はてなブログのアクセス解説によれば、最近これまでの投稿の中で平鳥コウ「JKハルは異世界で娼婦になった(2017年)」ネタへのアクセスが伸びています。ただしそれに連動してtwitter上の評価も高まっているという事はなく「ネット上における価値観の細分化の進行」を証明する結果に。
どうやら続編や漫画版が好評なせい?
まんが王国のコミック・コーナーで1エピソードずつ細切れに配信される様になったら不思議、「エロ漫画短編集としては設定が練りに練られた最高峰」みたいな評価を獲得して固定ファンがついた様です。エロ漫画短短編化によって「長編小説としての構成力の弱さ」が目立たなくなる一方、この作品最大の武器たる「実際に進行する行為」と「内面語り」のギャップが、漫画家によってより鮮明に対比を描く様になったのが勝因とも?
*そもそも原作小説の時点で私を含めた「好評派」はこの作品を「上手に設定を使いまわした連作短編小説」として、「不評派」は「構成の弱い長編小説」として読んでた気がする。池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズ(1967年〜1989年)や「剣客商売」シリーズ(1972年〜1989年)」、平岩弓枝「御宿かわせみ」シリーズ(1973年〜2005年)なども長編作品は「構成が弱い」と指摘されてきたくらいだから、これはもうフォーマットの特質といわざるを得ない気もする。司馬遼太郎は短編でも長編でも名作を残してるけど完全にフォーマットを異としており「連作短編集」で成功作は残さなかった。これはもう作家の向き踏むこの問題?
JKハルは異世界で娼婦になった、フェミニズム的観点を持たない人には、単なるエロとして消費される感じ、なんというか構造自体を冷静にメタ化してて結構すごいと思う。
— モね (@z53aVWon2xyYYzw) September 3, 2019
体を売るという選択がそもそも、女にとっては男よりも遥かに身近にあるという構造を、女は生きてるだけで植え付けられるけど、男は意識的に身に着けないと、延々に知らないままのくせに、援交はどうだとかやたら語りたがる。お前らは加害者になることの方が多いのだと、せめて自覚してほしい。
— モね (@z53aVWon2xyYYzw) September 3, 2019
【JKハルは異世界で娼婦になった/平鳥コウ】舞台が異世界であることを除けばリアルな風俗嬢のノンフィクションと変わらないと感じるほど性描写と心情の吐露は赤裸々だ。とてもヒリヒリする。それでも275… → https://t.co/XvY9LtdopD #bookmeter
— am Frosch! (@hasunoue_kpty49) September 8, 2019
ちなみに国際SNS上の関心空間に集う匿名女子アカウントの間で「女性でも楽しめるハードなERO-MANGA」として注目されてきたのは以下。
- 東犬二「ダークエイジ2 穢される乙女たち」シリーズ#2「死刑執行人」
*女子独特のERO-MANGA評価基準については後でまとめて述べますが、この短編集でその基準を満たしてるのは事実上この作品だけで、よくぞ発見したという感じ。
- 鬼頭莫宏「殻都市の夢(2003年〜2005年)」シリーズ#2「3年間の神」
ちなみにこのマンガ、けっこう少女の裸や性的なシーンが出てくるので、むかし部屋に置いていた同様の本(エロ本じゃないよ!)を当時好きだった男子に見られて何ともバツの悪い思いをした経験をもつ私としては、電子書籍になってくれてヨカッターと思いました(笑)
連作短編集としての「構成」はフィリップ・K・ディック「流れよ我が涙、と警官は言った(Flow My Tears,The Policeman Said、1974年)」に近い。「警官」で逃避行中の超人類シックス(この世界におけるマッド・サイエンティストが生み出したデザイナー・ベイビーの第六世代)ジェイスン・タヴァーが「エミリー・ファッセルマンのウサギ」の様なエピソードに次々と出喰わす様に「殻都市」では男管理官と女管理官のペアが狂言回し的に様々な事件に立ち会うが、彼らの理解能力のオーバーフローのせいで肝心の「当事者の心境」への解釈は全て読者に委ねられる。
この2作の抽出過程においてどれほど無数の収捨選択が存在したのか、実際には遂に突き止められなかったのですが、概ね以下の様な知見に到達する形となったのです。
