諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】日本の武家は部族社会への先祖帰り?

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そういえば、律令制って一応は日本史上において「十分な戦闘力と規模と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家( 羅:civitas sui iuris)に向けての第一歩でもあったと言えなくもない訳です。

国民皆兵制。それすなわち戦闘に不慣れな庶民を動員するという事であり、実際の軍事力としては貧弱極まりない状態でしたが実戦でそれが試される事もまたありませんでした。だから大陸からの侵攻の恐怖が揺らぐと自壊してしまった訳ですが、この時より始まった変化が以下の様な歴史的展開をもたらしたとされています。

  • 古代豪族連合時代から地方行政を支えてきた伝統的集落や在地有力者の自壊。代わって(貨幣市場経済浸透後に悪党あるいは有徳人と呼ばれる存在として台頭する事になる)開拓領主や冒険商人といった新興産業階層のネットワークが台頭。

    江戸幕藩体制下において全国規模での参勤交代を実現する為の交通インフラ整備は彼らの暗躍をさらに加速させ「株仲間」なる全国ネットワークを台頭させる。

  • それに立脚する氏族制度が朝廷への官僚供給階層としての家制度に解体される一方、中央での政争に敗れた家が都落ちして新興産業階層に併呑される。かくして中央と地方が重層的で複雑怪奇な土地利権分配体制(職(しき)の体系)が構築された。

  • 応仁文明の乱1467年~1478年)以降は戦乱に紛れて在地有力領主による公家領や寺社領の横領し(それまで既に様々な形で始まっていた)一円知行化が加速。全国的検地などでそれぞれの所領が確定し、あらゆる社会的機能を様々な家系が分掌して継承する体制(役(やく)の体系)へと移行。

古代から近世にかけての日本社会の変遷を強引にまとめた大雑把な要約。概ね以下の投稿からの再構成…

この過程で武家、すなわち主に軍事と治安を分掌する官僚供給家系が登場。

そして「版籍奉還1969年)」「廃藩置県と藩債処分1871年)」「秩禄処分1876年)」といった一連の近代化政策に反対した不平士族の反乱(1874年~1877年)と自由民権運動(1874年~1890年)に便乗した暴力革命路線側が潰え、その残党がマスコミ創始組と自由民権運動に参画した伝統的富農富商階層に吸収されるまで歴史上影響力を発揮し続けます。プロイセン王国におけるユンカーJunker)概念の歴史展開と重なる?

エルベ川以東の東部ドイツに領地を持つ中世の騎士達が直接地主として農地経営に乗り出すようになったことに始まる(再版農奴)。

民族移動後のゲルマン人の定住地域の東境は、ほぼエルベ川とその支流ザーレ川、ボヘミアの森とバイエルン境を連ねる線であり、それ以東はスラブ人の居住地であった。10世紀以降、この地域のキリスト教会が精力的に活動を行い、多数の司教座が建設された。

同時代の西欧には、東方植民以外にもレコンキスタや十字軍運動のような大量移動現象があった。 その背景には9世紀以降の農業技術の進化による人口増加による西欧世界の膨張、領主同士の抗争によって敗北した騎士層や逃亡農民が東方植民の担い手になったという事情があった。

領邦諸侯や騎士団は、実際の植民事業の遂行をロカトール(Locator)とよばれる請負人にゆだねた。ロカトールは、ドイツ本国において植民者を募集し、彼らを率いて植民村落の建設を行った。ロカトールは村長として裁判権などの特権を賦与され、村民から地代を徴収して、領主である諸侯や騎士団に納めた。植民地域の建設都市のうち、バルト海沿岸の海港都市や比較的大きな商業都市のように、ハンザ都市その他本国の都市が母都市となり、母都市の商人団が娘都市Tochterstaad)を建設したものもあるが、内陸の中・小都市の多くは、植民村落の場合と類似の方法で、ロカトールの請負により建設された。

