諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【観測原点0の誤謬】潜在能力とは「次元数すら不明なヴェクター」あるいは「階数すら不明なテンサー」?

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実際の「人工知能/マシン・ラーニング/ディープ・ラーニング」の最先端の研究者の多くは、この用語の寿命が(その研究内容のコモデティ化を通じて)ほどなく尽きると考えている様です。するとこの分野は次いで何と呼ばれる事になりそうなのでしょうか?

 ①最近、シャロン・バーチュ マグレイン(Sharon Bertsch McGrayne)著「異端の統計学 ベイズThe Theory That Would Not Die: How Bayes' Rule Cracked the Enigma Code, Hunted Down Russian Submarines, and Emerged Triumphant from Two Centuries of Controversy、2011年)」を読んでいるが、この本は統計学の歴史を「欠かせない/有意な/意義あるSignificantly事象」と「黙殺し得る/有意でない/無意味なignorable事象」の峻別を巡る以下の党派の宗教戦争として描き出す。

  • 尤度/頻度主義=「カソリック」…学問としての全体像を「釣鐘曲線正規分布)」への礼讃と設定し、適切なランダム化(無作為化)と信頼区間の設定を通じてP値(P-value. 統計的仮説検定において、帰無仮説の元で検定統計量がその値となる確率のことで、それが小さいほど検定統計量がその値となることはあまり起こりえないことを意味する。 一般的にこれが5%または1%以下の場合に帰無仮説(おそらくこうであろうと思われる仮説を否定する仮説)を偽として棄却し、対立仮説(おそらくこうであろうと思われる仮説)を採択)が受ける試練と認識する。考え方としては今も昔も間違っていないが、一時期はその思考様式の強要が度を過ぎた時期もあった。

  • ベイズ主義根本主義ファンダメンタリスト、霊的新生を強調するプロテスタントの一種)…何よりもまず「事前確率」への所信表明を優先するが、実際の歴史上に登場したそれは曖昧過ぎたり、一様過ぎたり、報知的(インフォーマーティブ)過ぎたり、非正規(インプロパー)過ぎて様々な批判を浴びてきた。実際に複雑なシステムをモデリングしてパラメーターに不確かさを付与するのに有利と一般的に考えられる様になったのはコンピューター工学が十分に発達して以降で、最終的に勝利したのも穏健な「(先行研究から得られる事前知識を重視する中庸な経験ベイズ主義」だった。

  • 不可知論…ノンパラメトリック統計(母集団の分布を規定する量一切について一切の前提を設けない立場)、ブートストラップ法(実際のデータからコンピューターによって再サンプリングを行う事で平均などの信頼区間を推定する方法)、シミュレーションに立脚する研究者は研究に「」を持ち込む必然性を認めなかったり、むしろ逆に「神は人間の発明品」と考えたりする。

ここで興味深いのが、現在の「人工知能/マシン・ラーニング/ディープ・ラーニング」全盛期がこうした学術的研究が進んだ結果というより(彼ら自身が慎重に言及を避けている)コンピューター技術、それもよりによって3Dポリゴンゲーム(特にFPSやTPSといった野蛮極まる戦闘シミュレーション)におけるリアリティ追求が産んだベクトル処理能力の爆発的増大の副産物だったという辺り。だが本当にそれは生物の進化史上、全くイレギュラーな展開だったのだろうか?

②こういう立場から私は全てを最初の大源流、すなわちオイラーの等式e^πi=-1」で表される「カンブリア爆発期における進化論上のパラダイム・シフト」すなわち視覚と視覚情報を処理する脊髄の獲得が(これにより様々な次元で前後の感覚を備えた)左右相称動物の生存能力を(それを備えてないウニやクラゲやイソギンチャクの様な)放射性動物を上回った時代まで遡って考えてみる道を選んだのだった。

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①任意の観測原点「」を設置する。この時点ではまだ何も起こってはいない。

②何かが観測されると、対象「」を起点に「オイラーの原始棒/円/球面Euler’s primitive stick/circle/spherical surface)」が現出する。

③そしてこのあらゆる座標系の原風景に、想定上観測原点より半径分()あるいは半周分(π)離れた先に極限値−1」が想定される。

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まぁ「視覚と視覚情報を処理する脊髄」が登場する以前には存在し得ない概念だった事実は動かし様がない模様。それでは、最初に設定される任意の観測原点「」とは、いかなる状態でイメージされるべき概念なのでしょうか?

ここでいう「悟り」の概念はマインドフルネス瞑想のそれに近い様です。

マインドフルネス(mindfulness) - Wikipedia

一般に瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができると考えられている)今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程。「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。パーリ語のサティ(sati)の翻訳であり、サティはいくつかの仏教の伝統における重要な要素である。仏教の教えにおいてマインドフルネスは、人を苦しみからの完全な解放や悟りと呼ばれるものへと徐々に導いていく自己認識や智慧を発達させることに役立っている。近年の西洋におけるマインドフルネスの流行は、概してジョン・カバット・ジンから始まったと考えられている。

実は「対数関数e^xは微積分の影響を受けない」も間違いで、実際にはその都度オイラーの原始棒/円/球面Euler’s primitive stick/circle/spherical surface)が観測側の認識範囲で「球面」と「円盤」の状態を往復するものの、毎回「(角度の世界における「0度の次は360度」式のリセット操作」が行われているだけなんですね。こういう考え方、実は「波と粒子の状態往復」を観測してしまった量子力学の世界観の援用ですが、そうやって全体像を俯瞰する様になると「観測原点0とは常に次元数すら不明なヴェクターあるいは階数すら不明なテンサー」と想定するこの観点が重要になってくるという次第。