諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【天気の子】【解析準備4巡目】新海誠ワールドで「月刊ムー」が果たしてる役割について

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ある意味20世紀に流行した「平行宇宙論」の元祖みたいなもの? 当時は量子コンピューターなどのギミックに絡めて語られる事が多かったものですが、その起源ははるかに古く、ある意味紀元前まで遡るとも。

 可能世界possible worlds…元来はゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz、1646年〜1716年)がみずからの最善世界観を説明するために用いた哲学・論理学上の概念。

我々が現実に生きているこの世界は、その枠内において成立している事態の多くが矛盾しておらず、その範囲内においてなら概ね矛盾なく考えることが「可能」である。もちろんそうした組み合わせは他にも無数に考えられるが(可能世界群、神が唯一選んだのがこの現実世界である以上、この世界こそが最善であるとライプニッツは考えたかったのである。

大元はアラビア哲学における「全能の逆説omnipotence paradox)」論まで遡る議論であり、今日の自然科学界における「ユークリッド幾何学に上位互換性がある非ユークリッド幾何学」や「ニュートン物理学に上位互換性がある量子力学」の登場を予告する内容だった。「神の叡智そのものが無謬だったとしても、その流出先たる人類の知恵の次元では解釈誤謬が鬱積し、遂には一見解決不可能な絶対矛盾まで権限するガザーリーの流出論)」とする考え方。
非ユークリッド幾何学(non-Euclidean geometry) - Wikipedia

ユークリッド幾何学の平行線公準が成り立たないとして成立する幾何学の総称。ユークリッド幾何学に従わない多種多様な公理系モデルに構成されるが、曲率を一つの目安としたときの両極端の場合として、至る所で負の曲率をもつ双曲幾何学と至る所で正の曲率を持つ楕円幾何学殊に球面幾何学)が知られる。

ユークリッド幾何学は、至る所曲率0の世界の幾何であることから、双曲・楕円に対して放物幾何学と呼ぶことがある。平易な言葉で表現するならば、「平面上の幾何学」であるユークリッド幾何学に対して、「曲面上の幾何学」が非ユークリッド幾何学である。

ニュートン力学(Newtonian mechanics) - Wikipedia

現代の物理学の視点では「巨視的なスケールで、かつ光速よりも十分遅い速さの運動を扱う際の、無矛盾・完結的な近似理論」と理解される。

相対性理論は、物体の速さが光速よりも十分遅い・重力が十分に小さい(地球レベル)の条件下ではニュートン力学で十分近似されるし、量子力学の結果は、対象物体の質量を大きくした極限では、ニュートン力学運動方程式の解と一致する。例えば、人工衛星や惑星探査までを含む宇宙航行の運動の予測を行う際には、ニュートン力学を用いて十分な精度で計算できる場合が多い。

その一方で「現在人類が到達した状態こそが神も望む最高峰細かい矛盾など虫可能な誤差範囲内)」なる保守主義的楽観主義的思考停止は欧州復古王政時代(1814年〜1818年)のヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年〜1831年)が継承。これに対抗する形で「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」とするジョン・スチュアート・ミル自由論On Liberty、1859年)」の古典的自由主義、「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」とする「上部構造理論の提唱者カール・マルクス経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の社会自由主義、「進化は系統的に展開する」とするチャールズ・ダーウィン種の起源On the Origin of Species、初版1859年)」が出揃って欧州近代思想が産声をあげたのである。

ちなみにこのサイトは「経済学批判」について、カール=マルクス自身の階級闘争論よりその出版を後援した「社会民主主義の父フェルディナント・ラッサールFerdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)が「既得権の体系全2巻Das System der erworbenen Rechte、1861年)」の中で提唱した「普遍精神Allgemeine Geistの法的勝利過程」を重視する立場。

【参考】フェルディナント・ラッサール既得権の体系全2巻Das System der erworbenen Rechte、1861年)」の内容…そもそもそも貨幣経済浸透以前の「支配」は「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」として実現されていた。ラッサールはこの著作の中でその状態からの脱却過程を以下の様に説明する。