  • 領地内に直営農地「騎士領」を所有して自身もそこで暮らすグーツヘルシャフトGutsherrschaft)と呼ばれる領地経営を行うようになった。農民に賦役を課し、さらに領主裁判権・警察権を行使することで農民を強力に支配。領主が地代取得者にすぎず、直接に農地経営しないグルントヘルシャフトGrundherrschaft)と呼ばれる領地経営を行い、領主裁判権も持たない西部ドイツの貴族とは対照的な存在であり、農地が豊かな東部ドイツ特有の貴族であった。

  • 18世紀以降にはプロイセン王国の貴族階級の中心になり、プロイセンの将校と官僚を独占するようになる。
    1850年の時点で1万2339の騎士領のうち貴族(ユンカー)所有は57%程度になっていた。どの国でも主権国家と貴族社会が和解するとこうなる。そして江戸幕藩体制下では「身分違いの悲恋を描いた近松門左衛門の心中道行物」が、フランス絶対王政下では「(常備軍の将校や、教会の聖職者として「口減し」される)領主の次男坊以下が(政略結婚の相手が見つからず)修道院に押し込められる王侯貴族の娘達と駆け落ちする通俗読み物」が流行するのである。

  • 19世紀初頭の農地改革で農奴制が廃止されたことで、もともと賦役労働(無賃金労働・農奴労働)を前提としていたグーツヘルシャフトは(その大半が農奴解放後、棄農して賃金労働者に転換した旧小作人階層にとって代わったポーランドからの出稼ぎ小作人)賃金を支払う資本主義的な「ユンカー経営」に転換されていった。 この時の農地改革で土地売買が自由化されたことで、富裕な市民や農民が貴族から騎士領を買い取るケースも増えた。買い取った彼らがユンカーとなる場合もあった。
    大日本帝国時代におけるハイカラ概念とバンカラ概念の対峙を、当時の日本人留学生の主要留学先の一つだったドイツ大学の学生気質に求める向きもある。ドイツ国内ではイェナ大学やベルリン大学が「バンカラ気質」、ライプツィヒ大学が「ハイカラ気質」であったとされ、ゲッティンゲン大学ベルリン大学で法学を学んだユンカー階層出身のオットー・フォン・ビスマルク(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen, 1815年~1898年7月30日)は前者の雰囲気を代表する一人。当時は(ルネサンス時代にスイス傭兵と服装の華美を競ったドイツ傭兵)ランツクネヒトを想起させる、無数の端切れを縫い合わせたパジャマの様な服装でブルドッグを引き連れて学園内を闊歩したという。

  • 19世紀後半頃から経済的に苦しくなるユンカーが増え保守化を強めた。帝政崩壊後(ヴァイマル共和政ナチス政権)には旧時代の残滓として冷遇されるようになっていったが、農地改革や軍の機構改革は行われなかったため影響力は残った。
    *私はフリッツ・ラング監督映画「メトロポリス(Metropolis, 1927年)」に貴族階層出身の女性作家テア・フォン・ハルボウが提供した脚本に政治運動としては実現し得なかった彼らの政治的理想を視る立場。すなわち「外国人宮廷銀行家ら守旧派勢力の仲介を排して頭脳=地主/資本家階層と肉体=小作人/労働者が直結する全体主義社会」を志向するイデオロギーであり、これを掲げて肉体=小作人/労働者を率いる「本物のマリア」と、守旧派の意向を受けて主権奪還を目指し彼らを暴力革命に誘導する「偽マリア(最後には「真理に目覚めた」肉体=小作人/労働者自身の手によって魔女として火炙りにされてしまう)」の分裂状態と前者の勝利を描いた構想こそイタリアにおいて「都市では資本家と労働者が、地方では地主と小作人が全滅に向けての無限闘争」の国家による暴力も用いての強制仲裁に成功したムッソリーニファシズム思想の根幹であり、ハルボウだけでなく「ええとこどり」のNSDAP(de NationalSozialistische Deutsche ArbeiterPartei=国家社会主義ドイツ労働者党)をも惹きつけていったのだった訳である。

第二次世界大戦後、東部ドイツを占領したソ連赤軍が徹底的な農地改革を行った結果、完全に解体された。

  • 一方、近代以降ライン川流域中心にグルントヘルシャフト概念の延長線上に現れたクルップ財閥ら新興資本家階層もまた当時なりの形で温情主義(paternalism=家父長制)、すなわち「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の再建を試みて工場貴族と揶揄されている。近代化への道筋は、この様に各国によってまちまちだったのである。