①男子は割と一般的に自らのSex Fantasy空間を「それぞれが線型独立(linearly independent)状態にある直交座標系(Rectangular coordinate system, Orthogonal coordinate system)」に(ノイズは除きつつ)解析接続(Analytic continuation/Analytic prolongation)するのを好む。
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最近は以下の作品が話題である。
「なにせクソ・オブ・ザ・クソだからな。まずジャンルが悪い。今どきファンタジー小説なんてあり得ないだろ」
2006年、春。小学六年の嶋田チカは、昨年トラックにはねられて死んだ兄・タカシの分まで夕飯を用意する母のフミエにうんざりしていた。たいていのことは我慢できたチカだが、最近始まった母の趣味には心底困っている。
フミエはPCをたどたどしく操作し、タカシの遺したプロットを元に小説を書いていた。タカシが異世界に転生し、現世での知識を武器に魔王に立ち向かうファンタジー小説だ。
執筆をやめさせたいチカは、兄をはねた元運転手の片山に相談する。しかし片山はフミエの小説に魅了され、チカにある提案をする――。
どことなく空虚な時代、しかし、熱い時代。混沌極めるネットの海に、愛が、罪が、想いが寄り集まって、“異世界”が産声を上げる。
西暦2000年から西暦2009年まで、俗にいうゼロ年代と呼ばれる10年間。何もかもがどことなく空虚な時代だった。ある学者はこの10年間を「日本史上もっとも文化的に空っぽだった時代」と呼んだ。
科学技術は日進月歩で進化しインターネットや携帯電話といった成果を示しているのに、使う人間達はその技術でただ薄っぺらく大はしゃぎするだけで何も生み出す事はない。学者の発言はつまりそう言う意味であったのだろう。
とはいえ、そんな中でも人々はそれぞれの日々を必死で過ごし、人生の光を眩しく煌めかせていた。汗や命の輝きは、決して色あせる事はない。
彼らが生きていたのはまさにそんな時代の事だった。
NIN(Nine Inch Nails)のトレント・トレズナーが手掛けた「セブン(Seven=劇中表記は一貫して"Se7en"、1995年)」メインテーマと「The Hand That Feeds(2005年公開映画"V for Vendetta"と組み合わせたMVで著名に)の狭間…
そして2000年代後半に入ると、伝統的物語文法の崩壊が「異類婚や彼岸と此岸の交流は不幸しか生まない」といった物語文法的拘束の破棄にまで広がる。
まさしく「もののけ姫(1997年)」において旧世界と新世界の邂逅の不可能性を描いた宮崎駿監督が、あえて魔法世界と現実世界の境界線を曖昧に描いた「ハウルの動く城(2004年)」を経て、そんな障壁などまるで熱したナイフでバターを切り裂く様にあっけなく貫通してしまう「崖の上のポニョ(2004年)」を製作していく時代…
当時の評論家が「空気系」「日常系」といった言い回しでしか言及し得なかった、かかる「物語文法の平準化」プロセスについては、伊藤ヒロ「異世界誕生 2006(2019年)」 もあえて言及を回避してない。
定食屋の週刊誌で読んだ気がする。昨今は四コマ漫画でも「日常系」などと呼ばれる登場人物の日常を一定テンションのまま淡々と描くだけの作品が流行ってると。
それらの作品では、ストーリー的な盛り上がりや、場合としては漫画的な面白さよりも、キャラクター達の普段の暮らしが重視されているのだとか。
これこそが21世紀の癒し、疲れた現代人には過度に盛り上がったり面白かったりする話は逆に疲れてしまうのだから…記事は確かそんな結論で締めくくられていた。
どうして当時、物語文法は標準化されねばならかったのか。ある意味、当時の流行語「データベース消費」は 真理の一環に辿り着きかけていたのかもしれない。要するに最大の変化は評論家の関心の範囲外、すなわち「データ=文章、静止画、音声、動画」の流通形態そのものに起こっていた。インターネット上のトラフィック量の爆発的増大によって、パッケージ・ビジネスなる伝統的枠組みそのものが自壊しつつあったのである。
現実世界においては2007年のAWS(Amazon Web Services)リリースを契機とするインターネット・トラフィックの増大が、2012年以降の「SNSを流れるデータのリッチ・コンテンツ(静止画、GIF、音声データ、動画)化」「スマートフォンのFirst Screen(何かあると真っ先に確認するメディア)化」という2つの流れが準備された時代だった。
