諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【地動説を待ちながら】日本経済回復に必要なのは「既存マスコミの死」?

最近、久し振りにこの辺りの知識の更新が必要となりました。
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これが最近の統計学的研究の成果… 

 そもそも宗教改革の大源流には「聖書の校正」文化が存在します。

Anthony Grafton, The Culture of Correction in Renaissance Europe (London: British Library, 2011), 1–77.

15世紀半ばから17世紀終わりまでの校正者たちを扱った著作です。グラフトンの博識とユーモアがいかんなく発揮された傑作だと思います。とにかく引かれる話がいちいち面白い。

何気にcorrectorという英語に校正者という単語をあててしまいました。しかし実際に当時ラテン語correctorと呼ばれた人たちが行っていたのは、校正だけではありませんでした。索引をつくったり、本文を章分けたり、章の内容を要約したり、宣伝文句を作成したりと実に様々なことを彼らは行いました。したがって彼らをあえて英語で呼ぶならば print professional という言葉がふさわしいということになりそうです。

狭い意味での校正の作業は二人一組で行われるのが基本でした。これは古代からすでに行われていたことです。写本を複写するさいには、一人がオリジナルの写本を声に出してよんで、もう一人が複写された写本をチェックしていました。印刷所でも同じことが行われていました。

ヴルガータ(またはウルガタ 拉: Vulgata) - Wikipedia

ラテン語editio Vulgata「共通訳」の意)の略で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のこと。1545年に始まったトリエント公会議においてラテン語聖書の公式版として定められた。伝統的にヒエロニムスによる翻訳とされるが、実際にはより複雑な成立過程をたどっている。

なお古代のラテン語では、Vuはヴではなくウと発音されたので、それに従えば「ウルガータ」となる。

ヒエロニムス版

聖ヒエローニュムス(Eusebius Sophronius Hieronymus, 347年頃〜420年)訳以前にも、editio Vulgata , 『ヴルガータ』という名称は用いられていたが、これは古ラテン語聖書を指していた。つまり、すでにヒエロニムスの時代において聖書は完全なものから断片的なものまで多くのラテン語訳が存在していたのである。ヒエロニムスの業績はそれらのラテン語訳をふまえた上で、原語を参照しながらラテン語訳の決定版を完成させたことにある。

ローマに滞在していたヒエロニムスは紀元382年、時の教皇ダマスス1世の命によってラテン語訳聖書の校訂にあたることになり、初めに新約聖書にとりかかった。四福音書は、古ラテン語訳をギリシャ語テキストとつきあわせて誤っている部分を訂正した。他の文書に関してはほぼそのまま古ラテン語訳を用い、ここにヒエロニムスによる新約聖書の最初の校訂版が完成した。

386年、パレスチナに移ったヒエロニムスは旧約聖書の校訂にとりかかった。はじめに七十人訳聖書とオリゲネスのヘクサプラ(六欄対照旧約聖書)を使って、ヨブ記詩篇、歴代誌、伝統的にソロモンに帰属される諸書、イザヤ書の40~55章を訳した(385年頃~89年頃)。その後、パレスチナユダヤ人教師の手を借り、ヘブライ語を学んでヘブライ語でかかれたマソラ本文からの訳に取り組み(390年頃~405年頃)、旧約を完成させた。旧約聖書のうちでいわゆる「第二正典」に関しては、トビト記、ユディト記、またダニエル書とエステル記の補遺を急ぎ足で訳したのみで、その他には手をつけなかった。なお、ヒエロニムス訳の詩篇は3種存在する。それは(1)ローマ詩篇七十人訳による詩篇の古ラテン語訳を改訂したもの、(2)ガリ詩篇:古ラテン語訳を、マソラ本文に対応させるため改訂したもの、(3)ヘブライ詩篇:マソラ本文から直接訳したものである。

このようにして成立したヒエロニムスによる聖書のラテン語訳がいわゆる『ヴルガータ』であり、意味の明快さと文体の華麗さにおいて、従来のラテン語訳をはるかにしのぐ出色の出来となった。5世紀には『ヴルガータ』は西方世界では名が通るものとなり、中世初期には西欧の全域で広く用いられるようになっていた。

中世においても『ヴルガータ』のみならず古ラテン語訳聖書も並行して用いられていたため、写本作成時のミスとあいまって徐々に『ヴルガータ』がもともと持っていた純粋さが失われていった。しかし、カロリング朝ルネサンスにおけるアルクィンらの校訂や、13世紀のパリ大学における校訂事業などを通じて『ヴルガータ』本来の文体を復元・維持する活動は続けられていた。

近世以降のヴルガータ

ヨハネス・グーテンベルクが西洋における印刷技術を確立し、その成果として1455年に世に問うたのがヴルガータ聖書の印刷本である『グーテンベルク聖書』であった。以降ヴルガータ聖書はそれまでよりも多くの人に読まれるようになっていく。このような流れや人文主義者の影響によりヘブライ語ギリシャ語による原典研究が盛んになり、聖書そのものも原語テキストによって研究されるようになった。

この流れの中で『ヴルガータ』聖書の欠点が批判されるようになったため、1546年のトリエント公会議は『ヴルガータ』聖書をカトリック教会の公式聖書としてのラテン語訳聖書の権威を再確認した。だが、これは当時さまざまなものが流布していたラテン語聖書の中で『ヴルガータ』が歴史と伝統において評価されたことを示すもので、決して原語で書かれた聖書を否定するものではないことに注意が必要である。その証拠にトリエント公会議は『ヴルガータ』をさらに厳しく校訂して新しいラテン語聖書を発行することを決定している。

この決定を受けて委員会が編成され、新しい『ヴルガータ』聖書が校訂された。教皇シクストゥス5世(Sixtus V、在位1585年〜1590年)は完成を急ぐあまり、自ら手を加えてまで見切り発車的に新しいテキストを発表し、『シクストゥス版』としてこれを決定版とする発表をおこなった。しかし、これは学問的にあまりに不十分であるという理由からすぐに取り消され、ロベルト・ベラルミーノを中心とする委員会によってさらなる校訂がおこなわれ、クレメンス8世時代の1592年に『シクストゥス・クレメンティーナ版』として発表された。

ローマ教皇シクストゥス5世 (Sixtus V、在位1585年〜1590年) - Wikipedia

本名はフェリーチェ・ペレッティ(Felice Peretti)。教皇領の治安回復、ローマ教皇庁の財政立て直しに辣腕をふるい、公共事業に惜しみなく投資して都市ローマを現代に近い形に整備した。批判も多いが、残した業績の大きさでは歴代教皇随一である。

教皇就任まで

グロッタンマーレ(マルケ州)出身のペレッティは貧しい一家の出身であった。父は庭師であり、彼自身も豚の世話をして生計をたてていた。ただ、当時の人々の生活レベルを考えれば、このことは現代のわれわれが考えるほど驚くべきことではない。やがてモンタルトのフランシスコ会修道院に入り、すぐに説教師・弁証家として頭角を現した。

1552年ごろ、フランシスコ会の保護者でもあったロドルフォ・ピオ・ダ・カルピ枢機卿1500年 - 1564年)やギスリエリ枢機卿後のピウス5世)、カラファ枢機卿後のパウルス4世)の目にとまったことで、その後の栄進が保障されることになった。ヴェネツィア教皇巡察師に抜擢されたが、あまりに職務に忠実で高圧的であったためトラブルが頻発し、1560年にヴェネツィア政府に解任を要求される。フランシスコ会の総代理を務めた後、1565年にボンコンパーニョ枢機卿後のグレゴリウス13世)に率いられたスペインへの使節団のメンバーに選ばれた。使節団はトレドのカランツァ大司教にかけられた異端嫌疑の調査に向かったのである。