さらにはポーランドにおけるシュラフszlachta)概念との類似を指摘する向きも。

ポーランド王国で法的特権参政権を持つ社会階級、ないしそこに所属する「貴族」。のちにその資格がポーランドリトアニア連合、ポーランド・リトアニア共和国ポーランド立憲王国のポーランドリトアニア、ルーシ(ウクライナベラルーシ)の各地方に拡大した。

  • 伝統的に、シュラフタ階級になれた者は地主であったとされ、19世紀末まで政治的そして法的特権を交渉により獲得し維持していた。各シュラフタは貧富の差や職業上の上下関係はあるものの、平等な政治的権利を持っていた。
  • ポーランドリトアニア連合におけるシュラフタは、古代ローマにおいて寡頭支配を行ったローマ市民と類似する。シュラフタは社会階級ではなく、どちらかといえばヒンドゥー社会のカースト制度におけるクシャトリヤのような世襲身分だった。便宜的に「ポーランド貴族」と呼ばれることもある。
  • 国会(セイム)と元老院セナト)を構成し、国会議員から選出・信任され国王によって任命される、首相に相当する大法官、および大元帥に相当する王冠領大ヘトマン大法官と王冠領大ヘトマンはしばしば兼任された)、そして大法官が率いる内閣に相当する評議会、および王冠領大ヘトマンが率いる(軍備の大半は非常設の)国会軍を設けていた。この貴族共和政の議会制度によって時にはポーランド国王兼リトアニア・ルーシ大公をもしのぐ権力を持ち、立憲君主制を基礎としてそれを改革改良、あるいは時に改革改良の是非をめぐる激しい政治闘争を展開しながら中世から近世にかけての東欧の政治・文化に置いて大きな影響力を与えた。
  • 1918年のポーランド第二共和国成立時に廃止。

ポーランド王国と国家連合を組んでいたリトアニア大公国の貴族の社会では良きリトアニアリトアニア貴族)であることは良きポーランドシュラフ)であることとまったく矛盾しなかった。世界中の他のどの国にも見られないこのシュラフタという特殊な身分は、言語や一族の出身地や宗教や財産による違いを超越した一つの巨大で平等なコスモポリタン共同体の構成資格のことであり、それは現代の「国民」に取って代わるアイデンティティであった。そして、シュラフタの制度が存在した当時の考えでは、シュラフタであることはポーランド・リトアニア共和国の国民であることと同じ意味だった。その後1791年に成立したポーランド憲法ポーランドの住民すべてにシュラフタと同様の社会的権利を与えること(いわゆる「シュラフタ化」)により国民国家建設をその究極的な目的のひとつとした。これはポーランドの改革から1世紀ほど遅れて日本で行われた明治維新が、究極的には国民全体に士族と同様の社会的権利を付与することによる近代国家建設をもくろんだことと共通する。

シュラフタの数は西欧の貴族と比較すると多いため、時に日本の武士との対比で「士族」と訳されることもある。14世紀から続いたポーランドリトアニア連合が発展して16世紀に成立したポーランド・リトアニア共和国では、ポーランド語を母語とする者の実に25%がシュラフタだったというが、同国はさまざまな言葉が飛び交う多民族多言語国家だったことを勘案すると、国全体におけるシュラフタの比率は10%ほどだったと推定できる。また、西欧貴族の多くが自らの荘園で労働者を雇う大地主だったのに対し、シュラフタの多くは自ら就労して俸禄を得ていた点でも日本の武士の姿と重なるものがある。また大貴族の当主たちの大半もセイム(国会)、セナト(元老院)、大法官(内閣)、省庁、宮廷、軍などで主要なポストを担い、文官あるいは武官として活躍していた。

