諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

本当は恐ろしいロリコン(Lolicon)概念④ 「ニーチェの怪物」とディオニュソス的陶酔

これまで女性は「娘」「妻」「母」といった互いに矛盾する事すらある社会的役割を強制され、統一的アイデンティティの形成上、大きな障害を負わされてきました。

f:id:ochimusha01:20171003063422j:plain

*「男性からの強制」ばかりとは限らない。例えば女性神官が仕切っていた古代神殿宗教の世界においても主神として崇拝された女神は概ね「乙女相」「婦人相」「老婆相」の三態を有していた。日本の伝統的共同体の構成を見ても、何かとすぐ(急進的な)若衆と(守旧的な)年寄衆が対立し、共同体の実務を担う壮年層がひたすら振り回され続けるという図式が存在する。そして国際SNS上の関心空間の女子アカウントも「母娘の対立」なる図式に拘束されている事が多いのである。

こうして固定化した観念を打ち破って統一的アイデンティティを獲得するには、ある種の「狂気」が必要になる時も。

ここでまさかのニーチェの登場。というか、この発想こそが1970年代から1980年代にかけて世界を席巻した狂信的ウーマンリブ運動を支えた原動力だったのでは?

f:id:ochimusha01:20171003063533j:plain

それでは1980年代におけるデュオニュソスの定義は一体どうなっていたのでしょう?

古代大衆文化史上のデュオニュソス(Dionysos)

葡萄の発育とワインと酩酊の神。彼に捧げられたディオニュシア祭の演目だったので関連するアッティカ悲劇が多数発表されたが、その熱狂性から秩序を重んじる体制に睨まれていたせいか(ペロポネソス戦争敗戦間近に発表された)エウリピデスの遺作「バッコスの信女」くらいしか現存しない。

f:id:ochimusha01:20171003063634j:plain

この物語では従兄弟に当たるテーバイ王ペンテウス(Pentheus)から信仰を禁止された上に邪教の教祖として逮捕されそうになったデュオニュソスが報復として市中の女性達を帰依させ狂信女とし、山中に誘き出して逆に母親や叔母に八つ裂きにさせる。明らかに体制側に対する神罰の仄めかしだが、その対象が敵側のテーバイだったので「御目こぼし」されたと推察されている。

アナトリア半島の女神キュベレーから秘技を教わった新来神とされる事が多いが、実際にはミケーネ文明の文書からもゼウスやポセイドーン同様にディウォヌソヨ(Διϝνυσοιο;二度生まれた者)という名前が見られ、その信仰はかなり古い時代までさかのぼる。ギリシア人にとっては「古くて新しい」という矛盾した性格を持つ神格だったようである。女神アフロディテ同様に古代地中海交易網経由でギリシャに伝わった。

古代ギリシャ時代に(アケメネス朝ペルシャの台頭によって次第にアナトリア半島との心理的距離感が開くにつれ大洪水前から存在するギリシャ人の故郷と目される様になっていった)アルカディア地方の牧神パーンと同一視された形跡が見られ、これがイタリア・ルネサンス期のベネツィア絵画や、中世には毛織物の産地として栄えたフランドルにおけるタペストリーの伝統を継承したオランダ絵画を経て絶対王制下フランスにおけるロココ絵画完成につながると同時に、ラミアー同様欧州中世における「深夜森で魔女達が開く黒ミサの主宰神」の原イメージとなった。さらにはオルフェイス教で「八つ裂きにされて一度死に、復活する神」という神格を与えられたせいもあって、オリエント起源の神タンムーズやエジプトの「生贄にされる牛」信仰とまで同一視された形跡が見て取れる。

「Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets」におけるディオニューソス(DiovnusoV)の定義

ディオニューソスは、他のさまざまな救世主神と同一視されたが、同時にまた、パッカス、ザグレウス、サバジオス、アドーニス、アンテウス、ザルモクシス、ぺンテウス、パーン、リーベル・パテール、「解放者」とも呼ばれた。ディオニューソスのトーテム獣はピューマpanther(牧神パーンの獣Panthereos)であった。また彼のエンプレムはテュルソス、つまり男根の形をした笏杖で、てっぺんに松かさがついたものであった。彼に仕える巫女たちは狂乱のうちに飲み騒ぐ女性たちで、酒に酔い、裸になり、肉を食らい、血を飲んで、ディオニューソスの狂宴を張った。

f:id:ochimusha01:20171003063903g:plain

ディオニューソスは粗野なブドウ酒の神、ブドウ酒醸造の発明家、とされることが多い。しかしディオニューソスはそれ以上の神であった。彼はキリストの原型であった。中東地方のほとんどすべての主要な都市にもあったが、ディオニューソス崇拝の中心地はエルサレムであった。プルタルコスは、ユダヤ人の仮庵の祭りはディオニューソスを祝って行われるものである、と言った。「安息日の祭典はディオニューソスの祭典と全く無関係ではないと思う」。ユダヤ人がブタ肉を食べないのは、彼らの神ディオニューソス-アドーニス(神ディオニューソス)が雄プタに殺されたからである、とプルタルコスは付け加えた。紀元前1世紀頃、ユダヤ人自身が、ディオニューソスをそのプリュギア名ゼウス・サパジオスの名のもとに崇拝している、と言った。

