「アルゴリズムの複合」自体は1990年代におけるDeep Blueの頃から出てた話ですし、最近は「敵対的学習(adversarial learning) 」なんて概念がトレンドになったりしてます。
長谷敏司・三宅陽一郎・大森望「AI研究の現在とSFの想像力」、キャラクターAI/メタAI/ナビゲーションAIという位相の違うAIがゲーム内で協調していることを知らず、素朴に驚いたのだが、プレイヤーとしての市民に対するスマートシティ/ロボット/グーグルマップという説明になるほどと思う。
— Y_memo (@oaisdjao) September 24, 2019
ただ、市民の位置は、主体的なプレイヤーだけでなく、自律的でありながらも、気づかずにメタAIに統御されるキャラクターAIの位置にも据えられることにもなるのだろうか。そんな夢想をすると、「物語の全体性とキャラクターの自律性の関係」という問いの向かう先は、SF内の話だけではないのだろう。
— Y_memo (@oaisdjao) September 24, 2019
まさしく「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」とする「上部構造理論の提唱者」カール・マルクス「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の社会自由主義の再来? 当時のパトロンだったラッサールが「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」 の中で示した「正しい私的所有の範囲は時代によって変遷してきた」とする態度や、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年~1905年)」の中で示した鋼鉄の檻(Gehäuse)理論も併せて想起されます。
フェルディナント・ラッサール「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」によれば、そもそもそも貨幣経済浸透以前の「支配」は「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制(いわゆる封建体制)」として実現されていた。ラッサールはこの著作の中でその状態からの脱却過程を以下の様に説明する。
①初め権力者はこの世の全てが部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきた。
②神仏崇拝の自由化は、神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
*かつて都市国家の神殿宗教は祭政一致体制を敷いて土地と農業ノウハウを独占し、人類そのものを「神に奉仕する目的のみで創造された奴隷」と規定し領民を完全隷属下に置いていたが、この状態では神殿が破壊されると人間集団そもものも霧散してしまう。この欠陥を補う為に啓典宗教が発案され(神殿の付属物に過ぎない)神官に代わって(究極的には民の一員たる)啓典を奉じた教導者の時代が訪れる。②農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。
*「領主による領土と領民の全人格的支配」からの脱却過程。地主は土地使用料を受け取るだけの存在に、雇主は賃金を支払う対価として労働者から労働力の供給を受けるだけの存在に変貌していく。③ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
*かつて特権商人や特権組合は「領土と領民を全人格的に支配する領主」の認可を受ける形で特定商品の生産権や取扱権、特定商人と特定集団の取引権、特定領域における通商権を独占し、私有財産の様に継承してきた。これが最終的に全て自由競争に置き換えられていく。そして現在世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面している。
*この問題には今なお答えが見つかっていない。王侯貴族や教会からの特権剥奪によって、生産を支える労働者がそのまま市場を支える消費者と目される様になった。それでは、このシステムを支えるには「資本家と労働者の富の収益の再分配」はどうあるべきなのか? 共産主義が最終的に到達したのは「全てを統制下に置いて完全管理すれば誰もが幸福になれる」というもの。しかし実際には自由主義圏より先に暴走し、あっけなくシステムとして崩壊してしまった。
マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」における「鉄の檻(Gehäuse)」言及箇所の要約
実は今日でこそ我々の間で普通に通用しているが、実はその意味が思う程自明でない「職業義務(Berufspflicht)」という独特の思考様式が存在する。
その具体的活動内容如何に関わらず、またそれに囚われない俯瞰的立場からすれば、労働力や(資本回転を継続する原資としての)物的財産を用いた単なる営利行為の追求に過ぎない筈の事に対し、各人が自らの「職業」活動の内容を義務と意識すべきと考え、実際に意識して振る舞っているのである。
資本主義文化の「社会倫理」はこうした義務の観念によって支えられているが、既に完成した資本主義をのみ土台として発生したとは到底言えない。すなわちさらに過去まで遡って考えなければその起源は分からないし、資本主義社会の企業家や労働者ならそうした倫理的原則を必ず主体的に内在的に獲得しているとは限らない。今日の個々人は「既成の巨大な秩序界(コスモス)」としての資本主義的経済組織の成員としてその枠内に生まれつき、その枠内で生きる事を強いられ、その枠内で死んでいく。(少なくともばらばらな個人の寄せ集めとしての)個々人の眼にはそれは「(改変の余地なき)鋼鉄の檻(Gehäuse)」として映る。誰であれこの秩序界(コスモス)は市場との関連が存在する限り彼の経済的営為に対して一定の規範を押し付けてくるものなのである。製造業者は長期官この規範に反する行動を続ければ必ず経済的淘汰を余儀なくされるし、この規範に適応出来ない、あるいは適応しようとしない労働者もまた、最期には必ず失業者として街頭に投げ出される羽目に陥る。
この様に秩序界(コスモス)そのものが経済的淘汰による教育的再生産を通じて自らが必要とする経済主体(企業と労働者)の生活態度や職業観念を獲得していく反復的営為の起源は、果たして本当に素朴な唯物史観が提唱する様に特定の経済の段階的発展の反映が生み出す上部構造として規定可能なのだろうか?