初め権力者はこの世の全てが部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきた。

  • 神仏崇拝の自由化は、神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
    *かつて都市国家の神殿宗教は祭政一致体制を敷いて土地と農業ノウハウを独占し、人類そのものを「神に奉仕する目的のみで創造された奴隷」と規定し領民を完全隷属下に置いていたが、この状態では神殿が破壊されると人間集団そもものも霧散してしまう。この欠陥を補う為に啓典宗教が発案され(神殿の付属物に過ぎない)神官に代わって(究極的には民の一員たる)啓典を奉じた教導者の時代が訪れる。

  • 農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。
    *「領主による領土と領民の全人格的支配」からの脱却過程。地主は土地使用料を受け取るだけの存在に、雇主は賃金を支払う対価として労働者から労働力の供給を受けるだけの存在に変貌していく。

  • ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
    *かつて特権商人や特権組合は「領土と領民を全人格的に支配する領主」の認可を受ける形で特定商品の生産権や取扱権、特定商人と特定集団の取引権、特定領域における通商権を独占し、私有財産の様に継承してきた。これが最終的に全て自由競争に置き換えられていく。

そして現在世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面している。
*この問題には今なお答えが見つかっていない。王侯貴族や教会からの特権剥奪によって、生産を支える労働者がそのまま市場を支える消費者と目される様になった。それでは、このシステムを支えるには「資本家と労働者の富の収益の再分配」はどうあるべきなのか? 共産主義が最終的に到達したのは「全てを統制下に置いて完全管理すれば誰もが幸福になれる」というもの。しかし実際には自由主義圏より先に暴走し、あっけなくシステムとして崩壊してしまったのである。

考えてみればまさに「条件付き確率」モデルそのもの。そして、こうした動きに先駈けて「ラプラスの悪魔Laplace's demon)」概念と「(確率変数の出力が永延に期待値に到達しないベイズ推定」概念を同時提唱したのがピエール=シモン・ラプラスPierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)なる人物。

皇帝ナポレオンから「君の著作には神への言及がない」と指摘され「(全てから独立した公理体系の樹立を目指す数学や物理学には不要の概念だからです」と応えたこの世渡りの達人は、ある意味ドイツの観念哲学者イマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)よろしく「(人間の認識能力の集大成たる独Ding、英Thing)の世界」と「(その外側に「原則として」人類に不可知な形で拡がる物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」を峻別する道を選んだ訳ですね。

ラプラスの悪魔(Laplace's demon) - Wikipedia

主に近世・近代の物理学分野で、因果律に基づいて未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念。「ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、宇宙の全運動(未来を含む)までも確定的に知りえる」超人間的知性のこと。フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスによって提唱された。ラプラスの魔物あるいはラプラスの魔とも呼ばれる。

学問の発達により、近世・近代には様々な自然現象がニュートン力学古典物理学)で説明できるようになった。現象のメカニズムが知られると同時に、「原因によって結果は一義的に導かれる」という因果律や、「全ての出来事はそれ以前の出来事のみによって決定される」といった決定論の考えを抱く研究者も現れるようになった。その一人が、18世紀の数学者で天文物理学者でもあったピエール=シモン・ラプラスである。彼の持つ世界観は、あらゆる事象が原因と結果の因果律で結ばれるなら、現時点の出来事(原因)に基づいて未来(結果)もまた確定的に決定されるという「因果的決定論」とでも言うべきものである。

ラプラス自身は自著「確率の解析的理論1812年)」においてこう述べている。「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も過去同様に全て見えているであろう」。つまり、世界に存在する全物質の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えたのである。

この架空の超越的な存在の概念を、ラプラス自身はただ「知性」と呼んでいたのだが、後にそれをエミール・デュ・ボワ=レーモンが「ラプラスの霊Laplacescher Geist)」と呼び、その後広く伝わっていく内に「ラプラスの悪魔Laplacescher Dämon)」という名前が定着することとなった。