タキトゥスによると、ディオニューソスリーベルは昔はエルサレムの神であったが、ディオニューソスに比してその特徴が魅力の薄い別の神が取って代わってしまった、という。「リーベル崇拝はお祭り気分の楽しいものであったが、ユダヤ人の宗教は味もそっけもないものである」。ディオニューソスとエホヴァは、 5世紀においては、事実、貨幣の裏表を飾っていた。ガザ近くで発見された貨幣は一方にディオニューソスの、他方にひげをはやしたJHWH (エホヴァの意)という表示のしである人物像が見られた。

レバノンでは、ディオニューソスは化身してアムペロスとなった。美青年であったが、雄ウシに八つ裂きにされ、ブドウの木として再生した。キオスでは、ディオニューソスに仕えたマイナスたちに殺された人々の血が、ブドウの木を実り豊かにするのに用いられた。オルコメノスでは、三相一体の女神がディオニューソスの儀式に「3人の王女たち」として現れた。この女神は男の子を引き裂いて、食べてしまった(大地が生贄の血を吸うことを表す)。テーバイにおいては、ぺンテウスという名前の王がディオニューソスの儀式にあえて反対した。それは、おそらくディオニューソス的な神王たちのように死にたくなかったからであったと思われる。しかしぺンテウスは、自分の母親(あるいは母神)が引き連れた女たちに、ずたずたに引き裂かれ、その頭は母親にもぎ取られてしまった[6]。のちには、テーバイにおけるディオニューソスの儀式は、ぺンテウスという名前を仔ジカにつけて、それを殺して食べることが中心になった。そしてマイナスたちは仔ジカの皮を身に着けた。ディオニューソスのリディアにおけるトーテム獣はキツネのパッサレウスであった。このパッサレウスが中世のキツネのルナールの祖となったのである。そこでマイナスたちは自分たちは自分たちのことをバッサリスと呼ぴ、キツネの皮を着衣とした。

こうした伝説は、他と比較すると暗い感じがするけれども、ディオニューソスが救世主の典型であることがわかる。最初の、最も原始的な救世主であり、また、大地と女性の子宮に豊穣をもたらす血を与えるために殺され、そして食べられた王でもあった。それから、身代わりの王でもあり、有罪とされた罪人でもあり、くじで選ばれた若者でもあった。そして更に、人間の代わりになった動物でもあり、しまいには、パンとプドウ酒として貧り食らわれる「肉」であり、「血」ともなった。このパンとブドウ酒は、ギリシアローマ神話では、エレウシスにおいてディオニューソスを祀るときに聖餐用として用いられたものであった。

パレスチナにおいては、ディオニューソスはノアと同一視された。聖書にいちばん先に出てくる太祖で、酔っぱらったあのノアである(『創世記』 9 : 21)。ノアのギリシアにおける添え名はデウカリオーン(「しぼりたてのブドウ酒の船乗り」の意)で、ヘレニック以前の神話における洪水伝説の主人公である[8]。ディオニューソスはまたアダムに相当する人物で、父なる天界と母なる大地(ゼウスとデーメーテール)の子であった。彼は他人の罪をあがなうために自分の血であるブドウ酒を献じて、八つ裂きにされた。彼は、のちに、オルペウスOrpheusに化身したが、オルぺウスは有名なオルペウス教秘儀の中心人物で、やはり生贄となった神であり、マイナスたちに八つ裂きにされた。プロクロスは「オルペウスはディオニューソスの儀式の中心人物であったために、ディオニューソスと同じ運命に遭ったと言われている」と言った。

オルペウスは救世主としては3世代目に当たる人物で、ディオニューソスがその聖なる父ゼウスと同一視されたと同じように、オルペウスは彼の聖なる父ディオニューソスと同一視された。したがってゼウス、ディオニューソス、オルペウスとなり、オルペウスは3代目に当たるのである。ディオニューソスは、天界の父の玉座につき、電光の笏を振りまわして、王の中の王、神の中の神、と呼ばれた。彼はまた神がみごもらせ、処女が生んだ「油を塗られた者」(クリストス)であった。彼の母親は三相一体の女神のそちの3つの相全部、すなわち、大地母神、冥界の女王ペルセポネー、月の乙女セメレー、であったと思われる。彼が木に吊された、あ?るいは、十字架刑の儀式を受けたと思われるのは、その供犠のときの添え名がデンドリテス(木の若者、の意)であったからである[12]。彼はまた、雄ウシ、雄ヤギ、雄ジカといった姿の「角のある神」でもあった。

ギリシアローマ神話によると、ディオニューソスは手足をばらばらに切り裂かれたが、ティーターン神族{へレニック以前の大地の神々)の攻撃をかわすために、素早くそうした動物につぎつぎと変身したのであった。しかし、ティーターン神族は、結局、彼をつかまえて、八つ裂きにし、食べてしまった。ディオニューソスが鏡に映る自分の姿に見惚れている間に、ティーターン神族は彼の霊魂を鏡の中に閉じこめてしまった。ディオニューソスは、この意味で、春の花の神であるナルキッソスと同じである。ディオニューソスはさまざまな人物に変身したというが、ナルキッソスもその1人であった。パウサニアスによれば、ティーターン神族をディオニューソス受難の張本人だとしたのはオノマクリトスであったが、こうした古い仔細についてはオルギア(古代ギリシアの、ディオニューソスなどを崇拝するために行われた秘教的儀式)は無関係であった。おそらく、ディオニューソスの最古の姿の1つはディオニューソス・メランアイギス(黒いヤギ皮のディオニューソス、の意)で、マルシュアスのような贖罪のヤギ-サチュロスであったと思われる。ディオニューソスは、昔から、黒いヤギの皮を着ていたと言われていたが、そのために、中世のキリスト教徒たちは悪魔はいつも黒いヤギの姿をして現れる、と考えた。

