風の谷のナウシカでのセラミック装甲云々、他の方も指摘してるけど80年代セラミック万能説みたいなの流行ったんだよなぁ。
— 吉良青劉@カメコ活動休止中 (@redcrab_library) January 5, 2019
脆さなどの問題が解決出来ず思ったほど普及しなかったけど。
重いよね・・・今思えば・・・(・ω・)
— 黄色の(ーωー)・・・ぴこ☆ (@hakonayellow013) January 5, 2019
実際陶器ですからねぇ>セラミック
— 吉良青劉@カメコ活動休止中 (@redcrab_library) January 5, 2019
重いというのも難点でした。
セラミック塗膜技術とかが発達すると・・・!?(・ω・)ねぇ?技術は皆困難に挑戦だからありえるかも!?(笑)♪ヽ(´▽`)/
— 黄色の(ーωー)・・・ぴこ☆ (@hakonayellow013) January 5, 2019
「セラミック塗膜技術」!! 要するに有望なのは「七宝焼き(enamel=琺瑯引き)」路線!? まぁこれはどちらかというとガラスの一種な訳ですが…
当時の日本が「ビニール革命」「プラスチック革命」を経て「次」を模索していた時期にあったのもまた興味深いところ…
金属工芸の一種で伝統工芸技法のひとつ。金属を素地にした焼物ともいえる。金、銀、銅、鉄、青銅などの金属素地に、釉薬(ゆうやく)を摂氏800度前後の高温で焼成することによって、融けた釉薬によるガラス様あるいはエナメル様の美しい彩色を施す。
- 紀元前のエジプトを起源とされ中近東で技法が生まれ、シルクロードを通って、中国に伝わり、さらに日本にも伝わったというのが通説である。日本語の七宝焼の名称の由来には、宝石を材料にして作られるためという説と、桃山時代前後に法華経の七宝ほどに美しい焼き物であるとしてつけられたという説がある。
- 英語圏では「エナメル(enamel)」、フランス語圏では「エマーユ/エマイユ(émail)」と呼称されるが、有線七宝(細い線状の金属を文様の輪郭線に用い、それを境界にして釉(うわぐすり)を焼きつける技法)については「区切りをつける」という意味のフランス語由来の「Cloisonné(クロイゼネーイ)」が用いられている。
- 鉄に釉薬を施したものを琺瑯(日本=ほうろう、中国=ファーラン)という(琺瑯引き/瀬戸引き)。英語圏では、樹脂由来のエナメル(Cold Enamel)と区別するため、"Hot Enamel"と区別され呼ばれていることがある。
愛知県瀬戸市を中心に作られる焼物の総称。平安期の須恵器の焼成に始まる。古瀬戸の発生については,鎌倉期に加藤景正が中国の陶法をこの地に伝えたのが起源といわれるが,確証はない。鎌倉〜室町期には緑色を帯びた灰釉が焼かれ,桃山期には茶道の発展に伴い天目や志野焼,織部陶,黄瀬戸などの茶陶が多く作られた。桃山〜江戸初期に製陶の中心は美濃に移り,瀬戸の陶業は衰えかけたが,文化初年に加藤民吉が有田(伊万里焼)の製磁法を輸入して染付磁器の焼成に成功してから再び盛んとなった。今日でも日本第一の窯業地で,〈瀬戸物〉は陶磁器の代名詞ともなっている。
九州北西部でつくられる陶磁器で,唐津から積み出されたのでこの名がついた。瀬戸焼と並んで日本の陶芸史上重要な焼物。文禄・慶長の役後,渡来人によって始められたといわれる。岸岳(きしだけ)窯はじめ200以上の窯跡が発見されている。素朴で手ごわい作ゆきが喜ばれ,絵唐津,斑(まだら)唐津,朝鮮唐津などの種類があり,奥高麗(おくごうらい)の茶碗が名高い。
ブローチやペンダントなどの比較的小さな装身具から巨大な壺まで、さまざまな作品が作られる。大きなものには専用の窯が必要になるが、小さなものなら家庭用の電気炉や、電子レンジを用いたマイクロウェーブキルンでも作成できるため、現在では趣味として楽しむ人も多い。七宝焼きの釉薬は二酸化ケイ素を主成分とする鉱物資源から製作されたフリットを砂状、粉末状にしたものを使用することが多い。砂状、微粉末にした釉薬は、水と糊(フノリなど)を合わせて、または、ペースト状にしたものを使うことが多い。
*こういう経緯から国際的に七宝の起源は古代エジプト王朝と結びつけて語られる事が多いのである。
西洋における歴史的展開
紀元前から存在することが知られており、エモー・シャンルヴェ(émaux champlevé、金属に凹刻した窪みに金彩やエナメル顔料を表面が平らになるまで盛り上げて彩色する技法)自体はケルト人の遺品にも見られる。
その後、東ローマ帝国で洗練されたクロワゾネの技法が登場し、12世紀〜15世紀ごろまでにはフランスのリモージュやパリなどの産地でロンドボス、バスタイユ、グリザイユといった様々な技法が見られるようになった。また、最高品質のシャンルヴェ製品がモサン渓谷で生産された。