そして伝統的物語文法の崩壊と、新たな種類の物語需要の登場を背景に「なろう小説」なるジャンルを台頭させる。「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマへの最新解であり、この流れはおそらく2020年代のVR普及に絡んでいくのではないかと推定される。
そう、文化的流れとしてはフランス絶対王政や日本幕藩体制を過渡期的に支えた身分体制が心中物や教養小説を…
明治維新の到来が日本に尾崎紅葉「金色夜叉(1897年〜1902年)」や中里介山「大菩薩峠(1913年~1941年)」に代表される大衆救済小説、および田山花袋「蒲団(1907年)」 を嚆矢とする日本の自然主義文学=私小説を…
戦後高度成長期の到来が(自然主義文学の継承者を自認した)松本清張の社会派ミステリーや(吉川英治「宮本武蔵(1935年〜1939年)」の様な剣豪小説を大源流とする)梶原一騎原作のスポ根モノを…
政治的には敗退を余儀なくされた新左翼/ヒッピー/学生運動世代がハイファンタジー文学やサイバーパンク文学を選好してきた系譜なのだが…
最大の違いは同時進行で「書物を携帯可能なまでに小型化した」イタリア・ルネサンス時代のイノベーターたる「商業印刷の父」アルドゥス・マヌティウス(Aldus Pius Manutius 1450年頃〜1515年)の印刷革命に匹敵する激変が進行していたという現実だった。ネット上を流れるあらゆるデータの扱いの平準化。顕現したのは、あくまで2010年代に入ってから。
要するに古代より本当の意味で動かしがたい形で実在し続けてきた枠組みなど「既存社会にそのまま歯車として組み込まれる実存不安と、認識可能範囲外を跋扈する絶対他者へのアンビバレント(ambivalent)な感情の間で苦悩する若者達一人一人の孤立無援の戦い」程度に過ぎないという現実が改めて証明された形であった。
関谷純(千反田江留の叔父)「強くなれ。もし弱いままなら悲鳴も上げられなくなる日が来る…そして生きたまま死ぬことになる…」
「ああ、もう…!! どうしろってうのよ!? これじゃ何も信じられない! あれもウソ、これもウソで一体何を信じればいいの? 結局何が正しい訳!?」
「信じたいものを信じるといい。視点によって見えるものは全て違う。…異世界、と言うんだったか? 人間というのは同じ場所にいる様に見えて、本当は皆、それぞれの異世界を生きている。全く別の真実を見てるんだ。」
ここで興味深いのが(上掲の様に実際の歴史現象としては反復的に顕現してきたにも関わらず)常に新たなるムーブメントとして扱われてきたという辺り。そしてまさにこの辺りが、ミケーネ時代には既にその名が現れているにも関わらず、ギリシャ文化圏の伝承において常に「異国より伝わったばかりの渡来神で、既存権力者の反感を買って弾圧されるも庶民を味方につけて逆転勝利を飾る」存在として描かれてきたディオニュソス伝承と重なってくるのである。
ディオニューソス(古希: ΔΙΟΝΥΣΟΣ, Διόνυσος, Dionȳsos) - Wikipedia
ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神である。名前の由来は「若いゼウス(ゼウスまたはディオスは本来ギリシア語で「神」を意味する)」あるいは「(死と再生を繰り返す)二度生まれる神」。別名にバッコス(古希: Βάκχος, Bakkhos)があり、ローマ神話ではバックス(Bacchus)と呼ばれ、豊穣神のリーベルと、エジプトではオシリスと同一視された。
本来は、集団的狂乱と陶酔を伴う東方の宗教の主神で、特に熱狂的な女性信者を獲得していた。この信仰はその熱狂性から、秩序を重んじる体制ににらまれていたが、民衆から徐々に受け入れられ、最終的にはディオニューソスをギリシアの神々の列に加える事となった。この史実が、東方を彷徨いながら信者を獲得していった神話に反映されている。またザグレウスなど本来異なる神格が添え名とされることにもディオニューソス信仰の形成過程をうかがわせる。
しかし、実際にはミケーネ文明の文書からゼウスやポセイドーンと同様にディウォヌソヨ(Διϝνυσοιο)という名前が見られ、その信仰はかなり古い時代までさかのぼる。ギリシア人にとっては「古くて新しい」という矛盾した性格を持つ神格だったようである。
アテーナイを初めとするギリシア都市ではディオニューソスの祭り(ディオニューシア祭)のため悲劇の競作が行われた。悲劇の起源はディオニューソスに関する宗教儀式であり、そこに叙情詩の会話形式が加わって、悲劇が大成したと考えられる。
