諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【三木谷曲線】「少しでも数学センスがあれば、そもそも楽天には入社しないかもしれない」問題について。

世界恐慌1929年)発生を契機にNSDAP国家社会主義ドイツ労働者党(De Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、1920年〜1945年)が急速台頭した1930年代のオーストリア共和国ドイツ語Republik Österreich、バイエルン語Republik Östareich)…

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オーストリア共和国(ドイツ語Republik Österreich、バイエルン語Republik Östareich)… - Wikipedia

ヨーロッパに存在する連邦共和制国家。音楽の都といわれたウィーンを首都とする。ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリースロバキア、北はドイツとチェコと隣接。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたこともある。
*隣国のチェコ語では Rakousko / Rakúsko と呼ぶが、これは国境の地域の名前に由来。

  • 中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。ところが1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となる。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。
    *当初は有象無象のドイツ右翼政党の一つに過ぎなかったNSDAPを「欧州中に散って迫害されているドイツ人同胞の救済を訴える民族主義政党」へと改変する事に成功したアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler, 1889年〜1945年)はオーストリア出身。その無尽蔵とも見て取れる爆発的行動力の源泉は「多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国時代のドイツ系市民に強要された「他民族への忍耐」の裏返しのルサンチマンだったといわれている。

    *皮肉にも当時のドイツにおいてNSDAPの民族至上主義路線を勝利させたのはフランスのドイツ民族殲滅政策だった。当時のフランス人有識者は同時に「国内政治が行き詰まった際、外国人党首を救世主として熱狂的に受容する傾向」について、革命が行き詰まった時期に「皇帝」ナポレオン一世やナポレオン三世が選出されてきたフランスの歴史を重ね「現代のドイツでも同じ事が起こっている」と冷徹に分析している。

    *歴史は確かに決して繰り返さないが、韻くらいは踏むのかもしれない? というか「特定の状況を引き起こす環境そのものにメスが入らない限り、幾らでも類例が現れ続ける」が正解?

  • 1938年には同じ民族の国家であるナチス・ドイツに併合されたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復と永世中立国化により現在につづく体制となった。
    *以下の投稿は80周年を契機にオーストリア共和国が「経済的危機状態から自ら脱する手段を持たなかった当時のオーストリア共和国には、ナチス・ドイツへの併合(1938年)をむしろ熱狂的積極的に歓迎する雰囲気すらあった」と自己反省する声明を出した事を絶賛し「先天的ナチス民族たる日本人にはこの謙虚さがない。安倍政権に人間としての良心があるなら即刻韓国に謝罪し、さらなる補償を開始せよ」と煽るが、実際当時のオーストリア共和国の立場にあったのは韓国であり、自力での経済的回復を諦め、日韓併合を受容した当時の朝鮮人の期待が実際に(米や海苔といった)大日本帝国への輸出産業振興によって満たされ、さらには日中戦争特需を受けて1940年代の京城(朝鮮王朝時代の漢城、現在のソウル)が百万人都市への成長を達成して「大京城」を名乗る様になった事実を完全に失念しているのである。

  • 音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。
    *「オーストリアが再びドイツのナチズムに汚染されつつある」というが、上掲の様にそもそも「ドイツにおけるナチズム」自体がある意味、オーストリア発祥なので複雑な問題に発展…まぁドイツにはもう一つ、ミュンヘンを首都とするバイエルンなる「ナチズムの故郷」が存在する訳だけど…

    *こうした「(オーストリア=ハンガリー帝国時代の思想的停滞の反動としての)オーストリア系知識人の反逆的党争至上主義」は良くも悪くも世界中に様々な影響を及ぼしてきた。経済学分野におけるオーストリア学派(The Austrian School)の台頭、論理実証主義を標榜したウィーン学団(Wiener Kreis; Vienna Circle)の暴走、そして米国に亡命したオーストリア系精神学者フレデリック・ワーサムの(先に米国へと移民してきた「叩き上げの」ハンガリーユダヤ人がスーパーマンキャプテン・アメリカの創造を通じて構築してきた)アメコミ業界への攻撃に端を発するコミック・コード(Comic Code)問題…まぁ今日なお「ロビー活動によってイスラエル国旗を熱狂的に振り回す勢力を増やそうとしてるのも、ネット上に次々とイスラエル国旗を焼く写真をアップして物議を醸してるのもユダヤ人」という状況だし、こうした「極右」シオニストVS「極左シオニストの対立構造の背後には「実験国家」イスラエルにおける(産業革命到来以降、欧米で経済的成功を達成してきた)アシュケナージユダヤ人(圧倒的少数派)と、イスラム諸国において生存権や財産私有権といった基本的人権すら脅かされ続けてきたセファルディムユダヤ人(圧倒的少数派)の党争なる厄介な構造が隠れている。かくして国際SNS上の関心空間においては「(その苛烈な党争至上主義ゆえに)全ての中国人や韓国人と仲良くする方法が存在しない様に、全てのユダヤ人と仲良くする方法もまた存在しない」なる定理が定着するに至ったのである。

