諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【長い19世紀と短い20世紀】改めて「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」について。

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このサイトが3年くらい前に採用していた歴史観

ここからどんな風に内容が変遷していったかというと…

欧州の人口推移

大都市の発展は16世紀からで、その時点での10万人都市は以下。

ルネサンスを経たイタリア諸都市ヴェネツィアナポリ、ミラノ、パレルモ、ローマ、フィレンツェ)。歴史的に欧州の地中海文化圏(ビザンチン帝国、イスラム諸王朝)の窓口として機能してきた。

  • 最初は十字軍運動に連動してビザンチン帝国との関係を深めたジェノヴァが優位に立ったが、第4回十字軍(1202年〜1204年)以降、ヴェネツィアが取って代わりイスラム諸王朝との交易を充実させていく。

  • 14世紀欧州で黒死病が流行した時も最先端技術を用いていち早く対処して真っ先に立ち直り、この事がイタリア・ルネサンスの端緒となる。

  • オスマン帝国ヴェネツィアレパント交易を独占されるとポルトガルのアフリカ十字軍を人材面でも資金面でも後援。
  • 大航海時代15世紀中盤〜17世紀中盤)が到来したらしたでユーラシア大陸西部経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると西ヨーロッパに食料を共有する「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」に転落して緩やかな衰退が始まってしまう。

    ルネサンス期における解剖学的正確さの追求と表裏一体の関係にあったエロティズムの充足、そして蝋人形師ズンボの絶望とマルキ・ド・サド歓喜

    人口が急増していく西ヨーロッパ向けの食料供給源となる」戦略は16世紀だけ見ると大当たりだったが、新大陸の作物(馬鈴薯、玉蜀黍、隠元)が普及するにつれ割りに合わなくなっていく。しかし「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」は領民に対する高速と搾取を強化する形で自らの生活水準を守り抜いた(再版農奴)。

スペイン・ポルトガル諸都市リスボンセビリアマドリード)…レコンキスタ運動によってイベリア半島イスラム諸王朝より奪還し、大航海時代15世紀中盤〜17世紀中盤)にユーラシア大陸西部の経済的中心を地中海沿岸から大西洋沿岸に推移させた。

  • 新大陸から収奪してきた金銀を惜しみなく宗教戦争に注ぎ込んでインフレを引き起こし、伝統的地税生活者(領主、教区)や(フッガー家ジェノヴァ銀行家の様な)宮廷銀行家の没落を誘発してしまう(価格革命)。

  • 相応の火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う主権国家への移行には失敗し、次第にそれに成功したフランスや大英帝国に敗退していく。

③オランダ・ベルギー(アントウェルペンアムステルダム)…旧名フランドル。

  • スペインと東欧を統治した神聖ローマ帝国皇帝カール五世(Karl V., 1519年〜1556年)の出身地。

  • 次第に後進地域たるイベリア半島との経済格差が問題となり、これに宗教的イデオロギー問題が絡んで八十年戦争(蘭Tachtigjarige Oorlog、1568年〜1609年、1621年〜1648年)が勃発しヴェストファーレン条約拉Pax Westphalica、独Westfälischer Friede、英Peace of Westphalia、1648年)でオランダが独立。

    アントウェルペン/アントワープ蘭Antwerpen、仏Anvers、英Antwerp)の人口は1500年時点では人口4万数千であったが、1560年までにアルプス以北最大規模の都市へと成長し、八十年戦争(1568年~1609年、1621年~1648年)勃発時点では10万人を超えていた。ただしその後急速に衰退。1589年時点では4万人にまで減少。

    アムステルダムの人口は1500年には1万人を少し超える程度、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年には10万5,000人、1640年には13万人、1700年には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、第二次世界大戦前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している。

    実はスーパー農民という側面も備え、大西洋三角貿易の中枢ともいうべき砂糖栽培技術、南アフリカ植民地の開墾などを手掛ける。

  • 大英帝国名誉革命英Glorious Revolution、1688年〜1689年)に際して一代限りの「英蘭同君統治体制」を敷いたオラニエ=ナッサウ総督家(蘭Huis Oranje-Nassau)が公式にオランダ王統となったのは、ナポレオン戦争の後処理を決めたウィーン会議独Wiener Kongress、仏Congrès de Vienne、英Congress of Vienna、1814年〜1815年)の席上。

    この時ベルギーも獲得したが1830年の革命で分離独立。

④イギリス(ロンドン)…英仏百年戦争1337年/1339年〜1453年)に続いた薔薇戦争1455年〜1485年/1487年)における大貴族連盟自滅が(相応の火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う主権国家への移行を可能とした。

テューダー朝Tudor dynasty、イングランド王国1485年〜1603年、アイルランド王国1541年〜1603年)時代における宗教革命によるローマ教会の影響力排除もこの流れを加速させた。 

  • そもそもは中世欧州貿易網における羊毛供給国として発展してきた。

  • クロムウェル護国卿(1653年〜1658年)の時代から始まった大西洋シフト(商業革命)により国力増大を加速させる。太平洋三角貿易の全盛期。

  • 19世紀に入ると機械式工場制によって大量生産される綿織物が伝統的毛織物産業を圧倒する様になった。(大陸で大量生産される砂糖の方が安価になったので)大西洋三角貿易の時代は終焉。奴隷の買い手を失った黒人諸王朝が次々と崩壊し(衛生学の発達によってやっと、病気に倒れる事なく進出可能となった)欧州人に領土を切り取られ放題となる(アフリカ分割)。

⑤フランス(パリ)…英仏百年戦争1337年/1339年〜1453年)に続いた公益同盟戦争1465年〜1477年)とフロンドの乱1648年〜1653年)による大貴族連合自滅が(相応の火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う主権国家への移行を可能とした。ユグノーHuguenot)との対決やガリカニスムGallicanisme)導入も重要な鍵に。