エレウシスがディオニューソス出現の地とされたが、そのときディオニューソスは聖なる新生児として箕の籠liknonの中に入っていた。このことのために、ディオニューソスディオニューソス・リクニテスと呼ばれた。彼の揺鑑であるこの聖なる物は、リクノポロスliknophoros (駕籠かき、の意)と呼ばれる特別な役人が、その行列のときに、かついで運んだ[14]。この箕の籠というのは、乳児イエスが入っていた飼い葉桶の原形であった。穀物神はすべてその肉体をパンの形で食べられるものであったが、新生児のときは、種トウモロコシを入れる容器の中に入っていた。

ディオニューソスがこの世に化身した人物として長く人々の記憶にあったのが、シラクサ(シシリー島の古代都市)の玉ディオニューソスであった。彼は、紀元前4世紀、王を生贄とする習慣を改めてしまった。自分が生贄となるときが近づくと、王はダモクレス(「征服する栄光」か、「血の栄光」の意)という廷臣を自分の身代わりとした。ダモクレスは王権のもつさまざまな特権をうらやましく思っていたので、自ら進んで王の身代わりになった、という話であった。彼はしばらくその特権を享受したが、すぐに、 1本の髪の毛で吊された剣が頭上にあることに気づいた。その髪の毛は、王、または、玉が化身している神が定期的に死ぬ運命にあることを象徴するものであった。 

  1. ディオニューソスの神秘的な経歴を解く主要な手がかりは、ヨーロッパ、アジア、北アフリカ一帯にわたる葡萄の木の信仰のひろがりのなかにもとめられよう。葡萄酒は、もともとギリシアでつくりだされたものではなく、はじめはクレータ島から甕にいれて輸入されたものらしい。葡萄は黒海の南岸に野生していたが、ここからその栽培法がパレスティナをへてリビアのニューサ山へ、そしてさらにクレータへとつたわった。それはやがてペルシアを通ってインドにおよび、また琥珀(アムパー)ルートを通って青銅期のブリテン島へもひろまっていった。小アジアパレスティナの葡萄酒祭は――カナアン人の幕屋祭も、もとはといえば酒神バッコスの狂乱の祭である――トラーキアやプリギュアのビール祭とまったくおなじように恍惚としておどり狂うのが特色であった。どんな地域でも、葡萄酒がほかの麻酔剤をおしのけてしまったところに、ディオニューソスの勝利があったわけである。ベレキューデース(一七八)によると、ニューサは「樹木」の意味だという。

  2. ディオニューソスは、かつては月の女神セメレー――またの名テュオーネーあるいはコテュットーの配下に属していて、彼女の祭のときには、生贄となる運命にあった。彼がアキッレウスとおなじく、少女として育てられたという話は、クレータ島で、少年が思春期に達するまで「暗がりで」(スコティオイ)、というのは婦人の部屋で養育されたあの慣習のことを思いおこさせる。ディオニューソスの名まえのひとつにデンドリーテース(「木の若者」 というのがあって、木々がにわかに若葉をつけ、天地のものことごとく欲望に酔いしれているころおこなわれる春の祭は、彼の解放を祝う祭なのである。ディオニューソスを形容するのに、「角のある子ども」とだけいうのは、彼を崇拝する土地柄に応じて、雄ヤギの角となり、雄鹿の角となり、また雄牛や雄羊の角とそれぞれ変化するので、角の種別をとくに指定しなかったまでのことである。アポロド一口スは、ディオニューソスがヘーラーの怒りにふれて身をほろぽさないように子ヤギに姿をかえられたと書いているが――彼の異名のひとつに「エリボス(「子ヤギ」)」がある(ヘーシュキオスの辞典・エリボスの項)――これはディオニューソス・ザグレウス――巨大な角をもった野生のヤギにまつわるクレータの信仰にふれているのであろう。ウェルギリウス(『農耕詩』第二書二二八〇-八四)が、生贄としてディオニューソスの神前にささげられる動物は、ふつうヤギがいちばん多いが、これは「ヤギが葡萄の木に噛みついてこれを傷つけるからだ」と述べているのは誤りである。アタマースがヘーラーのために狂人にされて殺したというレアルコスは、じつは雄鹿となったディオニューソスであった。トラーキアでは彼は白い雄牛となった。ところがアルカディアで。ヘルメースが彼を雄羊の姿にかえたのは、アルカディア人たちがもともと羊飼いで、彼らの祝う春の祭のころに太陽が白羊宮にはいるからであろう。。ヘルメースがディオニューソスの養育を託したヒュアデスたち(「雨を降らすものたち」)は、ここではそれぞれ「背の高いもの」、「びっこをひくもの」、「気短かなもの」、「うなり声をあげるもの」、「憤るもの」と異名がつけられて、つまり彼をまつるさまざまな儀式の様式を示しているのである。ヘーシオドスは『アラトスについて』(一七一・テーオンの引用による)のなかで、ヒュアデスたちのもっと古い時代の名まえは、パイシュレー(「もれてきた光」)、コローニス(「カラス」)、クレイア(「有名な」)、バイオ(「うす暗い」)、エウドーラー(「心のひろい」) であったと書いている。ヒギヌスがあげているリスト(『詩的天文学』第二書・二一)も、ほぼおなじである。ニューソスとは「びっこ」 の意味で、山中でおこなわれるビール祭のとき――ぺサハ〔過越の祭〕(「びっこをひく」)とよばれたカナアン人の春の祝祭のときとおなじく――聖王がやまうずらのようにびっこをひいておどりまわったものらしい。しかし、マタリスがディオニューソスをハチ蜜で養ったとか、マイナスたちがテュルソスという蔦をまきつけたもみの枝の杖をつかっていたなどという話は、葡萄酒よりも古い種類の麻酔剤があったことを示している。なかに蔦の葉をまぜ、蜜酒で甘くした唐檜いりのビールがそれだ。蜜酒というのは、ハチ蜜を発酵させてかもしだした、つまり「ネクタル」のことで、ホメ一口スの叙事詩にでてくるオリュムボスの神々がさかんに飲んでいるのは、これのことである。