- ペイントエナメル(painted enamel)…あらかじめ単色で焼き付けたエナメルを下地とし、その上に、筆を使ってさらにエナメル画を描き、焼き付ける技法。人物や植物を描いたミニアチュールが例として挙げられる。
- ロンドボス(ronde bosse)…金などの立体像の表面全体に、エナメルを施す技法。ルネサンス期のジュエリーなどに多く例を見ることができる。
- バスタイユ(basse taille)…エナメルの半透性を生かし、土台の金属に刻まれた彫刻模様(ギヨシェ)を見せる技法。金属に施された彫刻が主眼となるので、使用されるエナメルは単色。ピーター・カール・ファベルジェの作品に、この技法を使用したものが多い。
- シャンルヴェ (champlevé)…土台の金属を彫りこんで、できたくぼみをエナメルで埋めて装飾する技法。初期の頃は、輪郭線の部分をライン状に彫りこんでいた。技術の発達につれて、逆に、面になる部分を彫りこんでエナメルで装飾し、彫り残した金属部分を輪郭線とするようになった。
- クロワゾネ(cloisonné)…土台となる金属の上に、さらに金属線を貼り付けて輪郭線を描き、できた枠内をエナメルで埋めて装飾する技法。シャンルヴェよりさらに細かい表現が可能になる。日本の有線七宝はここに属する。
- プリカジュール(plique à jour)…薄い金属箔の上に、クロワゾネとほぼ同じ工程でエナメルを焼き付け、その後に薬品処理によって箔を取り除く技法。省胎七宝とも呼ばれる。金属枠のみによって支えられたエナメルは光を透過するので、ステンドグラスのような効果を得られる。アールヌーボー期のジュエリーに好んで使用された。美しいが非常に繊細で、衝撃に弱い。1997年の映画『タイタニック』に登場したヒロインの蝶の櫛には、この技法が使用されていると思われる。
ある意味「宝石の象嵌」技術のバリエーションとして出発した?
リモージュ琺瑯 (英Limoges enamel, 仏Émail de Limoges)- Wikipedia
12世紀までヨーロッパにおける琺瑯製品生産の中心地だったフランスのリモージュで制作された琺瑯製品で「オープス・ドゥ・リモージア(Opus de Limogia)」や「レイボール・リモージェ(Labor Limogiae)」として知られていた。
フランスの中部に位置する都市で、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、オート=ヴィエンヌ県のコミューン。地名の語源はケルト系部族のレモウィケス族(Lemovices)に由来する。
- およそ2000年前、ヴィエンヌ川ほとりの小さな村がローマ都市となったのが起源とされる。この時期はガリア・アクィタニアの一部で、3世紀に聖マルシアル(マルシャル、マーシャル)がこの地域に宣教し、キリスト教化した。この聖人に対する崇敬は世紀を超え、9世紀にはサン=マルシャル修道院がその墓の上に建設された。
*音楽史上も重要な流れとなる。
この為サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路が整備されると、ヴェズレーを基点とするヴェズレーの道(リモージュの道とも)に組み込まれた。
七宝焼きそのものは古くからヨーロッパ各地で生産されており、ロマネスク芸術として語られる骨董も現存するが、特に12世紀後半から13世紀にかけてリモージュ周辺のエマイユが殉教者記念堂の巡礼ブームを背景に他の地域と比して大きく発展する事になる。フランス中部のブルゴーニュ地方、ヨンヌ県の古都。ベズレーとも表記する。丘上にあり、マグダラのマリアの遺骸(頭蓋骨)を移送したと主張するサント=マドレーヌ大聖堂などがある。「ヴェズレーの教会と丘」という名で1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。中世自由都市のひとつ。この地で聖ベルナールが第二次十字軍を提唱した。ロマン・ロラン終焉の地でもある。
町の通りに埋め込まれている帆立貝の文様は、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの道しるべである。道はここから遠く、ピレネー山脈を越えてスペインへと続く。ヴェズレーから国境を越え、イベリア半島北西部に続く巡礼道である。この道も「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として世界遺産に登録されている。
