諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【兼高かおる世界の旅】【銀河鉄道999のメーテル】【日本式オリエンタリズム】「旅する女性」イメージの金字塔?

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この「兼高かおるの世界の旅」で「海外では蟹味噌も海老味噌も食べない」と知りました。ご冥福をお祈りします。

兼高かおる世界の旅(KAORU KANETAKA in "Hopping Around The World"→KAORU KANETAKA'S "THE WORLD AROUND US") - Wikipedia

1959年12月13日から1990年9月30日にかけて30年10か月の間、TBS系列局で主に毎週日曜日朝に放送された紀行番組である。2007年5月6日からTBSチャンネルで再放送が開始された。
*当初の番組タイトルは『兼高かおる世界飛び歩き』、英題:KAORU KANETAKA in "Hopping Around The World"であったが、2010年8月当時再放送された、1970年放送の番組オープニングでは、邦題『兼高かおる世界の旅』であるにもかかわらず、英題は "Hopping..." が継続して使用されていた。

ジャーナリストの兼高かおるがディレクター、プロデューサー、レポーター、ナレーター、そして時にはカメラマンすべてを兼ね、世界各地160か国を取材した映像を放送していた。

放送開始当初のタイトルは『兼高かおる世界飛び歩き』( - とびあるき)だったが、1960年6月19日放送分をもって一旦中断し、同年9月20日放送分から放送を再開し、『兼高かおる世界の旅』に改題した。放送回数は『世界飛び歩き』を含めて1586回。全行程は721万kmであり、地球を180周した計算になる。

単に映像を放映するだけではなく、ナレーションとして兼高が芥川隆行に旅行の状況を語る。ただし『世界飛び歩き』時代は、芥川でなく別のTBSアナウンサー (落合博一)が、紹介する国の概要などをナレーションするなどその都度間に入り、それとは別に、兼高は旅先であったことなどの詳細をナレーションするという形で番組は進行していった。ちなみに、兼高のナレーション参加は番組開始当初から一貫して行われていた。「世界の旅」に鞍替えしてからも同様の構成で、特に変更は無かった。しかし、途中から落合と簡単な会話をしつつ番組が進行するという形に変化していった。そして(再放送等で確認できる限りにおいて)42回目ごろには担当が芥川に変わり、両者の会話も非常に活発になって兼高自身も生き生きと語るようになり、この形式が番組終了まで続いた。

アジアのパリーサイゴン、現・ホーチミンシティ)」「中東のパリーベイルート)」「南米のパリーブエノスアイレス)」など、美しい街に「○○のパリー「パリ」ではなく「パリー」と発音)」と付けて紹介することも多かった。

番組開始当初は当然白黒であったが、1964年1月12日放送の#0194「アラビアの人造り(サウジアラビア)」にて初めてカラー制作・放送が行われ、その後1966年の7月10日〜8月28日放送分(#0311「南へのいざない」〜#0318「秋への序曲」)まで「夏休みカラープレゼント」と題してカラーで制作・放送され、続く9月4日の第15次取材ハイライトも一部の局でカラー放送、更に同年の10月2日放送の#0322「インディ500マイルレース」がカラー放送、1967年4月2日放送分(#0344「山あいの王都」)からはほぼ全作品がカラーとなり、以前にカラーで取材されていたが放送では白黒だった回もカラーで再放送されるようになった。

1964年の日本人の海外旅行自由化から1970年代に日本人の海外旅行が本格化した後、1980年代を経てバブル景気の最中の1990年9月30日放送分をもって『兼高かおる世界飛び歩き』時代の半年間と『兼高かおる世界の旅』時代の30年間の計30年半の放送にピリオドを打った。

協賛

番組開始から20年以上にわたりパンアメリカン航空が協賛していた。1985年のパンアメリカン航空の日本市場撤退後、スカンジナビア航空SAS)に代わっている。

オープニングでは世界各国の映像を流しながら当番組の数々の賞歴をエンドロールの形式で流し、最後の方では飛行機の映像に変わっていたが、のちに協賛会社のナレーションが追加された。パンアメリカン航空時代は「番組の制作に当たっては世界で最も経験のある航空会社パンアメリカンの協力を得ました」で、のちに「この番組の制作にあたっては世界の翼、パンナムの協力を得ました」となり、スカンジナビア航空に交代以降は「この番組の制作にあたっては世界100以上の都市と日本を結んでいる北欧の翼、SASの協力でお送りします」、のちに「この番組の制作にあたってはSASスカンジナビア航空の協力を得ました」と言っていた。

1970年 - 1971年時点でのオープニングは、カラーとモノクロを織り交ぜた映像になっているが、エンディングは、パンナムビル(メットライフビル)屋上ヘリポートに着陸中のジョン・F・ケネディ国際空港パンナム専用ターミナル連絡便大型ヘリコプターやパンアメリカン航空旅客機、並びに所属スチュワーデスらを映したものとなっている。

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そういえば「かっぱの唄<黄桜>1959年〜1980年)」がお茶の間を流れていた時代には「おっぱいむきだし画像」なんて珍しくもありませんでした。「兼高かおる世界の旅」の「女性が胸を隠す習慣のない地域」映像も、そうした画像の主要供給源の一つだったのです。

モンド映画が日本でも流行したのは、こうした下地があったからなのですね。

モンド映画(Mondo film) - Wikipedia

観客の見世物的好奇心に訴える猟奇系ドキュメンタリー・モキュメンタリー映画。モンド物ともいう。世界各地の秘境の奇習や大都会の夜の風俗、事故や処刑の瞬間など衝撃映像を、虚実取り混ぜて見世物感覚で構成したドキュメンタリー風映画を指す。1962年に公開され世界的に大ヒットしたイタリア製ドキュメンタリー映画世界残酷物語』のイタリア語原題 "Mondo Cane"(直訳:「犬の世界」)が語源となっている。
*はっと。日本語に訳すると「セカイ系」?

