諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「マワタ族の恐ろしさ」について。

竹宮ゆゆことらドラ!原作2006年〜2009年、アニメ2008年〜2009年)」における櫛枝実乃梨の台詞「私の幸せは…自分の手で掴み取る…何が自分にとって幸せかは自分で決める!!」…2010年代前半、国際SNS上の関心空間に匿名で滞留する女子アカウントの間には、以下の様な状況についてこれで返すというコンセンサスが存在していました。

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  • 国際SNS上の関心空間においては、所謂「政治的リベラル」勢と「第三世代フェミニズム」勢が対峙し、独特の拮抗状態が形成されてきた。

    そういう空間において日本の漫画アニメGAMEコンテンツを実質上「聖典」として提げる「第三世代フェミニズム」勢が「政治的リベラル」勢との論争に挑む際に最も頻繁に引用したのがこれという流れ。

    なぜこういう展開が起こり得たか。大源流は1970年代まで遡る。学生運動の最終目標が「(自分達なりの家父長制の再生産」に過ぎないと看過した竹宮惠子はそれから離脱し、大泉サロンを組織。このグループは1980年代に大流行したウルトラフェミニズム聖典たるバーバラ・ウォーカー「失われた女神たちの復権(The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets、1983年)」に傾倒しつつも「(父親が子供達を支配する家父長制も母親が子供達を支配する家母長制も所詮は超克すべき権力の影響力のバリエーションに過ぎない」なる結論に到達して新たな脱出口を探し始める。要するにその結果生まれたディスクールこそが国際的に「第三世代フェミニスト」達へと継承されたという流れ。

  • 同時に確実に醸成されてきたのがマスコミに対する不信感。「地球上で最大の権力を持つ組織はメディアだ。奴らは無実の者に罪を着せ、罪深き者を無実にする力を持つ。これこそが権力だ。奴らは大衆の心を操っているThe media’s the most powerful entity on earth. They have the power to make the innocent guilty and to make the guilty innocent, and that’s power. Because they control the minds of the masses)」。こういう文脈でも上掲の台詞は頻用されてきた。

    ピーター・ドラッカーいうところの「正義の絶対的批判者の仮面を被る一方、自らへの言及は決っして許さない」典型的ナチス論法… 

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この種の脅威をもたらす人々を「マワタ族」と呼ぶ? 

ここでいう「グラデーション」感覚こそが重要で、まさに「当事者側の単なる勘違い」から「本当に客観的立場から虐待が成立するケース」まで不可分な形で展開していきます。そして「リモコンの奪い合いするのバカらしい客観視を導入して全体像を俯瞰せよ)」なるアプローチこそが脱出口?

そういえば「サスペリアSuspiria、1977年)」リメイク版(2018年)も、どちらかというと原作というよりウンベルト・エーコ薔薇の名前伊:nome della rosa、1980/英訳:The Name of the Rose, 1983、映画化1986年)」のオマージュという色彩が強く、同種の問題を扱ってました。ここで鍵となったのも、また「マワタ」を巡る主観性と客観性の確立過程…

こういう話も、またそのうち…