殉教者記念堂の巡礼ブーム…4世紀にキリスト教が公認されると、キリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにキリストの生地であるベツレヘム、受難の地であるエルサレムへ、その遺構に参拝する信者が旅行するようになり、各地の殉教者記念堂も巡礼の対象となった。ちなみにカトリックの三大巡礼地は、ローマ(=ペトロの地)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(=ゼベダイの子のヤコブの遺骨発見地)、そしてエルサレムとされる。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)…スペインのガリシア州ア・コルーニャ県にあるの州都。ガリシア地方は5世紀から6世紀にかけてスエビ王国(ガリシア王国)の中心地であったが、584年に西ゴート王レオヴィギルドによって征服された。この時代にガリシア北部ブリトニア(Britonia)にブリトン人移民による司教座ができた。アングロ=サクソン人のグレートブリテン島侵攻を逃れてきた人々とされる。8世紀に一旦イスラム教徒の支配下に入ったが、実効支配の及ばないまま739年にアストゥリアス王国のアルフォンソ1世(ガリシア語ではアフォンソ1世、Afonso I)が奪還に成功。以降レオン王国の一部となり、カスティーリャ王国へと継承される。この当時、ゼベダイの子のヤコブの遺体とされるものが”奇跡的に発見"されている。当時のスペイン地域は、イベリア半島においてのレコンキスタの最中であり、イスラム勢力と闘っていたキリスト教勢力を守護する、またはキリスト教徒勢力がイベリア半島を制圧する行動のシンボルとして熱狂的に崇められスペインの守護聖人とされた(聖ヤコブはスペイン語で「サンティアゴ(Santiago)」となる)。
*9世紀から10世紀にかけては沿岸部がヴァイキング(北欧系諸族の略奪遠征)やノルマン人(ノルマンディー地方に定住して北フランス諸侯に加わった北欧系諸族)の標的とされた時代でもあった。
以降サンティアゴ・デ・コンポステーラは、イベリア半島のみならず、西方カトリック世界における代表的な巡礼地となり、三大巡礼地のひとつに数えられるに至った。巡礼路は整備され、巡礼を世話することを目的とする修道院が配置されるに至ったのである。今日なお巡礼の聖地として信仰を集めているが、巡礼路の中核をなすものは、隣国フランスに発し、ピレネー山脈を越える巡礼路である。
*古代後期から、殉教者の遺骨によって奇跡がおき、参拝した巡礼者に病気が治癒したり歩けなかった足が動くようになったなどの事例が報告されるようになる。そうした奇跡が起こったということから巡礼者が集まるようになった場所としてはピレネー山中のルルド、カトリックの三大巡礼地の1つサンティアゴ・デ・コンポステーラなど。またライ麦につく麦角菌に起因する麦角病(四肢が壊疽したり、精神錯乱を招く)は「巡礼に赴くことで癒える」とされた。かくして巡礼は多くの旅行者を集めたが(『カンタベリー物語』など)もっとも有名なのは、エレナが発見したとされる十字架の遺物、アルメニア王アブガルス3世に贈られ、エデッサ(Edessa)からコンスタンティノポリスにもたらされたマンドリオン(手で描かれたのではない聖像)、コンスタンティノポリスの聖母マリアの衣、洗礼者ヨハネの首などである(宝物は中世後期に散逸)。巡礼者を惹きつけるために他の教会から聖遺物を盗んできたり、偽造するということもあった。また西方では、中世中期からミラノのキリストの聖骸布、聖杯(聖杯伝説や騎士道物語を生み出す元になった)などの伝承が生まれた。そしてキリスト教における巡礼は聖地への礼拝だけでなく、巡礼旅の過程も重視する。すなわち聖地への旅の過程において、人々は神との繋がりを再認識し信仰を強化するのである。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の物語を「時間と空間を越える神の存在への問いかけの物語」にしたフランス映画に『銀河』がある。
「ガリシア文化圏」の盛衰と聖遺物崇拝のその後…アルフォンソ10世がカスティーリャ語を国語と定め、宮廷や政治の場で使用させた13世紀においてなお、ガリシア語は文学世界の標準語として君臨し続けたが、カスティーリャ優位の中央集権体制が進むにつれ徐々に衰退していく。おおまかに16世紀から18世紀中旬までの時期はセクロス・エスクーロス(Séculos Escuros、暗黒時代)と呼ばれ、書き言葉としてのガリシア語が使われる伝統の途絶していく時期に該当する。その一方で地中海沿岸からヨーロッパ各地にかけて諸聖人の遺骨(聖遺物または不朽体)または十字架、ノアの箱舟の跡などの遺物を祭ったとされる教会、聖堂を巡礼する伝統自体は決して衰える事なく、ヴェネツィア共和国の栄華を支えたり、ルターの宗教革命の庇護者としても聖遺物の収集家としても名高いザクセン選帝侯フリードリヒ(在位1486年〜1525年)の様な人物を輩出したりもしている。 ゼベダイの子のヤコブ…新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。