諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【出羽守】「井の中の蛙、大海を知らず?」

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要するに「隣の芝生は青く見える」現象の政治利用化…

ところが、現実は常に裏切る…

意外に思うかもしれませんが、イタリアは男尊女卑の国なのです。

レディファーストという習慣に惑わされていけません。

それは日常生活の単なる習慣で、女性に優しく接するけれど、女性をリスペクトしているわけではないのです。

これは、イタリアで実際に暮らしたことのある人で、しかもイタリア人社会の中で生きてないと、なかなか実感としては理解できないことなので、分かってもらうことが大変難しいのですが、イタリア人は、「女はこうあるべきだ、男はこうあるべきだ」という概念がDNAの中にしっかり組み込まれているため、他の国以上に、男も女もその役割の中で生きているのです。

女性は常に男性を意識し、男性の気にいるように一生懸命尽くす。

男性に媚を売るとも言いますが。

女性の社会進出率は高く、仕事を持つ女性が多いイタリアですが、それとこれとは全く関係なく、男性なしでは生きていけないのです。そういう点では、日本の女性のほうが、たとえ主婦であっても、精神的にはよっぽど自立していて自由であるように思います。それに、実はとってもリスペクトされています~

もちろん、これはあくまで一般論ですから、全員が全員という話ではありません。
イタリアにもフェミニストの尖峰みたいな人はいますし、海外で学んだ人、外国暮らしが長かった人、外国人を伴侶に選ぶ人たちは、大抵は一人の人間として自立した方が多いようです(我が家も幸い男尊女卑ではありません、彼の実家はそうですけどね)。

だけど、一般的には・・

イタリアのTVを見れば一目瞭然だと思います。

世界広しと言えども、ここまで低俗な番組が多いのはイタリアだけです。

どこが低俗かって…

番組といったい何の関係があるのか本当に理解に苦しむのですが、大抵のTV番組には、必ず裸同然の女性がマスコットとして画面に登場しているのです。

裸同然というのは、最小限のビキニを身に付けた女性たちのことです。

さすが、ポルノディーヴォが首相の国だけのことはあります。

女性であることを武器に就職活動をする女性が多いのもイタリアの特徴かもしれません。まぁ、実質失業率20%の大変な時代ですからね~

しかも、コネなしでは仕事を手に入れることが出来ないお国柄ですから~

私は別にフェミニストではないので、イタリア女性が媚を売ろうと何をしようと、それは彼女たちの自由だと思っていますし、私自身は、自分が心地良く暮らすことが一番(人には迷惑をかけないで)という信条で生きていますので、○○主義とかは持っていません。

でも、知識としてジェンダー学を頭にいれておくと面白いですよ。

江戸幕藩体制下の日本を訪れた出島外国人の評価が秀逸。「この国ほど男女平等の観念が行き渡ってる国はない。武家社会の様な家父長制と商家の様な家母長制が如何なる軋轢もなく入り混じってる」。そりゃ(身分を超えた結婚が建前上結婚を禁止される様な)身分制全盛期だから近代的平等意識なんてまだまだ上陸を果たしてない訳ですが「男性は本質的に優秀で、女性は本質的に劣等」みたいなジェンダーイデオロギーが社会通念として確固たる秩序として受容されてなかった分だけ、当時の欧州よりは遥かに風通しが良かった側面が確実に存在していたという話。だからこそ1980年代の少女漫画家達はバーバラ・ウォーカー流の「家父長制を打倒して家母長制に回帰しよう」なるウルトラ・フェミニズムの影響を一時的には色濃く受けつつ、あっけなく「家父長制も家母長制も結局は権威主義体制。どちら勝っても結局は敗北」なる正解に到達する事が出来たとも。そして巡り巡って2010年代前半における国際SNS上の関心空間では、第三世代フェミニストがウルトラ・フェミニストプロパガンダ活動に竹宮ゆゆことらドラ!原作2006年〜2009年、アニメ2008年〜2009年)」における櫛枝実乃梨の台詞「私の幸せは…自分の手で掴み取る…何が自分にとって幸せかは自分で決める!!」の合唱で応える景色が日常茶飯事化したのでした。

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そういえばA・N・ロクロール名義でSM小説「眠り姫シリーズ」を執筆した「初代貴腐人の女王アン・ライスちなみに二代目はJ.K.ローリング女史)が「幼少時代からほとんど全裸の血塗れ男性の肉体を聖体として崇めさせられるカソリック世界の伝統がSM文化の基底に流れている事を認めつつ、ポーリーヌ・レアージュPauline Réage)「O嬢の物語Histoire d'O,1954年)」やエマニュエル・アルサンEmmanuelle Arsan)「エマニエル夫人Emmanuelle, 1967年, 1974年映画化)」の様な(ちなみに両方とも女性作家)「女性が(男性導師の導きに従って)自らの自我と主体性を放棄して真の自分に至る」似非宗教説話的展開を全面否定してたのを思い出します。彼女に言わせればSM行為はあくまで「(下剋上もあり得る緊張感を孕みつつの究極のコミュニケーション形態の一つ」たるべきだそうで、とっさに連想したのがつかこうへい「蒲田行進曲舞台1980年、深作欣二監督映画1982年)」における(「銀幕映え」なる絶対基準を前提とした)銀ちゃんとヤスの関係とか、森見登美彦有頂天家族シリーズ2007年~)」における天狗と狸の関係とか…

 

 まぁこの辺りの軋轢ですらペロリと呑み込んでみせるのが「多様性と多態性を重視する」第三世代フェミニズムの真骨頂?