諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【サヨナラ1970年代】 「芸術だからポルノじゃない」?

1970年代日本では「芸術性の高い舶来ポルノ映画はエロじゃない」なる不思議な常識が存在しこれにあやかろうと様々な便乗ポルノ映画が製作されたのです。

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エマニエル夫人Emmanuelle、1974年)」「続エマニュエル夫人(1975年)」「さよならエマニュエル夫人(1977年)」

『エマニエル夫人』は世界各地で大ヒットを記録しましたが、とりわけ日本では社会現象とも言えるほどの反響を巻き起こしました。

配給した日本ヘラルドは、映画の持つ雰囲気や当時の社会的背景を踏まえ、当初から女性の観客にアピールする宣伝を意図します。シルヴィア・クリステルがレースだけの半裸で籐の椅子に座っている有名なポスターは、実は本国のオリジナルポスターではなく、雑誌用に撮影されたものをわざわ開初日は座席数の倍近い観客が押し寄せ、そのうちの7割が女性でした。 またピエール・バシュレのざ高額の使用料を支払って日本独自に採用したものでした。

その作戦は大当たり。1974年12月21日の公音楽も大ヒットし、籐の背もたれ椅子も「エマニエル夫人の椅子」として大人気となりました。

 大島渚監督の日仏合作映画『愛のコリーダ (L'Empire des sens, 1976年)』

愛のコリーダ (L'Empire des sens, 1976年) - Wikipedia

阿部定事件(1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた。作品内容は神代辰巳監督の 『四畳半襖の裏張り』 (1973年)に大きな影響を受けており、大島自身も制作に当たって一番参考にした作品であることを認めている。

検閲を避けるため、若松孝二アナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた。第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、ハードコア・ポルノとしての性描写が観客や批評家の間で話題となった。国際的に評価され、シカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を受けた。

また、1979年(昭和53年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。

ちなみに1980年にこの作品名を冠した曲が発表され、後にクインシー・ジョーンズがカバーして国際的ヒットを飛ばしている。映画とは何も関係ない。

大島渚監督の日仏合作映画『「愛の亡霊 (L'Empire de la passion, 1978年)」

愛の亡霊(L'Empire de la passion, 1978年) - Wikipedia

 フランスのアルゴス・フィルム社と日本の大島渚プロダクションの合作映画で、前作『愛のコリーダ』に引き続きフランスのプロデューサーのアナトール・ドーマンが製作し、大島渚がメガホンをとった。

原作は中村糸子の小説『車屋儀三郎事件』。性的描写は前作よりは抑制されたが、前作の『愛のコリーダ』と似た不倫した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るというストーリー。

第51回アカデミー賞外国語映画部門に出品されたが、候補から漏れた。その後、大島渚は第31回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。

池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ1979年)」

 

こうして挙げた代表作が1974年から1979年に掛けて毎年の様に封切られていた訳です。そうした時代がどういうキャラクターを生み出したかというと…

当時独特の「芸術は特別」感って、一体何だったのでしょうね?