諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】家父長制(Patriarchy)は本当に絶対悪(Absolute evil)なのか?

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その大半が政痴にして党争至上主義者たるウルトラ・フェミニズム運動家にとって、国際的規模におけるイデオロギー上の最大の仇敵は以下の理由で第三世代フェミニズム運動だったりします。

  • その反権威主義(Anti-authoritarianism)的態度の徹底魯迅は中華王朝史全体を俯瞰し「奴隷と主人が立場を入れ替えるだけでは、奴隷制は撤廃されないどころかその都度強化されていく」と看過した。第三世代フェミニズムも「新左翼学生運動が目指すのは家父長制Patriarchyの打倒ではなく、かかるシステムの簒奪であった」とし、かかる権威性に裏返しの形で依存するバーバラー・ウォーカーの家母長制Matriarchy復権運動も同様の動機に振り回された結果としての権威主義的行動に過ぎないと退ける。

    かかる流れにおいて日本人女性特に漫画家やラノベ作家やアニメ制作者)が主導的立場で参加し得たのは「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制およびライン河流域の「工業貴族」の発展を支えた家父長主義下においては夫=父親=息子だけでなく妻=母親=娘もその名目上の頂点に上り詰め得るが、あくまで権威主義体制の枠内の展開に過ぎない」=「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される絶対王政的ジレンマそのものはジェンダー論と無関係」を男性より深く日常レベルで体感してきたせいかもしれない(例えば「マザコン息子&その母VS嫁」の対立構図への直面)。

    古代エジプト第18王朝第5代ファラオ女王ハトシェプスト羅Hatshepsut、在位:紀元前1479年頃~紀元前1458年頃)。父はトトメス1世、母はイアフメス。夫はトトメス2世、娘はネフェルウラー。夫であるトトメス2世は妾腹の息子トトメス3世を次の王にせよと遺言したが、トトメス3世は幼かったため、以後22年間にわたり共治王を務めた。実際には在位中、彼女が絶対的権力を保有していた。公的な場では男装し、あごに付け髭をつけていたと伝えられる。ハトシェプストの意味は最も高貴なる女性である。即位名はマアトカラー、意味は真実とラー神の魂である。即位については、トトメス3世を無視してプロパガンダを用いファラオの地位まで登りつめるほどの野心家であったと見るか、夫の遺言を守るために幼い継子が成人するまでのつなぎを果たそうとしたと見るか、諸説ある。治世は穏健で、戦争を好まずに平和外交によってエジプトを繁栄させた。それは同時にエジプトの国威の低下を招いたが交易の振興によって経済的には繁栄しトトメスの軍事的功績の基盤を作り上げたという見方もある。死後、その事跡はトトメス3世によって抹消されたという解釈が一般的だが、ザヒ・ハワスは、ハトシェプストとトトメス3世の仲は良好で、事跡を抹消したのは女性であるハトシェプストがファラオとして君臨したことを快く思わない者たちではないか、と発言している。なお旧約聖書』「出エジプト記モーセナイル川で拾って育てた義母は彼女とも言われている。

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    ハプスブルク帝国の領袖女帝マリア・テレジアMaria Theresia, 1717年~1780年神聖ローマ帝国ローマ皇帝カール6世の娘にしてハプスブルクロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者。オーストリア大公/ハンガリー女王(在位1740年~1780年)、ボヘミア女王(在位1740年~1741年、1743年~1780年))。外交革命(独:Umkehrung der Allianzen, 仏:évolution diplomatique, 英:Diplomatic Revolution、1756年を決行してフランス王室娘のマリー=アントワネットを降嫁させた事がフランス革命勃発の遠因の一つとなる。皮肉にも「(望み通り平和を望む気持ちがあらゆる権力者の間で共有される事になり欧州で戦争の種が尽きる形で。

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    プロイセンのフリードリヒ2世大王オーストリアヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされるエカチェリーナ2世アレクセーエヴナ露Екатерина II Алексеевна,羅Yekaterina II Alekseyevna、1729年~1796年、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝1762年~1796年夫はピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン秘密結婚、子はパーヴェル1世ほか。ロシア帝国の領土をポーランドウクライナに拡大し、 ヴェリーカヤВели́кая=大帝と称される。

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  • その多様性(Diversity)多態性(Polymorphism)を容認する態度の徹底…そもそもフェミニズムの大源流の一つは意思決定判断の妥当性の担保を極限値としての 広義積分Improper integral)すなわち=「無限遠Infinity、即ち無限小(-Inf)から無限大(Inf)の範囲積分結果」の一種たるベルヌーイ大数弱の法則WLLN=Weak Law of Large Numbers)に委ねたコンドルセ侯爵Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年~1794年)の陪審定理Condorcet's jury theorem)やジョン・スチュアート・ミルが「自由論On Liberty、1859年)」で述べた「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」とする古典的自由主義Classical liberalism)のテーゼである。