ピウス5世が教皇になるとローマに呼び返されてフランシスコ会教皇総代理に選ばれ、1570年にグレゴリウス13世のもとで枢機卿にあげられてモンタルト枢機卿と呼ばれるようになる。そこで彼は教皇庁の職務の第一線を退いてエスクイリーノの丘にドメニコ・フォンターナによって建てられた、ディオクレティアヌス帝の浴場を見下ろす邸宅の整備に専念するようになった。やがてペレッティ自身が教皇に選ばれると、建築事業にもさらに力が入り、既存の住宅を撤去して、4つの新街路を設置した。敷地内には2つの大きな邸宅、「ディ・テルミニ」とも呼ばれたシスティノ宮殿とパラッツェット・モンタルト・エ・フェリチェとよばれた邸宅があった。この工事のために転居を余儀なくされた住民は憤懣やるかたなかった。1869年に教皇のために鉄道がひかれ、駅(テルミニ駅の前身)が設置されることが決まったことで、これらの施設も取り壊されることになった。 

教皇としての活躍

枢機卿時代から学問への関心が強く、アンブロジウスの著作の校訂版を完成させている。学問の世界においてありがちな他者への批判や攻撃を嫌い、常に穏健な態度を保っていたことが、教皇選挙で彼が選ばれる1つの理由となった。選挙において、シクストゥス5世が自分の老いを盛んに演技して票を勝ち取ったというのは後世の作り話である。むしろ選挙においては、彼の若々しさが評価されている。教皇が若いということはそのまま在位が長くなるということを意味するのである(ちなみに教皇即位式には、ローマ滞在中であった天正遣欧使節のメンバーたちも招かれて参加している)。

グレゴリウス13世の時代、教皇領の状態は最悪のものとなっていたため、シクストゥス5世はさっそくこの状態の解消を求められた。無法状態となっていた教皇領の治安を立て直すべく、教皇は治安を乱す者に対して厳しい態度を示した。それしか状況を改善することができなかったともいえよう。多くの盗賊や山賊が捕らえられ、法の裁きを受けた。ほどなく教皇領に治安と平和が戻った。 

政策と業績

次にシクストゥス5世は極度に悪化していた財政の建て直しを図り、一般職務の販売、貸付制度の創設、新税の導入を進めた結果、教皇庁の財政は一気に持ち直し、黒字へと転化した。こうした資金集めの方法の強引さに対しては批判が集まったものの、教皇は国庫に貯まった資金を緊急時の軍資金すなわち、十字軍や教皇領の防衛のための資金として確するよう努めた。また蓄積した資金を公共建築のためにも惜しみなく投資したため、5年という期間に比して手掛けられた事業の数は異例な数を記録した。たとえばサン・ピエトロ大聖堂にはドーム屋根が乗せられ、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂にはシクストゥスのロッジアが、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にはプレセペのチャペルが建てられ、クイリナーレ、ラテランおよびバチカン教皇宮殿が改修され、サン・ピエトロ大聖堂広場などに四本のオベリスクが建てられ、六本の新街路が建設され、6世紀頃に破壊されていたローマ水道を復旧し(フェリクス水道の建設)、多数の道路と橋が補修され、農業と工業が推奨された。失業者対策として、放置されていたコロッセオを紡織工場と従業員の住居の複合体として転用する計画も立案したが、これは事業が実現する前に教皇自身が死去し、後継の教皇が事業を引き継がなかったため実現には至らなかった。

しかし、このように高い関心を示した建築の分野でもシクストゥス5世が今日批判をまぬがれえない点がある。それは古代の建築物の取り扱いの杜撰さであり、たとえばトラヤヌスの柱とアントニウスの柱は聖ペトロ像と聖パウロ像の台にされ、カピトリーノの丘のミネルバ宮殿はキリスト教の都たるローマのシンボルに改造されてしまった。

シクストゥス5世の業績で忘れてはならないのは教会制度の整備である。彼の時代に枢機卿の定員は70人と定められ、修道会の数は倍増し、それぞれに職務や使命が振り分けられた。しかし一方で、依然としてイエズス会に対する姿勢は冷淡なものに留まった。

また、初めてバチカン印刷局を設置し、その最初の事業としてヴルガータ訳聖書の校訂をおこなわせた。この事業はグレゴリウス暦の切り替えの研究でも委員長をつとめたシルレト枢機卿を中心とした委員会によっておこなわれたが、せっかちだったシクストゥス5世は委員会のやり方に我慢できず、自ら聖書本文を改訂して、ヴルガータ聖書の改訂版を発行、今後この版を用いるようにという勅書を出した。この版は「シクストゥス版」とよばれ、綿密な検討がおこなわれず急いで作られたものであったため評判が悪く、教皇没後に勅書の内容の取り消しと改訂作業のやり直しが決定された。改訂事業の中心となったイエズス会員ロベルト・ベラルミーノは教皇の名誉に傷をつけないため、1592年に完成した改訂版ヴルガータ聖書の名前に二人の教皇の名前を冠するかたちで『シクストゥス・クレメンティーノ版』と名づけた。

政治家としての教皇

政治家としては壮大すぎる計画の持ち主であった。たとえばオスマン帝国の壊滅やエジプトの征服、イタリアへのイエスの墓の移転、彼の甥のフランス王即位などを夢みていたようだが、現実は厳しいものであった。特にスペイン王フェリペ2世の動向が気に入らず、その勢力拡大を好まなかった。彼がナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)を破門してフランスのカトリック連盟とスペインの無敵艦隊の後押しをしていたときも、同盟者であるはずのフェリペ2世との争いが絶えなかった。そのためアンリがカトリックに改宗すると彼に期待をかけた。しかし、アンリとの交渉でも教皇は期待した成果が得られず、逆に教皇の誓いをもとめられたため、これを保留している。

こうして同時代人から厳しい批判を浴びていたが、歴史家達は彼を偉大な教皇の1人に数えている。確かに彼は思いつきで行動し、頑固で、専制的な人物であったが、みずからの目標に対して全力で取り組んでおり、手をつけた事業のほとんどを完成している。歴史の中で彼ほどの有形無形の業績を残している教皇はいない。

 20世紀に入ると教皇ピウス10世のもとで最新の研究に基づいた『ヴルガータ』の校訂が決定され、ベネディクト会員らによって新たなテキストが発表されている。さらに1965年には教皇パウロ6世の指示によって原典に基づいた『ヴルガータ』聖書の校訂が決定され、1979年に完成している。これはNova Vulgata, 『新ヴルガータ』聖書といわれるものである。

このように『ヴルガータ』聖書はヒエロニムスに由来し、絶えることのない研究と改訂によって現代に至るまで聖書のラテン語訳の決定版としての地位を維持している。 

このあたりの話はゴシック芸術やバロック芸術が「(文盲の庶民にも敬虔さの必要性を訴えかける力を備えた)視覚化された石造の聖書」として発展してきた歴史とも重なってきます。

バロック(伊: barocco, 仏: baroque 英: baroque, 独: Barock) - Wikipedia

16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァヴェネツィアフィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義文学、音楽は古典主義)へと移行した。
*「18世紀後半には新古典主義へと移行した」…「感情の投影が特定の主観的対象の世界認識に影響を及ぼす影響」を重視するこのサイトは、むしろバロック芸術を(敬虔さへの帰依感情が視覚的デフォルメに発展した)マニエリムス芸術の延長線上に現れ、(外部に対する大言壮語癖の裏面としての内面的ナイーブさを重視する様になった)ロココ主義や(フランスの政治的)ロマン主義に継承されたと考える。

