スティーRemington Steele、1982年〜1987年)」やブルース・ウィルス主演「こちらブルームーン探偵社Moonlighting、1985年〜1989年)」の様なオリジナル版「ラストダンスは私に」に準拠する「女性の暴走に男性が振り回される」世界観の作品が国際的にヒットし、日本のTVでも流れていたからややこしい。
    *当時はニュージャージー州出身で妻が日系人だったウォーレン・マーフィーのニューヨーク物「保険調査員トレース」シリーズも流行していた。

    *ヘレン笹野…沢田研二山口百恵から「ラ・セゾン(1982年)」を託されたアン・ルイスの様に、当時は明らかに「混血=異界たる欧米のハイブロゥな世界への案内人」というロールが存在した様なのである。そういえば「うる星やつら」には「(現実に絶望しての自殺を暗喩する)星空サイクリング」なる挿入歌も…

円谷プロダクションウルトラQ1966年) 」

エレキギターサウンドが「不良音楽」のレッテルを貼られて迫害されていた1960年代には作曲家の宮内國郎1932年〜2006年)の仕事が面白い。ジャズ畑出身ながらエレキギターサウンドへの関心も高く、特撮TVドラマ実現の可能性を探っていた円谷皐(円谷英二の次男)に誘われる形でテレビ業界に根を下ろして「ウルトラQ1966年)」「ウルトラマン1966年〜1967年)」の主題曲を手掛け、さらにハンナ=バーベラプロダクション制作TVアニメの日本語版にも関わっているのである。この時期に次第に8ビート基準の「(コード進行に合わせてそのままリズムラインがスライドしていく、既存のメロディアスな展開に比べたらいささか下品なベースリフ」の概念が定着していくが、まさにその端境をたった一人で顕現した人物… 

そして「ウルトラマン」続編の「帰ってきたウルトラマン1971年)」はFunk Music風に。なんとアレンジはすぎやまこういち

舟木一夫銭形平次の歌1966年)」

横山光輝原作アニメ「魔法使いサリー1966年〜1968年)」

ディキシーランド・ジャズ(Dixieland Jazz) - Wikipedia

クラシック・ジャズに分類される一分野。「ジャズの最初の形態」と認識されることが多い。

時としてホット・ジャズまたはニューオーリンズ・ジャズとも言われ、20世紀初頭にニューオーリンズで発達したジャズのスタイルで、ニューオーリンズのバンドが1910年代にシカゴやニューヨークに移動して広まった。ディキシーランド・ジャズは、ブラスバンドの行進曲、フランスのカドリーユ、ラグタイム、そしてブルースが集まり結びついてできた音楽で、ピアノ、ギターまたはバンジョー、ドラム、コントラバスまたはテューバといったリズム・セクションを従えて、トランペット(またはコルネット)、トロンボーンクラリネットが、ポリフォニックを基盤とした即興演奏を行う。

ベイズン・ストリート・ブルース』や『聖者の行進』といった、ディキシーランド時代からよく知られたジャズのスタンダード・ソングは、ジャズ・ファンでない人にも知られている。

ディキシーランドとは、アメリカ南部の諸州を指す通称や俗称。この名称の由来は諸説あるが、ルイジアナ州などは一時期、フランス領だった地域で、その間の流通紙幣に10を表す「DIX」という文字が印字されており、その地方(LAND)という事から生まれたという説や、測量技師ディクソンの名によるとの説もある。ディクソンは相方のメーソンと共に、南部と北部を分ける線(メーソン=ディクソン・ライン)を引いた人物である。


もともと、ディキシーランド・ジャズという呼称は、白人が演奏するニューオーリンズ・ジャズを意味する言葉であった。その後、時代が下るにつれて、白人も黒人も入り混じりジャズを演奏することが多くなったため、いよいよ定義が曖昧になってきた。

1917年にニューヨークに進出した、ニューオーリンズ出身のオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)によって、「ジャズ」は多くに知れ渡り、メジャーなスタイルになったともいわれている。ODJBが進出する前は「ジャズ」は初期は"jass"と綴られており、ODJBも当初はそう綴られていたが、デビューした後に"jazz"に綴りを変えている。"jass"とは、体育競技のスピードとエネルギーを示すスラングであり、性的な意味にも使われていた。更に以前には"jasm"や"gism"と綴られていた。

音楽理論的側面上記の通り、何をもってディキシーランド・ジャズとし、何をもってニューオーリンズ・ジャズであるかといった定義が、ほかのスタイルのジャズよりもあいまいであり、一般的に通じる定義はないといってもよい。音楽理論的側面においてはこの2つのスタイルを分ける要素はない。

  • そもそも原作のサリーちゃんは、悪魔の国の帝王の娘で、魔法の国のお姫さまではない。またサリーちゃんの母親シーマは黒髪だった。

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  • 曲調にロシア民謡一週間1963年)」の影響も? 要するに「雪の女王/THE SNOW QUEEN露Снежная королева、1966年)」における「冬の国」のイメージも投影されているのかも。

  • この曲を手掛けた小林亜星が「魔法使いサリー」後番組の「ひみつのあっこちゃん1969年〜1970年)」EDでFunk musicを披露。その影響は「(さらにマカロニ・ウェスタンのイメージも混ざってややこしいファイアーマン1973年)」にまで及ぶ。

宇宙特撮シリーズ キャプテンウルトラ1967年)」

横山光輝原作「 仮面の忍者 赤影1967年〜1968年)」BGM…既にこの時代にして和風Jazzに加えてマカロニ・ウェスタン要素が入ってきてる?

