最近、統計学の世界における頻度主義者とベイズ主義者の闘争について調べてるのですが、実はどちらも発端は一人の人物に起因しているという恐るべき事実が発覚…
「異端の統計学ベイズ(The Theory That Would Not Die: How Bayes' Rule Cracked the Enigma Code, Hunted Down Russian Submarines, and Emerged Triumphant from Two Centuries of Controversy,2011年)」
教皇との和解を考えていたナポレオン皇帝は、1802年にマルメゾンにある皇后ジョセフィーヌのバラ園で開かれた園遊会で、ラプラスに神や天文学や天体を巡る有名な議論を吹っかけた。
「それで、これらすべてを作ったのは誰なのだ?」
と、ナポレオンが尋ねるとラプラスは落ち着いて天体系を構築して維持しているのは一連の自然な原因である、と答えた。
するとナポレオンは不満げに「ニュートンは著書の中で神に言及している。貴殿の著作を熟読してみたが、一度も神の名前が出ないのは何故だ?」
これに対してラプラスは重々しく答えた。
「私にはその様な仮説は必要ございませんので」
ラプラスはかなり前から(牧師でもあったベイズとは異なり)原因の確率と宗教的な考察を切り離していた。「物理科学の真の目的は、第一原因(すなわち神)の探求ではなく、それらの現象が起こる際の法則の探求である」。自然現象を科学的に説明できればそれは文明の勝利といえるが、神学論争は決して答えが出ないという点で不毛なのだ。
*調べれば調べるほどピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)の「人間の認識可能範囲外で跋扈する絶対他者」への態度と、イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年〜1804年)の「(人間の認識能力の集大成たる)物(独Ding、英Thing)の世界と(その外側に「原則として」人類に不可知な形で拡がる)物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」を峻別する態度の間に親近性を感じずにはいられない。要するに19世紀に入ってから個別に弾劾された「(神の如き超越的知性なら全ての事象が予測可能とした)ラプラスの悪魔」と「(人間は究極的には観測を通じて理論値に到達出来ないとした)ベイズの法則」は本来は表裏一体の思考様式で、それ自体は当時の先鋭的な有識者層の間で共有されていた理念だったのであろう。
そして中心極限定理へ…
フランスの政治が激しく揺れ動く最中、ラプラスはなおも研究を続け1810年に中心極限定理を発見した。科学においても統計学においても空前絶後の発見といって良いこの定理によれば、幾つかの例外は別として、大量の類似項の平均は決まって釣鐘型の正規分布となる。使い勝手の良い釣鐘曲線が、突如として数学的実体のある構造物に化けたのである。ラプラスが考えていた原因の確率(ベイズ推定)では、それまで項が二種類の問題しか扱えなかったが、中心極限定理が証明された事でほぼ全ての種類のデータが扱える様になったのだった。
中心極限定理は大量のデータの平均値を使う正当性を数学的に示す事でベイズの法則の未来に深く大きな影響を及ぼした。ベイズの法則の主だった創造者で擁護者であったにも関わらず、ラプラスは齢62歳にして劇的な方向転換に踏み切る。ベイズの法則への忠義を棄て、これまた自身が展開していた別アプローチ、すなわち頻度に基づくアプローチに乗り換えたのだ。1811年から息を引き取るまでの16年間、ラプラスはもっぱら頻度を使った(20世紀の理論家がベイズの法則を抹殺する為に駆使した)手法に頼る事になる。
ラプラスが路線を変更したのは、データ量が膨大であれば通常どちらのアプローチでもほぼ同じ結果が得られる事に気付いたからだ。それでもやはり原因の確率の方が便利で、特に曖昧な事例では頻度主義より強力だった。ところがラプラスの時代に科学が成熟した結果、1800年代の数学者達は以前よりはるかに確実なデータを手に入れる事になったのだった。信頼出来るデータを扱うのであれば頻度主義の方が楽である。そして数学者達は20世紀中旬まで同じ大量のデータを扱っても、この二つの手法で得られる結果がひどくズレる場合があるという事に気づかなかったのである。
皮肉にも絶対王政時代に百科全書派のダランベール(Jean Le Rond d'Alembert、1717年〜1783年)に引き立てられ、ナポレオンに重用され、復古王政時代に永代侯爵の称号を受けた「世渡り上手」ラプラスの業績は、その死後、自ら基礎づけた頻度主義統計学が(やはり同様にラプラス自身が基礎付けた)ベイズの法則への攻撃を開始したせいで歴史の掃き溜め送りとなってしまったのでした。
*もっとも実際の生き様が「妖怪絵師」ダヴィッド(Jacques-Louis David、1748年〜1825年)や「政治的怪物」ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché、1759年〜1820年)と重なる内容であった以上、敵も沢山作ってきた事は想像に難くない。そういう意味合いでは自業自得的側面もあったとえいよう。
そう、全てはここから始まったのです…