諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【太陽の王子ホルス】【KUBO/クボ 】さらなる大源流について

f:id:ochimusha01:20190801211448p:plain

こういう評論を待ってました。

まずは『太陽の王子ホルスの大冒険」が作られた時代背景から考えてみたい。制作が始まったのは1965年、公開されたのは1968年、大作とはいえ、日本のアニメで3年もかけるのは異例のことである。1965年といえば、世界史ではアメリカがベトナム戦争に直接介入し始めた年として、世界史に記憶されている。1968年にはフランスで5月革命が起き、チェコスロバキアではプラハの春と呼ばれる変革運動があり、アメリカでは黒人解放運動のリーダーだったマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されている。一方、ベトナム戦争は激化していた。そんな時代の作品である。

ある意味、ライカ・スタジオの3Dストップモーション・アニメ映画「KUBO/クボ 二本の弦の秘密Kubo and the Two Strings、2016年)」が下敷きにした作品。

労組が生んだ大傑作『太陽の王子ホルスの大冒険』|Tatsuro Kashihara|note

原作はアイヌ叙事詩をベースにした深沢一夫の人形劇『春楡の上に太陽』だった。深沢が書いた脚本をコピーしてスタッフが回し読みし、意見を出し合う。それを深沢に投げ返し、深沢は彼らの意見を取り入れて新たな修正原稿を書く。こういう作業を何度も繰り返して、シナリオを煮詰めていった。高畑は完璧主義者なので、自分が本当に納得できるまで、何度でも何度でも繰り返す。

大塚によれば、この作業の中で、宮崎駿の存在が浮上してきたという。大塚を筆頭に、関わったすべてのスタッフの意見を取り入れながら『ホルス』の物語を今ある形に落とし込んだのは、高畑と宮崎の話し合いだった。組合活動においても深い関係にあった高畑と宮崎だが、彼らには共通の話題があった。それは海外のアニメである。この時代のアニメーターは皆、技術的に優れた海外の作品を貪欲に吸収しようとしていた。

1955年にフランスのアニメーション作家ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』が日本で公開されている。当時まだ学生だった高畑勲をこの作品に驚嘆し、心を奪われたという。実際『やぶにらみの暴君』はその表現力、芸術性の高さで、発表当時から高い評価を受けていた。何度も映画館に通い、メモを取ったという高畑の、この作品に対する思いは『漫画映画の志』という著作に詳しく書かれている。この作品には大塚康生も大変な衝撃を受けていた。そして、彼らより年下の宮崎駿もだ。彼らは、東映動画で出会う前に『やぶにらみの暴君』に打ちのめされていたのだ。


1947年、フランスがドイツ軍の占領から復帰して3年後、フランス初の長編アニメーション映画の制作が開始された。1952年、いわく付きのまま発表され、後に『王と鳥Le Roi et l'Oiseau)』と改題されて完成することになる、映画『やぶにらみの暴君La Bergere et le Ramoneur)』である。

アニメーション監督ポール・グリモーと国民的詩人であり脚本家でもあったジャック・プレヴェールの二人で制作を開始した『やぶにらみの暴君』であったが、その制作は困難を極めた。当初20人で開始したスタッフは100人を超え、制作開始後4年を経過しても完成せず、制作費は既に底をついていた。この状況に耐え切れなくなったプロデューサーのアンドレ・サリュは、作者二人の意に反してメインスタッフを解雇。イギリスに渡り無理やり辻褄を合わせて完成させてしまう。

事態の進行に納得できない作者は、プロデューサーに対し契約の履行を迫り、作品の差し押さえを求め訴訟を起こすが、当時、映画についての著作権は確立されておらず、訴えは退けられ敗訴してしまう。そしてその間に『やぶにらみの暴君』は、1952年のヴェネツィア映画祭に出品され、審査員特別大賞を受賞。翌53年には、作品の冒頭に、作者二人の承認しない削除・変更・付加が存在する旨の字幕と、それに対してサリュが抗議と保留を表明する字幕の二つを入れるという異例の状態で、一般公開されてしまう。

作者二人の意に沿わない形で世に出た『やぶにらみの暴君』だったが、評価は高く、多くの国で公開され、世界中のアニメーション作家たちに大きな影響を与えた。日本においても1955年に公開され、「芸術の国フランスの香り高い漫画映画」との絶賛を浴び、キネマ旬報のベストテン第六位に入り、映画評論家だけでなく、知識人や詩人、作家たちもこの映画に夢中になった。その中には、滝口修造飯島耕一寺山修司や、後にアニメーションの作り手となる若き日の高畑勲宮崎駿などもいた。以後『やぶにらみの暴君』は日本でカルト的な人気を得ることになる。