  • ただし彼らは(主権国家化に向かう展開においては軍事力供給階層として活躍しつつ、その後世襲貴族化により守旧派勢力に転落したオスマン帝国におけるイェニチェリ階層同様「中世と近代の架け橋」には成り得なかった。むしろ朝鮮半島における両班階層同様に党争を好み(ベトナム王朝の様に)内紛に外国勢力を巻き込んで国を滅ぼしてしまうのである。

  • さらには19世紀にスラブ民族解放運動に積極参画した無政府主義者ミハイル・バクーニンМихаи́л Алекса́ндрович Баку́нин / Mikhail Alexandrovich Bakunin、1814年~1876年)が祖国再興を画策する亡命シュラフタ集団に接触した際、彼らが「(中世を特徴付ける)領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の再建にしか興味がなく(復興したポーランドでは、全ポーランド国民の平等が達成されるべき)と考えるポーランド庶民との共闘を拒むので途方に暮れている。まさしくジェームズ・エルロイの領域に達した船戸与一のハードボイルド小説「蝦夷地別件(1995年)」が活写した「(弾圧に抵抗する反権威主義者が、別次元では他者を容赦なく弾圧する権威主義者でもある)灰色の世界」。野田サトルゴールデンカムイ(2014年~)」のヒロインたるアシㇼパの瞳が青いのは、明らかにこの作品の影響…

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やはり調べれば調べる程、自力近代化に成功した日本の江戸幕藩体制や英仏や(後にイタリア王国ドイツ帝国といった単位で独立を果たす事になる)神聖ローマ帝国の一部の状態と(主権国家化自体は欧州と同時期に達成しつつ、その後退化して)近代化が遅れた(徴税権売却などを契機とするオスマン帝国トルコ=アナトリア半島)やムガル帝国デカン高原を内陸部とするインド半島)の再分裂状態の違いが「中央に対する地方の従属度合い」にある事が明らかとなるばかり。ここで注目に値するのが「貴族共和国」とでも呼ぶべき両班階層に牛耳られた朝鮮王朝や、シュラフタ階層に牛耳られたポーランド王国の様に「(地方行政における)領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」をなまじ残した体制が、近世まではかろうじて対応したものの、近代までは存続不可能だった辺り。南北戦争(American Civil War、1861年~1865年)によって南部より駆逐されたアメリカの「(英国のやフランスの後援を受けて奴隷制や家父長制を守る為に農場主が団結したジェファーソン流民主主義(無政府主義)」も、しばしば同種とカウントされます。

①「成功例その1」英国のそれは以下の様に展開した。

  • ある意味ノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England,1066年)まで遡る地主と小作人と土地経営者の分離。この意味合いにおいて英国史において囲い込みenclosure, 16世紀/18世紀)が果たした歴史的役割は、日本史における一円知行化や明治維新後の「版籍奉還1969年)」「廃藩置県と藩債処分1871年)」「秩禄処分1876年)」といった一連の近代化政策が果たした歴史的役割に該当する。

    ウィリアム1世の支配の下で、サクソン人は土地を奪われた。サクソン人の一部はスコットランドや各地に逃亡し、はるか東ローマ帝国に傭兵として雇われるものもいた。

    ウィリアム1世は所領を与える際、まとまった一地域を与える代わりに各地の荘園(マナー manor)を分散して与えた。征服が少しずつ進んだことによる必然でもあるが、このため一地域を半独立的に支配する諸侯は生まれなかった(王族などに例外はある)。諸侯は所領が分散しているため反乱を起こしにくく、また支配地域の安定のために王の力に頼る必要があったため、王権は最初から強かった。一方、諸侯はお互いに頼りあうことになるため、王に対しても協力して対抗しやすく、後にマグナ・カルタイングランド議会の発展につながる要因となっている。

    また全国の検地を行い、課税の基礎となる詳細な検地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を作り上げた。当時のフランス、ドイツ、イタリアは大諸侯が割拠する封建制であり、イングランドの体制は西欧で最も中央集権化が進んでいた。

  • フランスとの暫定的国境線を定めた英仏百年戦争(英:Hundred Years' War、仏: Guerre de Cent Ans, 1337年/1339年~1453年)に続いた薔薇戦争Wars of the Roses, 1455年~1485年/1487年)による伝統的貴族連合の自滅を契機とする絶対王政成立。