使徒ヨハネの兄弟で「アルファイの子ヤコブ」と区別する為に「大ヤコブ」とも言われる。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬され、正教会での呼称は「聖福音者イオアンの兄聖使徒イアコフ」。『マルコによる福音書(1:19-20)』によると父ゼベダイ、兄弟ヨハネと共にガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、そのまま父と雇い人を残してヨハネと共に弟子になり「ボアネルゲス(雷の子ら)」と呼ばれた。エルサレム教会においても一貫して中心的な立場を占めていたが『使徒行伝(12:2)』によると44年頃、ユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、殉教した。ロマネスク時代(10世紀〜12世紀)からゴシック時代(12世紀〜13世紀)への橋渡し…13世紀にはシテ地区にサン=テティエンヌ大聖堂の建設が開始された。この大聖堂は断続的に工事が継続され、最終的に1888年に完成した。その間、1862年には「歴史的記念建造物」にも指定されている。
サン=テチエンヌ大聖堂 (ブールジュ) - Wikipedia
主に12世紀末から13世紀末にかけて建造された司教座聖堂。フランスにおけるゴシック美術の傑作のひとつであり、その設計、ティンパヌム、彫刻、ステンドグラスはいずれも特筆すべきものである。
- 1195年にブールジュ大司教アンリ・ド・シュリは、ブールジュ司教座聖堂の教会参事会に贈り物をした。これが、ブールジュに11世紀から12世紀のいささか小さなロマネスク様式の聖堂にかえて新しい大聖堂を建てることの出発点となった。これ以前にあった教会堂について多くは分かっていない。
- ブールジュは古代ローマ都市アワリクムであった時に、ガリア最初のキリスト教共同体を抱えた。その3世紀以降、キリスト教文化の中心が存在したということである。それは現在の大聖堂の敷地に建てられていった4つの建物に引き継がれた。最初のものは3世紀に聖ユルサン(St. Ursin)によって立てられた地下礼拝堂、次がブールジュ大司教聖パレ(St. Palais)による4世紀のもの、そして同大司教ラウル・ド・チュレンヌ(Raoul de Turenne)による9世紀のもの、最後がフランス王ロベール2世の弟であったブールジュ大司教ゴズランによる11世紀初頭のロマネスク様式の聖堂である。
- ブールジュは1100年頃にはフランス王領の都市であり、王領の南端に位置していた。それはまた当時イングランド領だったアキテーヌ地方からわずかのところでもあった。ブールジュの大司教には同時に「アキテーヌ首座大司教」の肩書きと権威が与えられていたが、これにはしばしば異議が唱えられた。
- さて、現存するブールジュ大聖堂はロワール川以南で建てられた初のゴシック建築物であり、フランス王や大司教の威厳を示す上で重要なものだったと考えられている。当時は王領でなかった南仏に面するフランス王領最前線という意味で、大聖堂は唯一の存在であることが求められたのである。ゆえにノートルダム・ド・パリにも比肩しうる大規模建築の実現・推進が決定されたのである。
- 1195年以降に建設が計画され、1214年に建物の半分が完成した。新しい大聖堂の設計は単純だが調和的なものであり、身廊を囲む礼拝堂を持つバシリカ式を採った。この新たな大聖堂で目を惹くのは、側壁と内部空間の統一性だった。最初、大司教シュリはノートルダム・ド・パリに触発されていたようだが、彼は1199年に歿した。跡を継いだ大司教ギヨーム・ド・ダンジョン(元シトー会修道院長)は、建築内容の発展とイコンの計画決定で重要な役割を果たした。1209年にダンジョンが歿すると、すぐに列聖式が行われ、信者や巡礼者たちから寄付が殺到した。
- 10年ほど中断したのち、第二期工事が1225年に始まり、1230年には身廊と西のファサードが完成した。以降の工事においても、建築家たちはこれを手がけた最初の工匠(名前は伝わっていない)の計画をよく理解し、一貫性と計画の簡素さ、および空間の統一性に寄与する翼廊の欠如は保持されていた。
- 1313年にはひびがはいっていた南の塔に支柱を入れる形で補強工事が行われたが、鐘を取り付けることはそのもろさのために出来なかった。1324年5月13日の聖別式の時にも未完成だった北の塔は、15世紀末にはようやく完成したが、1506年に早々と崩壊した。すぐに、ルネサンス様式を取り入れつつゴシック様式のファサードとの調和も意識する形で再建が行われた。この塔はかつて「バターの塔」とも呼ばれた。一部には信徒たちから集められた資金が使われており、それと引き換えに四旬節の断食が免除されたためである。