その後、1967年、執念のグリモーは、作品の権利とネガフィルムを買い取ることに成功し、以後、プレヴェールと想を練り、遂に1979年、題名も『王と鳥』と改め、新たな作品として完成させる。『やぶにらみの暴君』 の音楽は、プレヴェールと名曲『枯葉』を作った作曲家ジョゼフ・コスマが担当したが、先の事件の過程でプレヴェールとコスマは決別し、『王と鳥』の音楽はポーランド出身のヴォイチェフ・キラールが手がけた。ただし、キラールの主張もあり、『やぶにらみの暴君』のコスマ作曲の歌7曲のうち4曲はそのまま活かされている。

『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』には様々な違いがあるとはいえ、プレヴェールとグリモーの基本的な考え方は30年の年月を経ても一貫している。ただ、ラストシーンの違いは大きい。作者は1970年代という視点から、未来永劫にも通じる普遍的なメッセージとして「抑圧からの解放」という強烈なメッセージをラストシーンに込めたのだった。完成当時、グリモーはインタビューにこう答えている。

“さまざまな不正義、暴力、人種差別。いたるところでこれほど多くのことが踏みにじられているのを見て、それらすべてについて控えめに目を伏せている理由はありません”

そして、このラストシーンが、プレヴェールとグリモーの共同作業の終わりとなった。ジャック・プレヴェールは完成の2年前にこの世を去り、ポール・グリモーは完成当時75歳になっていた。構想以来、実に34年の歳月が流れていたのである。

こうして完成された『王と鳥』は、1979年、フランスで最も権威のある映画賞と言われるルイ・デリュック賞をアニメーション作品として初めて受賞。フランス国内では、新聞・雑誌はこぞって賛辞を寄せ、興行的にも大成功をおさめた。

「やぶにらみの暴君(La Bergere et le Ramoneur、1952年)」「王と鳥(Le Roi et l'Oiseau、1958年)」 - Wikipedia

原作は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「羊飼い娘と煙突掃除人La Bergere et le Ramoneur)」。

  • やぶにらみの暴君』は日本で公開された1953年当時、評価が高く、文部省の選定と優秀映画鑑賞会の推薦を受け、映画雑誌『キネマ旬報』の外国映画ベストテンの6位に入賞した。アニメが映画として評価されることのない時代にこれは極めて異例なことだった。この作品を見たことがきっかけで、高畑勲芝山努といった後の日本のアニメを支える人材がアニメの道を志した。宮崎駿も「やぶにらみの暴君」に感銘を受けた1人であり、宮崎の監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』などへの影響が見られることが指摘されている。高畑、宮崎といったスタジオジブリの作家への影響から、2006年に同スタジオなどによって日本でミニシアターで劇場公開され、高畑は本作に関する書籍を発表した。

  • 一方、1985年の広島国際アニメーションフェスティバルで初めて日本国内で上映が行なわれた『王と鳥』は日本では評判が悪く、漫画家の手塚治虫、アニメ評論家の森卓也おかだえみこ小野耕世、渡辺泰、アニメーターのうつのみや理らが改作版の「王と鳥」でなく、「やぶにらみの暴君」が優れているとしている。アンケートで世界のアニメのランキングを決定した書籍『世界と日本のアニメーションベスト150』で5位に入っているが、「やぶにらみの暴君」としてであった。映画雑誌『キネマ旬報』でも同様の企画「ジャンル別オールタイムベスト・テン アニメーション」が2004年8月下旬号で行われ、こちらでは10位だったが、同様に「やぶにらみの暴君」として、品田雄吉おかだえみこ、望月信夫らが投票している。

アニメ史上初の搭乗型の巨大ロボットが登場する作品と言われる。

*一方、ルパン三世「さらば愛しきルパンよ」や「天空の城ラピュタ」に登場する操縦型ロボット兵の元ネタは「フライシャーのスーパーマン」とされる。

ストーリー

砂漠の真ん中に聳え立つ孤城に、ひとりの王が住んでいた。その名も、国王シャルル5+3+8=16世。わがままで疑心暗鬼の王は、手元のスイッチ一つで、気に障る臣下を次々に「処分」していった。
*まさかの「どくさいスイッチ」元ネタでもある?

望みさえすれば、なにものでも手に入れることが出来るはずの王シャルルは、ひとりの美しい羊飼いの娘に片思いをしている。
アンデルセンの原作で暴君に該当するのは(現金を沢山秘蔵する)古箪笥、すなわち富裕層で娘の父が富の誘惑に負けてしまう。そう「ルパン3世カリオストロの城」におけるゴート札ネタはここまで遡るのである。

城の最上階に隠された秘密の部屋の壁に掛かった一枚の絵の中にその娘はいて、隣合わせた額縁の中の煙突掃除屋の少年と深く愛し合っていた。嫉妬に狂う王を後に、ふたりは絵の中から抜け出し、一羽のふしぎな鳥の助けを借りて城からの脱出を試みる。
*この暴君と羊飼いの娘の関係が「ルパン3世カリオストロの城」におけるカリオストロ伯爵とクラリスの関係に投影されているとも。

結末の変更

やぶにらみの暴君』と『王と鳥』は、場面のカット割りなど細かな点も含めば、きりがないほど内容に違いがある。ストーリーも大筋の流れは似ているものの結末は大きく異なったなものになった。
ããã¶ã«ãã¿ã®æ´å ã©ã¹ããã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