世界残酷物語』のヒット以降、便乗するようにイタリアを中心としたヨーロッパ各地や日本で1960年代から1970年代にかけて秘境ドキュメンタリー映画や残酷ドキュメンタリー映画、性医学ドキュメンタリー映画などが製作され、壮絶な題名や誇大な広告とともに公開された。こうした映画は『世界残酷物語』の原題に倣って「Mondo …」(…の世界)と題された映画が多かったため、後に「モンド映画」と呼ばれるようになった(日本で製作されたモンド映画は、和製モンドである)。

モンド映画のスタンスは好奇心や見世物感覚であったが、映画の最後には、とってつけたように「世界の残酷な現実をあえて明らかにする」「動物たちを大切にしなければならない」「狂っているのは野蛮人ではなく文明人のほうである」などといった社会派的な結論がついていた。基本的には金儲けのためにセンセーショナルな話題を取り上げて観客から料金を巻き上げるエクスプロイテーション映画の一種であり、『世界残酷物語』や、それに先立つ「夜もの」映画も含め、モンド映画にはあからさまなやらせや事実誤認、配給会社による誇大広告などがつきものであるが、深く追及しないのが鑑賞時の作法である。

ヒット企画への便乗を身上とする映画人により製作された。イタリア人を主とする彼らにとっては、有名俳優などは不要で英語のナレーションを付けるだけで即世界に売れるモンド映画は恰好の商売の手段だった。彼らはより過激な残酷さや観客をつかむ映像のパワフルさを追求したが、映画がテレビに対して衰退した1970年代半ば以降にはモンド映画ブームは収束し、1980年代前半を最後にモンド映画的なものはテレビの特集番組やレンタルビデオなどに吸収された。似たような便乗映画が多すぎた上(いわゆるマンネリ)、海外旅行が一般化したため観客の異国への興味が薄れ、当初の新鮮味が失われ次第に飽きられるようになったこと、即物的な衝撃を求めるあまり製作費のかかるやらせをやめ、本物の死や死体を映したニュースフィルムをつなぐだけの映画へと移行し、残酷さが一般観客の許容度を超えるようになったことなどが、モンド映画が劇場から消えた原因であろう。
*ある意味「フロンティア消失」以降のユートピア/ディストピア概念の衰退、というよりその成れの果てそのものという側面があったとも。

しかしリアリティ番組の台頭などを受け、2000年代になってアメリカ合衆国ではドキュメンタリー映画の新たなブームが起きはじめている。中には社会の関心の高い問題への便乗や、社会に広がる偏見への便乗を図る映画もあり、モンド映画的なものは再び映画館に戻りつつある。

モンド映画オリエンタリズム

モンド映画における、撮影する側・鑑賞する側(ヨーロッパ人)から、撮影される側(日本人も含むアジア人・アフリカ人・途上国人・原住民などの人種、女性、また風俗関係者や事故の被害者など)への視線には、文明社会である欧米の白人から野蛮社会であるそれ以外の世界への本音、あるいは見世物的な好奇心や蔑視があからさまに表れているということもできる。裸体など映画の規制の厳しい時代でも、原住民の乳房や股間に修正は入らなかったことも多かった。

もっともこうした「文明から野蛮への視線」「秘境への関心」「やらせ的な演出」は、1920年代の文化人類学ドキュメンタリー映画の巨匠ロバート・フラハティの作品や、1930年代の特撮映画『キングコング』の登場人物である秘境撮影隊の面々にも見ることができる。映画史の初期から今日まで、やらせとドキュメンタリー、虚構と事実のあいまいな「モンド映画的な要素」は映画という表現につきまとってきた存在である。

兼高かおるはこういう問題にも直面し、かつ有効な処方箋を編み出してきたのですね。

*本来「銀河鉄道999」におけるメーテルとは「永遠に生きる機械の体こそ至高」としか考えられない視野偏狭な若者に多様で多態的な世界のあり方を見せ、それでも改心しない頑固者に「永遠に続く余生を惑星メーテルを構成するネジとして生きる」罰を与える死神だったのかもという可能性に思い当たった。そういえば物語のあちこちに「鉄朗、私に食べられたくなかったら逃げて!!」的警告があった。

ふと思い出してしまったのがイザベラ・バード女史の「日本奥地紀行Unbeaten Tracks in Japan、1878年)」「朝鮮紀行Korea and Her Neighbours、1894年〜1897年)」。特に「日本奥地紀行」における「日本人を観察しようとする者は心せよ。貴方が日本人を観察する時、日本人もまた貴方を観察し返しているのだ」ネタは強烈でした。「どこへ行っても数百人から数千人単位で見物客がついてきて、まるでイエス・キリストになった様な気分にさせられた」「宿泊先では障子の隅から隅までビッシリと穴が!!」「部屋の中が覗ける門に人が蟻の様に群がり、その重さで崩れ落ちていくのを目の当たりにした」「ハンモックに横たわってブラブラ揺れて見せたら、満足して一斉に帰って行った」…そういえば「兼高かおるの世界の旅」でも地域によってはあったネタでした。それくらい「外界からの来訪者」に関心がないと、自力近代化は難しいとも…