諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【現状確認】「民族主義とは、被害を団結の旗印に掲げつつ、加害の黙殺を集団的に強要していくシステム」?

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佐藤優は、ソ連崩壊過程における自らの経験に基づいて「民族主義とは、本質的にそれぞれのエスニック・グループが集団形成上のテクニックとして自らの受けた被害を最大限に言い立て復讐を正当化する一方、自らが与えた加害については自らの言い立ての延長線上において相手側に黙殺を強要する思考様式であるだから議論は何処までも水平線を辿って噛み合わず、究極的には虐殺合戦に発展し、どこまでも泥沼化していくしかない)」と述べています。すなわちいわゆるダブル・スタンダード問題の究極形の一つ…

*「体制側は絶対悪なのだから、反体制側は何をしても良い」は、いわゆる「義賊論」へと発展する。「誰も何も言えず放置されている絶対悪としてのフォルス(体制側暴力)への対抗(ヴィオランス)は全て正義」とした途端に開く地獄の釜…

 *でもこちらの考え方の方が全体像を俯瞰出来てるとも。

 こう考えると「ナチスドイツ最大の問題点はそれまでユグノー同様、ドイツ近代化に貢献してきたユダヤ人の切り捨てだった」とする立場と「イスラエル最大の問題点はアラブ・ナショナリズムが蔓延する以前には「相応の形では」共存出来ていたアラブ民族の切り捨てである」とする立場があっけなく重なって色々と便利ですね。そう「「究極の自由主義専制の徹底によってのみ完成するジレンマは、多様で多態な勢力の拮抗状態によってのみ克服される」なる立場に立脚するこのサイトの大義名分立ては、その延長線上において(その思考様式が抱える様々な欠陥は認識しつつも)いかなる「民族」もその主体性だけを主張して客体性を黙殺する事を許さないのです。


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  • 典型的ナチス論法」…ソ連及びコミンテルンから「社会ファシズムユダヤオーストリア名家の出身で、実際にナチスからの迫害を受けて英国への亡命を余儀なくされたピーター・ドラッカーもまた「(集団的合意の最大化を優先するあまり気に入らない相手を手段を選ばず熱狂的に叩く一方様々な形で必然的に破綻する自らの側への言及は一切許さない」のがナチスの典型的やり口として弾劾している。

    集団形成上のテクニック」…当初はフランスや神聖ローマ帝国といった大国の干渉に苦しめられ続けたルネサンス期イタリアにおいて、フィレンツェ共和国出身のニッコロ・マキャヴェッリNiccolò Machiavelli, 1469年〜1527年)が構想。

    NSDAPNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei = 国民社会主義ドイツ労働者党)台頭前夜、カール・シュミットCarl Schmitt)が「政治的なものの概念Der Begriff des Politischen、1927年)」において図式化。「友敵関係Freund-Feind Verhältnis)=絶対悪に対抗する為の呉越同舟状態」の追求こそが、現世界利益を巡る多様で多態な既存の人間関係網(仏教でいう「縁起論的連続状態」)を超越した「例外状態Ausnahmezustand)」を現出させる鍵とする。

    シュミットの学問的出発点は、自由主義的なワイマール民主体制に反対し、ドイツ大統領のリーダーシップによる権力集中型国家の構築を目ざしたもので、これは当時のドイツの保守支配層の考え方を代弁したものといえる。したがって、彼の全著作を通じて、一方では近代民主主義の思想やその制度的表現である議会制度を批判し、他方ではワイマール憲法の枠内で大統領の権限強化を図りつつ大統領の独裁を確立するという試みが対(つい)をなして行われている。

    彼の議会制批判の要旨は、次のとおりである。いまや新しい社会階級である労働者階級が台頭し、彼らは社会主義の実現を目ざし階級闘争を唱え、ドイツの統一を破壊しようとしている。彼らはドイツ支配層の不倶戴天(ふぐたいてん)の敵である。にもかかわらず議会制民主主義の下では、「」である彼らに議席を与え「討論相手」に変えてしまっている。このような状況では、彼らに対抗できない。議会制度は否定されるべきである。

    そこで彼は、議会に拠点を置かない大統領中心の政府をつくることを目ざす。そのため、憲法第48条を手掛りにして「例外状態」「異常事態」において大統領のとる措置、命令は無制限であるという解釈を唱える。

    ところで、ワイマール期14年間は数年間を除きほとんど「例外状態」の連続であったから、大統領は第48条の「非常大権」を発動して危機を切り抜けていた。ということは「例外」は「例外」でなく大統領政治が恒常的であることを意味したから、シュミットの独裁論はけっして当時にあっては奇異なこととは感じられなかった。とくに1929年の世界大恐慌発生後から1933年ヒトラー政権が成立するまでは大統領内閣の時代が続いた。そこでシュミットは、いまや大統領の命令や措置は法律に等しいと極言するまでになった。彼は、独裁は専制とは異なり危機回避のための有効な手段であると述べ、憲法の番人である、また敵を指定できる大統領が真の主権者であるとして、国民主権主義を否定しワイマール議会制民主主義に死亡宣告を下した。そして、議会政治では国民は代表者を選んだのちにはなんらなすすべをもたない「見えない政治」であるから、いまや「歓呼と喝采かっさい)」によって主権者の「上からの命令」に「下から呼応」するような「見える政治」に変えなければならない、という。こうした考えは、まさに、ヒトラーのナチ党の行動とほとんど同じものであったことはいうまでもないであろう。1933年5月1日、シュミットはついにナチ党に入党し、ナチ党の法律顧問の地位につく。しかし、ナチ党の狂信主義はとどまるところを知らず、シュミットの政治論は民族理論が弱いと批判され失脚する。
    第二次世界大戦中は「内陸国家連合VS海洋国家連合」という図式を打ち出したが、既に支離滅裂な部分が多かった。