フリードリヒ・ニーチェは、ディオニューソスを陶酔的・激情的芸術を象徴する神として、アポローンと対照的な存在と考えた(『音楽の精髄からの悲劇の誕生』もしくは『悲劇の誕生』)。このディオニューソスとアポローンの対比は思想や文学の領域で今日でも比較的広く知られており、「ディオニューソス的」「アポローン的」という形容、対概念は、ニーチェが当時対象としたドイツ文化やギリシア文化を超えた様々な対象について用いられる。
なのでむしろ伊藤ヒロ「異世界誕生 2006(2019年)」 において2000年代について独自の歴史観が展開するのは、それ自体が「ディオニュソス仕草」の伝統に従っているのである。カール・マルクス曰く「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない。本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え」。
*とはいえ、この時代に連載したネット小説が認められた「古典部シリーズ(2000年)」の米澤穂信、「ソードアート・オンライン(Sword Art Online/SAO、2002年〜2008年)の川原礫、「Gate:自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり(2006年〜2009年)の柳内たくみ、「魔法科高校の劣等生(The Irregular at Magic High School、2008年〜)の佐島勤、「まおゆう魔王勇者(Archenemy and Hero、2009年)の橙乃ままれらが憧憬してその模倣から始めた先人達の多くは後世に名を残す事なく無名のまま消え去っており、かかる暗黒時代性を生かした設定とも。その一方で後世の人間は「様々な分野の専門家達が参戦して実用書的アプローチを試み、成功したり失敗した」カンブリア爆発的展開に注目する事になると思う。伝統的物語文法の破壊どころか、(それぞれ別種の「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」を規定してきた)伝統的書籍ジャンルの区分の破壊…
- こうした展開を受けて国際SNS上の関心空間に集う匿名男子アカウント(自分も含む)は表垢では高尚な話題についてのコミュニケーションを楽しみつつ、裏垢では巨大なエロ画像交換網を構築していったのである。しかもそれぞれのルートはある種の学習効果によって急速に(それぞれが重視する価値観に基づいて)洗練されていき、恐るべき精度のキューレーション機関を構築するに至る。
- とはいえ同じ関心空間に集う匿名女子アカウントもまた、かかるフェティッシュな傾向なら十分抱え込んでおり、女性が特に秀でた「(自分が目にしたくないものは一切関心範囲からから追いやる)スルー能力」と「(団結によって欲しい内容の回覧率を引き上げる)コンセンサス形成力」を組み合わせれば、かかるキューレーション機関を十分自分達の欲しいものの獲得に役立てられるのは明らかだった。そして同様の打算には(数的劣勢を腐女子(Slash)やコスプレイヤーも巻き込む事で補う戦略に打って出た)LGBTQA層や黒人エスタブリッシュメント層も(特に南米オリジンの)カソリック層やかくして2010年代前半に「世界最大級のポルノ画像アーカイブ」として最高峰を極めたTumblrには同時に「ただし万人の為の(内容が多種多様過ぎて、自らの趣味趣向に従ってのフィルタリングが適正に行えない人間を絶望の魔境に堕とす)」なる付帯属性が備わる事になったのだった。
*このアーカイブ最大の特徴は(プロテスタント的生真面目さに反感を抱く)カソリック勢が最大多数を締めた事、確実にその状況を俯瞰した韓国音楽界の新進気鋭勢が非常に上手く立ち回った辺りである。そして相応の深慮の末にしか動けない日本勢は「追う側」に回った時こそその真価を発揮する。この戦いに誰も勝者などいなかったが、それはある意味「今ここにある世界の縮図」の顕現でもあったのである。
*こうして当時の韓国音楽はこうした時代の流れを確実にCatch Upしていたが、本国の大手芸能事務所は到底ついていけず「自滅的撤退」を敢行する羽目に陥っている。198年代まで世界を席巻してきたイタリアン・サスペンスが辿ったのと同じ末路…
*そして「韓国音楽の国際的復活」は思わぬ形で果たされる展開に…
*こうした国際トレンドに連動する日本音楽の軌跡はさらに異空間からの無差別爆撃…誰も安全圏になんて留まっていられなくしてやるぜ?