    その始まったさらなる契機は黒死病大流行による十字軍/大開拓時代(11世紀~13世紀)の終焉による欧州領域拡大路線の終了。つまり大航海時代(16世紀中旬~17世紀中旬)の契機となったポルトガルの(レコンキスタ運動終焉も受けての)アフリカ十字軍(1415年~1440年代)派遣と動機として重なる部分が多い。

  • 新たな「王室の藩屏」としてのジェントルマン階層の台頭と(清教徒革命時代以降、主要展開先が大西洋沿岸地域に推移した)商業革命の先兵としての投入。近代化に際して資本家階層に残れなかった多くが庶民に併呑されて大衆文化を底上げした。

 ②「成功例その2」フランスのそれは以下の様に展開した。

  • 英国との暫定的国境線を定めた英仏百年戦争(英:Hundred Years' War、仏: Guerre de Cent Ans, 1337年/1339年~1453年)に続いた公益同盟戦争1465年〜 1477年)による伝統的貴族連合の自滅、フロンドの乱La Fronde, 1648年~1653年)における法服貴族連合と帯剣貴族連合の自滅を契機とする絶対王政成立。

  • フランス革命期における既存体制の徹底破壊。それまで王権の庇護化、相応には7成長を続けてきた資本主義インフラとその担い手達を執拗なまでに瓦礫やミンチ肉に変え続けた結果、フランスにおける産業革命導入を半世紀以上遅らせて英国単独覇権時代を準備したとされる。その一方で(ワインが畑単位で生産される)ブルゴーニュと(ワインがシャトー単位で生産される)ボルドーの対比に現れている様に破壊が全地方で均等に進んだ訳でもない。

  • そして「シャルルマーニュ大帝の末裔サン=シモン伯爵Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年~1825年)が「産業,または有益で自主的な仕事にたずさわっているすべての人々のための政治的・道徳的・哲学的議論L'industrie, ou Discussions politiquee, morales et philosophhiques, dans l'intérêt de tous les hommes livrés à des traveaux et indépendans、1816年〜1823年)」や「産業者の教理問答catechisme des Industriels、1823年〜1824年)」において(ノルマン貴族の末裔たるランティエRentier=不労所得階層)に対する(彼らに征服されたゴール人の末裔たる)産業者les indutriels)の優越を説き、同盟結成を呼び掛け始めた事から再出発の時代が始まる。

    『産業』の趣意書 (1816年) 

    すべては産業によって,すべては産業のために

    18世紀は破壊しかおこなわなかった。われわれはその作業を続けるべきではない。 反対に,われわれが企てるべきは,新しい建設のための基礎を築くこと,これまでい わば手つかずのままに放置されていた公共利益の問題をそれ自体として提起し論じること,政治,道徳,哲学をして無益で,実用的でない思弁にいつまでも気をとられずに,社会的幸福を築きあげるというその真の仕事に立ち返らせること,要するに,自由がもはや観念的抽象物でなく,社会が架空のロマンでないようにさせることである。

    すべての社会は産業に基礎をおく。産業は社会存立の唯一の保障であり,あらゆる富とあらゆる繁栄の唯一の源泉である。それゆえ,産業にとって最も好都合な事態は,ただそれだけで,社会にとって最も好都合な事態である。これこそ,われわれの一切 の努力の出発点であると同時に目的である。

    産業の重要性,産業が行使できる,産業にそなわっている政治的影響力をはっきり 産業にわからせ,産業の利益を産業自身に知らせ,産業の力と能力との性質をもっと もっと産業に認識させ,産業が克服しなければならないもろもろの障害を産業に教え,産業の事業に手を貸し支援し,一方では専制を抑えるために,他方では革命を予防するために,産業とともに絶えず監視をし,産業を強化することによって本質的に産業的な政体を強化すること。これがわれわれの任務なのである。