- ユグノー戦争序盤の1562年にはブールジュがユグノーの手に落ち、内陣とファサードの彫刻が大いに傷つけられた。
- 19世紀の初頭に大規模な修復工事が行われ、屋根の周囲の補強が施された。しかし、それ以前には存在しなかった装飾性の強い小さな塔が屋根や控壁の上に並べて建てられ、すっきりとした外観を壊す結果となった。また、この種の改修は聖堂の内装にも加わっている。今日のブルージュ大聖堂はロマネスクから19世紀に至る、種々の様式のるつぼとなっている。
その規模とコンセプトの統一性が織りなす美しさは中世フランスにおけるキリスト教の強大さを示してくれる。その先駆的なスタイルはゴシック建築の中でも例外的な存在である。長い間正当に評価されてきたとはいえないが、この大聖堂は、ランス大聖堂、シャルトル大聖堂、ノートルダム・ド・パリなどにもひけをとるものではない。
- 百年戦争当時の1370年、イングランド皇太子のエドワード黒太子によって占領された。ジャン・フロワサールによると、黒太子は約3000の住人を虐殺したという。
- 1768年にリモージュ近郊で発見されたカオリナイトの恩恵によって、1771年以降磁器産業が発展。すでに著名だった七宝焼きの技術が基礎となり、現在ではパリやセーヴルよりも、リモージュこそがフランス磁器の中心地という意見や、パリのレストランではリモージュ磁器の食器が多く使われているという評価すらある。多くの住人が、こうして新しく始まった窯業とそれに関連する産業(磁器を焼くために使用する木の伐採を含めて)に従事してきた。
*この地で生まれたルノワールも磁器の絵付けをしていたことがあるという。現地にはアドリアン・デュブーシェ国立博物館という陶磁器の博物館もあり、ここではリモージュはもとよりフランスのみならず世界各地の陶磁器が分類・展示されている。4,000点のリモージュ磁器コレクションを展示している。
- フランス・ブルボン朝時代の「重農主義経済学者」ローヌ男爵アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune, 1727年〜1781年、その名前は日本語で「チュルゴー」「チュルゴオ」等と表記されることもある)が1761年にリモージュの地方代官として赴任してきた。彼の経済学の根底にはルソー、モンテスキューと共通する自然法の発想を持つ18世紀啓蒙思想があり、アダム・スミスらスコットランド啓蒙主義者にも強い影響を与えたとされる。
- フランス革命期に当たる1792年、街と城が統一されて、1つの街リモージュとなった。フランス革命の間、多くの宗教的建造物が、アンシャン・レジームの象徴と見なされ、破壊された。サン=マルシャル修道院もこれに含まれ、破壊し尽くされて消滅。
- かくして19世紀には建設ラッシュと相成る。それは街の中心の多くの建物の再開発を含んでいた。それまで街は売春の巣窟であり不健全であると見なされていたので、再開発は必要であった。
*幕末日本を訪れた欧州人の多くが日本の宗教的巡礼路上の聖地における売春設備の共存に衝撃を受けているが何の事はない。それは近代到来直前までの欧州の景色でもあった訳である。
- 作曲家にして、映画監督のセルジュ・ゲンスブールはロシア(ウクライナ)移民の一家で、青少年期はパリ20区、パリ9区、第二次世界大戦開戦後はリモージュ、パリ解放少し前にパリ16区に居住。
*日本における「ズンドコベース」の大源流たる「ドリフのズンドコ節(1969年)」の元ネタ(1967年)。「黒猫のタンゴ(1969年)」も同時期の上陸となる。貧困層の危険な状況が、フランス7月革命や1848年4月、1905年初頭を含む多くの暴動のきっかけとなり注目された。フランス最初の労働団体であるConfédération générale du travailが、1895年リモージュで結成された。
*資本主義的発展(およびそれがもたらす貧富格差の拡大)の開始が前近代まで遡る古都ではこういう事が良くある。イタリア史上におけるボローニャとか、日本史上における京都とか…サン=テチエンヌ大聖堂 (ブールジュ) - Wikipedia
主に12世紀末から13世紀末にかけて建造された司教座聖堂。フランスにおけるゴシック美術の傑作のひとつであり、その設計、ティンパヌム、彫刻、ステンドグラスはいずれも特筆すべきものである。
- 1195年にブールジュ大司教アンリ・ド・シュリは、ブールジュ司教座聖堂の教会参事会に贈り物をした。これが、ブールジュに11世紀から12世紀のいささか小さなロマネスク様式の聖堂にかえて新しい大聖堂を建てることの出発点となった。これ以前にあった教会堂について多くは分かっていない。