 バロック概念の誕生と発展

バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語barrocoから来ているとする説が有力である(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる)。一方、ベネデット・クローチェによれば、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語barocoからきたともされる。そのほか詐欺を意味する中世イタリア語のbarocchioや、バロック初期の画家フェデリコ・バロッチを由来とする説もある。
*なぜポルトガル語起源かというと、そのさらなる大源流が(16世紀前半に西回りインド航路を発見してある種のバブル状態に陥った)ポルトガル王国に後期ゴシック芸術の延長線上に現れたマヌエル様式や、その影響を色濃く受けたジェノヴァ銀行家私邸の応接間の装飾過剰にまで遡るからである。

*どちらの繁栄も16世紀中にハプスブルグ家を皇統とする「スペイン=神聖ローマ帝国連邦」へと併合されたが、そのイデオロギー的立場と文化的未成熟のせいで彼ら自身はこの文化の継承者とはなり得ず、むしろローマ教会やフランス王国が主導する形で(新教の内面主義に対抗する)プロパガンダ手段として旧教界に定着していく。

*さらにその大源流には原住民懐柔の為に大胆に在地異教秘儀信仰を接収し続けた結果、フランチェスコ修道会やドミニコ修道会や厳律シトー修道会から「キリスト教とは別物になり果ててしまった」クリューニュー修道会やシトー修道会の適応主義が垣間見える。

現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった。

バロックパールの魅力、選び方 | 真珠の卸屋さん

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1694年(バロック期の最中)には、この語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」と定義されていた。1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。

さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった。皇后ウジェニーは 気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロックバロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた。

バロック復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。

始まり

バロック様式は1580年頃に始まった。その萌芽となる着想はミケランジェロの仕事に見出される。

大抵はプロテスタント)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロック教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう。

拡散バロック様式の芸術家たちの劇的な側面が直截的・情動的な効果によって宗教的な主題の奨励に繋がると判断したカトリック教会によってバロックの人気と成功は促進された。

1545-1563年のトリエント公会議によって定義されていたように、これはカトリシスムの芸術であり、それを最も良く示す教令は「改革、諸聖人の聖遺物、聖なる図像についての教令« Décret sur l’innovation et les reliques des saints, et sur les images saintes ».)」である。つまりは対抗宗教改革の芸術であった。しかしながら、宗教改革に加わった国々では強い抵抗を受け、プロテスタント芸術が発達することになる。イギリスやフランスもまた拒絶の重要な中核となった。
*そう、絶対王政時代における「反ローマ教会運動」の姿勢なる観点から、英国の宗教革命とフランスのガリカニスム(Gallicanisme)は等価と考えねばならない。

世俗の貴族もまたバロック美術や建築の劇的な効果を訪問者や競争相手を感銘させる方法として考えていた。バロックの宮殿は一連の前庭、控えの間、大階段、応接間から構成されており、進むに従って豪華になってゆく。数多の芸術形式――音楽、建築、文学――がこの文化運動の中で互いに影響を及ぼし合った。

*この辺りで国際的にはある意味マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」より高い評価を得ているヴェルナー・ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」が登場。

バロック様式の魅力は、16世紀のマニエリスム芸術の繊細さや知的な特質から、感覚に向けられた直感的なものへと意識的に移行した。直截的、単純明快、劇的な図像が用いられた。バロック芸術はアンニーバレ・カラッチとその仲間たちの果断な傾向から一定の影響を受けており、またコレッジョ、カラヴァッジオ、フェデリコ・バロッチといった、今日では「初期バロック」と分類されることもある芸術家たちの影響も見出される。カラッチ一族(兄弟と従兄)とカラヴァッジオはしばしば古典主義とバロックという言葉で対比され、 両者は造形の分野(ヴェルフリンが定義した)で対照的な影響を持ち、後世に多大な影響を及ぼした。

際立った緊張感、複数のアングルと視点、激しい情動に満ちた熱を帯びた力作。18世紀には古典的バロックから後期バロックもしくはロココへと移行した。これらは17世紀末にドイツ、オーストリアボヘミアで出現した。官能的な美の趣味は17世紀バロックの型に嵌った性質により自由な創作をもたらした。

装飾が増殖し、豊饒かつ幻想的になった。トロンプ・ルイユの壁画、階段、アレゴリーのニンファエウムや彫刻が教会、城、噴水を過剰なまでに満たした。ウィーン、ロンドン、ドレスデントリノ、南ドイツ、ボヘミアがこうした新機軸を取り入れた。ニコラ・サルヴィによるローマのトレヴィの泉(1732-1762)やルイージ・ヴァンヴィテッリによるナポリ近郊のカゼルタ宮殿の階段(1751-1758)に見られるように後期バロックの旺盛なカプリッツィオにあって目の喜びは不可欠なものであった。

パリ(コンコルド広場)、ボルドーブルス広場)、ナンシー(スタニスラス広場)などに建築空間が開かれた。オーストリアではフィッシャー・フォン・エルラッハとルーカス・フォン・ヒルデブラントが幻想的な建築で競い合った。バイエルンでは田舎の修道院が小天使に覆われた。ミュンヘンではアダム兄弟が高名である。ボヘミアモルドバ、南ドイツのロココは巡礼教会を装飾し、ヴィースの巡礼教会では白地を覆う金泥の装飾で壁が崩れんばかりとなっている。

スペインとポルトガルアメリカ植民地はイベリアのプレテレスコ様式に影響を与えた。フランスでは、ジュール・アルドゥアン=マンサールの門人たちが邸宅とその内部装飾に取り組み、サンジェルマン街やマレー、さらにはランブイエの非凡な鏡板などで見ることができる。

特徴

ハインリヒ・ヴェルフリンはバロックを円に代わり楕円が構成の中心に据えられ、全体の均衡が軸を中心とした構成に取って代わり、色彩と絵画的な効果がより重要になり始めた時代と定義した。

このアナロジーを音楽に当て嵌めると「バロック音楽」という表現は有用なものとなる。対照的なフレーズの長さ、和音、対位法はポリフォニーを時代遅れにし、オーケストラ的な色彩がより強く現れるようになる。同様に、詩の表現は単純で、力強く、劇的なものとなり、明快でゆったりしたシンコペーションのリズムがジョン・ダンのようなマニエリスム詩人の用いる洗練され入り組んだ形而上学的な直喩に取って代わった。バロック叙事詩であるジョン・ミルトンの『失楽園』では視覚表現の発達に強く影響された想像力が感じられる。

絵画では、バロックの身振りはマニエリスムのそれに比べゆったりとしている。より両義的、不可解、神秘的でなく、むしろバロックの主要な芸術形態の1つであるオペラでの身振りに近い。バロックのポーズはコントラポスト(傾いだ姿勢)に頼っており、肩と腰の平面を反対方向にずらして置くフォルムの緊張感は今にも動き出しそうな印象を与える。

17世紀初頭にはヨーロッパ全土で激烈を極めた宗教戦争などあらゆる闘争が起こり、国家や社会が分裂した。その不安な時代において、連続的な運動と永続的な秩序との間にしかるべき関係を見出そうとする努力がなされ、そこから独特な心情的表現が生まれた。これが「バロック」である。強い激烈な印象を与える変化と対比など、これらすべては、動的で変化に富む自然と人間の感情から見出された新しい表現であった。

調和・均整を目指すルネサンス様式に対して劇的な流動性、過剰な装飾性を特色とする。「永遠の相のもとに」がルネサンスの理想であり、「移ろい行く相のもとに」がバロックの理想である。全てが虚無であるとする「ヴァニタスVanitas)」、その中で常に死を思う「メメント・モリMemento Mori)」、そうであるからこそ現在を生きよとする「カルペ・ディエムCarpe Diem)」という、破壊と変容の時代がもたらした3つの主題が広く見出される。
*そう、ロマン主義へも継承された「命短し、恋せよ乙女」なる概念の大源流。