  • やぶにらみの暴君』では、城や街が崩壊して(おそらく数ヶ月経った頃)、残骸にもたれるように座っているロボットの近くに小さな村ができており、羊飼いの少女や煙突掃除の少年、動物たちや盲目の男等が記念撮影のために村の広場に集まり、笑顔の中で鳥がカメラのシャッターを下ろしたところでエンディングロールが流れる。

    f:id:ochimusha01:20190802024256p:plain

  • 王と鳥』では、城や街が崩壊した後、ロボットが残骸に腰掛けて考える人のようなポーズで座っており、(登場人物たちは去っていったのか)多くの足跡が地面に残っていた。罠の籠から脱出を試みていた子鳥がロボットの足元に来たとき、(操縦者は不明だが)突然動き出したロボットが籠を開けて小鳥を逃がし、籠を壊したところでエンディングロールが流れる。

    f:id:ochimusha01:20190801212054p:plain

音楽に目を向ければ『やぶにらみの暴君』の楽曲は、躍動感のある迫力の音楽で展開を盛り上げているが、対照的に『王と鳥』の楽曲は監督であるグリモーの作家性がより強く出た内容に合わせてか、静かな印象を受ける。セリフも「ですます調」にされている。

どうやら「縦の動きすなわち身分ヒエラルキーの超越)」の部分は宮崎駿監督アニメ映画「ルパン三世カリオストロの城1979年)」や「ハウルの動く城2004年)」を貫く主題であり、かつ神山健治監督アニメ映画「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜2017年)」の元ネタでもある様だ?
f:id:ochimusha01:20170416182542g:plain

そしてフランス文化はさらに「コミック作家メビウスMoebiusのハードボイルド路線」という形で改めて日本文化史に爪痕を残す形に。

f:id:ochimusha01:20190802084411p:plain

  • そもそもフランスにおいては絶対王政の樹立過程で地方に分立する(大貴族連合や教会勢力や職業ギルドといった)在地有力者集団が王権(国王とその直臣達)の暴走を掣肘する伝統的構図が崩壊し、中央集権にインテリ=ブルジョワ=政治的エリート体制が集団知性として対峙する啓蒙主義的構造がこれに置き換わる。こうして「(絶対君主から大衆消費社会の大衆に継承されていく究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマと、あえてこれに依存して保身や自らの立身出世の為に役立て様とする社会自由主義が対峙する構造が表面化してきた。

    日本でいうと大正12年1923年)に関東大震災後の混乱を受けて公布された緊急勅令「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件大正12年勅令第403号)」を前身とし、普通選挙実施に伴う「赤化への恐怖」が反映された治安維持法昭和16年(1941年)3月10日法律第54号)制定によって大いに権限を増強した特別高等警察Special Higher Police, SHP)が査察・内偵・取り締まりの主ターゲットたる「国体皇室私有財産制を否定する」(そもそも国家の存在そのものを認めない無政府主義者・(より過激な国家主義者としての共産主義者社会主義者などを狩り尽くした後、リストラを恐れるあまり取り締まりの対象を反戦運動や(大本教の様な)類似宗教や一般市民の風紀取り締まりや言論統制に拡大していった展開と対応する。

  • これをそのまま継承した共産主義圏において「(当時共産主義社会を技術的停滞に追い込みつつあった)神人同形論(Anthropomorphism/アントロポモルフィズム)」が暴走。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが「ソラリスの陽のもとにSolaris,1961年、映画化1972年、2002年)」の中でその対極的存在、すなわち「人間の思惑が一切届かない神秘的存在」として惑星ソラリスを設定。この発想がストルガツキー兄弟の「丘の上のピクニック/願望機1977年)」における「異星人の足跡が発生させた神域」という設定などに継承されていく。

    こうした作品群はアーサー・C・クラーク幼年期の終りChildhood's End、1953年)」や「2001年宇宙の旅2001: A Space Odyssey、1968年)」にインスパイアされる形で主に共産主義諸国で執筆され(ドラッグを捨て「脳を再プログラミングする道具」コンピューターに入れ込んだ)1980年代以降のティモシー・リアリーの「元ヒッピーベトナム反戦運動の一環としての徴兵忌避でカナダに移住した)」ウィリアム・ギブスンなどへの働きかけを通じてによってTV系サイバーパンク文学ブーム開始に大きな影響を与えている。ただし正確な科学的知識に裏付けられていなかったので次第に時代遅れとなってインターネット普及が始まった1990年代以降は衰退。後世の再読に耐え得るのはJ.P.ホーガンやルディ・ラッカー程度で、前者の「仮想空間計画Realtime Interrupt、1995年3月、邦訳1999年)」が河原礫「ソードアートオンラインWebへの連載開始2002年〜、刊行開始2009年〜)」シリーズ、「未来からのホットラインThrice Upon a Time、1980年)」が「Steins;Gateシュタインズゲート、2009年〜)」シリーズの基本的世界観に強い影響を残した。

ところでフランスとロシアが文化圏的に一括りとされる傾向はバレエ・リュスの時代まで遡るのです。

そういえば1960年代に日本歌謡に多大な影響を与えたセルジュ・ゲンスブールウクライナ出身だったりする。そして全体的にそこはかとなく終始漂うロリコンの香り…この問題、案外根深い?