  3. J・E・ハリソンは(『ギリシア宗教研究の序説』第八草)、葡萄酒の神ディオニューソスというのは、ビールの神ディオニューソス――またの名をサパージオスともいわれた――にあとになってからつけ加えられた性格であることをはじめて指摘したひとだが、彼女はまた、悲劇ということばが、ウェルギリウスのいうようにトラーゴス「ヤギ」から派生した語ではなくて(上記におなじ)、おなじ綴りのトラーゴスではあっても、「スペルト小麦」――アテーナイでビールの醸造に用いられた小麦に由来するのではないかという新説をたてている。彼女が書きそえているところでは、古代の襲に焼きつけられた絵画にえがかれているディオニューソスの従者は、ヤギ人間ではなく鳥人間であり、またディオニューソスのもっている葡萄の籠は唐箕になっているということだ。事実、リビアあるいはクレータ島のヤギは葡萄の木にゆかりがあるとされたし、ヘラディック期の馬は、ビールやネクタルに結びつけて考えられていた。そのために後期のディオニューソスに抵抗したリュクールゴスは、荒れ狂う馬――雌馬の頭をもつ女神につかえる巫女たちによって八つ裂きにされたが、これは初期のディオニューソスの運命を物語っているわけである。リユクールゴスの話がごたごたしていて辻つまがあわないのは、彼がドリュアース(「樫」)を殺したあと、凶作のたたりがその領土全体をおおうようになったなどという場ちがいな記述のためである。ドリュアースというのは、毎年殺される樫の王のことであった。彼の手足を切りきざんだのは王の霊魂を寄せつけないためで、また樫の神木をみだりに伐採するのは死罪にあたった。コテエツトーというのは女神の名まえで、エドーノス人の祭式はこの女神のためにおこなわれたのであった(ストラボーン・第一〇書・三・一六)。

  4. ディオニューソスは、獅子と雄牛と蛇の三様の姿であらわれる。というのは、この三つが一年を三期にわける暦のうえでの表徴だからである。彼は、冬に蛇として生れ(彼が蛇の冠をいただいているのはそのためである)、春には獅子となり、夏至のころ雄牛かヤギか雄鹿として殺され、そしてむさぼり食われる。ティーターンたちが彼に襲いかかってきたとき彼はこの三つのものに姿をかえたのであった。オルコメノス人たちのあいだでは蛇のかわりに豹だったらしい。ディオニューソスの秘教はオシーリスの秘教に似かよっていた。彼がエジプトをおとずれたのはそのためである。

  5. ディオニューソスや彼の酒盃にたいするヘーラーの憎しみは、ペンテウスやペルセウスのそれにたいする敵意とおなじく、当時トラーキアからアテーナイ、コリントス、シキュオーン、デルポイヘ、さらにはその他の文明のすすんだ多くの都市へとひろまっていった祭祀のとき葡萄酒を飲んでマイナスたちが大げさに浮かれ騒ぐ流行にたいして保守的なひとたちがつよく反対していたことを物語っている。そして、前七世紀のおわり、前六世紀のはじめになると、コリントスの独裁者ぺリアンデル、シキュオーンの独裁者クレイステネース、アテーナイの独裁者ペイシストラトスは、ついにこの信仰をみとめることにし、ディオニューソスをまつる祝祭の制度を公に設けた。そこで、ディオニューソスと彼にゆかりの葡萄の木が、天上においてもうけいれられることになったものと考えられる - オリュムボス十二神のひとりとしてのヘスティアーの地位をディオニューソスがおしのけたのは、前五世紀のおわりだった。もっとも神々のなかには、依然として 「酒ぬきの生贄」を要求しつづけたものがありはしたが。ただし、ビュロスにあったネストールの宮殿から出土し、最近解読された数枚の香坂のうちの一枚によると、前十三世紀にはすでにディオニューソスは神格をあたえられていたというが、かといって彼はけっして半神であることをやめたわけではなく、彼が毎年死んで毎年よみがえるその墓は依然としてデルポイに残されていた(プルータルコス 『イーシスとオシーリスについて』三五)。そのデルポイの祭司たちは、彼の不死の部分をアポッローンとみなしていたものである。ディオニューソスがゼウスの大腿から生れかわったという神話は、ヒッタイト人の信仰する風の神がクマルビの太股から生れたという神話とおなじく、彼の信仰が生れた当初の女家長制の背景を切りすてているわけである。子どもがあらためて男性から生れることを示す祭式は、ユダヤ人のあいだにみられた有名な養子縁組の儀式で (『ルツ記』第三章・九)、もともとヒッタイト人から借りいれた慣習なのである。

