私のサイトが多岐の話題を扱う複雑怪奇な構造をしてるのはサイト名として「諸概念の迷宮」を選んだ最初からのコンセプトで、論戦に際して過去稿を参照しようとすればするほど莫大な範囲の知識が必要となる様に出来ているのですね。
例えば、この迷宮に迷い込んだとあるパヨクの放った一言が強烈。「オイラーの公式なんて知ってるのはネトウヨである動かぬ証!! 全員精神異常者だから逮捕だ!!」。
大体こういう論理判断が働いた結果だと思います。当然、その投稿のTOPに掲げられてたこのアニメーションがまさにそのオイラーの公式(Euler's formula)e^θi=cos(θ)+sin(θ)の図示だったなんて気付かなかった模様…まぁ世の中「三角関数なんて義務教育で教える必要ない」なんて言い出す人もいるくらいですから、世間一般の認識ではそう異常な考え方でもないんでしょう。
それでは、かかる円形イメージの脳内操作が出来ないと具体的に何が困るかというと…物事の相関関係の掌握に障害が生じてしまうんですね。
相関係数(correlation coefficient)- Wikipedia
2つの確率変数の間にある線形な関係の強弱を測る指標。無次元量で、−1以上1以下の実数に値をとる。相関係数が正のとき確率変数には正の相関が、負のとき確率変数には負の相関があるという。また相関係数が0のとき確率変数は無相関であるという。
相関係数が±1に値をとるのは2つの確率変数が線形な関係にあるとき、かつそのときに限る。また2つの確率変数が互いに独立ならば相関係数は0となるが、逆は成り立たない。
例えば以下の図は(x, y) の組とそれぞれの相関係数を示している。相関は非線形性および直線関係の向きを反映するが(上段)、その関係の傾きや(中段)、非直線関係の多くの面も反映しない(下段)。中央の図の傾きは0であるが、この場合はYの分散が0であるため相関係数は定義されない。
これ実は「政治技術の要諦は(倒すべき絶対悪としての)敵と(その為に万難を排して団結すべき)味方の適切な設定にある」とするカール・シュミット流の政治哲学の支持者からすれば実に好都合な状況だったりします。
- マニアックな人しか知らない…へぇ、何%くらいの比率で?
- ネトウヨはマニアック…へぇ、何%くらいの比率で?
- マニアックは精神異常…へぇ、何%くらいの比率で?
こういう疑問を端々で挟む「嫌な聴衆」が確実に事前に排除出来るからですね。
そしてこの件はこういう話にも繋がってくるんです。
愛も憎悪も「複雑に絡み合った感情を一つに統合しようとする認識作用」に他ならないが、前者の主目的を「感情の純化(不可能を承知の上で全てを単一基準に収束させようという試み。無論、無限に終わらない)」とするなら、後者の主目的は「パニック状態からの手段を選ばぬ脱出手段の一貫としての脊髄反射的ラベリング(だから素人のとっさに思いつくそれは概ね「鳩胸で傴僂」みたいな矛盾に満ちた理不尽な怪物となる)」となる。要するに前者の極限をRadwimps「愛に出来る事はまあるかい(2019年)」で謳われた様な「愛に出来る事はまだある筈」と模索し続ける生き方とするなら、後者の極限は「自分が不愉快と感じるものは全て脊髄反射的にナチスの差別主義認定して自らが生きる上での精神的負荷を最小限に留める」生き方となってくる。
だから、そうやって世論が扇動的に形成される難易度を上げるべくコンドルセ公爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)やJ.S.ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年)の様な数学者でもあった古典的自由主義者達は義務教育による国民の教養度の引き揚げと多様性の容認を訴えてきた訳なんですね。で、そういうところがまたカール・シュミット流の政治哲学の支持者からすれば「その余計な配慮が、決められない政治を生む!!」と非難轟々な訳ですが…実際、別のパヨクから「そういうところがナチスのレイシスト」と指摘された事もあります。
まぁ大体こういう論理判断が働いた結果だと思います。そりゃ「好きと嫌いの狭間に無関心状態も存在する」相関係数概念を習得してるだけでネトウヨ認定されますわな。
- ところでややこしい事にカール・シュミット流の政治哲学はあくまでその前段階として独裁を達成したワイマール政権の大統領内閣を擁護しただけで、その政治的状況に便乗したナチスのイデオロギーそのものだった訳ではない。
*ナチスの行動原理の特徴はあくまで「無分別なええとこどり」なのであり、ここにも相関係数的判断の欠如が見受けられる。「そもそもイデオロギーとして成立していない」とする意見までちらほら。実際、カール・シュミットはナチス台頭に批判的だった過去を暴かれて失脚しており、これを「カール・シュミットの政治哲学を認められない奴は、みんなまとめてナチスのレイシスト」と指摘する理由に挙げるパヨクも存在する。いやそれ、当時のドイツにはもう「大統領内閣かナチスか共産主義か」みたいな「どの独裁=全体主義が一番マシか?」なる選択肢しかなかったという話に過ぎないのである。
- そしてもちろん古典敵自由主義の理論もそれほど完璧な訳ではなく、実際カール・マルクス(Karl Marx, 1818年〜1883年)を筆頭とする社会自由主義者陣営から「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものの大半は、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」という非難を受けている。
真の意味での「義務教育の失敗」とは、この辺りの考え方の錯綜をちゃん教えてないと頃にあるのかもしれません。ところで、私個人的には…
こういう語り口調が本田勝一「日本語の作文技術」のパロディと気付かない時点で左翼なら失格だと思うんですが、どうでしょう?