さらには「下手したら日本へのロックロンロールの伝播すらフランス経由だったかもしれない」とバルタン星人が申しております…

何という恐ろしい時代…

メビウスMoebius

フランス人漫画家(バンドデシネ作家)ジャン・アンリ・ガストン・ジロー(Jean Henri Gaston Giraud,1938年~2012年)のペンネームの一つ。40年にわたって続けられた西部劇漫画『ブルーベリー』シリーズでは「ジャン・ジロージル)」を、より自由な筆致でSF・ファンタジー作品を手がける際にはこちらを用いた。大友克洋宮崎駿谷口ジローなどに多大な影響を与えただけでなく、脚本家ダン・オバノン原作の探偵漫画「ロング・トゥモローLong Tomorrow)」を1975年に「メタル・ユルラン」に掲載。これがウィリアム・ギブソンの初期作品やリドリー・スコット監督のSF映画ブレードランナーBlade Runner、1982年)」のヴィジュアルに影響を与えた。さらに「エイリアンAlien、1979年)」「トロンTron、1982年)」「アビスThe Abyss、1989年)」「フィフス・エレメント仏題Le Cinquième élément、米題The Fifth Element、1997年)」といった様々なSF映画のコンセプト・デザインを手がけている。

http://lh5.ggpht.com/_NSzqoxl-iw8/Sib379tXypI/AAAAAAAAH-8/UQeK1vDIWeo/s800/tristanvisita03.jpghttp://2.bp.blogspot.com/-yQ6vSwV8gcg/T14L3jkn4SI/AAAAAAAABZs/vKZRdqHxHAM/s1600/moebius_long_tomorrow.jpg

http://4.bp.blogspot.com/-axr0j94UmrM/T1uMuUlpvBI/AAAAAAAAAz0/YXhOE6CqOvs/s1600/moebius_long_tomorrow.jpg 

https://lh3.googleusercontent.com/-V9lKks81hD4/TYwnAxnHLAI/AAAAAAAACJg/75-Zkvpyda0/s1600/1979_alien_006.jpg

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-67-b9/takeshi_krt/folder/1020519/27/31124327/img_4?1205646521https://38.media.tumblr.com/9bb04b154ac5ff65c1843ef293419638/tumblr_nmkowqLGkZ1teygvgo7_400.gifhttps://66.media.tumblr.com/046e054be7b584ea96c5d1b8b233e3cc/tumblr_oa1v2rV4I81rsbbueo2_500.gifhttps://67.media.tumblr.com/e53ba1a60d2f8b57cff8591bf4bda6cc/tumblr_oa1v2rV4I81rsbbueo3_500.gifhttps://encrypted-tbn2.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcScLkizwYjJJzKZAviZBWYEq4JGyxZVQo92kpNmWr_tJEB3UOKshttps://socialecologies.files.wordpress.com/2016/01/002_abyss_theredlist.jpg
*ちなみにフィフス・エレメントの「歌姫」は 初音ミクを産んだVocaloidの元ネタ…

労組が生んだ大傑作『太陽の王子ホルスの大冒険』|Tatsuro Kashihara|note

 そしてもう1本、重要な作品が1960年にNHKで放映された。ソ連のアタマーノフによる『雪の女王』だ。東映動画労働組合は、こういった作品の自主上映会を行なっており、宮崎はそこで『雪の女王』と遭遇したという。ネットのなかった時代、情報に飢えていたアニメファンは、サークル・同好会的な交流でガリ版刷の同人誌を出したりして交流していた。そこではプロアマの垣根はなく、ファン活動からプロのアニメーターになる者もいた。東映動画の労組も、そういった流れの中にある。大塚も高畑も宮崎も、職人として東映動画に就職したわけだが、現場ではそれこそ学生の部活動のように好きなアニメについて語り合っていたようだ。当然のことながら『やぶにらみの暴君』や『雪の女王』の話になる。ディズニー作品が世界最高峰のアニメとしてある中、フランスやソ連で、それに負けない作品が作られている。

それでは、我々の作るべきアニメとはどんな作品だろう?理想のアニメとは?こんな会話の延長線上で『ホルス』のシナリオは練られた。

当然のことながら『ホルス』には『やぶにらみの暴君』や『雪の女王』の影響が深く刻印されている。ビジュアルだけで見ても、『ホルス』の悪魔グルングルドの外見は雪の女王によく似ているし、グルングルドの手下の狼が氷となって襲ってくる描写は、雪の女王の寒波による攻撃から影響を受けている。逐一書きだすとキリがないので、その辺のことは自分の目で確認してほしい。

