ネットの発達した今日では「1960年代後半の日本を接見したグープサウンズの音の大源流はベンチャーズやアニマルズなどだけではない」とさえ分かってしまえば、色々調べ様があるのです。要は出発点は映画音楽?
①映画「007は殺しの番号(Dr No、1961年)」における「ジェームズ・ボンドのテーマ( James Bond Theme)」。原作者イアン・フレミングのカリブ海好きを反映して世界中に初めてジャマイカ音楽を知らしめた。
*この刺激から「スカ」が誕生し、1964年には当時のジャマイカで最も有名なスタジオミュージシャンであったドン・ドラモンド、ジャッキー・ミットゥらによってスカタライツが結成され。また同年ミリー・スモール の歌った「マイ・ボーイ・ロリポップ(My Boy Lollipop) 」が全世界で600万枚を売り上げる国際的ヒット曲となったが、その人気も1966年後半には収束。
②大人の愛の不毛を描いたイタリア・フランス合作映画「太陽はひとりぼっち(イタリア語: L'eclisse / 英語: The Eclipse、1962年)」主題歌。当時の日本人はツイストとして受容したが、今から思えば「スカ」?
③フランス映画「アイドルを探せ(CHERCHEZ L'IDOLE、1963年)」で有名になったシルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)。
*皮肉にも「ビートルズに席巻される以前の古き良きアメリカ音楽」の影響を継承してるっぽい?
- 当時日本で流行したの特撮TV番組ウルトラマン・シリーズの主題歌は各時代の流行音楽の影響を濃厚に受けている。「ウルトラマン(1966年〜1967年)」はエレキギターサウンズの流行期の真っ盛り。「ウルトラセブン(1967年〜1968年)」はPTAがエレキギターサウンズを取り締まった時期に該当し、ベースラインにグルーブ感を残しつつ(ただしウォーキング・ベースっぽくもある)ギター・トラックが省かれた。「帰ってきたウルトラマン(1971年)」はソウル・ミュージックっぽい。
*エレキサウンズ全盛期の「ウルトラマン」主題歌…同時代にはハンナ・バーベラのアニメに挿入された「スーパー・スリーの主題歌」もあった。
*ソウル・ミュージック全盛期の「帰ってきたウルトラマン(1971年)」主題歌…同時代作品というと「愛の戦士レインボーマン(1972年〜1973年)」とか「ファイアーマン(1973年)」とか「グレートマジンガー(1974年〜1975年)」の主題歌あたり。子供向けには甘くてエロ過ぎる…
そして「バルタン星人の名前の由来」という意外な形で当時のフランス音楽の影響が語られる…
バルタン星人(Alien Valtan / Valtan) - Wikipedia
『ウルトラマン』第2話「侵略者を撃て」にて初登場。
セミに似た顔、ザリガニを思わせる大きなハサミ状の両手を持ち、高度な知能を備えた直立二足歩行の異星人である。両手は厚さ20センチメートルの鉄板を切断できるという。マッハ5で飛行するほか、瞬間移動能力も有しており、分身するかのように移動できる。眼は5,000個の眼細胞から構成される複眼となっており、1万メートル先の小さな物体も視認できる[5]。その反面、どの個体も接近戦が苦手な描写が存在する。一般に「フォッフォッフォッフォッフォッ」と表記される独特の音声を発するが、『ウルトラマン』第2話の監督と脚本を担当した飯島敏宏によれば、その際に腕を上げて手を揺らすのは、「腕を下げていると爪が重くて大変だったから、休むために生まれたシーン。腕を上にあげて立てていると楽だった」そうである。
地球を訪れる最初の目的は侵略ではなく、故障した宇宙船の修理のため。自分たちの故郷であるバルタン星が発狂した科学者の行った核実験で壊滅したため、たまたま宇宙船で旅行中だった20億3,000万人のバルタン星人が故郷を失い難民となった。身体をバクテリア大にまで縮小して放浪の旅を続けていたバルタン星人たちは、やがて発見した地球で宇宙船を修理しようと飛来した際に現地を気に入り、ハヤタ隊員の提言を無視して地球侵略を開始する。科特隊隊員との初めての会話では、地球人が持つ生命の概念はバルタン星人にとって理解できないものである様子が描写されている。
『ウルトラマン』第16話への再登場以降、数多くのウルトラシリーズに登場し、ウルトラ戦士の最大のライバルとして幅広い層から認知され、人気を博している。漫画やゲーム、ライブステージなど映像以外の作品にもたびたび登場するうえ、バラエティ番組へのゲスト出演など、ウルトラシリーズ以外のメディアでも活躍している。元は故郷を失った放浪者であり、『ウルトラマン』とは別世界に位置する近年の作品(『ウルトラマンコスモス』や『ウルトラマンマックス』)では、人類に友好的に接する下記の個体(チャイルドやタイニーなど)も登場している。2016年現在のテレビシリーズでは最後の登場作品である『マックス』では、キャッチコピーで「最強! 最速!」と謳われたウルトラマンマックスを簡単に倒し、再戦も終始優勢であった。しかし、平成時代の『ウルトラマンパワード』や『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』などにも登場してキャラクターが拡がりすぎた結果、昭和ウルトラシリーズとのつながりがある『ウルトラマンメビウス』や『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』での登場が見送られたこともある。