ところでドイツ語のエスターライヒの reich(ライヒ)はしばしば「帝国」と和訳される。その解釈からすれば(フランスのドイツ語名が現在でも Frankreich(フランクライヒ)すなわち「フランス帝国」であるように)「Republik Österreich」は「共和制東方帝国」と、随分強そうな感じになる。厳密には「reich」は語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味から出発している。
*(英国を除いた)欧州大陸史の特異性は、かかる「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が(虎視眈々とイタリア進出を狙ってきたシュヴァーベン大公ホーエンシュタウフェン家がイタリア半島南部を支配下に置き、神聖ローマ帝国皇統を勝ち取った後に「フランス王弟」シャルル=ダンジュー(Charles d'Anjou、1227年〜1285年)に滅ぼされて以降「無主の地」となり、ハプスブルグ家による再統合の試みもはねのけてきた)スイス無政府主義プロパガンダによって迷走を強要させられてきた点にある。そして、こうした全体構造を俯瞰すれば「共和制東方帝国」なる一見矛盾の塊にしか見えない概念にも、ちゃんと相応の歴史的意義があった事が察せられるのである。

ウルス(中世モンゴル語: ᠦᠯᠦᠰ ulus、 現代モンゴル語: улс、ラテン文字転写: uls、オルス) - Wikipedia

モンゴル語で「国家」「人々」を意味する単語で原義は「人の渦」。遊牧民であるモンゴル人にとっては、国家とはすなわち人々の集合体であったことから同義語となった。「モンゴル世界帝国」の「帝国」でもある。
*ちなみに現在、ロシア連邦に属するサハ共和国ではかつてのラヨン(район)をウルス(улус)と呼んでいる(この行政区画は日本語では「地区」と訳される)。
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  • 歴史用語としては、テュルク語でイル(il)、エル(el)と呼ばれる語とほぼ同義で、カン()などの称号を帯びた君主に率いられた遊牧民の自立的な政治集団を指す。原初的には、チンギス・カン以前の11世紀のモンゴル部族のような、諸集団(氏族)の長同士がある程度擬制的な血縁関係をもって政治的に結集した遊牧部族を指したようである。
    *こうした状況の分析には、今日なおイブン・ハルドゥーンの王朝交代論が有効と目され続けている。

  • 13世紀初頭、モンゴル高原を統一したチンギス・カンは、支配するモンゴル高原の西端に長男ジョチ、次男チャガタイ、三男オゴデイの3子に4000戸(4個千人隊)ずつの遊牧集団を、東端には3人の同母弟とその家族に合計12000戸(12個千人隊)の遊牧集団をウルスとして与え、皇帝の権力から半ば自立した遊牧政治集団を形成させた。また、チンギス・カンオイラトやオングートのような、モンゴルに服属した有力な部族集団も複数の千人隊としてある程度自立した政治集団として存続させることを許しており、モンゴル帝国イェケ・モンゴル・ウルスを名乗り、中軍としてのカアン(ハーン)自身のウルスを中心に大小のウルスやウルスに準じるものが集合した遊牧部族連合的な性格をもった。これは、モンゴル帝国に限らず、匈奴からジュンガルまで中央ユーラシアで興起した多くの遊牧国家に共通してみられた特徴である。

    やがて、ジョチ、チャガタイ、オゴデイ3子の子孫と、のちに西アジアの征服に派遣されたチンギスの四男トルイの子フレグの子孫は、それぞれモンゴル帝国の西方で大規模なウルスを形成した。これらのウルスの君主は汗(カン、ハン,Qan)を称したため、汗の治める国家という意味でしばしば汗国(ハン国/khanate)と呼ぶ。一般には、中央アジアを支配したチャガタイ・ウルスをチャガタイ・ハン国、キプチャク草原を支配したジョチ・ウルスキプチャク・ハン国(金帳汗国)、西アジアを支配したフレグ・ウルスをイル・ハン国イルハン朝)と呼び、総称して「三汗国」と呼んでいる。しかしながら「汗国」と称するものの、実際には国といえる実態ではなく、遊牧民族のみを支配下とした。遊牧民は定住せず草原を移動するので、汗国の境界線というものも実際には存在しないに等しかった。汗国の領域内(明確な領域は存在しないので正確な言い方ではないが)の非遊牧民族・定住民・都市に関しては、モンゴル帝国支配下にあった。