『やぶにらみの暴君』はグリモー自身の意志で改作されたものが『王と鳥』というタイトルでジブリのレーベルから発売されている。

宮崎らがグリモーらから受けた影響は、形を変えて後の作品にも残っている。宮崎作品の自由自在な空間設計は、若き日に見た海外の作品から貪欲に吸収したものを昇華した結果なのだ。

映画『アナと雪の女王』の宣伝素材によれば、ウォルト・ディズニーは生前『雪の女王』の映画化を熱望していたという。しかし、実現には至らなかった。

推測だが、その理由の一つは先行するアニメーション映画が存在していたからではないか。ソユウズ(サユース)ムリトフィルム(ソ連邦動画スタジオ)制作、レフ・アタマーノフ監督の長編アニメーション『雪の女王/СНЕЖНАЯ КОРОЛЕВА1957年)』である。

この作品は、冒頭部の「悪魔の鏡の破片が世界に飛び散った」くだりを雪の女王の氷の破片とするなど一部の改変はあるものの、ほぼ原作を忠実に再現した上、余分な枝葉(魔法使いの庭の花々の長い自分語りなど)を取り払って見事にまとめている。進行役にアンデルセンの別の童話『眠りの精のオーレ・ルゴイエ』の主人公を登場させたことも奏功している。

ディズニー長編とは異なり、ミュージカルシーンはない。お伽噺にありがちな大人しく美しいだけで主体的意志を持たないヒロイン像とは異なり、自らの意志で運命に抗う少女ゲルダが主人公である。過酷な試練を乗り越えながら少女が旅を続けるロードムービーであり、勧善懲悪を避けて登場人物たちが改心し交流する心理的変化が丁寧に描かれるなど、当時としては何もかもが画期的な長編アニメーションであった。

1959年にこの作品の英語吹替版が制作され、翌60年に『THE SNOW QUEEN』として北米公開を果たしている。その際、初期ディズニーの最大のライバルであったフライシャー兄弟の弟、デイブ・フライシャー監督が英語版の制作と宣伝に協力していた。兄マックスと弟デイブのフライシャー兄弟は、ディズニーに先んじてロトスコープ実写の演技を動画に引き写す技術)など様々な技術を開発、『ベティ・ブープ』『ポパイ』などの人気シリーズを生み出したトップ・アスリートであった。

しかし、デイブは傑作長編『バッタ君町に行く1941年)』を最後にスタジオを去った。作品は12月に公開されたものの観客の支持を得られず、公開直後に日本軍の真珠湾攻撃によって戦時体制となり、興行的に失敗。フライシャー・スタジオは破産した。

マックスはジャム・ハンディ・スタジオを経て、晩年はフェイマスプロの代表に就任。アニメーション制作に関わり続けた。しかし、デイブのその後の消息は資料が数少ない。18年ぶりに長編アニメーションに関わった心中は、いかばかりであったろうか。

40年代からのフライシャーの衰退とは逆に隆盛を極めたのがディズニーである。この作品を当時『眠れる森の美女1959年)』公開直後だったウォルトとディズニーのスタッフが鑑賞していた可能性は高い。それゆえ、ディズニーは当然アタマーノフ/フライシャー版とは異なる方向で映画化を目指した筈である。

以来50年を経てその遺志を継いだ『アナと雪の女王』が、アンデルセンの原作とかけ離れた設定からスタートせざるを得なかったのは、ある意味当然であったのかも知れない。

雪の女王』が日本に輸入されたのは1960年、ソ連映画の配給会社・日本海映画によって英語版を下敷きにした日本語吹替版が制作され、1月にNHKでテレビ放映された後、フィルムでも上映された。1997〜98年にはビデオ・DVDも発売されたが、ほとんど吹替版(LDのみロシア語版あり)であった。

思わぬ箇所でフライシャー兄弟の名前が…

さらなる背景として「反ハリウッド文化としてのロシア=フランス文化」なるパワーワードが浮かび上がってきます。

1945年5月9日、ソ連ロシア)は多大な犠牲(2千万人以上の戦死者)を払った結果、侵略国ナチ・ドイツに勝利した。この国を勝利に導いたスターリンは国民の大多数の敬愛を一身に受けた。だが彼は歴史の事実を改竄し1930年代に独裁体制を確立したことでも知られる。後にスターリン時代の様々な詳細を知らされた私たちは、一つの国がいかに矛盾に満ち複雑な様相を呈していたかと驚かされる。そのスターリンが孤独な死を遂げたのが1953年、翌年の晩秋に作家のエレンブルグは『雪どけ』と題する小説を書き、これは1955年春に発表される。スターリン時代に自己規制も含め、抑制され避けられてきた個人の感情表現を、エレンブルグはこの小説の登場人物たちに反映させ表現した。これは芸術の自由につながる重要な問題でもあった。小説のタイトル『雪どけ』は、ポストスターリンの時代状況を表す比喩として使われるようになった。そして1956年のソ連共産党の党内会議でフルシチョフスターリン批判演説を行い、個人崇拝が否定される。翌1957年6月の中央委員会総会で今までのメンバーが入れ替わる。同年10月には世界初の人工衛星スプートニク”が打ち上げられた。戦後の復興が目に見え、人々の気持ちが変化を喜び、わき立っていた1957年、「雪の女王」も登場したのだ。