*「いろはにほへと」で謳われる無常観が根底にある日本伝統文化は、田中穂積作曲、武島羽衣作詞の唱歌「美しき天然(明治35年、1902年)」にも見て取れる様にこの種のカソリシズム的調和(ハルモニア)概念の根底にある種のペシミズムを見出した。この世は「憂き世」か「浮世」か問題。だがそれは案外ルネサンス期イタリア有識者の実存不安を比較的正確に切り取っているのかもしれないのである。

ルネサンスからバロック初期はイタリアが文化の中心であったが、バロック後期には文化の中心はフランスへ移ってゆく。

ヴァニタス(羅vanitas) - Wikipedia

ヴァニタスとは、寓意的な静物画のジャンルのひとつ。

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16世紀から17世紀にかけてのフランドルやネーデルラントなどヨーロッパ北部で特に多く描かれたが、以後現代に至るまでの西洋の美術にも大きな影響を与えている。ヴァニタスとは「人生の空しさの寓意」を表す静物画であり、豊かさなどを意味するさまざまな静物の中に、人間の死すべき定めの隠喩である頭蓋骨や、あるいは時計やパイプや腐ってゆく果物などを置き、観る者に対して虚栄のはかなさを喚起する意図をもっていた。「カルペ・ディエム」や「メメント・モリ」と並ぶ、バロック期の精神を表す概念でもある。

ラテン語で「空虚」「むなしさ」を意味する言葉であり、地上の人生の無意味さや、虚栄のはかなさなどと深く結びついた概念である。ヴァニタスを語る際、旧約聖書の「コヘレトの言葉(『伝道の書』)」1章2節の有名な言葉「ヴァニタス・ヴァニタートゥム「空の空」、「虚無の虚無」)」がよく引用される。「ヴルガータ標準ラテン語訳聖書)」では該当部分は次のようになっている。「Vanitas vanitatum omnia vanitas.(コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい)」。

その歴史と寓意

人生のはかなさというテーマは、中世ヨーロッパの葬祭用の美術工芸品、特に彫刻においてはよくみられるテーマであった。15世紀頃まで、このテーマは極めて悲観的かつ自明のものとして描かれており、死や衰退に対する当時の強迫観念を強く反映していた。これは15世紀前半に書かれた死にあたっての心構えを説いた書「アルス・モリエンディArs moriendi, 往生術)」や、死の普遍性を説く絵画である「死の舞踏Danse Macabre)」、あるいは重複するモチーフである「メメント・モリMemento mori, 死を想え)」にも同様にみられる。ルネサンス期以後、こうしたモチーフは直接的にではなく間接的に、比喩的に描かれるようになってゆく。

古典古代の学問や芸術が復興し始めると同時に、15世紀頃から絵画において視覚的リアリズムが復活しはじめ、それまで信心のために画面を見つめていた人々は、本物そっくりに魅力的に描かれた人物や物体の描写を楽しむようになる。静物画というジャンルもヨーロッパ北部で人気を博し、日常生活の品物や贅沢品などが描かれるようになる。

しかし静物画はジャンルとしては宗教画など歴史画に比べて格が低いとみられており、キリスト教的な内容を比喩的に取り入れることで静物画の格を高め、同時に魅力的で感覚的な絵画を描くに当たっての道徳的な正当化も行おうとする試みがなされた。聖母を象徴するバラや、清らかさの象徴である水の入ったコップなどは代表的なモチーフである。ヴァニタスと呼ばれる静物画のジャンルは、生のはかなさ、快楽の空しさ、死の確実さを観る者に喚起するためのジャンルであり、旧約聖書の「コヘレトの言葉」の内容を呼び覚ます絵画であったが、やはり一方では絵画の画面の心地よさを享受するに当たっての正当化という側面もあった。

ヴァニタスにおける象徴物には、頭蓋骨(死の確実さを意味する)のほかに、爛熟した果物(加齢や衰退などを意味する)、シャボン玉遊びに使う麦わら・貝殻や泡(人生の簡潔さや死の唐突さを意味する)、煙を吐きだすパイプやランプ(人生の短さを意味する)、クロノメーターや砂時計(人生の短さを意味する)、楽器(人生の刹那的で簡潔なさまを意味する)などがある。果物、花、蝶なども同様の意味を持たされることがある。皮を剥いたレモンや海草は、見た目には魅力的だが味わうと苦いという人生の側面を表す。

こうした明白な象徴物をあしらわない静物画の中に、どの程度の量や真剣さでヴァニタスのテーマが表現されているかについては、美術史家らの間でもしばしば議論となる。道徳的な風俗画の多くと同様、ヴァニタスにおいても、物体の感覚的な描写の快楽と、道徳的なメッセージとが、画面の中で衝突を起こしせめぎ合っている。

元は戦いに勝った将軍が凱旋パレードを行う際、「今日は良くても明日はどうなるか分からないから気を抜くな」ということを思い出させるための役目として、後ろの使用人に「memento mori死を忘れるな)」と言わせることで、そのことを思い起こしていたと伝わっている。
*要するに「勝って兜の緒を締めよ」?

現在の一般的な解釈は二つあり、一つは「人間どうせ死ぬんだから生に執着するな」と、もう一つは「人間どうせ死ぬんだから今の生を楽しめ」である。

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前者はキリスト教や芸術作品などで広く扱われた宗教用語・解釈であり、終末観の高まった中世ヨーロッパで盛んに唱えられたという。有名なものに「死の舞踏」というモチーフがあり、死の普遍性(いかに異なる身分・職業であっても、貧乏人も金持ちも死は等しく連れて行き、やがては無に統合される)についての、さまざまな作品が作り出された。

逆に後者は古代ローマなどで主に使われていた解釈だが、実はあまり広く使われてはいなかったという。当時は「(どうせ明日死ぬなら今を楽しもう」や「今は飲んで踊って騒ごう」といった意味で使われた。

また似ているが異なる表現に「Carpe diem直訳すると「その日(の花)を摘め」で、意味は「今という瞬間を楽しめ、今を大事にしろ」となる)」があり、どちらも古代ローマではアドバイスや警告といった意味だったという。

その日を摘め(羅Carpe diem、カルペ・ディエム) - Wikipedia

紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句。「一日の花を摘め」、「一日を摘め」などとも訳される。また英語では「seize the dayその日をつかめ/この日をつかめ)」とも訳される。ホラティウスは「今日という日の花を摘め」というこの部分で、「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に使え」と言おうとしている。

Carpeは、「(花などを摘む」を意味するcarpoの命令形であり、Diemは「」を意味するdiesの対格で目的語となる。

ホラティウスの詩

ホラティウスが愛や政治や友情、日常生活、哲学的疑問などを歌った104の詩歌が収められた「歌集Carmina)」の、第1巻第11歌にこの語句が現われる。「その日を摘めCarpe diem)」はより長い句の一部分であり、句の全体はCarpe diem quam minimum credula postero、つまり「明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め」である。詩全体では、神々がどのような死を我々にいつ与えるかは知ることは出来ず、知ろうと苦しむよりも、どのような死でも受け容れるほうがよりよいこと、短い人生の中の未来に希望を求めるよりもその日その日を有効に使い楽しむほうが賢明であること、が歌われている。この詩の意図はエピクロス主義にあり、通常考えられているような快楽主義にあるわけではない。

聖書における関連語句

旧約聖書および新約聖書には「われわれは食べて飲もう、明日は死ぬのだから」といった語句も現われる。一般には両者とも、「人生は短く、時間はつかの間であるから、今ある機会をできるだけ掴むことだ」、というような実存的な警告として使われている。

 carpe diemその日を摘め)と書かれた日時計聖書では「飲みかつ食べよう、明日には死ぬのだから」という語句が刻まれている。旧約聖書イザヤ書』22章13節および新約聖書コリント人への第一の手紙』15章32節が典拠だが、どちらも否定的な文脈の中にある。前者は、信仰なき者の生活の描写である。後者では、もしキリストの復活がなければ死者の復活もなく、死者の復活もないのであれば人は死んでしまう前に欲に任せた生活をして悪事におぼれるだろう、という仮定を語っている。

