これこそが、まさしく「作家の知識不足と老齢化のせいでハイファンタジー文学とサイバーパンク文学が衰えた1990年代」の延長線上に現れた未来?
そう、時代は常に動いているのです。
Lizzieの登場に合わせ、囲碁AIを自宅に導入しようとした大橋さん。当初はグラフィックスカードを2枚使ったデスクトップPCを購入しようとしていたが、ここでアクシデント(?)が起こる。自宅で契約している電気のアンペア数が足りず、AIを使おうとすると停電してしまうことが分かったのだ。
「当時は引っ越したばかりでしたし、大家さんのおばあちゃんに相談するのもためらってしまって……。一旦保留にしていたのですが、北京で行われたTencent主催の囲碁大会に行った時に、知り合いの囲碁AIの開発者からAWSを薦められたんです。初期投資がなくていいですし、グラフィックスカードの過熱の心配もないと(笑)。すぐに使ってみようと思いました」
こうして大橋さんは2018年7月にAWSを導入。分からないことだらけだったが、東京・目黒にあるAWS開発者向けのスペース「AWS Loft Tokyo」に足しげく通い、ASKコーナーで質問を繰り返した。さまざまな開発者と話し合い、Amazon囲碁部ともつながり、スポットインスタンス(※)担当だった部長のアドバイスを得て、利用額も大幅に抑えられた。現在は「月に数千円から1万円程度かかっている」(大橋さん)という.
※Amazon EC2の機能。AWSサーバ上で使われていない(余っている)EC2インスタンスに対し、入札制で一時利用を行う。自らの提示額よりも高い価格で入札されると、すぐに利用を止められるリスクもあるが、一般的な「オンデマンド」制に比べて平均で7~9割引きになるとしている
AWS活用が軌道に乗ってきた大橋さんは、次に「研究会」を始めようと考えた。ノートPC1台とネットワークさえあれば、どこでもAIを使った検討が行える。その利点を生かし、日本棋院の本院(東京・市ヶ谷)で定期的にAIを活用した研究会「プロジェクトAI」を始めた。現在は10代から30代の若手棋士を中心に、メンバーは25人にまで増えたそうだ。
「高性能のAIさえあれば1人で研究ができてしまうので、実は中国や韓国では今、囲碁棋士の『引きこもり』が問題になっているというウワサも聞きました。しかし、AIが打つ手は自分一人では理解できないことも多い。だからこそ、棋士のみんなで協力して研究できる場があればいいなと考えました。人間を超えたとはいえ、AIが苦手とする局面もまだまだあるのが実情です。そういう部分に関しては、人間と力を合わせて探索を行う必要があるでしょう」
知り合いの開発者の協力も得て、数々の囲碁AIをほとんど使えるようになった。大橋さんが囲碁AIを最新版にアップデートすると「Amazon マシンイメージ(AMI、インスタンスのソフトウェア設定)」として共有するシステムで、LINEを使って研究会のメンバーに配布している。囲碁AIを動かす際はAmazon EC2上で、GPUを利用するP2/P3インスタンスを利用するという。
「P3はP2よりも約3倍高いですが、同じ時間内に探索できる手の数が5倍以上あるので、コストパフォーマンスが高いP3を使う人が増えてきていますね。もっと速くて安いインスタンスが出るのをみんな楽しみにしています」(大橋さん)
研究会のメンバーは囲碁のプロだが、当然ながらAWSについては全員「素人」だ。しかし、大橋さんをはじめとして、AWSのシステムに興味を持ったメンバーが皆に初期設定し、教えて回ったほか、AWSの使い方をまとめたマニュアルを作る棋士まで現れ、今ではメンバー全員が自力でAWSのインスタンスを立ち上げられるまでになったそうだ。
「研究会の中には70代の人もいますが、全員がインスタンスを立ち上げられるようになりました。これは囲碁への知的欲求が原動力になっています。さらにAWSそのものに興味を持つ人が出てきて、さまざまな設定をいじるだけではなく、最近ではパフォーマンスの比較までしてくれます。メンバーの中には、AWS以外にGCP(Google Cloud Platform)を使っている人もいます。TPUで開発された囲碁AIも登場し始めているので、僕自身GCPにもとても興味があります」(大橋さん)
研究会のメンバーには棋士兼学生も少なくない。勉強会に参加しているメンバーであり、ポスト井山五冠を期待される一力遼八段に話を聞いたところ、「研究に使うツールが1つ増えたというイメージ」とこともなげに話してくれた。彼らにとってAIは、もはや特別な存在ではないのだろう。「特に若い子たちは、AIによって囲碁に対する考え方や会話が変わってきている」と大橋さんは話す。
AIで変わる人機一体の時代
「この手は青い」「いや、緑はどうかな?」「こうなるともう『じんましん』だよね」
最近、AIで研究をしている若手棋士の間では、こんな会話をするのが普通になってきているそうだ。「青」というのは、Lizzie上で示される「AIの第一候補手(最善手)」のこと。その部分が青く光ることからそう呼ばれている。緑は同じように第二候補を指す。
「じんましん」というのは、有力な候補手がなく、AIが全探索モードに入った際、碁盤上の目全てに確率などの数値が表示される状態だ。ソフトウェアの挙動(や仕様)に合わせて、会話で使われる言葉が変わっていくというのは、非常に興味深い。
有力な候補手がない場合は、全ての目に対して探索を行う「全探索モード」に入る。まるで発疹が広がっているような様子から「じんましん」と呼ばれているようだ
「形勢判断の考え方も変わってきています。囲碁は白黒の碁石によって、囲った陣地の広さを競うゲームです。そのため、これまで形勢判断は、陣地の広さを示す『目』の数で議論するのが一般的でした。しかし、今はAIによって『この手を打った場合の勝率』が表示されるようになっています。そのため、形勢判断も『何目』から『何%』というように、考え方が変わりつつあるのです。こうした概念の変化を抵抗なく受け入れられている人が、AIをうまく活用できている印象がありますね」(大橋さん)
それにつけても「人機一体の時代」なんて伝統に寄らない新造語が生み出されるとは、サイバーパンク文化も遠くなりにけり…