*米国音楽だと、いきなりこの辺りが来る…そう、これこそが「人間の認識可能範囲を拡張してきた、絶対他者の接近に対する①黙殺と拒絶②混淆③寿王しきれなかった部分の排除のサイクル」そのもの…
その一方で人の心はさらなる「解放」を求め、もっとあらぬ方向へ…
まぁ男子の妄想も大概なので、この次元においては是非もなし…
②こうした展開に対し、女子は割と(上掲の作品などに添えられたコメントなども総合するに)特定のキャラに感情没入しつつ全体像を俯瞰する伝統的技法をひたすら研鑽してきた様に見て取れる。
- 主観主義(Subjectivism)…ジェーン・オースティン「ノーサンガー・アビー(Northanger Abbey、1798年執筆開始、死後の1817年発表)」への傾倒。
当時からメタ設定(他者には一見視えない制約)大好き。
ちなみに江戸幕藩体制下の女性通人(主に大名家の奥女中や町娘)が理想視してきたのは「(何も考えず盲目的に推しを追い求め続け、最後には相手を焼き殺してしまう)美形僧安珍に対する清姫の妄執」と「(歌舞伎では所謂「人形振り」で表現される様な自動人形化を伴う)寺小姓生田庄之介に対する八百屋お七の思慕」の狭間を上手く擦り抜ける事だったという。そしてさらには、こういう補足が…
儒学者貝原益軒「和俗童子訓(1710年)」「五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)」を人間の理想に掲げつつ、それが当時の日本では(特に庶民の間では一切)実践されておらず、嘆かわしいとした。特に女子が伊勢物語や源氏物語の様な恋愛絵巻に耽溺するのを防ぐ方法などあるはずもない。ならばせめて幼少時より読み書き算盤を叩き込み、日記や帳簿をつける習慣をつけさせて「(身の破滅を防ぐ為に)計算と自己管理がちゃんと出来る人間」に育てよとしている。当時から既に理想と現実の間にはそれくらいのギャップが生じており、これが日本型資本主義の出発点となる。
現代人の感覚だと「どうしてどちらも舞台が寺?(戸籍を管理する区役所の様な役割も兼ねてて身近だったから?)」とか「この価値評価軸、本当に線型性が自明なの? 曲率ゼロなの?(そう、解析好きの男子はかかる無駄な細部にこだわる。彼女ら自身にとっては、スライダー・バーの様に「もうちょい上」とか「もうちょい下」とか微調整するイメージさえ抱ければ、もうそれが数直線なのである。ある意味、位相幾何学的とも?)」などと突っ込みどころが満載だが、要するにそれがまさに主観主義(Subjectivism)の主観主義たる所以という次第。
*そういえば「欲求の抑圧による自動人形化を怖れる感情」といえば… - 反解析主義(Antianalysis)…「自然実証主義文学」のフローベール「ボヴァリー夫人(Madame Bovary、1856年〜1857年)」や、トーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)について「中の人が殿方」と断定。
*「私にスカウターを向けるんじゃない。壊すぞ」!?