妖怪人間ベム1968年〜1969年)」…ホラー系Jazzの一つの金字塔?

そして水木しげるゲゲゲの鬼太郎原作1960年〜、アニメ化1968年〜) 」…ホラー系Jazzの最後に現れた「もはやJazzとはいえないだが まだFunk musicとはいえない何か」。

だが当時のトレンドはFunk musicへと推移…「新お化けのQ太郎」主題歌(1969年)、できるかな1970年〜1990年)」、「カリキュラ・マシーン1974年~1978年)」…

  • 意外なのが、こうした(ホラー系Jazz+Funk music)系譜に位置付けられる永井豪原作「どろろん閻魔くん1973年〜1974年)」や「(視聴者からの抗議で放送中止に追い込まれたたべちゃうぞ1975年)」といった曲調に「怪奇ディスコ」Hot Blood「ソウル・ドラキュラ1976年)」との連続性が感じられる辺り。

米国の ジャクソン5(1962年〜1990年)の影響を色濃く受けた沖縄出身バンドのフィンガー51972年〜1978年)が日本で大流行した時代…

フィンガー5(1972年〜1978年) - Wikipedia

1975年に長男の一夫がマネージャーに専念するために脱退し、代わりに甥で長女の息子の具志堅実が加入する。ハードスケジュールは限界に達し、休養も兼ねて1975年から1976年に米国に留学。これまで芸能活動で得た収入は、渡航費用で全て使い切った。芸能活動に一切口を出さなかった父の「芸能界で稼いだ金など、あぶく銭だ」とする考えも反映されていた。

帰国後は、長く日本を留守にしていたこと、メインボーカルの晃が変声期で従来のようなハイトーンが出せなくなったこと、彼らのやりたい音楽とファンのニーズが乖離してヒットに結びつかないことなどから人気が急落した。後の晃の述懐によると、どうすれば売れるかは分かっていたがそれは自分たちがやりたくないことであり、割り切って自分たちのやりたいことをやろうとしたら売れなくなったという。

何故かさらにマカロニ・ウェスタンの影響も混ざってくるから当時の音楽展開はややこしいのです。 エレキやエレピの音がジャンルを超えて割り込んでくる…そういえば意外とこの方面もエレキ・サウンドで、当時の感覚では「エレキ・サウンドVer.2.0.」という側面もあったとも…


こうした混沌の坩堝から、本当にどのジャンルにも分類不能な曲も登場…

日本の時代劇も負けてない…

こうして全体像を俯瞰してみると浮かび上がってくるのが意外にも「フランス音楽とディズニー・ミュージックの孤立性それ以外の音楽の意外なまでの親和性)」だったりして…

おしゃれキャット(The Aristocats、1970年、日本公開1972年) - Wikipedia

ウォルト・ディズニー・プロダクション製作のアニメーション映画。原題のAristocatsとは、「貴族階級」という意味のaristocratのもじりである。


1961年、ウォルト・ディズニーはトム・マクゴーワンとトム・ロウに"Wonderful World of Color"で放送する番組の物語作成を依頼した。 当初は実写で製作される予定であったが、出来たストーリーが大変素晴らしく、当初の予定を変更し長編アニメ映画として製作されることとなった。これを受けて美術監督であり脚本家でもあるケン・アンダーソンが1年半もかけて基礎作りをした。

しかし1966年末にウォルトが死亡。この意思を継いでプロデュースしたのは脚本家のウィンストン・ヒブラーと「王様の剣」よりアニメ映画の責任者となったウォルフガング・ライザーマンだった。音楽ではジョージ・ブランズがミュージカルのバックの楽譜の為にフランス風のアコーディオンのような牧歌調の曲を目玉として、1940年代のジャズバンドと長い経歴の中から沢山の音楽を提供、更にシャーマン兄弟がオープニングテーマを合わせて3曲提供、そのオープニングテーマをモーリス・シュヴァリエが歌った事で話題となった。

予算は400万$以上が組まれ、35名のアニメーター達によって32万5千枚以上の下絵が描かれ、主要な20のシーンでは1125の個別のシーンにペイントされた背景900が使用された。ロイ・O・ディズニーのビジネス面のおかげでこのプロジェクトに250人が雇われ、ウォルトの死後、映画は大成功を収めドル箱シリーズが始まった。

 さて私達はどちらに向けて漂流してるのでしょうか?