    そう、このサン=シモン主義こそが、後に世界を席巻する民族主義の大源流でもある辺りがややこしい。例えば日頃よりオランダ人やフラマン人に搾取されていると考えていたワロン人が主導する形でベルギー独立革命仏:Révolution belge, 蘭:Belgische Revolutie, 独:Belgische Revolution, 1830年~1839年)が勃発したのも同種のイデオロギーに立脚しての事だった。そういえば同様に世界中に広まった「ゴビノーの人種エントロピー」もまたこの時代のフランス人の発想の産物だった事を忘れてはいけない。

    穏健な内容だったからこそ王政復古時代(1814年~1830年)の弾圧を免れ、実質上7月王政時代(1830年~1848年)の主要イデオロギーに選ばれた側面もあったが、当時実際に進行したのは大貴族残党のブルジョワ階層への改編と、それに失敗した無数の中小貴族の庶民落ちという過酷な展開だったのである。

    一方、フランス革命時代にジャコバン派恐怖政治を支持したサン=キュロット階層は、フランス革命戦争ナポレオン戦争を生き延びる過程で恩寵によって保守的な自作農に変貌。彼らが第二共和政時代(1848年~1852年)に選挙で選んだルイ=ナポレオン(Charles Louis-Napoléon Bonaparte, 1808年~1873年)大統領在任:1848年~1852年)がナポレオン3世Napoléon III, 在位1852年~1870年)に即位した第二帝政時代(在位1852年~1870年)に数多くの新興資本家達がブルジョワ階層入りを果たす。

    フラ ンス第二帝政と名望家支配

  • かくしてフランスは「権力に到達したブルジョワ」あるいは「二百家」と呼ばれるインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層の寡占体制に到達する事でやっと相応の政治的安定を取り戻したのだった。

    産業革命が始まったのは確かに(その農本的生産体制が権威主義的ではなく、従って資本主義的発展の妨げとならなかった)英米・スイス・ベルギー・アメリカなどだったかもしれない。しかしそのノウハウを因循姑息な「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」を克服しながら移植するシステムをポータブルな形にまとめ上げてドイツ帝国大日本帝国を台頭させる一方で、特定の消費生活スタイルの販促までつなげたのは、あくまでフランスだったのである。

    この様に政体が目まぐるしく変貌していく近世から近代への脱却過程において、一貫してそれを後押しする役割を果たしてきたのが理工系エリートを輩出する軍学エコール・ポリテクニークÉcole polytechnique、通称X)だったのである。

③そして第一次世界大戦前夜における一つの到達点…そしていよいよ国家間の競争が全てとなる総力戦体制時代(1910年代後半~1870年代)が始まってしまい、近代化の間に合わなかった後進国の多くが開発独裁共産主義国化によって、そのギャップを克服する道を選ぶ展開を迎える(共産主義瘡蓋(かさぶた)論)。

ちなみにこうした旧投稿のまとめを思いついた発端は、以下の一連の投稿。

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別に「先祖返り」などしてはいないんですね。現代人の我々が想像するほど近世(十分な戦闘力と規模と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家間の国際協調時代)、すなわち中世(領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制)と近代(近代国家間の国際協調時代)の狭間が各国にとって一様な歴史展開ではなかったというだけの話で。どこかの地域が突出して先進的だった訳でもないのです。

①まぁ、中世と近世の境目は火薬(馬防柵の併用で騎兵の突撃を無効化する大小火器)と、(文書行政と複式簿記/大福帳(売掛管理)と書籍出版)と、羅針盤(大航海時代到来を可能とした操船技術。緯度と経度で地球全体を表す世界地図の精緻化も含む)が本格運用に入ったかどうかであり、その影響を最も色濃く受けたのが騎馬民族築城術だった事実は揺らがない。

②そのせいで近世以降には築城術の目まぐるしい発展があった。

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 ③一方「貴族騎兵」は必然的に廃れていく展開を辿ったのである。

こうして全体像を俯瞰してみると、ここで取り上げた国々歴史観には似た様な要素が散見される?