ただし、その国際的影響力の源泉が「(団結によって欲しい内容の回覧率を引き上げる)コンセンサス形成力」にあった以上、集団としての和を乱す「異性に対して攻撃的過ぎる同性愛者」や「性表現そのものを弾圧しようとする無性愛者」に対して実社会以上に過酷に振る舞わねばならないという側面も備えていた。
*かくして国際SNS上の関心空間では「権力拡大にしか興味がない」急進派のウルトラ・フェミニストと「多様な生き方を頭ごなしには否定しない」穏健派の第三世代フェミニストの住み分けが加速する展開を迎える。
さらに興味深いのが、女性向けSMポルノ「眠り姫(A Sleeping Beauty)シリーズ(1983年〜1985年)」の著者でもあった「腐女子の世界女王初代(2代目はハリポタのJ.K.ローリング女史)」アン・ライス(ルイジアナ出身)や、「検屍官(Postmortem)」シリーズ(1990年〜)で著名な「女性サイコパス概念の普及者」パトリシア・コーンウェル(フロリダ出身)辺りが、こぞって「フランス的男尊女卑イデオロギーの典型的顕現例」として、マルキ・ド・サドの暗黒ロマン文学や「O嬢の物語(Histoire d'O、1954年)」に典型的に現れる「(男性のプロデュース下)女性が自ら自我を放棄する事で真の幸福に辿り着く物語」を徹底弾劾してる辺り。
O嬢の物語(Histoire d'O、1954年) - Wikipedia
作者はポーリーヌ・レアージュ(Pauline Réage)。この女性名のペンネームは、序文『奴隷状態における幸福』を寄せたジャン・ポーラン自身のものと目されていたが、執筆に関わっていたと一部で噂されていたドミニク・オーリーが1994年に自分が作者であると表明した。ポーランを失うことを恐れていたオーリーは、彼の気を引くためにこの物語を書いたと述べている。親子ほど年が離れていて、「若くもなくかわいくもない自分には、他の武器が必要であった」と説明している。
欧州文壇の諦めは極めて悪く「(男性のプロデュース下)女性が自ら自我を放棄する事で真の幸福に辿り着く物語は、(欧米より優れた)アジアの伝統的秘儀として存在してきた!!」みたいな川口浩探検隊的エキゾチック・ロマン的体裁の作品を女性作家が執筆する形で提供したりしてる。
エマニュエル・アルサン(1932年〜2005年) - Wikipedia
元々は映画の脚本家。16歳でフランスの外交官と結婚。
1968年ロバート・ワイズ監督で、スティーブ・マックイーン、リチャード・アッテンボローらが出演した映画『砲艦サンパブロ』に、マラヤット・アンドリアンヌ(Marayat Andriane)の名で出演、メイリーの役を演じている。
その後、執筆活動に転じ、『エマニュエル夫人』(原題は、単に「エマニュエル」。ファーストネームなので、こちらが正しい)で、一躍有名作家の仲間入りを果たした。レズビアンや露出、自分の恋人を他の男性に抱かせたりといった、通常の男女の愛情表現としての性行為から外れた新しい愛のかたちを描いて、女性たちにも読まれた。
作品はオランダ出身の女優、シルビア・クリステルの主演で映画化(『エマニエル夫人』)され、エマニュエル・シリーズとして3作が作られ、その後、数多くのリメイクが作られた。アルサン自身も『エマニュエル夫人』の続編を執筆している。
その後の作品でも一貫して、男女の愛のかたちのさまざまを追求している。女性の性意識に大きなインパクトを与えた作家であるが、その影響ほどには作品は日本では読まれていない。2005年にがんで死亡した。
これが、何故か日本に伝わるとカトちゃんの「チョットだけよ、あんたも好きねぇ」へと変貌してしまう。
「モンド映画→兼高かおる世界の旅」の流れを見ても実感する様に、日本人のスルースキルは恐ろしく高いのである。
そしてこれ。
日本では1960年代から1980年代にかけて進行した「少女漫画改革」を推進した女性漫画家達が揃って横山光照「伊賀の影丸(1961年〜1966年)」や永井豪「けっこう仮面(1974年〜1978年)」における拷問シーンで「最初の性の目覚め」を感じたと述懐している。こうした次元のエロティズムで肝心なのは「最後は必ず助かる」安心感なのだという。
さらには男にまで感染する「尻検知Callbackルーチン」の罠。
母の教え pic.twitter.com/SyMQqND0ab
— 井土金浩太 (@kotaidogane) November 10, 2018
まぁ、これなら「死刑執行人」や「三年間の神」同様に「JKハルは異世界で娼婦になった」が選ばれても当然という感じ?