最も明るく喜びに満ちた時期だった」とシュワルツマンは回想する。「1951年に私は国立モスクワ映画大学美術部を卒業したが、先生だったアタマーノフ雪の女王」監督が学生の頃から目をかけてくれ仕事を手伝った……。彼はフョードル・ヒトルークの先生でもあった……

こんな話を聞いているとめまいがしてくる。シュワルツマンもヒトルークも「話の話」や「霧の中のハリネズミ」の監督ノルシュテインの先生だ。ロシア・アニメーションという大河が目の前でうねって流れているような気がしてくる。

雪の女王」でシュワルツマンはキャラクターを、少し年下のヴィノクーロフは風景を担当した。当時のソ連では国外に出るというのは全くの夢だった。まずソ連の通貨は多くの国で通用しなかった。“鉄のカーテン”という表現もあるが、いわゆるコメコン経済相互援助会議)に参加している国以外からは排斥され、長い間、国交が回復されず平和条約も結ばれていなかった。この映画の原作はアンデルセンなので、アタマーノフ監督はデンマークを舞台にしたかったのだが、国交が回復していなかった。そこでアタマーノフ監督はカメラマンや美術監督二人を連れてバルト諸国へ出かけた。歴史上のいきさつもあり、これらの国々の街並みは最も北欧に似ている。ビリニュスリトアニア)、リガ(ラトビア共和国)、ターリン(エストニア)などの諸都市で写真撮影やスケッチをした。1955年秋から1956年の初夏にかけてエスキースや絵コンテが準備された。そこから完成まで1年半かかったそうだ。

この映画にかかわった誰もが善良だった。戦争や辛い生活をくぐって来ても、いや、そうだからこそ、ユーモアを忘れず、楽観して仕事に励んだよ。そうだ、未来があった。希望があった。世界がよりよくなる、そうできるという……」リョーリャの目のふちに、喜びと悲哀がにじみ仄かに赤くなった。

雪の女王のラスト、呪縛からカイを無事奪い返したゲルダ。二人はトナカイに乗って、春の息吹あふれる大気をつききる。お世話になった人々や動物たちへ感謝の言葉をかけながら。皆は微笑み慈しみの眼差しで二人を見送る。ゲルダとカイの喜びは私たちに清らかなカタルシスを投げかけ、私たちも思わず、一緒に「ありがとう」を唱和する─このエンディングは当時のソ連の人々が思い描いた、また私たちが心から引き継いでいきたくなる、また向かっていかなければならない未来を示しているのではないだろうか。

原作から除外された「悪魔」要素と、代わって前面に押し出された「ロシアの寛容精神」について。

シュワルツマンは、クリスマスにモスクワで刊行されるという絵本『雪の女王』の挿絵原画50枚のほとんどを書斎に並べて見せてくれた。

その中に大きな鏡を数人の小悪魔たちが抱えて空に昇っていく絵があった。このシーンは映像ではとりあげられていないが、確かにアンデルセンの原作にはある。悪魔が何でもねじれて映る不思議な鏡を作った。悪魔はこの鏡を持って歩き、地上のあらゆるものを映してみる。それがすっかり種切れになると、鏡を持って天に登り、神様と天使たちをからかおうと画策する。しかし鏡は途中で落ちて粉々に割れる。その小さなカケラが人々の目や心にささり居座ると、人々はすべての物事を悪意を抱きつつ見るようになる。アニメーションでは、そのような悪魔や彼の生徒である未来の小悪魔などは登場しない。

原作との違いということでいえば、原作ではゲルダが時おり古い賛美歌の一節を口ずさむ。その響きは、一つの節目を作り、読む側が思っていた以上の大きな役割を果たす。例えば、永久に凍ったようなカイの心を溶かすきっかけの一つにもなる。

だが映像ではこのような宗教性が全く表出されていない。歴史上の政治権力と宗教勢力の癒着という事実から生まれたマルクスの言葉《宗教はアヘンである》を、表面上受け入れる向きが世界中にあったし、今もある。そのせいだろうか? それともアンデルセンが生きた時代(1805~1875)と1950年代半ばという映画制作時との差異や、社会主義実際にはソ連社会主義)を建前にした国だからという理由によって、宗教性が排除されたのだろうか? そうかもしれない。だが、このアニメーションを何度も見て考えると、単純にそうだと言い切れない思いが迫ってくる。