- ブールジュは古代ローマ都市アワリクムであった時に、ガリア最初のキリスト教共同体を抱えた。その3世紀以降、キリスト教文化の中心が存在したということである。それは現在の大聖堂の敷地に建てられていった4つの建物に引き継がれた。最初のものは3世紀に聖ユルサン(St. Ursin)によって立てられた地下礼拝堂、次がブールジュ大司教聖パレ(St. Palais)による4世紀のもの、そして同大司教ラウル・ド・チュレンヌ(Raoul de Turenne)による9世紀のもの、最後がフランス王ロベール2世の弟であったブールジュ大司教ゴズランによる11世紀初頭のロマネスク様式の聖堂である。
- ブールジュは1100年頃にはフランス王領の都市であり、王領の南端に位置していた。それはまた当時イングランド領だったアキテーヌ地方からわずかのところでもあった。ブールジュの大司教には同時に「アキテーヌ首座大司教」の肩書きと権威が与えられていたが、これにはしばしば異議が唱えられた。
- さて、現存するブールジュ大聖堂はロワール川以南で建てられた初のゴシック建築物であり、フランス王や大司教の威厳を示す上で重要なものだったと考えられている。当時は王領でなかった南仏に面するフランス王領最前線という意味で、大聖堂は唯一の存在であることが求められたのである。ゆえにノートルダム・ド・パリにも比肩しうる大規模建築の実現・推進が決定されたのである。
- 1195年以降に建設が計画され、1214年に建物の半分が完成した。新しい大聖堂の設計は単純だが調和的なものであり、身廊を囲む礼拝堂を持つバシリカ式を採った。この新たな大聖堂で目を惹くのは、側壁と内部空間の統一性だった。最初、大司教シュリはノートルダム・ド・パリに触発されていたようだが、彼は1199年に歿した。跡を継いだ大司教ギヨーム・ド・ダンジョン(元シトー会修道院長)は、建築内容の発展とイコンの計画決定で重要な役割を果たした。1209年にダンジョンが歿すると、すぐに列聖式が行われ、信者や巡礼者たちから寄付が殺到した。
- 10年ほど中断したのち、第二期工事が1225年に始まり、1230年には身廊と西のファサードが完成した。以降の工事においても、建築家たちはこれを手がけた最初の工匠(名前は伝わっていない)の計画をよく理解し、一貫性と計画の簡素さ、および空間の統一性に寄与する翼廊の欠如は保持されていた。
- 1313年にはひびがはいっていた南の塔に支柱を入れる形で補強工事が行われたが、鐘を取り付けることはそのもろさのために出来なかった。1324年5月13日の聖別式の時にも未完成だった北の塔は、15世紀末にはようやく完成したが、1506年に早々と崩壊した。すぐに、ルネサンス様式を取り入れつつゴシック様式のファサードとの調和も意識する形で再建が行われた。
*この塔はかつて「バターの塔」とも呼ばれた。一部には信徒たちから集められた資金が使われており、それと引き換えに四旬節の断食が免除されたためである。
- ユグノー戦争序盤の1562年にはブールジュがユグノーの手に落ち、内陣とファサードの彫刻が大いに傷つけられた。
- 19世紀の初頭に大規模な修復工事が行われ、屋根の周囲の補強が施された。しかし、それ以前には存在しなかった装飾性の強い小さな塔が屋根や控壁の上に並べて建てられ、すっきりとした外観を壊す結果となった。また、この種の改修は聖堂の内装にも加わっている。今日のブルージュ大聖堂はロマネスクから19世紀に至る、種々の様式のるつぼとなっている。
その規模とコンセプトの統一性が織りなす美しさは中世フランスにおけるキリスト教の強大さを示してくれる。その先駆的なスタイルはゴシック建築の中でも例外的な存在である。長い間正当に評価されてきたとはいえないが、この大聖堂は、ランス大聖堂、シャルトル大聖堂、ノートルダム・ド・パリなどにもひけをとるものではない。
リモージュは大規模なシャンルヴェ製作で有名になり、15世紀よりグリザイユ技法を用いた色彩豊かな作品により高く評価されてきた。しばらくすると、シャンルヴェ技法による銘板やシャス、聖骨箱は次第に大量生産されるようになり教会や貴族も入手可能になったが、最高品質のシャンルヴェ製品はモサン渓谷地域(Mosan art)が制作しており、後にパリのバスタイユ技法による琺瑯製品が市場を席巻した。
通常銅を加工容器として用いるが、銀製品や金製品を加工容器として用いることもあった。使用する材料の耐久性の高さから保存に向いており、より安価な銅製のリモージュ琺瑯は貴金属で制作された宮廷の作品よりもはるかに良い保存状態を保っている。初期のリモージュ琺瑯の数点に擬クーフィー様式が見られる。「リモージュ琺瑯の装飾様式であり、アキテーヌ地域圏で長期間にわたって見られた」。
擬クーフィー様式 (英Pseudo-Kufic)あるいはクーフェスク (英Kufesque) - Wikipedia