ところで全体を読み返してみると伊藤ヒロ「異世界誕生 2006(2019年)」の紹介比率が凄い事に…「JKハルは異世界で娼婦になった(2017年)」同様、2020年代に繋がりそうな要素満載なせいですね。
【あらすじ】
— 伊藤ヒロ@「女騎士さん、ジャスコ行こうよ」 (@itou_hiro) September 11, 2019
今も人気の異世界ファンタジー小説。
2006年、ブームのさきがけとなる作品を書いたのは、子供を交通事故で亡くした母親であったのです…。
業界内で大評判!
>異世界誕生 ~2006~ (講談社ラノベ文庫) 著:伊藤ヒロ × イラスト:やすも https://t.co/qOLyRDHh9E … @amazonJPさんから pic.twitter.com/w8HrbsG4c4
「異世界誕生2006」読了。とんでもない問題作。これをラノベでやろうとおもった作者もすごいし、それを許した編集部もすごい。トラック事故で息子をなくした母親が息子の設定集を元に「異世界転生ラノベ」を書くところから始まる。そんな異世界転生ラノベをめぐって家族の間で(続く) pic.twitter.com/TfIM4ikNNe
— 柳川春海📖 (@Spring_sea) September 4, 2019
さまざまな感情のせめぎ愛が起こってくるといった感じの「異世界転生ラノベ」を題材にしたヒューマンドラマ作品。ゼロ年代、それも2006年といえばエウレカセブン放送はじめまだセカイ系の流れがあったり、葉鍵の影響が強いじきだったが、そういう薫りより、インディペンデント映画の香りを感じた。
— 柳川春海📖 (@Spring_sea) September 4, 2019
まぁ、なんでインディペンデント映画の香りを感じたのかと言われるとわからないけどね。とにかく、面白いのは間違いない。是非読んでほしい。
— 柳川春海📖 (@Spring_sea) September 4, 2019
あと、あらためて表紙とタイトルがエモい。
— 柳川春海📖 (@Spring_sea) September 4, 2019
こんな評価も。
伊藤ヒロさん「異世界誕生2006」(講談社ラノベ文庫)は交通事故でトラックに跳ねられ死んだニートの息子を思って母親が、息子の残した設定を元に小説を書くことで、息子は死んでおらず異世界を旅しているだけだと思い込もうとしているという設定のストーリー。ある意味であり得る動機だなあ。
— タニグチリウイチ:9月も三鷹へ (@uranichi) September 10, 2019
だから、世にはびこる異世界転生物語には本当にそうした無念を晴らそうとしたものが含まれているかもと思えてきた伊藤ヒロさん「異世界誕生2006」。当初は異世界転生ものへのカウンターめいた話だったらしいけれど、母親の息子への思いがあり、息子のどうにかなりたいという願いが響いて心痛い。
— タニグチリウイチ:9月も三鷹へ (@uranichi) September 10, 2019
現世ではそれが交わらないまま重なるような寂しさと悲しさを、味わわされる話になって泣けてきた。親不孝してるものなあ、俺。母親による拙い文章が指導によりこなれていく感じは見事。書き手の本気が込められた異世界転生を読みたくなってきた。そんな伊藤ヒロさん「異世界誕生2006」。
— タニグチリウイチ:9月も三鷹へ (@uranichi) September 10, 2019
しかしこいつは流石にSFマガジンでもミステリマガジンでも取りあげづらいというかラストをファンタジーだと言い切れば言い抜けられるかもしれないが悩ましいので伊藤ヒロさん『異世界誕生2006』の一般への紹介は前島賢さんの朝日にまかせたい。まかされてくれるかは知らない。俺はここでつぶやく。
— タニグチリウイチ:9月も三鷹へ (@uranichi) September 10, 2019
で、思わぬやり取りを発見。
伊藤ヒロ先生の『異世界誕生2006』を読んでいたら見慣れない単語が。
— Rootport (@rootport) September 9, 2019
「フロッピー」って何ですか?
この時代、既にフロッピーディスクは廃れつつあったが、他の記録媒体が高価だった事もあり、まだ家庭やオフィスでは使われている事も少なくなかった。
もしかしてこの描写「引きこもりのタカシの知るITインフラは1990年代当時のまま止まっていた」みたいなニュアンスを伴っていた? まぁ当時の普通のオタクならエロゲーを遊ぶ為に「自作パソコンにCD/DVD-ROM搭載」は普通だったにせよ、書き込み機能まではどうだったか…一方FDDユニットなら確かに…