旧約聖書コヘレトの言葉』(『伝道の書』)の9章にも同様の語句がある。人の生死は神のみが知り、人間は知ることができず、善人にも悪人にも同じ一つのことが起こること。人間の生が悪に満ち、後は死ぬだけ、ということが、太陽の下に起こる物事の中でも最悪のものであること。死ぬと何もかもが消えうせてしまうので、短く空しい人生を生きている間に労苦し、そのかわりに与えられるパンを食べ酒を飲み人生を楽しみ、熱心に物事を行うべきであること、などが語られる。

ユダヤ教

ミシュナーの時代のラビ達の倫理的な教えを集めた「Pirkei Avot父祖の教訓)」1章14節には、「もし今でなければ、いつ?」という語句が現われている。

ラテン語成句

1898年のドイツの絵葉書。学生生活が描かれ「ガウデアムス・イジトゥルGaudeamus igitur)」と書かれている。ヨーロッパの学生歌「ガウデアムス・イジトゥルGaudeamus igitur, 「さあ喜ぼう」、あるいは『人生の短さについて』 De Brevitate Vitae とも)」は、いつかは誰もが死んでしまうこと、そして学生生活を楽しむことについての歌である。中世ラテン語で書かれたこの詩の原型は1287年に遡り、ヨーロッパ各地で祝祭などの際に学生らにより歌われてきた。

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ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの1909年の絵画、「摘めるうちにバラの蕾を摘みなさいGather Ye Rosebuds While Ye May)」。「Collige, virgo, rosas集めよ、乙女よ、バラの花を)」という語句は、アウソニウスまたはウェルギリウスに帰せられている詩「De rosis nascentibusIdyllium de rosis とも)」の最後に現われる。これは若者に対し、手遅れになる前に人生を楽しむよう促す詩である。同様の内容は、17世紀のイギリスのバロック詩人ロバート・ヘリックの「乙女らへ、時を大切にせよ『時を惜しめと、乙女たちに告ぐ』、To the Virgins, to Make Much of Time)」に登場する有名な句、「摘めるうちにバラの蕾を摘みなさいGather Ye Rosebuds While Ye May)」にも、あるいは日本の大正時代の流行歌『ゴンドラの唄』の一節「命短し恋せよ乙女」という詩句にも共通する。

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関連するが異なった表現に、「メメント・モリ「死を想え」、memento mori)」がある。「その日を摘め」も「メメント・モリ」も同じような意味合いで使われることもあるが、メメント・モリという概念にある2つの側面、すなわち「謙遜」と「悔い改め」は「その日を摘め」には見られないものである。2つの語句は相反する世界観を表しているともいえる。「その日を摘め」が後事を考えない、後悔のない人生を送ることを勧めているとすれば、「メメント・モリ」は質素で謙遜した、柔和な存在であることを勧めている。

詩に多く見られるテーマである「ubi sunt彼らは今どこにいるのか? /彼らはどこに行ったのか?)」は、人生のはかなさを訴え、死について熟考するものであるが、「その日を摘め」とは異なり、行動に出ることの勧告ではない。

ホラティウスは『街のねずみと田舎のねずみ』と題する詩で、「その日を摘め」の句を自らパロディにしている。その詩の中には「その道をつかめcarpe viam)」という語句が現われ、街に住む者と田舎に住む者の人生に対する異なった態度を比較している。

バロックへの影響

その日を摘め」は「メメント・モリ」などと並び、バロックの精神の鍵となる言葉である。三十年戦争の過酷な経験の中で、17世紀には「ヴァニタス空しい、全ては空しい)」や「メメント・モリ死を想え)」など、人生は儚い一過性のものだとする強い感情が形成されていった。全ての活動の無益さを強く感じた人々は、これに対して、永遠について考えるよりもこの時この場所を有効に使うべきだとして快楽を許容する感情へと傾いていった。バロック時代の芸術、例えばバロック文学、バロック美術、バロック音楽バロック建築などに見られる陽気さ、好色さ、遊戯性、流動性などは、この中心となる感情に基づく。上述したイギリスの詩人ロバート・ヘリックの「乙女らへ、時を大切にせよTo the Virgins, to Make Much of Time)」には「その日を摘め」に共通した語句が歌われ、ドイツの詩人マルティン・オーピッツの1624年の詩には「その日を摘めCarpe diem)」と題したものがある。

1970年代半ばのフランスで Carpe Diem というロック・バンドが活動していた。ジャズやミニマル音楽を導入したプログレッシヴ・ロックを演奏する作品(アルバム)2作 "En regardant passer le temps" と "Cueille le temps" を発表し、1970年代のフランスを代表的するバンドの1つとして強い支持を得ている。

ここに現れてくるのは、あくまで聖書なる「言葉そのもの」の本質に各個人が内面的接近を図るべきと考えるプロテスタント的態度の正反対、すなわち以下です。

  • あくまで知性(言葉の喚起するイメージの積み重ねによって間接的に導出される抽象概念の世界)より官能(各個人が五感で直接感じる世界)を重視する刹那的享楽性の肯定。

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    *ただし「究極の自由主義は先制の徹底によってのみ達成される」自由主義のジレンマのせいで、近世社会においては「如何なる掣肘も国家反逆と見做す絶対君主の快楽追求」と「軍人や官僚などが体現する国家的権威への滅私奉公要求の及ばない範囲においてのみ享楽追求を許されるビーダーマイヤー的市民の快楽追求」の格差といった新たな身分差別が再生産され、以下の様な展開を産んだ。

    ①日本における近松門左衛門の心中文学の流行(鎖国によって逃避行の範囲が国内に制限されたのが特徴)とフランスにおける「(「赤衣の」近代軍将校や「黒衣の」聖職者の供給階層として絶対王政体制に再編された貴族男子と政略結婚に使われなかった残りは修道院での独身生活の全うを強要された貴族女子の駆け落ちとイタリアやスペインやギリシャ語圏を含むイスラム諸国などが割拠する地中海世界や、北米フランス植民地といった新世界への逃避行

    大英帝国における「没落ジェントリー階層が起死回生のチャンスを求めてインドや南アフリカや大西洋世界に移り住む」現実経済上の「救済」システム(事業に失敗して現地で野垂れ死んでも「不満階層の口減らし」には貢献した事になる)。

    *近代フランスがアフリカや東南アジアに向けた視線もこの路線?

    ③それ以外の欧州諸国に横溢した「新天地アメリカへの移民欲」。

  • あえてプロパガンダによる人民操縦を肯定し「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制貴族制や教会体制や職人組合といった伝統的遮断)」を全面否定しない人治主義的態度の追求。
    *何だかんだいいながらそれは「国家間の競争が全てとなった」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)開始の契機となった第一次世界大戦(1914年〜1918年)において帝政ロシア、ハプスブルグ帝国、オスマン帝国がまとめて打倒されるまで欧州諸国を振り回し続けたのだった。その後もローマ教会とスペイン帝国は存続を続けるが、大勢を引っ繰り返すまでには至らず…

    *ちなみにこのサイトはFacebookなどが試み大失敗に終わった「SNSインフルエンサーオリエンテッド社会に編成しようとした試み」を「中性的封建秩序復権の試み」として批判している。

  • 荘厳な伝統的儀礼の継続による権威付け。

 「祝祭の場で意味不明の祝詞を、葬式の席で意味不明の経文を読み上げられて喜んでる」日本人もあまり人の事はいえません(実際、イエズス会ロシア正教の荘厳さと適応主義を両立させた布教に大敗北を喫した歴史も存在する)。

