意外な人がこれまでちゃんとした言及を探してた内容についてまとめて触れてました。しばしば「ユダヤ史を理解する上での基本概説」とされるレイモンド・P・シェインドリン(Raymond P. Scheindlin)「ユダヤ人の歴史 (A Short Story of the Jewish People, 1998年)」でも最も歯切れが悪かった部分に該当…
③ユダヤ人はローマ帝国に抵抗して戦い、二度にわたって徹底的に叩き潰されて国を失い、二千年近く祖国なき民として存続しつづけて来たが、ローマ人は決して仇敵としてでなく、まず友人・同盟者として彼らの前に現われる。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月3日
④前169年からユダヤ人はシリアのセレウコス朝のユダヤ教徒弾圧に対して抵抗していたが、攻守同盟を結んで背後から彼らを支えていたのがローマだった。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月3日
⑤ローマは長い間、ユダヤ人にとって無縁の民であったが、彼らの手がギリシアから小アジアヘ、さらにシリアヘと延びてきたとき、シリアに対するユダヤ人の抵抗運動に遭った。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月3日
政治感覚の鋭い彼らにとって、併呑すべきシリアの背後にいて抵抗しているユダヤ人と手を結ぶのは当然のことであった。
⑥そしてローマ人もユダヤ人も成功し、ユダヤは独立王国となった。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月3日
この対シリア戦争のユダヤ側の猛将がユダ・マカバイ、すなわち「ユダス・マカベウス」である。
この王朝は正規の名称のほかにしばしばマカバイ朝と呼ばれるのはこのためである。
⑦だがシリアを併呑したローマの手はユダヤに及び、前66年のポンペイのエルサレム攻略となった。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月3日
しかしローマ人は、エジプトを確保するにはパレスチナという廻廊を確保しなければならず、そのためには、ユダヤ人と友好関係を保つ方が有利だと考えていたのでマカバイ朝は存続させた。
⑧ローマの三頭政治が崩れ、ポンペイがエジプトヘ逃れ、これを追ってカイサルが来たとき、マカバイ朝の宰相ともいえる位置にいたイドマヤ人アンティパトロスは、全力を挙げてカイサルを援助した。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月3日
この行為は、憎いポンペイ討伐の援助だから、ユダヤ人に反対があろうはずはない。
⑨カイサルはその代償として同盟国の特権をユダヤ人に与えた。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月3日
これに基づいてユダヤ人は、ローマ帝国のどこにいても、ユダヤ教の律法に基づいて生活する権利を得た。
エジプトには多くのユダヤ人が住んでいた。
この歴史も古い。
⑩前587年に新パビロニア帝国の攻撃でエルサレムが陥落し、多くの者がバビロン捕囚として引き立てられて行ったとき、徹底抗戦派は最終的にはエジプトに逃れた。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
そしてこの地に定着して生活が安定すると、荒廃した故国から先住者をたよって多くの者が移って来た。
⑪やがてアレクサンドロス大王が来て新都市アレクサンドリアを建てると、多くのユダヤ人はこの新都市に移った。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
おそらく土着の住民がいない新植民都市の方が生活しやすかったからであろう。
⑫ヨセフスは後述するようにアレクサンドロス大王の後継者がユダヤ人にギリシア人と同等の権利を与えたと主張するが、これはおそらく事実ではない。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
それは新しい主人ローマが来たときである。
⑬ローマ人は施政権下のギリシア人と同盟者ユダヤ人とを同等に扱い、ユダヤ人に一種の自治権を与えたのはカイサルであろう。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
彼らはアレクサンドリアという都市の中でポリテウマを保持していた。
ポリスとポリテウマの関係は様々に論じられているが「ユダヤ人自治地区」と理解してよい。
⑭だがプトレマイオス朝というギリシア系王朝の下で生きてきた誇り高きギリシア人は、今までの支配階級の位置から転落してローマに支配されることには何とか我慢ができても、ユダヤ人と同等に扱われることは我慢ならなかった。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