  6. ディオニューソス新月の形をした船で海を渡り、海賊たちと争ったという話は、例の方舟に乗ったノアと多くの動物についての伝説の起源になったものとおなじ図像にもとづいていると思われる。獅子や、蛇や、その他の動物は、季節ごとにかわる彼の変身であった。ディオニューソスは、事実、デウカリオーンそのひとなのである(第三八章・3をみよ)。プラシアイのラコーニア人たちは、ディオニューソスの誕生について通説とはずいぶんちがった口碑をつたえている。それによると、カドモスがセメレーとその子ディオニューソスを方舟のなかに閉じこめ、方舟がブラシアイに漂着すると、ここでセメレーは死んで埋葬され、ディオニューソスはイーノーに養育されることになっている (パウサニアース・第三書・二四・三)。

  7. ナイル河三角洲の沖あいに浮かぶ小島パロスには――プローテウスがディオニューソスとおなじようにさまざまな変身を示したのは、この島の岸辺でだった――青銅期のヨーロッパでの最大の貿易港があった。それは、クレータや小アジアエーゲ海諸島やギリシアパレスティナの貿易業者たちの物資集積港となっていた。葡萄の木の信仰は、ここから東西南北にひろがっていったのであろう。ディオニューソスリビアで戦った話は、ギリシアの同盟都市がガラマンテス人たちに援軍を送ったことを記録しているのかもしれない。また、彼がインドで転戦したという話は、アレクサンドロス大王が酒に酔っぱらいながらインダス河まで進撃していったという架空の歴史物語があやまりつたえられたのだといままでは考えられていたが、実際にはそれよりも年代が古く、葡萄の木の東方への伝播を記録しているのであろう。ディオニューソスがプリユギアをおとずれ、ここでレアーが彼に秘教をさずけたという話は、ディオニューソスをサパージオスあるいはプロミオスとしてまつるギリシアの祭式が、プリュギア起源であることを物語っている。

  8. 北かんむり座、つまりアリアドネーの花嫁の冠は、またの名を「クレータの冠」とよばれていた。彼女はクレータ系の月の女神で、ディオニューソスと交わって生んだ葡萄酒の子どもたち――オイノピオーン、トアース、スタビュロス、タウロボロス、ラトロミス、エウアンテースは、それぞれキオス、レームノス、トラーキアのケルソネーソス、さらに北方に住んでいたヘラディック期の諸部族の名祖にあたるものだった。葡萄の木の信仰はクレータ島をへてギリシアエーゲ海につたわってきたから-オイノス「葡萄酒」はクレータ語であるーディオニューソスがクレータのザグレウスと混同されるようになったのである。ザグレウスは、ディオニューソスとおなじように生れおちるとすぐに八つ裂きにされた。

  9. ペンテウス王の母アガウエーは、ビールを飲んで乱舞する底ぬけさわぎを統べていた月の女神のことである。三姉妹-とはニンフの相を示す三面相の女神のことだーが、ヒッパソスを八つ裂きにした話に対応するのは、ディフエツドの王子であるピルにかんするウェールズ神話である。そこでは、五月祭の前夜に、リアノンーこれは、リガントーナ(「偉大な女王」)のなまった語形であるーが、子馬をむさぼりくらうことになっているが、その子馬というのが、じつは自分の息子プリデリ(「心配」)の変身なのである。ポセイドーンもまた、子馬の姿のままで父親のクロノスに食べられるが、おそらくより古い神話では彼を食べるのは母親のレアーであったろう。この神話の意味するところはこうである。-馬頭のマイナスたちが、毎年、少年の生贄-サパージオスや、ブロミオスや、そのほかよび名はなんであろうと-を八つ裂きにして生身のままむさぼり食った古代の祭式が、もっと秩序のあるディオニューソスの酒宴にとってかわられた。そして、その移りかわりの重要な点は、ふつうの少年のかわりに子馬を殺すようになったということである。

  10. ディオニューソスの流した血から柘楷の木が生い茂った――というが、この柘楷の木はまたタンムーズ=アドーニス =リムモンにゆかりの神木でもある。その果実は熟すると、傷のようにバッと裂けて、内がわの赤い種をそとにさらす。これを女神ヘーラーかペルセポネーが手にすると、死の象徴となり、また復活のきざしを示すものともなる(第二四章・11をみよ)。

