2010年代も終わろうとしている昨今、なおトレヴァー・ホーン(Trevor Charles Horn)やTalking Heads(1974年~1991年)を覚えている人なんてどれくらいいる事でしょう。私の場合、まず最初の出発点がそれでした。
トレヴァー・ホーンが作詞作曲し自ら歌ったThe Buggles「Video Killed The Radio Star(1979年)」
Talking Heads「Once in a Lifetime(1980年)」
Once in a Lifetime、音楽世界的にはYMO「体操(1982年)」の様な後継者も。パヨクらしい全体主義への揶揄が当時から既に?
歌詞世界的にはユニコーン「大迷惑(1989年)」なんて後継者も。高度成長時代終焉後特有のワーカホリックへの揶揄…
当時を知るには、そもそもPunk Movementを発生させた1970年代中旬独特の閉塞感にまで遡らねばなりうません。どうしてドイツに向かったDavid Bowieに心酔するナイトクラブ支配人だったSteven StrangeはYMOの欧州への最初の紹介者となったのか?
Steven Strange「In The Year 2525(1978年)」
坂本龍一「千のナイフ(Thousand Knives、1978年)」
なにせ1970年代を席巻した「カルト界の闇のプリンス」David Bowieの変貌振りが凄かったのです。
Queen & David Bowie - Under Pressure(1981年)
David Bowie & Nile Rodgers - Let's Dance(1983年)
まぁ当時は同様に1970年代を制した「伝説のプログレバンド」YESやKing Crimsonもこんな感じで相応のメジャー・デビューを果たしていましたが。
YES「Owner of a Lonely Heart(1983年)」
King Crimson - Heartbeat (Live in Japan 1984)
ロンドン・パンクで後世「本物」と認められた数少ないバンドの一つとして著名なのがThe Clash(1976年~1986年)。だがその代表曲の殆どは1970年代のうちに発表されていたりします。
The Clash - London Calling(1979年)
The Clash - I Fought the Law(1977年)
で、当時の日本ロック界がロンドンパンクとニュー・ロマンティックをごっちゃにした「ブリテッシュ・ビート」を受容する契機となったのがこの曲。実はパンクを聞いてた層とニューロマを聞いてた層が全く重なっていなかった本場英国ではさほど注目されなかったという話も。
Ultra Vox「New Europian(1980年)」
何故か私の中の尻Callbackルーチンが「このだらしない尻は何だ!!」と反応するMV。様するに(エルビス・プレスリーやミック・ジャガーやフレディ・マーキュリーの様な)尻の動きまで完璧だった「造られた英雄」の時代の終焉…
おそらく音楽史的にはその楽曲の独創性というより「電子音楽はこんなにラフに演ってもいいんだ」という封印破りが重要だったバンド。だからほとんど一発屋で終焉…
例えばこの曲なんてThe Who「Pinball Wizard(1975年)」かDevo「Whip It(1980年)」という趣き。
The Who - Pinball Wizard - Tommy (1975年) エルトン・ジョンさん…
Devo - Whip It(1980年)
様するに時代遅れとなったのは楽曲の趣そのものというより、ロックオペラなる重厚過ぎるパッケージ形態に過ぎなかったという話。
Styx - Mr. Roboto(1983年)
ところでNew Europianには、日本歌謡界においてこんなエピソードが存在します。
①沢田研二「カサブランカ*ダンディ(1979年)」に先行する形でヒットした「勝手にしやがれ(1977年)」。
②山口百恵の「プレイバックPart2(1978年)」はこの「勝手にしやがれ」のへのアンサーソングと言われている。2番の歌詞に「勝手にしやがれ」の出て行った女性の心情が強く表現されているとされている。
③その山口百恵が作詞、沢田研二が作曲を担当し出産休暇から戻ったアン・ルイスにプレゼントしたとされるのが「ラ・セゾン(1982年)」。基本メロディこそNew Europianの完全なる本歌取りなのだがアレンジは完全に和風ロックに差し替えられてるし、歌詞世界は完全にフランス退廃風…どうしてこうなった?