単独で取り上げられる機会も多く、2009年11月にはバルタン星人を特集した書籍『バルタン星人 〜不滅のダークヒーロー〜(ISBN 978-4-7747-5305-8) 』 が発売された。同書によれば笑い声は当時の時代劇の悪役から考えられ、宇宙忍者という別名は後から付けられたとされている。頭の部分がかなりの重さで、アトラクション中に落ちるというアクシデントがあったという。
飯島は、バルタン星人は今よりも科学や経済が発達した人類の未来の姿を映した反面教師と位置づけており、悪役として描かれた後発のバルタン星人については認めていないと発言している。名前の由来
命名は飯島による。名称はバルカン半島に由来するという説と、設定作業当時の人気歌手シルヴィ・ヴァルタンから取ったという説があるが、飯島のコラム「今明かされるバルタン出生の秘密」によれば、正しいのは前者。「母星が兵器開発競争によって滅んだため、移住先を求めて地球にやってきた」という設定を、ヨーロッパの火薬庫といわれて紛争の絶えなかったバルカン半島に重ねているとされる。しかし、2012年7月24日にWOWOWで放送された『ザ・プライムショー』では後者の説が採用され、飯島自身は実際にはヴァルタンのファンではなかったが、「(名付け親である)飯島がヴァルタンの大ファンであったため」という理由にしたと語っている。また、同番組とは別に「世界怪物怪獣大全集」では後者について言及しており、その由来はヴァルタンが出演するレナウンのCMであると当時円谷プロで企画室長を務めていた金城哲夫が述べているが、復刻版ではこの点について、事実と異なるとしている。2016年2月19日の日本経済新聞の文化面に掲載された飯島のコラム「ウルトラマン誕生 大作戦」では、バルタン星人の名前はバルカン半島に由来するが、宣伝部の案でヴァルタンから名付けたことに決めたので、両説とも間違いではない、としている。
- 「ハクション大魔王(The Genie Family、1969年〜1970年)」より「アクビ娘の歌」。どうしてアクビ娘は最終回でハクション大魔王と一緒に封印され、人類から忘れ去られる厳罰を受けねばならなかったのか? 今になって聞き返してみるとどうやらここにもフランス音楽っぽさがある?
④そしてフランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形(Poupée de cire, poupée de son)」。セルジュ・ゲンスブールが作詞作曲したフランスのポピュラー音楽。1965年にルクセンブルクにて第10回ユーロビジョン・ソング・コンテストでグランプリを獲得したのをきっかけにこの歌は大ヒットしヨーロッパだけでなく中南米や日本でも人気を博した。
- おそらくこの辺りがエミー・ジャクソン「涙の太陽(1965年)」を契機とするグループ・サウンズの大源流の一つ。
*この系譜はさらに(マカロニウェスタンやロシア趣味とか)色々混ざって大瀧詠一作曲の太田裕美「さらばシベリア鉄道(1980年)」に辿り着く?
- そして同じくセルジュ・ゲンズブールが作曲してフランス・ギャルが歌った「Laisse Tomber Les Filles(1965年)」から「ドリフのズンドコ節(1969年)」への流れ。
*一方、ギターサウンズのアニメ主題歌への影響はハンナ・バーバラのアニメ「怪獣王ターガン(The Herculoids、米国1967年〜1969年、日本語版1969年)」で一区切り。「罰がなくなったら逃げる楽しみも失われた」感も?
⑤フランス歌手Vicky Leandrosの「恋は水色(L’amour est bleu、1967年)」
そして英国歌手メリー・ホプキン(Mary Hopkin)の「悲しき天使(Those Were the Days、1968年)」
⑥イタリア発の「黒猫のタンゴ(Volevo un gatto nero、1969年)」の国際的ヒットと「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘(Josie And The Pussycats、1069年)」日本語版主題歌を経由しての「美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」OPへの影響。
⑦そして、突如始まって一時子供番組主題歌を接見した「Funk旋風」…日本の作曲家はOKさえでれば何時でもこれが演れたのだった…
*さらに当時の子供番組にはマカロニ・ウェスタンブームの影響なんてのもあった。ただし1970年代は多様化と多態化の時代であり、次第に国際的に特定のジャンルが全体に影響を与える展開自体がなくなっていく。
⑧このサイトではさらに「どろろん閻魔くん(1973年〜1974年)」や「(視聴者からの抗議で放送中止に追い込まれた)たべちゃうぞ(1975年)」から「怪奇ディスコ」Hot Blood「ソウル・ドラキュラ(1976年)」への流れに注目してきたが、正直そこにどういう背景があったかまでは調べ切れてない。全体を貫くのは「秘められたエロティズム」?
*ここまでくるとジュディ・オング「魅せられて(1979年)」まであと一歩…
そう、日本における戦後エンターメント史とはある意味、国内の保守的価値観のコンセンサスを「説得」していくプロセスだったのですね。その際に最大の武器となったのが「外国では常識」なる方便だったという…