彼らはたとえ征服されても、ローマ人には文化的優越感を持ち得る。
で、話はどんどんしょうもない方向へ…
①『アピオーンへの反論』を読むと、このアレクサンドリア近郊生れのホメロス学者が、どのような罵詈讒謗と中傷をユダヤ人に加えたかがわかる。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
彼にとってはモーセの下で出エジプトをしたユダヤ人とは、追い払われたレプラ患者と廃疾者の群れであった。<『禁忌の聖書学』
②だがこれに対するヨセフスの反論もまた、文字通りに売り言葉に買い言葉、それを読むとギリシアの哲学者などは、バビロニアやエジプトの思想家の亜流で、みながモーセの剽窃者のように見えてしまう。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
さらに彼はアピオーン個人への悪感情を少しも隠しておらず、徹底的に見下し侮蔑している。
③【実際のところ、現在世界の支配者であるローマ人達はいかなる市民権もエジプト人だけには与える事を拒否してきた。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
ところでわがアピオーン大先生は自分には拒絶されているこの特権を渇望しながら、その特権を正当な理由で獲得した人々を中傷するという、甚だもって高貴な心情の持主らしい】と。
④まことに、いやみたっぷりの言葉である。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
これを書いたときのヨセフスはフラウィウス朝の廷臣で、もちろんローマの市民権をもっている。
一方アピオーンは、これでみると出生がアレクサンドリア市でなく地方で、従ってアレクサンドリアの市民権も持っていなかったらしい。
⑤そしてローマ市民権はアレクサンドリアの市民権を持たない限り、到底入手できない。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
アピオーンがいくらローマ市民権を渇望しても入手できない。
ヨセフスの言い方には「ざまあ見ろ」と言った感じがあるが、これは誇り高きホメロス学者には耐えられない。
⑥以上のやりとりに象徴されるような両者の相互の悪感情はしばしば騒動に発展し、ローマ政府の頭痛の種であった。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
⑦ヨセフスの代表作といえば『ユダヤ戦記』。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
これの内容が「ユダヤ戦争」で、彼自らも戦ったローマへの抵抗戦争。
紀元66年にはじまり70年のエルサレム陥落、さらに73年のマサダ要塞の陥落と集団自殺までつづくが、余りの凄惨さに読むに耐えなくなる箇所も決して少なくない。
⑧そしてこの戦争の発端もまたギリシア人対ユダヤ人、すなわちカイサリアにおけるギリシア人のユダヤ人に対する嫌がらせに端を発する争いに起因している。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
これを何とか収拾すればよかったのだが、当時の総督フローロスはギリシア側の肩をもった。
これはごく自然な感情であろう。
⑨彼は立派な人間とはいえないが、ギリシア文化に敬意を表しても、非ギリシア人のユダヤ人に共感を持つはずがない普通のローマ人である。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
たとえカイサルに与えられ、神なるアウグストス帝がそれを保証したとはいえ、ユダヤ人はあまりにその特権を振りまわしすぎるという気持があったであろう。
⑩さらに、ユダヤ人の偶像拒否に基づく諸事件や、ユダヤ人とサマリヤ人の争い、さてはユダヤ教諸派内の争いなどでうんざりしていた。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
⑪暴動の火は次第に広がったが、事態を決定的にしてしまったのは、ユダヤ人の過激派がエルサレムの少数のローマの駐屯兵を生命の安全を保証して降伏させながら、一人を残して全員を虐殺してしまった事である。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
⑫ここでギリシア人とユダヤ人との争いは一転してローマ帝国対ユダヤ人の対決となっていく。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2020年2月4日
だが本稿はユダヤ戦争の顚末を記すのが目的でないから、背景はこれにとどめて、ヨセフスに進もう。
いずれにせよ、当時ローマ所領のあちこちに散らばっていた「ギリシャ語しか話せない(その上割礼の様な伝統を忌み嫌う)不真面目なヘブライ教徒」は、やがてごっそりキリスト教徒に鞍替えしてしまう訳で(一方、エジプトではローマ帝国の威光が揺らぐと一旦ユダヤ人が殲滅されてしまう)何かと語り難い時代ではある模様…
以下続報…