    しかし「カイドゥの乱」が転機となり、汗国は大きく変容する。オゴデイの孫であるカイドゥは、モンゴル皇帝権力からの分離独立を志向し、いわゆる「カイドゥの国」を成立させ、定住民や都市をも支配下とした。しかし1301年のカラコルムの戦い、タミールの戦いでモンゴル帝国に敗北して勢力を減じ、その死後にドゥアによって1306年頃「チャガタイ・ハン国によるカイドゥの国の併合」がなされた。これと同時期に、他の汗国も周辺の農耕地や都市とそこに住む定住民まで支配するようになっていき、実質上の国となった。この出来事を指して、かつてはモンゴル帝国の分裂といっていたが、実際には元の皇帝(カアン、大ハーン)を宗主として、モンゴル帝国の4ウルスは緩やかな連合を14世紀の前半まで続ける。

  • その後、モンゴル帝国後の遊牧民社会は再編を繰り返しながら、チンギス・カンの末裔を君主とする政権は次第に消滅していき、1783年にクリミア・ハン国ロシア帝国に征服されたことをもってチンギス裔を君主に頂く国家は消滅した。
    *そして「チンギス・カンの末裔だけが国王になれる」チンギス統原理(Chingisid principle)のイスラム統原理やチベット仏教統原理への敗北が始まる。

現代モンゴル語では、ウルスは「国」という意味であり、モンゴル系民族唯一の独立国であるモンゴル国モンゴル語による正式名称は、モンゴル・ウルス(Монгол Улс)という。かつてのモンゴル人民共和国はモンゴル・アルド・ウルス(Монгол Ард Улс)だった。

しばしば「現代経営学あるいはマネジメントmanagement概念 の発明者」と呼ばれるピーター・ドラッカーPeter Ferdinand Drucker、1909年〜2005年)は、ジークムント・フロイトSigmund Freud、1856年〜1939年)同様、当時ウィーンを経済的文化的に牛耳っていたユダヤ人富裕層の一員として自らが(後世から振り返ると愚行としか思えないアンビバレントambivalent)な振る舞いを見せています。すなわち「ナチスユダヤ人迫害は、世界中で嫌われている一部の悪徳ユダヤ人のみを対象としているだが大半のユダヤ人がそうである様に、自分だけはその対象ではない)」と勝手に思い込んで反ユダヤ主義を黙殺したり時には擁護する発言を繰り返すうち、次第に周囲から「お前だってユダヤ人だ」と宣言され一緒くたに蔑まれる様になり、自らもその社会的地位を剥奪されたばかりか生存権や財産私有権といった基本的人権までも脅かされる様になったので怖くなって亡命を余儀なくされたのでした。
*「応援しちゃいけない側」の中国人や韓国人を応援し続けている日本のリベラリストは心せよ。これが貴様らを将来待つ未来ぜよ? ちなみに「応援すべき側」の中国人や韓国人と行動を同じくしても別に「大日本帝国は、当時としてはあれだけ先進的だったのだから他にもっとやりようがあったのでは?」とかネチネチと言われ続ける現実からは逃れられなかったりするが、まぁまだこちらの路線の方が戦い甲斐があるというもの。

ピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、1909年〜2005年) - Wikipedia

オーストリア・ウィーン生まれのユダヤオーストリア経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメントmanagement) 」概念の発明者。他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが、自らは「社会生態学」を名乗った。

①父・アドルフ・ドルッカー(ウィーン大学教授)と母・ボンディの間の子で、義理の叔父に公法学者・国際法学者のハンス・ケルゼン(母方の叔母であるマルガレーテ・ボンディの夫)がいる。ドラッカーの自著によれば、父親はフリーメイソンのグランド・マスターだった。

②1917年に両親の紹介で、同じユダヤ人の精神科医ジークムント・フロイトに会う。

③1929年、ドイツ・フランクフルト・アム・マインの『フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー』紙の記者になる。1931年にフランクフルト大学にて法学博士号を取得。この頃「悪いユダヤ人が国際的に社会的制裁を受ける事が、ユダヤ人社会全体の品質向上につながる」なる執筆スタンスが評価され、NSDAP国家社会主義ドイツ労働者党(De Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、1920年〜1945年)のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスから度々インタビューが許可された。