    第二次世界大戦後、彼は『パルチザンの理論』などを発表して注目されたが、これはベトナム戦争を題材にして、彼がかつて唱えた敵・味方論がベトナムの地を舞台にして米ソの代行戦争として闘われているという自己弁護論にすぎず、もはや往年の精彩を失ったものといわざるをえない。

    同時期にはカール・マンハイムKarl Mannheim、1893年〜1947年)が「保守主義的思考Das konservative Denken、1927年)」の中でこう述べている。既存の伝統主義、すなわち「社会システムは、それより確実に優れた代替案が現れるまで維持され続けるべきである」なる立場は、貨幣経済資本主義)浸透に伴う「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」崩壊を通じ、とりあえず一旦は「全体構造をブラックボックス化しつつ、万人を統計学上の標本として均質化する進歩主義」に完全敗北した。、これについて「崩壊したのはあくまで王侯貴族や聖職者は神から選ばれた人々の階級で、それ以外の庶民は神から選ばれなかった人々の階級としたジャンセニスムjansénisme的身分制擁護論に過ぎず人生の価値は万人それぞれにとって、さらには世界そのものにとって均質ではない」「それを相対的に定めるのはあくまで世界の全体構造そのものであって、これをとりあえずブラックボックスとして扱おうとする立場はニヒリズムである」といった論陣を張りながら19世紀後半の王政復古期に再建されたのが保守主義とされる。
    *みんな大好き「世界から選ばれた英雄が、相応の犠牲を払いながら与えられた責務を全うする悲劇」。それこそが保守主義イデオロギーの中枢…

    信仰上人間の自由意志よりも神の恩恵を重視するアウグスティヌスの思想を実践しようとして、17、18世紀にフランスを中心に展開された宗教運動。その呼称は、オランダの神学者ヤンセンフランス語でジャンセニウス)に由来する。

    • 彼の同学の友、通称サン・シランことジャン・デュベルジエ・ド・オランヌJean Duvergier de、1581年〜1643年)は、ヤンセンとベリュル(Pierre de Brulle、1575年〜1629年)の感化を受けて、アウグスティヌスの思想に基づく司祭と信徒の意識変革を目ざしたが、宰相リシュリューの方針と相いれず、投獄され(1638年)、リシュリューの没後に釈放されたが、まもなく他界。
    • またサン・シランの指導下にあったポール・ロアイヤル修道院も王権とイエズス会から弾圧され、ついには王命により破壊された(1711年)。彼の愛(まな)弟子アルノーは、ヤンセンの遺著「アウグスティヌス1640年)」に異端の五命題ありとするイエズス会士の告発に応じる教皇庁の裁定が出た際、ポール・ロアイヤルの隠士たちと協力してアウグスティヌス主義を擁護すべく論陣を張り、パスカルも「プロバンシアル書簡1656年~1657年)」を書いて参加した。
    • 当初純粋に宗教的であったこの運動も、ルイ王権による弾圧に抵抗する過程でしだいに政治的運動へと変質した。そして18世紀の民衆のジャンセニストである痙攣(けいれん)派を最後に、退潮の一途をたどる。

    しかし、地上の絶対主義権力に対抗してまで、伝統的な信仰と個人の内面の自由とに固執したジャンセニストの態度は、近代的良心への道を準備したともいわれ、思想、文学、芸術の各領域に及ぼした影響は計り知れないものがある。

    要するに(長年国民分断状態が続いてきたせいで)健全な保守主義の発達が全く見られなかったからこそ、ロシアではスターリニズム、イタリアではファシズム、ドイツではナチズムへの熱狂的帰依が成立し得たのである。特にナチズムの場合、それは如何なる解釈を採用しても(互いに一度も擦り合わせが行われた事がない)多様で多態なイデオロギーの強引な形での寄り合い所帯に過ぎなかったから、内面的には(再吟味による統合が不可能なほど)完全に支離滅裂状態だった。 

    *そして保守主義の起源は民族主義の起源でもある。フランス起源ながらフランス国内においては「議会政治における地主の利権団体」という側面から脱却出来なかった。むしろこの考え方を発展させ「選挙権拡大運動を制する保守主義」なる概念の樹立に成功したのは英国と日本。一方、ドイツの保守主義もフランスのそれと同様この壁を乗り越えられず(あらゆるイデオロギー的矛盾を差し置いて)NSDAPに合流してしまう。

    様々な形で必然的に破綻する」…集団としての規模拡大を優先するあまり、集めたグループ間の主張の矛盾を放置し続けるから、最終的に必然的に「シンデレラ城意以外は全て内ゲバによって廃墟と化したディズニー・ランド」すなわち「最終的裁定者」の権威のみが最後に残った権威主義体制へと堕してしまう。

こうして全体像を俯瞰してみると、自然に「世界から選ばれた英雄が、相応の犠牲を払いながら与えられた責務を全うする悲劇」を尊ぶ保守主義的思想が最も嫌悪する「庶民的責任逃れ体制」へと照明が当たる展開に。

それではウィリアム・マンチェスタークルップの歴史―1587年〜1968年The Arms of Krupp: The Rise and Fall of the Industrial Dynasty that Armed Germany at War、1968年、初訳1982年)」などで活写された「現実の歴史の渦中におけるナチズムの展開」に目を向けてみましょう。

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一般に国際的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層は「ナチズム台頭に一切出来なかった」無念を隠蔽する為「ナチスドイツのスケープゴート」を急ぎ過ぎたあまり、自らが(過去の「領民と領主の暗い密約関係」を巡る歴史の延長線上においてナチスドイツが実際に犯した犯罪の継承者となってしかった側面が見受けられる?