それに対しプロテスタンティズムは「聖書の母国語への翻訳」を発端とするのです。

聖書翻訳とプロティスタンティズムの台頭 - Wikipedia

中世を通じて、聖書翻訳の活動は衰退した。この時代はラテン語西方教会の共通言語でありラテン語ウルガタが聖書の標準であるが、この言語が通じるのはごくわずかな教養人のみで、一般大衆には馴染みがない。多数の読み書きできない人たちは聖書に直接触れる機会はあまり無く、少数の教養人は新しい翻訳を求めなかった。

聖書は普通のものになりすぎてはいけない、すべての人に読まれるべきではない、安全に読むにはそれなりの学習が要求される、そういう確信のもとに何世紀もの時間が過ぎていくのだが、翻訳が行われなかった訳ではない。たとえばベーダ・ヴェネラビリス(673年 - 735年)による「ヨハネによる福音書」の古英語への翻訳は現存していないものの有名である。古高ドイツ語の「マタイによる福音書」は748年のものとされ、古代教会スラヴ語への翻訳は9世紀末に行われた。

900年頃のアルフレッド大王(849年 - 899年)が公布した法律の前文などには数々の聖句、例えばモーセ十戒モーセ五書などが引用されており、そうした聖句が民衆語に訳されていたことが覗われる。また990年頃、四つの福音書が西サクソンの古英語方言で書かれており、これらは「ウェセックスゴスペルス」として知られている。

1199年ローマ教皇インノケンティウス3世(1161年 - 1216年)は、カタリ派およびワルドー派を異教とし、非公認の聖書を禁止した。1234年にはトゥールーズフランス)およびタラゴナスペイン)の教会会議はそのような翻訳聖書の所持を禁じた。このようにヨーロッパの中世では民衆語(ヴァナキュラーな言語)への翻訳が抑圧された時代だとされているが、いくつかの民衆語翻訳は許されていたという証拠もある。

しかし、重要な中英語の聖書翻訳であるウィクリフの聖書(1383年)はウルガタに基づいていたが、1408年のオックスフォードの教会会議で禁書とされた。15世紀半ばにはハンガリーのフス派聖書が、1478年にはバレンシアカタルーニャ語方言による翻訳が現れた。このように様々な民衆語への翻訳活動とそれに対する反動が14世紀から15世紀にかけて現れる。

民衆語翻訳に反対する立場に従えば、ラテン語で1000年間十分うまくやってきたのに、新たな翻訳で聖書を台無しにしてしまうことが問題とされた。霊感を受けてウルガタを訳した ヒエロニムスは聖なる翻訳者であり、ウルガタ自体が正典化されていたのである。ヒエロニムスの翻訳を批判することは不敬罪と冒涜に値し、原典テキストへの批判と同等であるとみなされた。このようにウルガタは他の翻訳を排除するための拠り所とされてきたのである。

15世紀の文芸復興で古典と古典語研究が流行し、批判的かつ厳密なギリシャ語学が再び日の目を見た。加えて持ち運び可能な活版印刷の発明が、原語のギリシャ語聖書を広く流布させることに貢献した。グーテンベルクが最初の仕事としてラテン語ウルガタ聖書を印刷したのは1455年のことである。エラスムスや人文学者達はウルガタ聖書への評価を見直し、彼が校訂した原語のギリシャ語のテキストを出版して広めることで、ウルガタの正統性を揺さぶった。文芸復興と印刷機の発明が、各国で聖書翻訳の新たな機運を作りだしたのである。

1521年にマルチン・ルターはローマ教皇から破門されると、ワルトブルク城に匿われた。彼はそこで新約聖書ギリシャ語からドイツ語に翻訳し、それを1522年9月に印刷している(今日、ルター訳聖書と言われているものはその後に改訂を重ねた1534年の訳である)。また、ウィリアム・ティンダル1494年または1495年? - 1536年)は聖書の英語翻訳を志すが受け入れられず、イギリス国外で翻訳・印刷した英語訳聖書(1526年)をイギリス国内に送り込むのだが、捕らえられて死刑になる。また1531年には改革派にとって重要なチューリッヒ聖書が現れている。これらの聖書は宗教改革において重要な役割を果たした。カトリック教会でも1523年にルフェーヴル・デタープル(1450年? - 1536年)の翻訳聖書が現れているがこれは基本的にウルガタに依存していた。

英語圏では、欽定訳聖書1611年に成立するとこれが標準訳としての地位を確立した。ドイツではルター訳聖書が標準訳となり、両者とも近代英語と近代ドイツ語の成立に当たって深い影響を与えた。

新世界の言語への翻訳についてはイエズス会 の宣教活動が17世紀の翻訳活動の大部分を主導したが、その後はプロテスタントの宣教活動に徐々に取って代わられていくことになる。

1804年にイギリスで発足した英国外国聖書協会は、当初はウェールズ語の安価な聖書普及を目指していたが、すぐに規模と目的が急拡大した。類似組織と共に世界中に支社を作り、様々な言語への聖書翻訳と印刷・出版・配布の事業を行うようになったのである。「聖書は史上最大のベストセラー」という言い方がされる場合があるが、それはこの聖書協会が軍隊・病院・刑務所といった施設に聖書を大量に配布し、安価な値段で販売したことの結果である。ことに主導権をとったのは英国外国聖書協会とアメリカ聖書協会であり、それぞれ19世紀と20世紀を代表する経済大国の聖書協会であるが、共に英語を使用する国家でもあることから、両世紀の聖書翻訳では英語翻訳が大きな影響力を世界中の他言語の翻訳に及ぼしていくことになる。たとえば、日本語訳聖書では明治元訳聖書が欽定訳聖書AV、大正改訳聖書がRV、口語訳聖書がRSV、共同訳聖書が動的等価翻訳理論を適用したTEBというように英語訳聖書に対応した改定が行われている。

また、20世紀後半以降にアメリカで勢力を増したファンダメンタリズム福音主義の諸教派は聖書協会系の聖書を退け、聖書無誤謬の立場からNIVを翻訳し、これに準拠させる形で各国語への翻訳と配布を盛んに行っており、彼ら自身の主張によれば「世界で最も普及した聖書」となったという。

ただしフランスにおいては、いきなり国家主導の「アカデミー・フランセーズl'Académie française)」が登場。そもそもカソリック教国だし他国とは一線を課す国家主義志向の強い展開を遂げるのです。

アカデミー・フランセーズ(l'Académie française)

フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する5つのアカデミーの一角を占め、その中でも最古のアカデミー。訳語としてフランス翰林院が存在するが、この語が用いられることは極めて稀である。

  • 創立はフランス文学史上、古典主義の時代とされる17世紀で、1626年頃から文学者たちが王室秘書のヴァランタン・コンラール邸で会合を持つようになったのが起源とされる。この事からコンラールはアカデミー・フランセーズの父とも言われる。これが宰相リシュリューに認められ、ルイ13世治下の1635年2月10日、正式に設立された。

  • 当初の役割はフランス語を規則的で誰にでも理解可能な言語に純化し、統一することであり、その目的を達成するために辞書と文法書の編纂を重要な任務としていた。このアカデミー・フランセーズによる辞書(Dictionnaire de l'Académie française、アカデミー辞書)は1694年に初版が出版された後、8回(1718年、1740年、1762年、1798年、1835年、1878年、1932年-1935年、1992年)の改版を重ね、現在に至っている。また、辞書の編纂以外にも勧告を発することなどを通じてその任務を遂行している。