映像の展開を見ていくとその奥深くに、私たちの目には見えにくいが、ロシア正教の心性が隠されているように思われてくるのだ。

同じキリスト教でも、カソリックには誇り高き精神が、ロシア正教には寛容の精神が見られる。私が親しくしている信心深いロシア人のおばあさんは、性格の悪い(私たちに共通の)知人の女性のことに触れるとき、涙ぐみながら「かわいそうに」と言ったことがある。その女からひどい目にあっているのに! 私は吃驚して「なぜ、かわいそうなの!?」と叫びに近い声を出した。「そういう性格だから」と彼女は呟いた。「あの性格を直さない限り、幸せにはなれないから…。性格は簡単には変えられないから…。何と不幸な女だろう…」。彼女の言葉を聞き、その行為に接するうちに、私の人を見る目、人の受け入れ方が変わってきた。

私のことはともかくとして、今、「雪の女王」の中に私は、このおばあさんの面影、ロシア正教の寛容の精神を見出す。「ロシアの女こそ、心美人の典型だ」と微笑んだ音楽家がいたが、寛容の心をもつ心美人のひとりは「雪の女王」の中で「アイ、アイ…」とゲルダのために心痛めるフィンのおばあさんかもしれない。

雪の女王のまなざしにも“寛容”の光がよぎるのを目にしたと思うのは、私だけだろうか? 「雪の女王」で響くロシア語ほどうるわしいロシア語を聞いたことがないけれど、雪の女王の物言いも、震えてくるような美しさだ。声の主は、人民芸術家の称号や国家賞を授与されている女優マリーヤ・ババーノワ(1900~1983)。『森は生きている原題『12月』、この中の吹雪はまさに『雪の女王』を思わせた)』初来日公演を成し遂げたコミサルジェーフスカヤ劇場付属の学校を出てから、メイエルホリド劇場、革命劇場(1957年よりマヤコフスキー劇場)などで大活躍した人だ。その彼女が巷で何よりも知られ、高く評価されているのが雪の女王の、声の役なのだ。

女王の声音には、春になれば姿を消す運命にあるひとの悲哀が込められていると感じる。春に象徴される“あたたかさ”に弱いひとが持つ、陰りのような響きがある。そしてまた、ゲルダのひたむきな愛情を前に、予想に反して、さりげなく引き下がる雪の女王のまなざしに光る“寛容”……。

ロシア的色彩が目につくのも、この作品ならではだ。

ゲルダのスカートの赤い色。冬が長く厳しいロシアでは誰もが、赤い色を生命力あふれる色と感じる。これは凍えている人々を温める炎の色。ロシアのフォークロアに登場する焚き火は、他者を思う愛情のシンボルでもある。凍えている人を招いて心身ともに温める友愛の象徴でもある。

それ故かロシア語で“赤い”は“美しい”と同意語である。首都モスクワの中心をなすものの一つ“赤の広場”は中世から、このように呼ばれている。中世になって、広場がより整備され美しくなったので、人々は赤の(美の)広場と言い習わすようになったのだ。赤いスカートが、過酷な冬の嵐の中で火のようにゆらめく。それがゲルダのカイを思う熱い心と重なる。

伝統的家長主義に対する「あたたかさ」の追認と「寛容精神の発揮」ですと? まさしくライカ・スタジオ作品「KUBO/クボ 二本の弦の秘密Kubo and the Two Strings、2016年)」に登場する「老害」ライデン(月帝)の扱いそのものじゃないですか…

f:id:ochimusha01:20190802105711p:plain

  • そう、フランスの様に(究極的には体制側と一蓮托生の)インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層が集団知性として中央集権に対峙する構造に至らなかったロシアや中国の文化史は、日食への恐怖が人身供御に至るバレエ・リュスの名作「春の祭典露Весна священная、仏Le Sacre du printemps、英The Rite of Spring、1913年)」からプーチン大統領や(汚職が徹底粛清された毛沢東時代を手本とする習近平独裁体制下における「家父長制名君を独裁者に仰ぐ絶対体制の再建」までそれ自体に対する内省性を備える事がなかったのである。 

  • 私はどちらかというと「(究極的には体制側と一蓮托生のインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層の中央集権への対峙構造」に対する冷笑的立場を貫いてきた立場だけれど「最初からそんな無駄の省かれた効率的な全体主義」を容認する立場でもない。

というより、こうした存在の全ての大元にリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」におけるヴァルハラ城主ヴォーダンが感じられるというのが正しいとも。

かくして「(ドイツ・ロマン主義のバリエーションとしての雪の女王」という観点が…

f:id:ochimusha01:20171229063947j:plain

アンデルセン童話「雪の女王(Sneedronningen、1844年)」

1844年12月21日初版の『新童話集』第1巻第2集に発表された。最初の日本語訳は、1893年9月初版の内田魯庵『鳥留好語』(警醒社)に同じ題名で収められている。
ハンス・クリスティアン・アンデルセン Hans Christian Andersen 楠山正雄訳 雪の女王 SNEDRONNINGEN 七つのお話でできているおとぎ物語