結局「ラ・セゾン」路線は思うほど成功を収めず、アン・ルイスは「(吉川晃司を想定した駄目駄目な年下の不良少年に首ったけの打ダメンズウォーカーの心情を歌った)六本木心中(1984年)」によってJ-Rockの中核に組み込まれる事になる。
そういえばこのエピソードには(惜しくも早産に終わった)Lady Gaga誕生譚を思わせる趣もある。
ある時、音楽プロデューサーに「こんなTeens Girlのスターを丁稚上げたら絶対売れるよ。まぁその人気は(若いうちの)数年しかもたないだろうけど」とコンセプトを語ったら「残念ながら適任がお前しかいない」といわれ(世界にその名を知られたPoker Face以降の)Lady GaGaが誕生したという逸話がある。実際2010年代に入ってからは(マドンナ同様)ステマによってかろうじて命脈を保っていた側面もあり、これを模倣した韓国大手芸能事務所がかかるシステム全体を崩壊させるまで「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road, 2015年)」のイモータン・ジョーみたいな「老体に鞭打って権力にしがみ付き続ける旧支配者」の様な存在とも目される様になり、その隙をM.I.Aに突かれてしまった感がある。
こうした全体像を踏まえた上で彼女が主演した「アリー/ スター誕生(A Star Is Born, 2018年)」を鑑賞すると様々な示唆が得られる。
要するに日本には遂に根付かなかった「退廃した」秘密クラブの危険な香りアプローチ…ここにもまた「時代が早過ぎた」側面が…
トレヴァー・ホーンが音楽プロデューサーとして仕掛けたFrankie Goes To Hollywood「 「Relax(1983年)」
Prince & The New Power Generation「Gett Off(1991年)」
Lady Gaga - Poker Face(2008年)
そういえば日本におけるブリテッシュ・ビートの流行も、かかる「毒抜き」に終始した感があるんですね。
The Mods 「激しい雨が(1983年)」
むしろTVアニメ「うる星やつら(1981年~1986年)」の挿入歌として知られるVirgin VS(ヴァージン・ヴイズ、1981年~1984年) の「コズミック・サイクラー(1982年)」
そして同じくヴァージンVS の「ロンリー・ローラー(1981年)」
現代から振り返ると意外に歌詞世界がタナトス(死への誘惑)に満ちている。久保田利伸「流星のサドル(1986年)」も含め。事故死して「星になっちまった」暴走族が格好良いとされた時代の最後の残滓…
そして「毒抜き」といえば当時流行したハリウッド製の青春搾取ミュージカル映画群もそうだったのです。そしてこれに大映TVドラマが追随した時代…
19世紀フランスにおけるほとんどの革命に参加し、のべ33年余りに渡って収監され続けた本物のアウトサイダーだった「欧州で最も危険な男」「永遠の革命家」オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)だからこそ到達し得た卓見。「革命とは青春であり、青春は永遠に勝利の栄光とは無縁な存在であり続ける。何故なら如何なる体制の転覆に成功しようとも、その瞬間に新たな体制派が誕生して反体制派への弾圧に着手するからだ」。まさしく「事象の地平線としての絶対他者を巡って社会が繰り返す黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」そのもの…
THE STALINが「ロマンチスト(1982年)」を歌った時点から、どんどんロマンティズムの意味が軽薄な方向に変貌していった時代…
そしてある意味最後に完成形として登場したのが THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ、1985年~1995年)だったという…
その一方で欧米のニューロマは黙々と独自進化を達成…