  11. ディオニューソスが、母のセメレーを救いだしてテュオーネー(「怒れる女王」)と名を改めさせた話は、アテーナイの「狂乱の女たち」にささげられた舞踏場でおこなわれるある儀式の絵からひきだされたものであろう。その絵では、歌声や笛の音や踊りの足音にあわせ、籠のなかから花びらをまき散らしながら、ひとりの祭司がセメレ一にむかって、オンパロス、すなわち一種の築山のなかから姿をあらわすように招くと、若いディオニューソスが、「春の精」にともなわれてやってくるのである(ビンダロス『断片』七五・三)。デルポイでは、まったく女たちの手だけでおこなわれていたおなじような昇天のヘロイン儀式が、ヘ一口ーイス 一 つまり「半神女の祝祭」とよばれていた(プル一夕ルコス 『ギリシア問題』一二、アリストバネース『蛙』三七三-九六および注釈)。トロイゼーンにあるアルテミスの神殿でおこなわれていたもうひとつ別の儀式も、ここに加えていいかもしれない。忘れてならないことは、月の女神には三つの異なった相があるということだ。それは、ジョン・スケルトンのことばを借りると、こういうことになる。

     ディアーナは緑の葉のなかに
     ルーナはまぶしく光りかがやき
     ペルセポネーは暗い冥府に

    事実、セメレーはコレーまたはペルセポネーの別名で、この 昇天の光景は多くのギリシアの襲にえがかれている。そのうちのいくつかの絵のなかには、サテユロスたちが根掘り鍬で土を掘りおこして、半神女 - すなわちセメレーのあらわれでてくるのを手つだっている図柄のものもある。サテユロスがいることは、この祭式がベラスゴイ系の起源であることを物語っている。彼らが掘りおこしているのは、おそらく小麦の人形1秋の収穫のあとで地中に埋め、いま掘りおこしてしらべてみると緑の若芽をふきだしている小麦の人形であろう。むろん、コレーは昇天しなかった。地下の冥府に帰る時期がくるまで、彼女はデーメーテールとともに地上の各地をさまよっていたわけである。しかし、オリュムボス十二神の地位がディオニューソスにあたえられた直後に、処女のままでディオニューソスを生んだ母親も昇天さすべきだという説がつよく主張され、ひとたび女神となったセメレーはコレーとは分離されることになった。一方コレーは、半神女にふさわしく、地上にあらわれたり地下に降ったりする生活をつづけた。

  12. 葡萄の木は、神木の暦年の順位では十番目にあたり、月では葡萄収穫の祭がおこなわれる九月に相当する。蔦は十一番目の木で、マイナスたちが浮かれさわぎ、蔦の葉を噛んで酔っぱらう十月にあたっている(第五二幸・3をみよ)。蔦が重要視されたのはまた、ほかの四つの神木 - えんじ虫が巣食うエルの樫の木、ボローネウスのはんの木、それにディオニューソス自身の葡萄の木と柘楷 - とおなじく、それが赤い色の染料のもとになったからである。ビューザンティオンの修道士テオピロスは、つぎのように言っている(ルゲロス『工芸について』第九八草) - 「詩人や工匠たちが蔦を愛したのは、それがかずかずのふしぎな力をもっていたからである。……その力のひとつについて話そう。三月、樹液がのぽるころ、蔦の茎に錐で二、三カ所穴をあけておけば、ねばねばした液がしみでてくる。それに尿をまぜて煮沸すると、レーキ(深紅色)とよばれる血の色の染料にかわるが、これは絵をかくにも本の彩飾をほどこすにも役にたつ。」赤い染料は、豊穣多産を象徴する男の人形の顔(パウサニアース・第二書・二・五)や、聖王の顔に塗るのにつかわれていた。ローマでもこの慣習が残っていて、凱旋将軍の顔を赤く染めるのにつかわれた。このとき将軍はマルスの神を象徴したことになるが、このマルスの神はローマでとくに軍神としてだけみなされるようになるまでは、じつは春のディオニューソスにほかならなかったし、三月(March)という名まえもそこからでたのであった。英国王は、国家的な行事の際には、健康で意気さかんな姿を見せるために、いまでもその顔にほんのりと紅をさす。そのうえに、ギリシアの蔦は、葡萄の木や鈴掛の木と同じように、先が五つに分かれた葉をもっていて、大地母神のレアーがさまざまなものを創造する手をかたどってもいる。ギンバイカは死を象徴する木であった。(グレイヴズ、p.160-166)

そう、大事なのは細部でなく、時空間の枠組みすら歪ませる強烈な「意志の力」の投影の発見…

「Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets」におけるマイナスたち(MainavVpl.MainavdeV)の定義。

ディオニューソスDionysusやオルペウスに仕えた巫女たち。彼女らの本来の住みかである「マイナロスの聖なる山」にちなんで、マイナデス(マイナスたち)と命名された。パーンもまた、アルカディアの羊飼いの姿になって、マイナロスの山で過ごした。マイナスたちは、酒神の霊にとりつかれると、「熱狂的な女たち」になり、狂宴の際には生贄の男を八つ裂きにしてその肉を貧り食った。その後、文明が開化したギリシア・ローマ時代になると、彼女らは酒宴やカーニパルの行列を行って、自分たちの「救世主」を崇めた。ローマでは、マイナスたちは「バッカスの巫女たち」と呼ばれ、今度はバッカスというローマ名を与えられた彼女らの神に仕えた。
f:id:ochimusha01:20171003063713j:plain