資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が淘汰によって反復的に強化され続けていく社会が出現する為には、あらかじめそうした生活態度や職業観念が特定の人間集団共通の見解として共有されていなければならない。だからこそ、そうした職業観念の成立史が重要課題となってくる訳だが、これが全てを上部構造の一言で片付け、その超克を目指す素朴な唯物史観からは導出不可能なほど複雑怪奇な茨の道だったりする訳である。
我々が想定する様な資本主義精神は、少なくともすでにベンジャミン・フランクリンの生地たる17世紀マサチューセッチュには存在していた(1632年のニューイングランドにおいて既に「アメリカの他の地方に比べて人々が特に利益計算に長けている悪徳」が弾劾されている)。その一方で隣接する植民地(後の合衆国南部諸州)においては、そこが営利を目的として大資本家によって開拓された地域だったにも関わらず、同様の概念が(当時カリブ海沿岸に多数建存在した砂糖や綿花の奴隷制プランテーションや、同時期に穀物輸出を担った東欧の再版農奴制の様に)恐ろしいまでに未成熟な段階にあった。
そもそも前近代段階における資本主義精神は、当時の一般の人々に喜んで受容された一方で、古代や中世の通念に照会すれば「汚らわしい吝嗇」「およそ低劣な心情の発露」に他ならなかった。それどころか今日なお国際的資本主義社会との関連が極めて薄いか、あるいはそれへの適応を免れている社会集団にあっては今日なおこの理念が生々しい形で通用しているが、それは決して「営利への志向」が未知ないし未発達な「無垢なる幸福状態」にあるからでも、近代浪漫主義者が夢想した様に「呪われた黄金への飢餓(Auri sacra fames)」から免れていたせいでもない。むしろそれは属州におけるコロナートゥス(colonatus)制履行によって私服を肥やした古代ローマ貴族、領民を人間と思わない中華王朝の科挙官僚(マンダリン)の搾取、再版農奴制度に胡座をかいた近代農場主達や奴隷制プランテーションの経営者達に見受けられる際限なき貪欲への当然の反応に過ぎず、同様の金銭欲と厚顔無恥は経験した人なら誰でも知っている様にナポリの馬車屋や船乗り、及び同様の仕事に就いている南欧やアジア諸国の職人達の間に遙かに徹底した形でより深く根付いている。
実際には如何なる内面的規範にも服しようとしない、訓練なき「自由意思(liberrm arbitrium)」は、それが実業家の物であれ、労働者の物であれ、必ず健全な資本主義社会発展の妨げとなってきた。当然その出発点は「金儲けの為には地獄にへも船を乗り入れて帆が焼け焦げても構わない」冒険商人達による向こう見ずな営利活動でも、戦争や海賊や山賊を正当化してきた「共同体内部(unter Brudern)では禁じられた規範からの逸脱も、対外道徳(Aussenmmoral)では許される」伝統でも有り得ない。むしろそれらに寛容(Clemenza)過ぎた伝統が、合理的経営による資本増殖と合理的労働組織によって克服された事こそが、市民的資本主義経済成立の前提となった事は疑う余地もないといえよう。
個人的には2010年代前半に国際SNS上の関心空間で得た「SNS上においてコンセンサスが形成される過程は深層学習に似ている」 という仮説を何とかアルゴリズム化したいのですが…まぁ全然進んでませんね。