  • 現代では、アカデミーの役割自体については、必要な変化には柔軟に対処しながら、フランス語の質を維持するというように若干の変化が見られるものの、依然として辞書の編纂は重要な任務のひとつである。また、こうしたフランス語に関する役割以外にも新たな第2の役割が追加された。それはメセナ学問芸術振興)であり、年間およそ60もの文学賞の授与から、美術界、学術界、文芸界、慈善事業団体、寡婦や障害者世帯に対する金銭的援助、そして奨学金の提供に至るまで様々な形で行われている。2008年には、現フランス学士院総裁ガブリエル・ド・ブロイGabriel de Broglie, Chancelier de l'Institut de France)によって、フランス学士院として初の美術展覧会 La section GRAVURE de l'Academie des Beaux-ArtsExpose et recoit ses invitesEspace Pierre CARDINで、グーテンベルク以来変容し続ける印刷術、書誌学をテーマに開催されている。

  • アカデミーは定員を40人として詩人、小説家、版画家、演劇家、哲学者、医師、科学者、民族学者、批評家、軍人、政治家、聖職者といった様々な背景を持つ面々で構成されてきた。会員資格は終身であり、会員の死亡等で欠員が生じると、現会員の推薦と選挙によって新会員が決定される。3世紀以上に及ぶ歴史を持ちながら、1793年から1803年にかけてのフランス革命期を除いて定期的に活動を続け、創設以来これまで700人以上が会員として名を連ねた。その中にはフランスの歴史をさまざまな形で彩った偉人たちが数多く含まれている。

  • アカデミーの会員は、大礼服のような制服が定められている。l'habit vert緑の礼服)と呼ばれる上着、ベスト、性別によりズボンまたはスカート、二角帽bicorne)、佩剣(聖職者は無し)などからなる。

  • 定員40人制を堅持しているため、いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま会員になれなかった著名人も数多い。このような人物として、デカルトパスカルモリエール、ルソー、プルーストなどが挙げられる。

リシュリューによるアカデミー・フランセーズの印に "à l'immortalité" と刻まれていたことから、会員は "les Immortels不死の存在)" という異名を持つ。アカデミー会員候補だったアンドレ・ルーサンは、"Si je suis élu, je serai Immortel ; si je suis battu, je n'en mourrai pas.選出されれば「不死」になれる。落選してもそれで死ぬことはない)"と言った。ルーサンは1973年に会員に選出されている。

さらに話をややこしくするのが(イスラム文化圏の神中心主義と重なるデカルトやマルブランシュの「機会原因論」。七月王政時代や第二帝政時代のフランス、さらには共産主義政権下の中国やベトナムへの産業革命導入を成功させたサン=シモン主義の大源流?

こうしたプロセスは同時に欧州における経済活動振興と深く結びついていました。

最初の契機となったのは、イタリアのヴェネチアにおけるルカ・パチョーリ算術、幾何、比および比例全書SummadeArithmetica,Geometria,ProportionietProportionalita、1494年)」への複式簿記ヴェネツィア式簿記)の記載とも。

そしてマックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」で言及された「鋼鉄の檻Gehäuse)」概念へ。

実は今日でこそ我々の間で普通に通用しているが、実はその意味が思う程自明でない「職業義務Berufspflicht)」という独特の思考様式が存在する。

その具体的活動内容如何に関わらず、またそれに囚われない俯瞰的立場からすれば、労働力や(資本回転を継続する原資としての)物的財産を用いた単なる営利行為の追求に過ぎない筈の事に対し、各人が自らの「職業」活動の内容を義務と意識すべきと考え、実際に意識して振る舞っているのである。

資本主義文化の「社会倫理」はこうした義務の観念によって支えられているが、既に完成した資本主義をのみ土台として発生したとは到底言えない。すなわちさらに過去まで遡って考えなければその起源は分からないし、資本主義社会の企業家や労働者ならそうした倫理的原則を必ず主体的に内在的に獲得しているとは限らない。今日の個々人は「既成の巨大な秩序界コスモス)」としての資本主義的経済組織の成員としてその枠内に生まれつき、その枠内で生きる事を強いられ、その枠内で死んでいく。(少なくともばらばらな個人の寄せ集めとしての)個々人の眼にはそれは「(改変の余地なき鋼鉄の檻Gehäuse)」として映る。誰であれこの秩序界(コスモス)は市場との関連が存在する限り彼の経済的営為に対して一定の規範を押し付けてくるものなのである。製造業者は長期官この規範に反する行動を続ければ必ず経済的淘汰を余儀なくされるし、この規範に適応出来ない、あるいは適応しようとしない労働者もまた、最期には必ず失業者として街頭に投げ出される羽目に陥る。

この様に秩序界(コスモス)そのものが経済的淘汰による教育的再生産を通じて自らが必要とする経済主体(企業と労働者)の生活態度や職業観念を獲得していく反復的営為の起源は、果たして本当に素朴な唯物史観が提唱する様に特定の経済の段階的発展の反映が生み出す上部構造として規定可能なのだろうか?

資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が淘汰によって反復的に強化され続けていく社会が出現する為には、あらかじめそうした生活態度や職業観念が特定の人間集団共通の見解として共有されていなければならない。だからこそ、そうした職業観念の成立史が重要課題となってくる訳だが、これが全てを「上部構造」の一言で片付け、その超克を目指す素朴な唯物史観からは導出不可能なほど複雑怪奇な茨の道だったりする訳である。

  • 我々が想定する様な資本主義精神は、少なくともすでにベンジャミン・フランクリンの生地たる17世紀マサチューセッチュには存在していた(1632年のニューイングランドにおいて既に「アメリカの他の地方に比べて人々が特に利益計算に長けている悪徳」が弾劾されている)。その一方で隣接する植民地(後の合衆国南部諸州)においては、そこが営利を目的として大資本家によって開拓された地域だったにも関わらず、同様の概念が(当時カリブ海沿岸に多数建存在した砂糖や綿花の奴隷制プランテーションや、同時期に穀物輸出を担った東欧の再版農奴制の様に)恐ろしいまでに未成熟な段階にあった。
  • そもそも前近代段階における資本主義精神は、当時の一般の人々に喜んで受容された一方で、古代や中世の通念に照会すれば「汚らわしい吝嗇」「およそ低劣な心情の発露」に他ならなかった。それどころか今日なお国際的資本主義社会との関連が極めて薄いか、あるいはそれへの適応を免れている社会集団にあっては今日なおこの理念が生々しい形で通用しているが、それは決して「営利への志向」が未知ないし未発達な「無垢なる幸福状態」にあるからでも、近代浪漫主義者が夢想した様に「呪われた黄金への飢餓Auri sacra fames)」から免れていたせいでもない。むしろそれは属州におけるコロナートゥス(colonatus)制履行によって私服を肥やした古代ローマ貴族、領民を人間と思わない中華王朝の科挙官僚(マンダリン)の搾取、再版農奴制度に胡座をかいた近代農場主達や奴隷制プランテーションの経営者達に見受けられる際限なき貪欲への当然の反応に過ぎず、同様の金銭欲と厚顔無恥は経験した人なら誰でも知っている様にナポリの馬車屋や船乗り、及び同様の仕事に就いている南欧アジア諸国の職人達の間に遙かに徹底した形でより深く根付いている。

実際には如何なる内面的規範にも服しようとしない、訓練なき「自由意思liberrm arbitrium)」は、それが実業家の物であれ、労働者の物であれ、必ず健全な資本主義社会発展の妨げとなってきた。当然その出発点は「金儲けの為には地獄にへも船を乗り入れて帆が焼け焦げても構わない」冒険商人達による向こう見ずな営利活動でも、戦争や海賊や山賊を正当化してきた「共同体内部unter Brudernでは禁じられた規範からの逸脱も、対外道徳Aussenmmoralでは許される」伝統でも有り得ない。むしろそれらに寛容(Clemenza)過ぎた伝統が、合理的経営による資本増殖と合理的労働組織によって克服された事こそが、市民的資本主義経済成立の前提となった事は疑う余地もないといえよう。

*ちなみにこのサイトはどちらかというとヴェルナー・ゾンバルト「戦争と資本主義(Krieg und Kapitalismus、1913年)」に拠って、かかる鋼鉄の檻(Gehäuse)概念が「十分な火器と移動手段を備えた常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う」近世主権国家が軍人や官僚に強要する規律正しい生活を出発点に「カロリー革命による労働者の活性化」「時刻表に従って運用される列車を腕時計や懐中時計片手に乗り継ぐ日常生活」などの積み重ねを通じて次第に定着したという立場を採択している。最も大事だったのは「約束の概念」の定着?