  • 伝統的共同体に立脚する在地有力者が緩やかに結合した部族連合(Tribal alliance)…イロコイ連邦(Iroquois)の様に特定の在地有力者の権力が突出するのを嫌う傾向が強い。共同して領土防衛戦争を遂行する際に思わぬ強さを発揮する事もあるが、主権国家化の段階で中央集権的官僚団に対抗した大貴族連合は概ね相互不信を克服出来ず自壊した。日本史でも古墳時代に先駆けて登場した北九州部族連合の遺跡に似た傾向が観測されるが、彼らも結局は畿内に現れた纏向連合に吸収併呑され、四世紀後半以降は佐紀盾列古墳群に安定したペースでヤマト大王墓が築造される様になっていく。

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  • 領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義権威体制(Agricultural authority system)…開拓領主を起源とするケースが目立つ。そうでない状況下では既存秩序を超克して一円領主化を達成する必要がある。また、ここから主権国家でなく貴族共和国に向かうと自力近代化が挫折する。ちなみに国際比較史の世界ではドイツ史におけるグーツヘルシャフトGutsherrschaft)とグルントヘルシャフトGrundherrschaft)の概念が(在地有力者=開拓領主色の強い)東武と(不在地主色の強い)京侍に対比されるが、両者の差異はそう容易に埋まるものではない。

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    第3回武士の歴史 

    701年(大宝元年)の大宝律令完成により、天皇を中心とした国家が確立しました。律令制度とは公地公民であり、全ての土地と民は天皇の直轄にする。つまり各地方豪族から土地と民を没収し、代わりに律令制による位階が与えられました。しかし子弟が都で官職につける程の特権しか地方豪族には与えられなかったのです。地方豪族は自分の土地や民が公有化されるのを手をこまねいて見ているだけで、統一にあたって今まで独立し土地や民を私有していた権利を没収されるにも拘らず地方豪族による反乱や討伐などは起こらずに粛々と行われたのです。

    同じようなことが1869年明治二年)の版籍奉還の時にも起きました。一滴の血も流さずに各藩が自分の所有している土地を中央政府の管轄になる事を認め、一夜にして日本が統一国家と成ったのです。

    二度もこのようなことが日本の歴史の中で起きていますが世界の歴史上このような事は見ることが出来ません。

    一方、イングランドにおける囲い込み(enclosure, 16世紀/18世紀)と一円領主化を目指す戦国武将の公家領や寺社領の横領には明らかに相通じる原理が働いているとも。そういえばイングランドではテューダー朝Tudor dynasty, 1485年~1603年)による修道院領押収が武力衝突に発展する事もなかったのでは?

    アイルランドプロテスタント出身の政治家エドマンド・バークは「フランス革命省察Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中でフランス革命指導者の軽率を攻撃し、英国人に慎重さを喚起する目的で「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない時効の憲法prescriptive Constitution)」の概念を提唱した。

    ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーは「大転換The Great Transformation1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘している。

    それではここで想定される「検討の適切性」を担保するのは如何なる存在なのか?

    これはどうやら「アノマノカリス仮説(Anomalocaris hypothesis)」の出番の模様? 

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  • 十分な戦闘力と規模と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家(Civitas sui iuris)…概ね「騎馬民族の突撃に対抗し得る火器の集中運用」「道路の整備や領土内の必要箇所に迅速に辿り着ける航海術を含む交通インフラの整備」「文書行政や郵便の発達」などを前提条件とし、その台頭が部族連合や伝統的農本主義権威体制を崩壊させる。また、この役割を共産主義化が果たしたとする歴史観に立脚する国家も存在する(共産主義瘡蓋(かさぶた)論)。

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 あれ? 中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン1332年~1406年)のアサビーヤعصبية 'aṣabīyah)論 が対象とした「辺境住民による中央都市住民の打倒」が繰り返される王朝交代と無縁な国家ばかり並んだのは、果たして偶然?

日本の武士間の党争(Clan war)史って、割とそういう側面がありそうでないんです。

欧州もヴァイキング(北方諸族の略奪遠征)時代(The Viking Age, 793年~1066年)やマジャール人侵攻 (洪: kalandozások, 独: Ungarneinfälle, 800/839年~970年)が王朝交代という形で終わらなかった以降は、そうした歴史観から無縁となります。

さてこの辺りどれくらい抽象化が可能なものでしょうか?