テューイアス(QuiavVpl.QuiavdeV)、バッケー(Bavkchpl.Bavkcai)とも云う。酒神ディオニューソス・バッコスの供の女で、酒神によって忘我の境に入り、狂気に浮かされ、つた(蔦)、かし(樫)、もみ(樅)も葉の頭飾をつけ、身にはひょう(豹)その他の動物の皮をまとい、半裸の姿で山野をさまよい、大木を引き抜き、猛獣を殺し、生肉をくらい、あらゆる物事の判断を忘れて狂いまわった。

彼女たちは酒神がリューディアLydia(またはプリュギアPhrygia)からトラーキアThrakiaを経てギリシアに入った時つきしたがい、酒神に反抗したオルペウスやペンテウスを八つ裂きにし、酒神の東方遠征にも従った。

バーバラ・ウォーカーは、マイナスという語の起源を、アルカディアのマイナロン山(Maivnalon)に求めているが、本末転倒であろう。この語は、maniva(狂気)、mavntis(預言者)、mh:niV(怒り)などと同根で、憑依情態を表す。

「Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets」における牧神パーン(Pavn)の定義

アルカディアサテュロスの王で、角とひづめを持つ典型的な森林地帯の神。パーンはギリシアの最も古い神々の1人であり、ディオニューソス信仰と結びつき、ときにはディオニューソスと同一視された。パーンはディオニューソス教のマイナスたち(熱狂した女信者たち)のすべてと交わりを結んだと言われた。さらに彼は、アテーナー、ペネローペ、セレネー、その他多くの、古代において太女神と言われた女神たちと結婚した。

f:id:ochimusha01:20171003064055j:plain

パーンの名は「牧草地」paeinに由来した。Panはまた「すべて」 allと「パン」bread を意味する語である。ウシル〔オシリス〕、アドーニス、タンムーズのように、聖なるパンbreadの神であった万物の父を思い起こさせられる。彼らのようにパーンは大地を豊穣にするために死んだ聖王であった。「偉大なパーンは死んだ」 Great Pan is deadという儀式の句はタンムーズの儀式からとったのかもしれない。なぜならこの句はまたThamus Pan-megas Tethnece (万能の偉大なタンムーズは死んだ)という意味にも解釈されるからである。

ギリシア人は、エジプトの太陽神アモン-ラーはパーンと同ーの神であると主張した。彼らはアモン-ラーの聖なる都市をパノポリス(牧神パーンの都市)と呼ぴ、「パーンとサテュロス」が住んでいた所であると言った。「儀式用の服装と飾り付け」panoplyはパーンの都市で行われた聖なる行列に由来するものである。

パーンの祭儀と結びつく語としては、そのほか「はね回る」 caper、「移り気」 caprice、「戯れ」 capriccioがあるが、すべてラテン語のcaper (ヤギ)から派生したものである。パーンの聖なる死と再生のドラマが、最初の「悲劇」 tragedyであり、この語はギリシア語のtragoidos (ヤギの歌)から派生した。「パニック」panicの語は、本来はパーンの恐ろしい叫ぴを意味した。パーンは呪術的なわめき声をあげて敵を追い散らしたが、その声を聞いたものは恐怖に満たされて、すべてのカを失った。

パーンの伝説はヒンズー教の豊穣の神パーンチカに起源があるのかもしれない。パーンチカはハリティの夫であり、ハリティは、原初の女神たちの1人で、多くの乳房を持っていた。多くの乳房を持つディアーナが、パーンを王とする森の動物たちに乳を飲ませたように、ハリティも、ヴェーダ時代以前の多くの動物の精に乳を飲ませた。

パーンは中世の異教の「角を持つ神」の重要なモデルであり、教会はこの神をサタンと呼んだ。悪魔はつねに、パーンの属性であるヤギのひづめと、角と、旺盛な性欲を持ち、ときには、ヤギの頭、大勢のサテュロス(デーモンたち)を従えていた。しかし19世紀の新ロマン主義は、わずか数世紀前の中世にはパーンに帰せられていたデーモン的性質を取り去って、パーンを、羊飼いやニンフの集う、今は失われたアルカディアの穏やかな像として作り上げた。ロマン派の詩人はパーンを、彼らの原生林の神として受け入れたのである。

1821年、シエリーは、友人のトマス・J・ホッグにあてて、こう記している。「君が真の宗教の儀式をおろそかにしていないと聞いて、嬉しかったよ。君の手紙は、ぼくの心の中に眠っていた信心を呼び覚ました。すぐさま、ぼくは夕暮れに1人で家のうしろの高い山に登り、花飾りをかけ、そして山を逍遙するパーンに捧げる小さな芝の祭壇を作った」。オスカー・ワイルドは物憂げに記した。「おお、アルカディアのヤギ足の神よ! この現代の世界はお前を必要とする!」。バイロンは、パーンの死を悼む賦を書いた。

 古き神々は海辺にて黙す、
 偉大なる牧神パーンは死せり、イオニアの水の響きを貫きて、
 恐ろしき「力あるパーンは死せり」の声ぞ起こりぬ。
 彼とともに偽りも真も多くが死せり。
 ──過ぎ去りし夢ぞ美わしかりき。流れには魚の群。
 森や水辺に、花恥ずかしきニンフぞ集う。
 追い来たる神々の恋の戯れ、ニンフは嗤い、
 はてはまた神々の腕に抱かれ、
 山も海もその名をとどめん高貴なる
 雄々しき血筋をぞ生みいだす。