*その一方で、実際のプロティスタンティズム展開の歴史は「ナンタケット島の捕鯨産業」の様に近代資本主義の歴史に真っ向から逆らう実例を数多く含んでいる。

*そういえば当時は(スペインが新大陸から簒奪したり、オランダが生糸貿易で日本から得た金銀の大量流入ハイパーインフレが起こっていた)欧州も(参勤交代インフラ整備の余波で商業活動が全国化した)日本も価格革命の最中で、伝統的ランツィエ(地税生活者)は没落の一途を辿っていたのだった。スペイン御用達のジェノバ銀行家や神聖ローマ帝国御用達のフッガー家の様な大名貸しも巻き添えとなって没落。

かくして近世以降は「軍服と黒聖職者の制服)」以外の立身出世手段の普及が加速した訳です。それにつけても…

①ハプスブルグ帝国に組み込まれる事を拒絶して独立したスイスの文化史学者ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt,1818年~1897年)は、シスマ(Schisma、教会分裂)期(1378年~1417年)に領主化した教皇とその背後でのボルジア家やメディチ家の暗躍、およびフランス王室とハプスブルグ家の介入などで彩られたルネサンス期イタリアの政治史を丹念に分析した上で「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」という結論に到達。これをローマ帝国滅亡、宗教革命、フランス革命を「歴史における危機およびそれを克服していく過程)」と見る立場を結びつけていく。

  • ここで断罪されているのはおよそ(領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制の伝統の事である。

  • 当時それから完全脱却出来ていたのは英国、スイス、オランダ、ベルギー、大英帝国アメリカくらいだった。これらの国々では産業革命の受容が(概ね決定的な形での旧体制解体のプロセスを経る事なく)自然に自発的にボトムアップ方式で始まる。

    実はスイス自身も、モルガルテンの戦い(Battle of Morgarten、1315年)やゼンパッハの戦い(Battle of Sempach、1386年)によってハプスブルク家からの実質的独立を勝ち取ってから、イタリア戦争(1494年~1559年)に介入してミラノを巡る攻防戦の一環として戦われたマリニャーノの戦い(Battle of Marignano、1515年)でフランス国王フランソワ1世率いるフランス軍に大敗を喫っするまで、熱に浮かれた様にただひたすら支配地域拡大を目指す「農本主義的侵略国家」の時代を経験した過去を有する。

    さらにはオランダやベルギーや大英帝国の展開も一筋縄ではいかない。

②一方、経済面を「君主と癒着した宮廷ユダヤ」や「司教庇護化で高利貸しを営むユダヤ」との共依存関係に頼ってきたハプスブルグ帝国内の領邦国家においては逆に「経済は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」といった認識が最後まで完全に払拭される事がなかったのである。
*前述した様に、かかる偏見の完全払拭には第一次世界大戦(1914年〜1918年)を契機とする帝政ロシアハンガリーオーストリア二重帝国、オスマン帝国などの消滅が不可欠だったのである。そして国家間の競争が全てとなる総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)が始まる。これを終わらせたのは欧州の経済的復活と共産主義諸国間の内紛の激化だったとも。

  • 当時の資料に目を通すと「フランスでさえドレフュス事件Affaire Dreyfus、1894年)事件が起こった衝撃」といった言い回しが繰り返し出てくる。

  • 一方、その神聖ローマ帝国から19世紀のうちに独立を果たしたイタリア王国ドイツ帝国は、近代化の必要にかられると「版籍奉還1869年)」「廃藩置県1871年)」「藩債処分1876年)」「秩禄処分1876年)」をあっけなく達成しまった大日本帝國と異なって膨大な地域格差や身分格差の解消が思うより進まず、その結果ファシズムやナチズムの台頭を許してしまう。
    *実は共産主義諸国が尊奉するマルクス史観とファシズムやナチズムの全体主義史観は理論上、社会を動かすエネルギーを前者が階級闘争、後者が全階級の共労に求める点を除けばそれほど大差がないとも(実際、中国共産党は「和諧社会」をスローガンに前者から後者へと乗り換え済み)。そもそもどちらのイデオロギーも、この辺りが活動のエネルギー源であるが故に「身分差別撤廃による平等社会実現」を本格的には目指せないというジレンマを抱えているのである。

    *そしてマネージメント理論の創始者として知られるピーター・ドラッカーは、自らもユダヤオーストリア人としてナチスドイツの迫害を経験しており「(集団的合意の最大化を優先するあまり)気に入らない相手を手段を選ばず熱狂的に叩く一方(その「ええとこどり優先主義」ゆえに様々な形で破綻していく)自らの側への言及は一切許さない」ナチスの典型的やり口への対抗手段としてマネージメント理論を開発したと述べている。

③その一方で自由経済を全面否定するマルクス主義が最終的に到達したのは「人間の判断はすべからず不完全なので、正しい社会は全てを正しく計算するコンピューターへの全面委任によってのみ達成される」とした社会主義計算論争だった。バロック文化が全盛を迎えた絶対主義王政時代のイデオロギーからHumanism人間中心主義)への熱狂を引き算したかの様な結論。しかも、その権威主義イデオロギー故に第二次世界大戦後の共産主義経済圏ではフィードバック理論に立脚する情報制御技術の研究が禁止され、肝心のコンピューター技術の発展が停滞してしまう。
絶対主義王政時代のイデオロギーからHumanism(人間中心主義)への熱狂を引き算したかの様な結論…一応、フレデリック・テイラーが提唱した「科学的管理法(Scientific management、Taylorismとも)」や、これを発展させたピーター・ドラッカーのマネージメント理論が出発点だったとされるが、何処かで絶対王政時代欧州の啓蒙主義が混ざってこの様な機械神信仰段階を経て「この地球全体が全ての正義の根源たるコンピューター」と考えるガイア理論に到達。

*そもそも共産主義経済圏は世界商品流通史に関与した経験のない国が大半であり、その究極形態の一つとして顕現したコンピューター/インターネット技術の指数関数的発展に到底対応出来なかったのがコンピューター技術停滞の主要因だったとも

この様に歴史的に相反関係にあった「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」概念と「経済は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」概念を二重継承する一方で、サン=シモン主義の「経済発展を後押ししない政体は断固として認めない」覚悟を放棄した日本のマスコミって、最後にどこに漂着しようと目論んでるのでしょうか?

①現在中国共産党が一番恐れているのは東欧の旧共産主義圏の間でコンセンサスとして定着している「共産主義瘡蓋かさぶた」の蒸し返しであろう。それによれば東欧諸国が共産主義化を受容したのは、自力では「(領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制の伝統」を放棄出来ず、そのままの状態では国際経済への参加が不可能だったから。要するに「(サン・シモン主義いうところの「フランス革命がフランスに果たした役割」、すなわち既存体制の根底からの破壊」だけが目的だったので、目的達成後に放棄されたのは当然の結末だったというのである…

②今やこの問題への反証はベトナム共産党ばかりとなってしまった。それにつけても、げに恐ろしきサン=シモン主義の原則を一切踏み外さない優等生。朝日新聞は「(中国同様に権力集中が進行している」と指摘してますが、資本主義経済圏と摩擦を起こす事なく着々と経済的発展を遂げている…

さて、私たち自身は何処へ向けて漂流しているのでしょう?