  • 太陽王ルイ14世Louis XIV、在位1643年〜1715年)はフランス国王に求められる職能が「直接交渉が不可能な対立勢力の調停」にある事を正確に見抜いていた。「下手に一人勝ちしたら、有事の際に全責任を負わされる理不尽」についてさえ。しかし後続が凡庸で外交革命(独Umkehrung der Allianzen、仏Révolution diplomatique、英 Diplomatic Revolution、1756年)を起点とする一連の動きで対外戦争を根絶やし視してしまい、かつ由緒ある帯剣貴族や法服貴族によって構成される宮廷貴族の既得権益保全ばかり優先して新興産業階層の声を無視する様になったのでフランス革命1789年〜1799年)が勃発してしまう。特にジャコバン派恐怖政治(サン=キュロットの支持に後援された急進共和派の暴走)による資本主義インフラ破壊は徹底しており、フランスへの産業革命導入を半世紀遅らせた上に二度と大英帝国に追いつけない状況を生み出してしまったのである。

  • そのフランスへの産業革命導入を可能としたのがサン=シモン主義の導入で、そのノウハウはドイツ帝国や米国や大日本帝国にも模倣されている。

オーストリアウィーン)…帝政ロシアオスマン帝国と並ぶ(相応の火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う主権国家への移行に失敗した大国。三国とも第一次世界大戦1914年〜1918年)を契機に消滅し、国家間の競争が全てとなる総力戦体制時代1910年代後半〜1970年代)が始まる。

  • ウィーンの人口は1754年には18万足らず、1800年には23万超、1840年には38万足らず、1860年には80万足らずと推移してきたが1890年には130万人、1900年には160万、1910年には200万を超えていた。

  • ウィーンの人口急増はおそらく2月/3月革命(1848年〜1849年)による既存農本主義的伝統の崩壊なんて話にも関係してくる。また伝統的拘束から解放されたオーストリア臣民は上洛するばかりでなく、ハンブルグでニューヨーク行きの便に乗ってアメリカへと移住していった。

ここから17世紀にかけて、ローマ、アムステルダム、パリ、ロンドンは急激に抱える人口を増加させ、世紀末までにパリ、ロンドンは50万を越える人口を有するまでとなる。そして1800 年当時の諸都市の人口は、ロンドン86 万人、北京 90 万人、上海5万人、パリ 54 万人、ニューヨーク6万人と推定されている。

そして産業革命拡散による供給過多状態がもたらした大不況時代(1873年〜1896年)を経て「(産業革命がもたらす)大量生産は(庶民の消費者化といった大量消費によって支えられねばならぬ」という常識が広まる。これにより「下部構造生産手段が上部構造人間社会を規定する」とするマルクスの説は完全に過去のものに。

江戸の人口

ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。なお国勢調査の始まった1801年のヨーロッパの諸都市の人口はロンドン 86万4845人(市街化地区内)、パリ 54万6856人(城壁内)であり、19世紀中頃にロンドンが急速に発達するまで江戸の人口は北京や広州と同規模か、あるいは世界一であったと推定されている。
*ただ江戸の人口は参勤交代制で膨れ上がっていたところもあって、幕末これを取りやめた途端に人口が一気に20万人近く減って未曾有の大不況に襲われたという。また江戸の面積は他の欧州都市より遥かに大きく、広大な森林をその敷地内に抱え込んでいる為、来日した外国人から「まるで都市が森に埋め込まれている様だ」と表現されている事も忘れてはならない。

江戸幕藩体制下の江戸が近代化以前なのにその人口が百万人を超えていたのは「庶民の消費者化」なら完了していたからであったとされる。欧州でこれに一番最初にこれを達成したのがイギリスのロンドンで、次がフランスのパリだったとも。庶民向け商品の品揃えが急に充実するのでその時期を見定めるのはそれほど難しい事ではない。

 現代中国の人口問題と北京の人口移動

中国の人口資料は数こそ多いが統計の方法が恣意的で統一的に理解するのは困難である。とにかくそれによれば清の6代皇帝乾隆帝在位1735年〜1705年)の時代に初めて1億人の大台を超え、乾隆6年(1741年)の人口数は1.43億人、乾隆28年(1763年)に2億人に達し、乾隆59年(1794年)には3億人に達している(乾隆6年から乾隆59年にかけての半世紀で倍増)。清朝はこの頃が領土が最大に達した最盛期であった。その後は二つの世界大戦があった20世紀前半まで「支那に四億人の民あり」といわれる時代が続く。

こうした解釈をホブズボーム史観に対応させると以下の様になります。

  • 長い19世紀」…「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が割拠する地方分権状態に「(相応の火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制の徴税によって養う)主権国家」が勝利していく過程。

  • 短い20世紀」…第一次世界大戦(1914年〜1918年)を契機とするハプスブルク帝国オスマン帝国帝政ロシアの消滅を契機に国家間競争が全てとなった総力戦体制期(1910年代後半〜1970年代)が到来。この際にそのまま(国際協調世界への参加条件たる主権国家への移行を自力では果たし得ない後進国共産主義体制導入による既存体制破壊を必要としたと考えるのが「共産主義瘡蓋(かさぶた)」となる。

  • 中国やベトナムの資本主義化は共産主義のオリジンともいうべきサン=シモン主義の導入によって達成されたと考えられる。ある意味「開発独裁」体制の先駆けともいえなくもないこのシステム、残念ながらそれ自体は「民主化プロセス」の様な政治的革新要素は含んでない(含んでないが故に王政や帝政下でも警戒されず導入されてきた経緯が存在する)。

こう考えてやっと21 世紀につながる歴史観に…