アラビア文字のクーフィー体の直線的、幾何学的文様を参考にして成立した中世ルネサンス期の様式。「ヨーロッパの芸術において、イスラーム建築に利用されていた直線的、幾何学的なアラビア文字のクーフィー体を模倣して成立したものはしばしば擬クーフィー様式と呼ばれる。」。西洋芸術におけるイスラームの影響の一環で、特にルネサンス美術において聖地に関わる人物、特に聖母マリアを描写する際によく利用された。
- 最初の例は8世紀のマーシア王オファ(在位757年〜796年)がイスラム圏のディナールを模倣した金貨を製造した例とされている。774年にアッバース朝第二代カリフマンスールが鋳造したディナールの模倣品であり、コインの裏面には「Offa Rex」と刻印されている。貨幣に刻印されたクーフィー体のアラビア文字に多くの間違いを含んでいることから、当時の貨幣鋳造士はアラビア語を全く理解していなかったことが分かる。この貨幣は、当時イスラム教国家であったアンダルスとの貿易を行うため、もしくはオファがローマに約束した年間365マンクスの支払いのために鋳造されたと考えられている。
*一方、10世紀半ば、アマルフィやサレルノなどの南イタリアより、アラブ地域で流通していた貨幣を模倣したタリ(Tally?)と呼ばれる貨幣が作られたが、擬クーフィー様式ははっきりとした形では見られない。
- 多くの例が10世紀から15世紀にかけてヨーロッパの芸術作品で見られる。その様式による碑文は11世紀半ばから12世紀半ばにかけて東ローマ帝国建築でしばしば見られ、12世紀半ばから13世紀半ばにかけてはフランスやドイツの宗教壁画でも見られるようになった。書籍や織物、宗教画の光背や絵画の縁などの装飾体としてもとりいれるようになった。
- 大英博物館に収蔵されている13世紀フランスのリモージュ琺瑯で制作されたチボリウムにはクーフィー体の文字とイスラーム建築を模倣したひし形のデザインが施されている。擬クーフィー様式はリモージュで装飾様式として定着し、アキテーヌ地域圏で長期間にわたって使用されていた。
- この時期の擬クーフィー様式はフィレンツェの画家ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone、1267年〜1337年)の絵画にも多く見受けられる。
- ロサモンド・マックによると、1300年から1600年にかけてイタリアの芸術で取り入れられるアラビア文字はクーフィー体から続け書きのアラビア文字へと変化していき、一般的に「擬アラビア様式」とでも呼ばれるべきものへと変化していった。金箔の光背に擬クーフィー様式を取り入れる習慣は1350年を境に見られなくなっていったが、フィレンツェの絵画界で影響力を持ったジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano、1360年/1370年頃〜1427年)やキリスト教の影響を受けたフィンツェ画家マサッチオ(Masaccio, 1401年〜1428年)、よりゴシック様式へ傾倒していた同じくフィレンツェ出身のジョバンニ・フランチェスコ・トスカーニ(Giovanni Francesco Toscani、1372年〜1430年)やフラ・アンジェリコ(Fra' Angelico / Beato Angelico、1390年/1395年頃〜1455年)といった画家の作品によって再度流行している。
- 1450年頃から、北イタリアの芸術家は絵画に擬アラビア様式を装飾として取り入れるようになる。(後にヴェネツィアに併合される)パドヴァ出身のフランチェスコ・スクァルチォーネ(Francesco Squarcione, 1397年頃〜1468年)は1455年にこの様式を取り入れ、彼の弟子であった同じくパドヴァ派のアンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431年〜1506年)もこれに続いた。1456年から1459年に描かれたサンゼーノの祭壇画では、マンテーニャは足元のトルコ絨毯と衣服の縁に擬アラビア様式を取り入れている。 マルムークの製本描写や聖母マリアの足元のトルコ絨毯に擬アラビア様式が見られる。
- 擬クーフィー様式や擬アラビア様式が中世やルネサンス期に流行した正確な理由は明らかになっていない。西洋人が誤って13、14世紀の中東の文字をキリストの時代における文字と同一視してとりいれたとも考えられている。「ルネサンス芸術では、擬クーフィー様式はダヴィデのような旧約聖書の英雄の衣装を装飾する際に用いられていた」。また様々な手書き言語をまぜあわせることで芸術家が当時十字軍遠征など国際的な影響拡大の野心を抱いていたキリスト教への忠誠を誓うため文化的統一性を表現したとも考えられている。
*なにしろ擬ヘブライ様式もまた時折ルネサンス絵画で見られる。ヴェネツィア派のマルコ・マルツィアーレ(Marco Marziale 活躍期1492/1493年〜1507年)の「割礼」という絵画にはヘブライ人が登場していないにもかかわらず背景のモザイクに擬ヘブライ様式が取り入れられている。この様式は特にドイツの作品で一般的であった。
