ここで指摘されてる「尤度(ゆうど)なる概念が本質的に備えている危険な誤解への誘導」について長らく自分なりの言葉で語れずにいたんですが、最近一つの発想に至りました。「アウトプットに特化したインプットに専念していると、やがて自分の言葉を失ってしまう」です。
- そもそもの出発点はフォイエルバッハ神学に対し「宗教的満足感さえ与えられたなら、プロレタリア階層は現在の苦境を耐え抜けるというのか?」と鋭く問いかけ、社会学者の嚆矢として「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と指摘したカール・マルクス(Karl Marx, 1818年〜1883年)の叫び。そして「分かりやすい」プレゼンテーションを追求するという事は概ね既存概念の可能な限りの肯定を意味する。
- 「そうでないアウトプット」を追求した例としては、例えばティモシー・リアリー博士(Timothy Francis Leary, 1920年〜1996年)の生涯を賭けた研究が知られる。特徴としては、何かしらの形での「認識対象外を跳梁する絶対他者」への言及が不可避となる。あと思い出すのが「自分の描きたいものしか描かなかったが、それをどう商品化するかについては人一倍工夫してきた」と豪語する水木しげる画伯の様々なエピソード。
これを巡ってこのサイトはある種の堂々巡りを繰り返してきたという次第。