ヴィサージ結成前にスティーヴ・ストレンジがオーガナイズしたクラブ・パーティでは、ロキシー・ミュージックやデヴィッド・ボウイなどがプレイされ、奇抜でゴージャスなファッションを身にまとったフューチャリストと呼ばれる若者達が集った。そこに、ヒューマン・リーグやゲイリー・ニューマンに代表されるエレクトロ・ポップ勢が大きな影響を与え誕生したのが、後に時代の徒花とも揶揄されたニュー・ロマンティックと呼ばれるムーヴメントだ。やがてストレンジは、ニュー・ロマンティックにお似合いの音楽を模索し、グラム・ファッションとエレポップを融合したニュー・ロマンティック・ユニットを結成、Visial (ヴィジュアル) + Age (エイジ) = ヴィサージと命名する。
以前からストレンジと知り合いであった、ミッジ・ユーロ、リチャード・バージェス (ウルトラヴォックス…etc) が参加、シングルや12インチを発表した後、ニュー・ロマンティックのアンセム 「フェイド・トゥ・グレイ」 を含むデビュー・アルバム 『ヴィサージ (81年)』 をリリース。意味の無い歌詞をポップなメロディに乗せエレガントかつ耽美的なアレンジを施した、N.W. 史にひっそりと輝くエレクトロ・ファンク・アルバムが誕生した。ストレンジがボディ・ペイントで登場するプロモーション・ビデオの奇抜さなども手伝い、ニュー・ロマンティックの生みの親として華麗なデビューを果たしている。
これって以下の流れの一環でもあった訳ですね。
Kraftwerk - Das Model (1978)
Japan -- Gentlemen Take Polaroids(1980年)
Duran Duran -- Girls On Film(1981年)
DAVID SYLVIAN & RYUICHI SAKAMOTO - Forbidden Colours(1983年)
そして1985年にVisageを解散したスティーブン・ストレンジは以降音楽業界から一旦身を引き、スペインのリゾート地であるイビサ島のクラブでホストを務める様になる。そうM.I.A.が「マドンナやレディ・ガガの音楽など所詮はイビサ島の流行のパクリに過ぎない」と揶揄したあのイビサ島に…かくして時代の連続性は保たれていく?
ところで私が「1980年代最大級のアリストファネス」と絶賛するStingの名前が一度も登場しませんでした。ちなみにこの称号は主に以下の2曲に捧げられたもの。
Sting - Russians(1985年)
何処が容赦ないって「冷戦が悲劇的結果に終わるかどうかはロシア人も子供を愛するかどうかに掛かっている」と歌いながら、その「子供」を広島に投下された原子爆弾のコードネームLittle Boyに掛けてくる辺り。そして…
Sting - We work the black seam(1985年)
「チェルノブイリ原発事故以前に歌われた反原発Song」として著名ですが、歌中で告発役を担うのが何と「リストラされつつある炭鉱夫」なんですね。「どうして原発なんて得体のしれない新技術に身をゆだねるのか‼ 産業革命からの伝統を忘れるな‼」。火力発電のCO2放出も問題視されてる現代社会でも通用する泥仕合…まぁ当時のStingはルックスからしてこんなでしたからね。まさしく「1980年代最大級のアリストファネス」…
そう、光がますます輝く時代には影もまた濃くなるもの。一旦は封印を解かれながら次第にメインストリームでは語れなくなっていったサブカル文化の暗黒面が、むしろそれゆえに力をつけていきGoth文化を繁栄させる結果も生んでいます。
いずれにせよ、こうした矛盾の鬱積が最後に行き着いたのが「(逮捕される直前まで少なからぬ人数の日本国民にハリウッド大作「ジェラシック・パーク」と自作「REX 恐竜物語」が同グレードの作品と信じさせる事に成功していた)天才プロデューサー」角川春樹の逮捕と「オウム真理教のサリン散布事件(1994年~1995年)」だった事実は動きません。
言葉足らずで申し訳ありませんが、これもまたまさしく「事象の地平線としての絶対他者を巡って社会が繰り返す黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」そのものという話…