  • 大学入試のために書いた論文「パナマ運河と世界貿易におけるその役割」がオーストリア経済誌の目にとまり、その編集部から招待され、編集会議に参加する。そこで、当時の副編集長で後の経済人類学者カール・ポランニーと出会い、以後長い交友関係を結ぶ。ドラッカーの記述によれば、アメリカのベニントン大学の教授職をポランニーに紹介し、彼の『大転換The Great Transformation、1944年)』執筆のきっかけともなったとあるが、後の検証によればその記述は誇張や誤りだらけであり信憑性に欠ける。

④1933年、自ら発表した論文がユダヤ人を嫌うナチ党の怒りを買うことを確信し、退職して急遽ウィーンに戻り、イギリスのロンドンに移住。ジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受ける傍ら、イギリスの投資銀行に勤める。1937年、同じドイツ系ユダヤ人のドリス・シュミットと結婚、1939年、アメリカ合衆国に移住し、処女作『経済人の終わり』を上梓。

  • その過程でフレデリック・テイラーの『科学的管理法Scientific management)』やアブラハム・マズローの『欲求の5段階説』に多大な影響を受けたとされる。

    科学的管理法(Scientific management) - Wikipedia

    ウラジーミル・レーニンは1913年の時点でこれについて「同じ長さの労働日のなかで以前より三倍以上の労働力を労働者から絞りとろうとする」試みとして全面否定したが、翌1914年にはテイラーの理論を「プロレタリアートが社会的生産のいっさいを掌握し、労働者自身による、あらゆる社会的労働の適切な配分と合理化を目的とする委員会を定める時期を用意するものであった」と評価し、1918年にはその後の革命の成功に不可欠なものと考えるに至ったとされる。

⑤1942年にバーモント州ベニントンのベニントン大学教授となった。1943年にアメリカ合衆国国籍を取得。以降1950年から1971年までの約20年間、ニューヨーク大学現在のスターン経営大学院)の教授を務めた。
*ここで我々は当時「昨日の世界(Die Welt von gestern、1942年)」を著し、同様に「知の巨人」と呼ばれたユダヤオーストリア人のュテファン・ツヴァイク1881年〜1942年)の悲惨過ぎる末路を思い出さざるを得ないのである。さて、両者の違いは一体何に起因するものだったのか?

  • ユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興に直面し、古い19世紀的ヨーロッパ社会の原理が崩壊するのを目撃。危険を悟ってイギリスを経てアメリカに家族とともに逃れた先で目にしたのは20世紀の新しい社会原理として登場した組織、巨大企業だった。

  • 彼はその社会的使命を解明すべく、研究対象となるアメリカ大企業に協力を呼び掛けていた。その中で大手自動車メーカーのゼネラルモーターズGM)が、彼に声をかけた。彼は「同社の経営方針、経営組織を社外の立場から研究報告するように依頼された」。彼は、この依頼によって報酬の支払いを受ける一方で、彼自身の研究をすることを許された。そして書かれたのが『会社の概念1946年)』だった。それは、当時の副社長だったドナルドソン・ブラウンが、『産業人の未来The Future of Industrial Man)』を読み、それに触発されてドラッカーに声をかけたことが発端である。『会社の概念』は政治学ドラッカーの立場で書かれたもので、後の一連のマネジメント書とは違うものである。フォード再建の教科書として使われたと言われているが、それは本人の意図した結果ではなかった。

  • 彼は「分権化」などの多くの重要な経営コンセプトを考案したが、その興味・関心は企業の世界に留まることを知らず、社会一般の動向にまで及んだ。「民営化」や「知識労働」は彼の造語で、後に世界中に広まる。特に非営利企業の経営には大きなエネルギーを費やした。『非営利組織の経営Managing the Nonprofit Organization: Principles and Practices、1990年)』を著している。

⑥1959年に初来日し、以降も度々来日した。日本古美術のコレクションも有名。1966年には「産業経営の近代化および日米親善への寄与」が認められ勲三等瑞宝章を受勲している。

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1971年にカリフォルニア州クレアモントのクレアモント大学院大学教授となり、以後2003年まで務める。1979年に自伝『傍観者の時代』を、1982年には初めての小説『最後の四重奏』を著す。