    公教育の原理」を著したコンドルセは「公教育の父」とされる。

    • 法律さえ立派につくられていれば、無知な人間も、これを能力ある人間となすことができ、偏見の奴隷である人間も、これを自由ならしめることができると想像してはならない。
    • 天才は自由であることを欲するものであって、いっさいの束縛は天才を委靡させるものである。
    • 法律を愛するとともに、法律を批判することができなければならない。

    コンドルセはまず「公教育は国民に対する社会の義務である」と主張する。

    • 人間はすべて同じ権利を有すると宣言し、また法律が永遠の正義のこの第一原理を尊重して作られたとしていても、もし精神的能力の不平等のために、大多数の人がこの権利を十分に享受できないとしたら、有名無実にすぎなかろう」。つまり彼にとって公教育とは、権利の平等を実質化するのが本質と認識されていたのだった。
    • フランス革命を経て、市民は法律によって「自由」と「平等」を手に入れた。しかしコンドルセは言う。この「自由」と「平等」は、教育によって初めて十全なものになるのだと。「権利の平等の実質化」、そして、そのためにすべての子どもに「知識および品性とその獲得の手段を保証する」こと。これがコンドルセの提示した公教育の原理である。
    • その一方でコンドルセはこうも主張する。「公教育は知育のみを対象とすべきである」「公権力は思想を真理として教授せしめる権利を有しない」。専制政治からの解放によって、市民は思想の自由を手に入れた。それゆえこの思想の自由を保障するために、公教育は思想教育を排し「知育」に限定するべきであると考えた訳である。

    また彼は男女共学の思想の先駆者でもある。「男子に与えられる教育に、女子も参加することが必要である」。市民の権利は皆平等だ。だからそこには男女の区別はない。コンドルセはそう主張した。ルソーですら「エミール」の中で男女の教育は別々が当然だと書いているにも関わらず。その意味で、コンドルセのこの思想はきわめて先駆的なものだったといっていい。

    自由論」が発表された同年には「上部構造理論の提唱者カール・マルクスが「経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」において「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と表明して社会自由主義Social liberalism)もその歩みを始めているが、コンドルセ侯爵やJ.S.ミルが数学者の立場から客観的に数理の社会への応用を提言したのに対し、マルクスが「人間の良心のみの救済を目指し、現実の人間生活の悲惨さに芽を向けない」ルター=フォイエルバッハ式の人間解放神学に反駁した神学者だった事実から決して目を背けてはいけない。

    大恐慌を背景に1850年代末には欧州近代思想の大源流が一気に出揃った。

    ①「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」としたジョン・スチュアート・ミル自由論On Liberty、1859年)」の古典的自由主義

    ②「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」とする「上部構造理論の提唱者カール・マルクス経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の社会自由主義

    ③「進化は系統的に展開する」としたチャールズ・ダーウィン種の起源On the Origin of Species、初版1859年)」の科学主義(Sientism)的アプローチ。 

    そもそも形而上学希:Μεταφυσική、羅:Metaphysica、英:Metaphysics、仏:métaphysique、独: Metaphysik)には当初から本質的に「どうすれば誰かの心に届いてる神の声良心、あるいは理想世界から流出した理念が、別の誰かの心に届いてるそれより精度が高いと証明可能か」なる観点が欠落している。これを発明した古代ギリシャ民族にとってはヘレネスHellēnes)市民の魂が、奴隷やバルバロイbarbaroi=異邦人)のそれに生まれつき優越しているのは自明の理過ぎず、新たに証明する必要性を覚えなかったのである。そしてこうした古典文学がアラビア哲学者の注釈付きで中世欧州へと伝わり、ラテン語に翻訳されてスコラ学の様なキリスト教神学の基盤に採用され、最終的には理神論Deism)を経て社会自由主義が最終継承者となる。いずれにせよこの世界観は極限の追求に向かうと導きの主体神、良心、理想世界から流出した理念)と導かれる客体(人、社会)が揺らぎなき一体性を獲得して確固とした統一アイデンティティの構築が目標となる。それに応じてこれを阻害するあらゆる要因の排除に向かう方向へと収束する展開が想定される。

    その一方で第三世代フェミニズムの人間解放論は必然的に個人間や社会との関係における分散枠の確保だけに飽き足らず「(人間の可能性を最大限引き出す為の個人の意識内における思考範囲の分散枠の確保」まで求める展開を迎える。

     

    与謝野晶子 母性偏重を排す(1916年)