アルカディアの牧人と家畜の神。彼の名はのちギリシア語のpa:n《すべて、全宇宙》と関係づけられ、哲学者によって宇宙神とされているが、Pa:nは古形Pavwnであって、形容詞pa:n(語根pant)とは関係がない(『ギリシアローマ神話辞典』)

バーンという名まえは、ふつうパエイン「放牧する」から派生したとみられているが、じつは豊饅と繁栄を祈るアルカディアの信仰――ヨーロッパの西北部における魔女信仰に非常によく似たもの――における「鬼神」あるいは「義人」のことである。高い山々でマイナスたちの底ぬけさわぎの酒盛りがおこなわれているあいだ、このヤギの皮を着た男が彼女たちの恋人にえらばれるのであるが、彼はおそかれはやかれ、その特権の代価を自分の死であがなわなくてはならなくなるのである。

パーンの誕生については、諸説紛々としている。ヘルメ-スはさきにのべたマイナスたちの底ぬけさわぎの酒盛りの中心をなす男根の形をした石像に宿っている力であるから、羊飼いたちは自分たちの神であるパーンのことを、きつつきにたたかれて生れてきたヘルメースの息子だと考えていた。きつつきがコツコツと木をたたくと、やがて待ち望んでいた夏の雨が沛然としてやってくると信じられていたのである。ヘルメースがオイノエーと交わってパーンを生ませたという神話は、自明のことで別に説明の必要もあるまい。もっとも、初期のマイナスたちは酒以外の興奮剤を用いていたという。またパーンの母親が有名なべーネロペイアだとすると、その名まえ(「顔を織物でおおった」)から想像されるのはマイナスたちが彼女らの底ぬけさわぎの酒宴の際に鴨の一種であるぺーネロぺーPenelopeの羽根の縞目によく似た、なにかの形をした出陣の化粧を顔にほどこしてい たのだろうということである。ブルータルコスが書いているところによると(『神罰の猶予について』一二)、オルぺウスを殺したマイナスたちは、その罰に夫たちから刺青をいれられたということだ。また、手足に織物の模様の刺青をほどこしたひとりのマイナスの姿が、大英博物館所蔵の聾にえがかれている(カタログ・E301)。ヘルメースが雄羊に姿をかえて――ヨーロッパの西北部につたわっていた魔女信仰では、雄羊に化けた悪魔はヤギのそれとおなじように、ご く普通に見られるものであった――ぺーネロペイアに近づいた という話や、ぺーネロペイアが求婚者のすべてと交わってパーンを学んだという話や、パーンがあらゆるマイナスたちと交わったという自慢話などはみな、もみの木の女神ピテエスあるいはエラテーをまつる祝宴に掛けて男女乱交の風習があったことを物語るものであろう。アルカディア地方の山嶽人たちは、ギリシアでもいちばん野蛮なひとたちなので、彼らより ももっと文明度の進んでいた隣国の人々は、あからさまに 彼らを軽蔑していたのである。

パーンの息子とされていいるありすい鳥、あるいは蛇食い鳥は、異性をひきつける呪いに用いられた春の渡り鳥であった。つるぼは一種の刺激性の毒――鼠の駆除には貴重なものだが――をふくんでいるので、祭式に参加するまえの下剤や排尿薬として使用 されていた。そういうわけで、つるぽは悪霊のたたりを払う象 徴とされるようになり(プリニウス『博物誌』第二〇書・三 九)、狩の獲物がすくないときには、つるぼでパーンの像をうちすえる風習が生れたのである。

パーンがセレーネーを誘惑した話は、五月祭前夜の月明のもとでの狂乱の祭のことをいっているにちがいない。――この宵、若い「五月の女王」は緑の森のなかで結婚を祝う のにさきだって、まっすぐに立った相手の男の背なかにまたが ってゆくのである。このころまでに、アルカディアでは雄羊の 信仰がすでにヤギの信仰にとってかわってしまっていたのであろう。

あのエジプト人の舵とりタムースは、あきらかに「タム一ス・パン・メガス・テトネーケ」(偉大な神タンムーズは死んだ!)という儀式のときにあげる哀悼のことばを「タムースよ、大いなる神パーンは死んだ!」と聞きちがえたのである。ともかく、一世紀の後半にデルポイの祭司であったブルータルコスは、そう信じてこれを公表した。けれども、それからほぼ百年のち、パウサニアースがギリシア全土を旅行してまわったとき、彼はパーンをまつる神殿や聖壇、私邸内にパーンをまつる一角などが、いまもなお参拝の信徒たちで賑わっているのを目撃したのだった。(グレイヴズ、p.154-155)

実は古代不ギリシャ神話には「実際の起源はアナトリア半島に割拠した諸勢力、すなわち新ヒッタイト帝国群や内陸部のフリギア(Phrygia, ギリシア語: Φρυγία)人なのに、アケメネス朝ペルシャが台頭してこれらの地域を支配下に置くと、それをペロポネソス半島内陸部のアルカディアに移した」なる欺瞞が存在します。この時に現地のキュベレー信仰やアルテミス信仰が変質し、今日の「暴力ヒロイン」の大源流となる「暴力幼女」が誕生するのです。

どう見てもこれこそが「ロリコン(Lolicon)概念が本質的に含む凶暴性」の大源流としか思えませんね。下手したらどんな神様よりも起源が古い…