16世紀後半を最後に擬アラビア様式はほとんど見られないようになっていく。ロサモンド・マックは「東方の文字や衣服、光背はイタリア人が古代ローマを映し出す絵画に初期キリスト教時代を見たことで次第に消えていった」とする。
*こうした時代展開は、奇しくも15世紀から16世紀にかけて欧州にトマトやジャガイモ、ピーマンといった新大陸の作物が流入して料理のバリエーションや彩りが豊かになり、また普段の食事も無骨で品数も少なめだったものが、祝祭日にはご馳走が並ぶ様に変化して上流階級から「少量ずつ沢山の種類を食べる」習慣が広まって様になってルネサンス宮廷料理が発展しフランス宮廷料理革命が勃発する流れとも重なってくる。
中華王朝における歴史的展開
中国大陸では、七宝のことを琺瑯と呼び、元(1271〜1368年)の時代頃から盛んに製造されるようになり、中国渡来の品が日本にも入ってくるようになった。特に、続く明の時代、景泰年間 (1450年〜1457年) に作られた掐糸琺瑯は評価が高く、現在でも中国の七宝を景泰藍と呼ぶ所以となっている。景泰藍は日本ではあまり例を見ない青銅を素地として用いていており、釉薬には日本の泥七宝に似た不透明な釉薬が用いられ、特に青(藍)の色が好まれた。また、青銅に施釉した釉薬が崩れ落ちないように細かな植線が全体にはり巡らされた。
清代(康煕・雍正・乾隆の三朝)においては、特に画琺瑯が発展したが、康熙時代にはヨーロッパの影響を強く受けた琺瑯器が製作されている。また、乾隆時代には各種技法が融合され、中国と西洋の装飾文様を合わせた琺瑯器も製作されている。
日本における歴史的展開
日本最古のものは奈良県明日香村の牽牛子塚古墳より出土した「七宝亀甲形座金具」であり、奈良時代には正倉院宝物の「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいじゅうにりょうきょう)」、平安時代には平等院鳳凰堂の扉の七宝鐶(かん)がある。
その後、室町時代になると多くの七宝に関する記録が残っており、桃山時代頃に七宝が日本各地で作られるようになったと推定される。桃山末期から江戸時代初めには、小堀遠州により登用された嘉長が桂離宮、曼殊院、修学院離宮や大徳寺の襖の引手や釘隠しを泥七宝で製作して京七宝を発展させた。嘉長は伊予(現在の愛媛県)松山の生まれの金工で、京都の堀川油小路に住んでいたと伝えられている。
次に、京都の金工師、平田彦四朗道仁(どうにん、1591年〜1646年)が「花雲文七宝鐔(つば)」に代表される作品を残している平田一派は江戸時代に幕府御抱え七宝師となり江戸で平田七宝として刀剣などの装飾を行った。平田派は1895年(明治28年)に政府賞勲局の御用達として勲賞の製作に従事した11代目就之まで続いた。江戸中期には京都で高槻七宝が7代続き、同じく京都の吉田屋がこの頃から明治時代まで七宝の製作を続けることになる。また、加賀七宝や近江七宝など京都以外でも独自の七宝が製作された。
幕末天保(1830年〜1844年)のころには尾張藩士の梶常吉(カジツネキチ、1803年〜1883年)が活躍、七宝焼と呼ばれる。梶はオランダ船が運んできた皿がすべて七宝であったことに興味を持ち、これを買い上げて研究し尾張七宝を創始、近代七宝の祖と称される。そして、その弟子の塚本貝助(1828年〜1897年)や、無線七宝を考案し日本画の画面を七宝で再現した東京の濤川惣助(1847年〜1910年)、有線七宝で日本画の筆致を生かした繊細な七宝を製作した京都の並河靖之(1845年〜1927年)などが、明治初年来日したドイツ人学者のワグネル(1830年〜1892年)が開発した透明釉薬の技術を取り入れ七宝の技術は飛躍的に発展した。そして、名古屋の安藤七宝の創始者である安藤重兵衛(1876年〜1953年)や京都の錦雲軒稲葉の創始者である初代稲葉七穂(1851年〜1931年)らにより盛況を呈した。
欧米で高い評価を受けた工芸品を外貨獲得の重要品とみなした明治政府は職人を支援し、万国博覧会などを通じて欧米へ盛んに輸出し、ジャポニズムブームの一翼を担った。職人も競って技を磨いたことから日本の七宝技術は劇的な進化を遂げ短期間で世界の最高峰となり、1880年から1910年の明治期日本の30年は七宝界の黄金期と呼ばれている。特に京都の並河靖之、東京の濤川惣助、尾張の七宝家らの作品が非常に高い評価を得て高額で取引されたが、その後世界大戦勃発により需要がなくなって輸出産業としては衰退。その技術が急速に失われた。
こうした「ビザンチン文明やイスラム文明から欧州文明に伝播された何か」を視野に入れると世界史の流れが随分と違って見えてきます。当然、それと日本史の関係もまた変わってくるのです…