    私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴おおづかみな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。

    一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。

    このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。 

    与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

    巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

    しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

    雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

    私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。 

そして、かかる古典的自由主義の諸要素が「国家間の競争が全てとなった総力戦時代1910年代後半~1970年代)の終焉を契機として次第に社会自由主義にも採用され始めるのですが「混ぜたら危険」の警句通り「鳩胸で傴僂せむしの怪物」が生まれてしまったのでした。

  • べトナム戦争Vietnam War, 1955年~1975年)終焉を契機に「他民族から受けた被害を最大限言い立てる一方、他民族に与えた加害は可能な限り黙殺しようとする民族主義の暴走が本格化。その皮切りとなったのはカンボジアポル・ポトクメール・ルージュ)政権によるベトナム系市民の民族浄化政策開始(1978年1月~)で、これを看過出来なかったベトナム軍がこの政権を一瞬で攻め滅ぼしたカンボジア・ベトナム戦争1978年5月~1989年9月)と、かかる「野蛮人の所業」を懲罰すべく派遣された中国人民解放軍も返り討ちにされて大損害を出し、以降派兵自体がなかった事にされた中越戦争1979年2月)が連続。

    戦場の村1968年)」や「中国の旅1972年)」で名を馳せた「人道主義ジャーナリスト本田勝一が、ベトナム戦争終焉や、その後のベトナムと中国の関係悪化を背景にこれら「元スポンサー」から門前払いされる様になり(当時の記事にはその事への恨み節が多いが、共産主義圏のプロパガンダ展開全体を俯瞰すると利用価値が無くなった時点で口封じに殺されなかっただけマシ。というより抹殺コストが見合わない使い捨ての小物と判断された可能性が濃厚)やがてよりによってポル・ポト政権の擁護に走り、その倒壊によって壮絶な実態が明らかになると完全に沈黙してしまった時代とも重なる。

    こうした形での「元探検ルポライター本田勝一の凋落と、電通をスポンサーに迎え、ある意味ショウビズ化によって「日本人による探検」の余命を文字通り命懸けで少しだけ伸ばそうとした植村直己の壮絶な最後(1984)は、まさに総力戦体制時代の掉尾を飾るエピソードに相応しいといえよう。

  • 当時の「政治の時代」終焉を背景に「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される絶対王政のジレンマが急浮上してきたのもこの時期。パゾリーニ監督が「ソドムの市Salò o le 120 giornate di Sodoma, 1975年)」発表後に殺害され「ガイアナ人民寺院集団自殺事件1978年)」が起こった。
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    戦前希代のマルクス主義者として知られる戸坂潤1900年〜1945年の発言

    自由主義はあまりにも容易に絶対主義へと転化してしまう

    自由主義はその多様性と不安定性ゆえに眼前の歴史的事実に対応すべく政治的に選ばれる可能性のある論理候補には残れない

    民主主義が無力なのは大衆が訓練を受け一枚板に組織されていないから。彼らが力を得るにはさらにその組織が特定の時代精神の体現者として編纂される必要があり、この段階に至って初めて民主主義は本来の力を発揮する

    現代人なら「それはもはや民主主義でなく全体主義なのでは?」と考え込まざるを得ない側面もある発言。実際、同時期の大日本帝国においては右翼軍国主義)と左翼社会主義者)が共闘して小津安二郎の小市民映画を叩いたりしている。

    1978年11月18日における南米・ガイアナでの惨劇で最も知られる。この惨劇では、実に918人もの人々が、人民寺院の開拓した辺境の町(コミューン)・ジョーンズタウンで、大量殺人、もしくは集団自殺によって命を落としたのである。同日には、アメリカ合衆国下院議員のレオ・ライアンとその代表団のメンバー4人が、ポート・カイトゥマの空港で人民寺院信者によって惨殺されている。このジョーンズタウンでの惨劇は、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生するまで、アメリカ合衆国民の故殺において最多の被害者数を記録した事件であった。

  • こうして社会自由主義が到達した「自分に届いてる神の声だけが世界で唯一の正義の基準」なる信念は、さらに場合によっては古典的自由主義者をも蒼白とさせる形で遺憾なく「多態性要するにダブル・スタンダード)」を発揮する事がある。

    シカゴFacebook拷問Live事件2017年)に際してネットに匿名で「これまで白人が黒人にしてきた事を思えば、白人はもっと奪われ、強姦され、殺され続けなければならない。だが我々は弱い。だから人道主義と人種平等の理念の観点から、襲いやすい女子供や障碍者から順次差し出せ。そして被害に会う都度、少しは償いが出来たと泣いて喜び続けろ」という書き込みがあり、やはり匿名で「彼のいうことにも一理ある。我々はしっかりこういいう言葉に耳を傾けねば」という返信がぶら下がった。