この概念・パラダイムは「(未来は現在の状態によって既に決まっているだろうと想定する決定論」の概念を論じる時に、ある種のセンセーショナルなイメージとして頻繁に引き合いに出されてきたが、20世紀初頭より勃興した量子力学によって、原子の位置と運動量の両方を同時に知ることは原理的に不可能である事が明らかになると(不確定性原理)完全に否定されるに至る。

 神学的背景

全てを知っており、未来も予見している知性」については、遙か昔から人類は意識しており、通常それは「」と呼ばれている。「全知の神」と形容されることもある。そのような存在についての様々な考察は、様々な文化において考察された歴史があるが、ヨーロッパの学問の伝統においては特に、キリスト教神学やスコラ学が行っていた。デュ・ボワ=レーモンはそのような学問の伝統を意識しつつ、あえて「」という語を、「」という言葉に置き換えて表現している。

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こんがらがってきたので全体像の再編を試みます。

  • ラプラスの提言「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も過去同様に全て見えているであろう」については、そもそも近世以前にユダヤ教徒キリスト教徒・イスラム教徒といった「啓典の民」が共有していた唯物神の伝統的イメージの継承と考えるべき。中世までそれに反する事は異端として断罪される事を意味したのである。

  • これに対しアラビア哲学者イブン・ルシュドabū al-walīd muḥammad ibn ʾaḥmad ibn rušd, 1126年〜1198年)ことアヴェロエス (羅Averroes)は「全能の逆説omnipotence paradox)」がまず(ユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学の様な)拡張数理モデルの存在可能性を示唆し、ピエール=シモン・ラプラスPierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)やイマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)は「(人間の認識能力の集大成たる独Ding、英Thing)の世界」と「(その外側に「原則として」人類に不可知な形で拡がる物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」を峻別する事でその拘束から逃がれ様とした。

  • ところが皮肉にも近代、特に(国家間の競争が全てとなった)総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)においては「この世界におけるあらゆる事象の出現頻度はあらかじめ定まっており、人類が計測可能である」とする頻度主義統計学が優勢となる。
    *三原和人の漫画「はじめアルゴリズム(2017年〜)」の後書きにはサラッと「統計学の世界において頻度主義とベイズ主義(条件付き確率)は表裏一体の関係にあります」 と記述されていた。そう、両者の対立の歴史自体が歴史の掃き溜め送りになったのである。これが21世紀…

  • 自然指数・対数関数や複素数から出発し「計測結果が理論値に到達する事は無い」なる結果に至ったベイズ推定の反撃が始まるのはコンピューター普及が進んでCTComuputed Tomography)スキャン分野を皮切りとするMCMCMarkov Chain Monte Carlo method=マルコフ連鎖モンテカルロ)実用化や、E-Mail普及を背景とするスパム・フィルター実装が相次いだ20世紀末まで待たねばならなかった。しかし以降は第三世代人口知能ブームの波にも順調に乗り(元来そうあるべきだった)頻度主義統計学と対等の位置を取り戻す。

こうして21世紀の人類は「我々が認識可能な世界観の向こう側を跋扈する絶対他者」との新たな(前時代よりさらに実存不安を増した)共存関係を強制される様になったのです。

ある意味、新海誠ワールドにおいて「月刊ムー」が象徴的に担わされている役割そのものと言うべきかも。その(あえてどのヒューステリック的発送をも放棄しない)非科学的アプローチゆえに理論値に程遠い段階で事後確率の更新がすっかり滞ってしまっているにも関わらず、読者層はその停滞に苛立つどころか、むしろニーチェツァラトゥストラはかく語りきAlso sprach Zarathustra、1883年〜1885年)」におけるロバの宗教儀礼の様に嗜好品的に「実存不安の解消」に役立てているという…

その不確実性が同時に「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマにある種の冗長性を与えている辺りも重要…