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  • 彼の著作には大きく分けて組織のマネジメントを取り上げたものと、社会や政治などを取り上げたものがある。本人によれば彼の最も基本的な関心は「人を幸福にすること」にあった。そのためには個人としての人間と社会(組織)の中の人間のどちらかのアプローチをする必要があるが、ドラッカー自身が選択したのは後者だった。

  • ドラッカーは著書『マネジメント』で、従来の全体主義的な組織の手法を改め、自律した組織を論じ、前書きにおいて「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」と述べている。

  • また、著書の『すでに起こった未来The Ecological Vision)』では、みずからを生物環境を研究する自然生態学者とは異なり人間によってつくられた人間環境に関心を持つ「社会生態学」と規定している。

2002年、アメリカ政府から大統領自由勲章を授与される。2005年にクレアモントの自宅にて老衰のため死去。95歳没。
*それは確かに一つの時代の終わりを意味していたのである。

  • ドラッカーの思想は、組織や企業経営の分野にとどまらず、個人のプロフェッショナル成長の分野にも及んでいた。いわゆるナレッジワーカーが21世紀のビジネス環境で生き残り、成功するためには「自己の長所強み)」や「自分がいつ変化すべきか」を知ること、そして、「自分が成長できない環境から迅速に抜け出すこと」を勧めていた。新しい挑戦こそが、プロフェッショナルの成功に貢献すると主張していた。
    *まさしく易経において指摘された「大人虎変 、 君子豹変、小人革面(先駆者がイノベーションを起こしても、真のベテランは確実にこれについていく。三流の人間は分かった振りをするのみ)」の世界。

ちなみに二大政党制を高評価し、多党制に否定的であったとされる。

私がこのサイトで採用した「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」なる自由主義のジレンマは勢力拮抗によってしか回避し得ないという基本姿勢樹立に当たって多大な影響を受けた偉人の一人。

  • 究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」なる自由主義のジレンマそのものは(父がファシスト英雄で当人が共産主義者だったボローニャ出身映画監督パオロ・パゾリーニPier Paolo Pasolini, 1922年〜1975年)が遺作「ソドムの市Salò o le 120 giornate di Sodoma、1975年)」の中で放った「ファシストだけが無政府主義を体現する。力による無政府主義だ!!」に由来するとしてきた。
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    *そういえば過去投稿でこんな話題も拾っている。

    中国共産党北朝鮮労働党には、欠陥だらけの議会制民主主義諸国には決っして存在し得ない本物の自由が存在する。それは真の正義が一切の掣肘を受ける事なく貫徹される自由である!!」

    ならどうすべきか。ピーター・ドラッカーは「(自らに対する言及は一切許さない一方であらゆる悪や失敗を政敵に転嫁し続ける絶対的他罰態度ダブル・スタンダードの貫徹」や「味方を増やす為の批判精神の一切封印「やることなす事全て悪」の絶対悪と決めつけて打倒した筈の社会民主党(SPI)のワイマール体制から(自らは全く無計画だった)経済再建計画を採用して成功すると全て自陣営の手柄にしてしまうといった、計画性なき「ええとこどり」路線)」こそが典型的ナチス論法の根幹だったとし、これに対抗し得る理想として「全てが完全統制下にあるすなわち関係者全員の責任範囲が明瞭で、これに基づいて成功も失敗も全て正しくフィードバックされ続けていく正しいマネージメント」なるビジョンをぶつけたといえる。

    *「典型的ナチス論法」…まさしくジョージ・オーウェルが「1984年(Nineteen Eighty-Four、1949年)」の中で言及したNew Speak(新語法)なる言語統制そのもの。この言語を使用してる限り体制側(さらにはその打倒を目指す反体制側)も敵側に対しては罵倒、味方側に対しては賞賛しか許されず、党争至上主義がひたすら加速していく。

    ニュースピーク - Wikipedia
    *すなわちカール・シュミットがその政治哲学の中で述べた「政治の本質とは(そう簡単には滅せず、かつ誰もが利敵行為を拒絶せざるを得ない様な)適切な政敵を設定して団結の輪を生み出し、かつ味方側陣営を完全統制下に置いて併合や同化を推進し単一巨大勢力を構築する技術」なる論法そのもの。これを熱狂的に提唱したのが(元来は政敵たる)ワーマール体制側で、ナチスはそれを「ええとこどり」したに過ぎないという辺りにも「典型的ナチス論法」の本質が垣間見える。そもそも、その強烈な滅私奉公を要求してくる国家主義自体イタリアン・ファシズムオーストリア民族主義の「ええとこどり」だった(さらにいうなら、その優生主義すらも英米からのパクリ)と考えると、ナチズムに本質的イデオロギー性など何もない事が益々明らかとなる。