f:id:ochimusha01:20171229054945j:plain

  • ある所にカイという少年とゲルダという少女がいた。二人はとても仲良しだった。しかしある日、悪魔の作った鏡の欠片がカイの眼と心臓に刺さり、彼の性格は一変してしまう。その後のある雪の日、カイがひとりでソリ遊びをしていたところ、どこからか雪の女王が現れた。そして、魅入るようにして彼をその場から連れ去ってしまった。

    f:id:ochimusha01:20171229055033j:plain

  • 春になると、カイを探しに出かけるゲルダの姿があった。太陽や花、動物の声に耳を傾け、少女は旅を続ける。途中、王子と王女の助けによって馬車を得るものの、それが元で山賊に襲われる。

    f:id:ochimusha01:20171229055724j:plain

  • あわや殺されようとするところを山賊の娘に救われたゲルダは、娘が可愛がっていた鳩に、カイは北の方に行ったと教えられる。山賊の娘が用立ててくれたトナカイの背に乗って、ゲルダはとうとう雪の女王の宮殿にたどり着く。
    *山賊の娘は原作では黒人とされるが、挿絵ではアジア系遊牧民や浮浪児とされる事も。
    f:id:ochimusha01:20171229055809j:plain

    f:id:ochimusha01:20171229055258j:plain

  • カイを見つけたゲルダは涙を流して喜び、その涙はカイの心に突き刺さった鏡の欠片を溶かす。少年カイは元の優しさを取り戻し、二人は手を取り合って故郷に帰った。

    f:id:ochimusha01:20171229055518j:plain

    f:id:ochimusha01:20171229055858j:plain

ここに登場する「山賊の娘」は手塚治虫リボンの騎士」には「ジプシーの娘」として登場。その一方でディズニー版「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」では該当する存在が完全削除され様々な論争を巻き起こした。

*個人的にはディズニーが「山賊の娘」を削除したのは、彼女をそのまま残しておくとゲルダがカイ少年を置き去りにして彼女と百合展開を始めてしまうと考えたからではと考えている。考えてみればマーク・トウェインの児童文学「トム・ソーヤーの冒険(The Adventures of Tom Sawyer、1876年)」の続編「ハックルベリー・フィンの冒険(Adventures of Huckleberry Finn、1885年)は、まさしくそういう展開を辿って優良文書から有害文書への転落を経験した訳だし、その少女版が「サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever、1977年)」と並んで1980年代青春搾取ミュージカルの嚆矢を飾る「Times Square(1980年)」だったともいえる。要するに少年だけでなく少女も油断しているとたちまち闇落ちしてしまうという認識…

ソ連アニメ映画「雪の女王/THE SNOW QUEEN(Снежная королева/Snezhnaya koroleva、1957年)」

ソ連ソユーズムリトフィルムによって1957年に製作された長編アニメーション作品。監督はレフ・アタマーノフ。キャラクターの動きはよく練り込まれており、ゲルダは仕草・表情が実在の生きている少女を思わせるほど精巧である。

f:id:ochimusha01:20171229061512j:plain

  • 運命に流されるディズニーアニメのヒロインと異なり、積極的に行動するヒロインのゲルダ、カイや山賊の娘の性格演技、女王の造形センスなど、ディズニーとは異なる独自の流れとして世界のアニメーション史にその名を刻んでいる。

    f:id:ochimusha01:20171229061812j:plain

  • 日本では、1960年1月1日にNHKで放送され、かつてはしばしば日本語吹き替え版が休日などに地上波で放送された。カイは太田淑子ゲルダ岡本茉利が演じたバージョンが親しまれた。東映動画太陽の王子 ホルスの大冒険』など草創期の日本アニメーション界に大きな影響を残した。とりわけ、ゲルダの少女像は東映動画労働組合主催の上映会で見た宮崎駿にショックを与えたとされる。

    f:id:ochimusha01:20171229061847p:plain

  • オリジナルシーンとして、ゲルダがカイの名を呼び、だんだんその声を変えていくことでゲルダと女王が同じ声優であることを演出として示すシーンがあり、吹き替え版でも踏襲している。互いに正反対の行動を見せる女王とゲルダが、実は同じ動機のもとに行動していたとする解釈である。
    f:id:ochimusha01:20171229061157p:plain

2007年12月から三鷹の森ジブリ美術館の配給により、日本語字幕が改められ、オリジナルのロシア語音声でリバイバル公開されDVD発売もされている。
*ちなみにこの「ゲルダ雪の女王は表裏一体」解釈、国際的幻想文学の世界では「私の姿を見た者は殺す(だがお前はイケメンだから殺さぬ)」「(正体を隠して)嫁に来た」「私の正体を知った者は殺す(だがお前はイケメンだから殺さぬ)」という展開が斬新だったラフカディオ・ハーン「雪女(Yuki Onna、1905年)」と結びつけて考えられる事もある。

f:id:ochimusha01:20171229062846j:plain

f:id:ochimusha01:20171229062936j:plainf:id:ochimusha01:20171229063020j:plainf:id:ochimusha01:20171229063100j:plainf:id:ochimusha01:20171229063137g:plain

 まず出発点はこの辺り…