    その後、白人リベラル層が多く住む事で有名な高級住宅街に迷い込んだ丸腰の黒人少年が呼び鈴を鳴らしただけで射殺される事件が起こるとこうした書き込みが「黒人なんて外観に関わらずみんな手負いの熊な、殺同されるまで殺し続ける殺人兵器の様な存在に過ぎないのだから見掛けただけで殺しても正当防衛が成立するエビデンスとして取り沙汰される展開に。 

はっきり言って1990年代以降の展開では国際的に「社会自由主義者の老化」が恐るべき役割を果たす様になっていきます。その一方で、彼らがこれまで圧倒的な力で一方的に「絶対悪」のレッテルを貼ってきた諸概念にも再評価の光が… 

諸田実著 「クルップ : ドイツ兵器王国の栄光と崩壊」

ルフレート・クルップAlfred Krupp、1812年~1887年)は鋳鋼所設立25周年を記念して発行された小冊子中での自らに寄せられる賛辞を除けつつ、こういった内容を述べている。

鋳鋼所設立が当初どれだけ関係者全員、それどころか苦難の当事者からすらも無謀と考えられ、確信的歩みからほど遠い実存不安に苛まれながらの試行錯誤的判断の連続だったかについて、当時の困窮と堅忍、不断の努力と信念の維持が全て報われて以降の世界しか知らない今日の従業員には想像もつかない事だろう。労働はまさしく祈祷であり、その目的が全体の福祉に向けられる時、初めて驚くべき繁栄をもたらすのである」。

 ドイツの企業家。父フリードリヒ・クルップの創設した小さな木造の工房を相続し、19-20世紀にドイツ最大の鉄鋼・兵器製造企業であり、現代でも巨大コングロマリットであるクルップ社に育て上げた。新興軍事国家のプロイセンに高性能の大砲を供給し「大砲王」の異名があり、また死の商人とも呼ばれた。

1812年、ドイツのエッセンで生まれる。父のフリードリヒは発明家で、水車を動力にした木造の作業場をライン川の岸に建設し、当時イギリスが独占していた鋳鋼の製造を試みていたが彼の試みは成功することなく、長男のアルフレートが14歳になった1826年、父は失意のうちに窮死し、作業小屋と数人の職人は息子に受け継がれた。

その後は工房にひきこもって実験を繰りかえし、数年後ついに鋳鋼の製造に成功する。そして弟たちとも協力し、食卓ナイフや工具、やがて鋳造機などを作って販売し、借金を返済して事業を軌道に乗せる。

1834年にドイツ関税同盟が発足してドイツ諸邦間の人的・物的な交流が促進されたこと、さらに急速に鉄道網の整備が進められた時期だったことを背景に、鉄鋼を増産させて会社を急成長させた。また、1871年のドイツ社会民主労働党のゼネラルストライキをきっかけに社内で疾病保険、養老保険などを整備して労働者の保護を図ったことはのちのドイツ帝国における社会保険制度に影響を与えた。

鉄血政策」によるドイツ統一を進めていたプロイセンを兵器面で支え、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争デンマーク戦)、普墺戦争普仏戦争において、クルップ社の大砲は重要な役割を果たした。死後、事業は息子のフリードリヒ・アルフレート・クルップに受け継がれた。

1873年に建てた大邸宅ヴィラ・ヒューゲルVilla Hügel)は、現在でも観光名所とされている。

また彼は1848年三月革命1872年の炭鉱労働者のストライキに際して自らの禁欲的かつ温情主義的Patriarchy=家父長主義的)態度を繰り返し表明し続けた。

勤勉、誠実、中庸、家庭と家庭内の人倫と秩序こそが繁栄と満足の確実な基礎であり、不況の時こそこれらの徳目が支えとなる。これに反してあらゆる能力、あらゆる狡知と悪意ある強力な協定にもかかわらず、反逆、無秩序、不道徳は一時的に強引に高賃金を獲得する事はあっても最終的には破綻に陥る…

かかる熱狂的勤労主義Arbeitsfanatismus)とも表現し得る職業倫理こそがクルップ社においては「伝統主義からのそれに依拠しながらの飛躍」「(英国産業革命に対抗しての技術革新」「企業の発展」などをもたらす精神的発条(バネ)として機能したのである。 

例えばこういう話。その一方で英国においては女性票と下層労働者の参政権拡大が保守派の得票拡大にしかつながらないせいで労働党自由党の様なリベラル側の筈の政党がサフラジェット運動を黙殺したり、弾圧したりしています。どういう事?

来年になったら本気出す‼