こうして考え方を煮詰めていくと、ピーター・ドラッカーの提唱した「マネジメントmanagement)」なる概念は、三種の極限値英limit, 羅limes,略称lim)を備えているという結論に至るのです。

*おそらく最適解は「どの極限値にも到達しない様に釣り合いを保つ事」。

ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーは「大転換The Great Transformation、1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘している。

*問題は「軽率な判断と慎重な判断」「過剰と不足」「運動状態と静止状態」を分ける十分(Enough)量が事前には分からない事。このあたりは「見合い問題」のジレンマに近い。

*件の「通りすがりの人口知能」は、さらに私の以下のブログの巻頭言についても「で、最適量の決定は?」と訪ねてもきている。確かに同様に答えがない。

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由liberty)」と「消費(demand)=生産Supply)」と「実証主義positivism)=権威主義Authoritarianism)」「敵友主義適応主義Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。
*「敵友主義」にだけ対応英語が存在しない。カール・シュミットの政治哲学における「(部族社会的アナキズムが背景にある場合を除き、大同団結に欠かせない大義名分として存続が期待される)政敵」概念やエルンスト・ユンガーの魔術的リアリズム文学における「(人類の進化に不可欠だが、誰もその勃発を望んでおらず、原則として一旦始まったら終わらせる事)戦争」概念は、その絶対他者的特徴故に(日本に導入された律令制天皇の存在に関する言及が一切なかった様に)決っして特定のイデオロギーの中枢理念には収まり得ないからである。つまり、ある種の虚数(Imaginary part)概念としてしか存在し得ないとも?

  • その1はまさしく彼が提唱した「全てが完全統制下にあるすなわち関係者全員の責任範囲が明瞭で、これに基づいて成功も失敗も全て正しくフィードバックされ続けていく正しいマネージメント」理論に基づくスティーブ・ジョブズやディズニーランドなどの経済的成功。まさしく「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」なる自由主義のジレンマの体現そのもので「(諸勢力の拮抗状態を安定させる釣り合い感覚」を尊ぶ保守主義者の神経を逆撫でするが、ある種のエビデンスではあり、無碍に切り捨てる訳にもいかない。

  • その2は正反対の状況。一方、元来「裁定者Adjudicatorsあるいはruler)」なる概念は、多種多様な諸勢力間の対立が直接対話では不可能な状態においてのみ必要とされる虚数Imaginary part)的理想像に過ぎないが(太陽王ルイ14世や「朝鮮の太陽王」朝鮮王朝の粛宗の様な絶対王政時代の君主同様、ナチズムは(参加に編入した諸勢力の内ゲバを放置した結果)総統アドルフ・ヒトラーの裁定のみが絶対的権威を有する荒廃した価値観に突入してしまった。こうして登場した「絶対正義」は、現実世界に解決不可能の問題が生じると容易く絶対悪として「絶対憎悪」の対象へと変貌してしまう事が多い。

    • この流れのバリエーションとして重要なのが以下。実は左翼側陣営がしばしば罵倒に用いる「歴史修正主義」なる概念の対語は、絶対的権力者が臣下の盲目的忠誠心を実験によって実証する「試金石」として使い続けていた「正統主義史観」であり、その本質上内容が荒唐無稽であればあるほど有効に機能してきたというのである。

      史記の「指鹿為馬しかをさしてうまとなす)」の故事

      秦の2代皇帝・胡亥の時代、権力をふるった宦官の趙高は謀反を企み、廷臣のうち自分の味方と敵を判別するため一策を案じた。彼は宮中に鹿を曳いてこさせ『珍しい馬が手に入りました』と皇帝に献じた。皇帝は『これは鹿ではないのか』と尋ねたが、趙高が左右の廷臣に『これは馬に相違あるまい?』と聞くと、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えた。趙高は後で、鹿と答えた者をすべて殺したという。以降、群臣はみな趙高を恐る様になり逆らう者はいなくなった。

      冒頓単于の成功譚

      匈奴単于在位紀元前209年〜紀元前174年)は紀元前209年に反乱を起こして父、継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で即位した。クーデターに当たり、事前に冒頓は私兵を秘密裏に養成しており、私兵を率いて「自分が鏑矢を放ったらすぐさま同じ方向に矢を放て」と命令する。そして、まず野の獣を射た。矢を放たないものは斬り殺した。次いで自らの愛馬に向かって射た。同じく放たないものは斬り殺した。更に自分の愛妾を射ち、同じく放たないものは斬り殺した。そして父の愛馬を射るときには全ての部下が矢を放った。こうして忠実な部下を得たのである。そして父が通りかかった際にそこに向けて鏑矢を放ち、配下の私兵も大量の矢を浴びせ、これがクーデターの端緒となった。

      フランス革命の最終勝者」問題

      かかる党争至上主義が最後はいかなる極限値を迎えるかについて暗示する逸話。フランス革命は大量虐殺を伴う壮絶な党争(内ゲバ)の末に「デモ隊など、どんなに大人数でも先頭の500人を榴散弾でミンチ肉に変えれば残りは逃げ散るのみ」と豪語する「砲兵将校」ナポレオンが最終勝者となる形で完成したといわれれている。
      *この観点からフランス人はナポレオン独裁とヒトラー独裁を重ねるのである。その発想事態は極めて正しい?

      要するに「教条主義者=反知性主義者による究極のマウンティング攻撃」とも? 確かに逆転される可能性がなければ、これほど自尊心を安定して満たし続ける行為もないとも。

  • その3はある意味、虚数解(Imaginary solutions)そのもの。カンボジアクメール・ルージュ政権、ベネズエラチャベス大統領、韓国の文在寅大統領の様な「現実への適応を軽蔑し抜いて絶対正義の貫徹を目指すグノーシス主義路線」。
    *確かに政権存続には「現実問題解決への適応度合い」なる尺度の放棄が有効だが、その代償として「経済的にそこまで酷い状態にはなかった」中進国が半世紀を待たずして世界最貧国へと転落してしまう。「(実数世界を超越した)現実社会改善への最適解の提供」が供給出来ない限り、あるいはそれを放棄した形で虚数(Imaginary part)的理想像への依存は本当に危ない。これはイスラム原理主義も抱える危うさ…

    *最後に待つのは「ガイアナ人民寺院」的な集団自決のみとも。

    *あるいはベトナム系市民の民族浄化に着手して激怒したベトナムに滅ぼされたクメール・ルージュ的最後も想定される。

こうした検討の末に気になったのが以下。

この図形には見覚えがある。最近の投稿で扱った冪(べき)乗算の極限値を求める図式じゃないですか、これ…


対数尺度で解釈するとただの直線に。

①それでは「三木谷曲線」とは単なる「指鹿為馬」の類として広まっているのかというと「(個体から液体、液体から気体への状態遷移の様に努力が目に見える形になる実るのは最後の瞬間だけ。それを知ってる人間だけが最後まで諦めない」と言い換える事でちゃんと一応は数理モデルとの適合を果たしている人が結構いる。

 *ただし「忘却曲線」や「学習曲線」が非言語的領域においてのみ検出可能な尺度という事実も決して忘れてはならない。

*そもそも「最後の0.5%の努力が全てを決っする」という形で広めたのはサイバーエージェントの藤田氏という話もある。

②ところが、これは(見た目はほとんど変わらない)自然対数の導出関数と考えると、また違った景色が浮かび上がってきてしまうのである…

弄っているのは「元金を組み込んだ利息が発生する区間」。ただひたすらこれを短く刻み続けるとこんなアニメーション、すなわち爆発的増大の開始が期間設定上の単位「」に近付いていく変化が捕捉される。

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こうして視覚化された増分の上限こそが、有名な「自然対数natural logarithm)」…
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極限値としての自然対数は「区間設定上の1以上」では単調増加関数(1+1/N)^Nよりe2.71…)、「区間設定上の1から0の間」では単調減少関数(1/N)^N、「区間設定上の0以下現実尺度上の小数点下、虚数尺度上の-1)」では単調減少関数(1-1/N)^Nより1/e0.367…)として観測される。
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数学の世界においては、こうした区間設定上の「1以上」「1から0の間」「区間設定上の0以下現実尺度上の小数点下、虚数尺度上の-1)」といった区間設定の切替に伴う増加関数と減少関数の切替を単位円やガウス平面上の展開と結びつけて考えるセンスが要求される。
*要するにここに登場する「+1」「+0」「-1」なる座標は極座標/単位円/複素平面上における「半径」「原点」「反対側の半径」を指す。何を言ってるか分かる人だけが「オイラーの等式(方程式)」を「世界で一番美しい方程式」と称えなさい?

極座標系(polar coordinates system) - Wikipedia

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単位円(unit circle) - Wikipedia

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複素平面(独Komplexe Zahlenebene, 英complex plane) - Wikipedia

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この関数が単なる指数関数と異なるのは「頑張った報いが最後に現れる」のが所謂「(複利式計算の出発点となる元手の1」が1以上の時のみという点。それ以下だと非常にも「頑張ったら頑張っただけ、ただ駄目になっていく」のみなのです。

*そう、まさにこの景色…

軍人は4つのタイプに分類される。

有能な怠け者は司令官にせよ。

有能な働き者は参謀に向いている。

無能な怠け者も連絡将校か下級兵士くらいは務まる。

無能な働き者は銃殺するしかない。 

そう結局、話は「特徴量の設定センス」なる根幹スキル(あるいは早めに間違いを察知し、致命傷となる前に撤退する判断力)に回帰して来ます。ただでさえそれ自体が難しい概念なのに、最近話題になっているのは(人間に直感的に把握可能な範囲を超越した領域で演算される機械学習技法などによるその自動化という次第…

最も単純な働きをする人工知能は、単なる制御プログラムであると言えます。たとえば、温度の変化に応じて機能するエアコンや冷蔵庫に組み込まれているプロセッサがそうです(これらの製品にはよく「人工知能搭載」といったコピーが謳われていますよね)。

次に、対応パターンがより多くなった人工知能があります。単純な作業だけでなく、様々な局面に対して対応できます。将棋のプログラムやお掃除ロボットなどがこれに該当します。より多くの知識をインプットしてあるので、領域が広くなっているわけです。ここではまだ新しい知識を学習するようなことはできません。

そして、対応パターンを自動的に学習する人工知能があります。ある程度のサンプルデータからルールを設定・学習して、より精度の高い判断を下すことができます。Google検索エンジンなどがこれに当たります。検索キーワードと似たワードを自動表示したり、誤字があると自動的に修正したキーワードに置き換えてくれたりしますよね。あれは「AはBである」という構造をすべて理解しているわけではないものの、ある程度のパターンから推察して、最も近いと思われる選択肢を抽出しているのです。

こうして、さらに発展した人工知能として、対応パターンの学習に使う「特徴量」を自力で獲得する人工知能というものが登場することになります。パターンとルールさえも、人工知能が自ら学んで知識データとして積み重ねていくのです。

2045年より前に始まると言われるシンギュラリティの世界とはという記事で紹介しているような人工知能はこうしたものになります。人工知能が人間の手を離れたところで学習能力を身につけ、勝手に発展していくわけです。

急に知らない言葉が出てきたので戸惑われたかもしれません。

特徴量」とは何でしょうか。

上で述べたように、自動的に対応パターンを学習する人工知能は、ある程度のサンプルさえあれば、ルールを自ら発見・習得できます。それにより、未知のものに対して判断したり、識別したり、あるいは予測をすることができるようになるわけです。

しかし、そのパターンをどのように発見するかということは、いちいち人間が決めなければなりません。

特徴量」とは、いわば、人間が世界を認識するための要素であると言えます。

私たちは、無意識のうちに、コップとはどんなものなのかということを認識しています。形や色、材質が様々に異なっていても、そのひとつひとつがコップであるかどうかということは、瞬時に判断できます。これは、コップの「特徴量」というものを認識しているからです。

特徴量は、難しくいうと、対象とする事物の特徴を定量的に表した変数です。人間はもっとアナログに処理していますが、人工知能にとっては、対象となるデータを端的に表現できるような特徴を見つけ出すための変数なのです。

特徴量という物差しを与えることで、人工知能がパターンを学習することができるようになります。何を特徴量として選ぶかということによって、結果の精度は大きく変化します。

この特徴量を抽出するのはデータ分析の技術者の仕事ですが、きわめて専門的な仕事であり、一種の職人芸ともいえるものです。これが人工知能の実用化がなかなか進まない理由のひとつになっていました。

たとえば、これをお読みの皆さんも体感しているように、気温が高くなるとビールがおいしくなり、ビールの売上が伸びます。そこで、お店やビールメーカーでは、売上予測を行うために気温を判断材料しているわけです。

これは、気温を特徴量として抽出していることになります。しかし、「ビールの売上には気温が影響している」というのは、あくまでも経験則であり、仮説に過ぎません。それを特徴量として抽出するためには、データ分析技術者が売上と気温データからそのような関係性を発見しなければならないのです。

とにかく全ては後者パターンの「三木谷曲線」でいう「元手の1」の抽出から始まるという話…