諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【学園物の起源】「同人誌作家」ジェーン・オスティン?

f:id:ochimusha01:20200224143533p:plain

日本にまでその影響が及ぶ事はありませんでしたが、国際英文学の世界では21世紀に入ってから「英文口語小説の創始者「自由間接話法=描出話法」の発達に大きく関与し、その人間観察眼の鋭さから心理写実主義の先駆とされる事もある)」ジェーン・オスティン(Jane Austen、1775年~1817年)の直筆原稿の発見がされ、それが終始スペルミスや文法ミスだらけで徹底的に編集者の校正が入っている事実が明らかとなって「Jane Ostin Shock」と呼ばれる現象を引き起こしたのです。

Jane Austen's Fiction Manuscripts:5-volume set '18

本書はジェーン・オースティンの手による現存する資料を徹底的に調査し、原稿ページの複製、改定部分の注釈、上書き箇所、消し忘れた箇所など様々な原稿の特徴の考察に基づき、原稿の全文を掲載しています。

現存する英国人作家の自筆原稿集としては最古のものとなります。

彼女の創作人生の過程、幼少期から11または12歳、そして晩年に至るまでの詳細な記録であり、創作におけるさまざまな過程(下書き、清書済原稿のコピー、および私的に配布するための手書き版) を垣間見ることができます。

小説が刊行された最後の10年に至るまで、彼女の想像力がどう作品に反映されてきたかを知ることができ、出版されている小説を通して見るのとは一味違うジェーン・オースティンを楽しむことができます。その印刷の前段階にある原稿の多様さ、幅広い実験的試みを理解する手助けとなるでしょう。 

ジェーン・オスティン(Jane Austen、1775年~1817年) - Wikipedia

ラドクリフ夫人作品らの手になるフレンチ・ゴシック小説の大ファンで、1789年頃より小説の原型を書き始める。フランス革命(1789年~1799年)からナポレオン戦争(1799年~1815年)にかけてその供給が絶え絶えになると自筆作品執筆と親しい友人への頒布によって想像欲を満たした。その意味合いにおいてまさしく「英国同人誌作家元祖」とも。

  • 1783年に姉のカサンドラとともに知り合いのもとへ預けられ、短期間ながらオックスフォードおよびサウサンプトンで教育を受けている。1785年~1786年にはバークシャーのレディングにあるレディング修道院女子寄宿学校で学んだ。この様に当時一般の少女よりは充実した教育を受けていた。
    *当時の生活環境を俯瞰するに、ゴシック小説に夢中になる気質がこの時醸成された。

  • この間に多くの文学作品に触れ、英訳されたゲーテ書簡体小説若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers, 1774年)も読んだという。

  • 1789年から友人や家族に読み聞かせて喜ぶ小説の執筆に着手。3冊のノートにまとめたが、その2冊目に収録された「愛と友情」において既に後世の作品の特徴の片鱗が垣間見られる。

  • 書簡体形式の「エリナとメアリアン(1795年)」や「第一印象(1796年)」を執筆。父は「第一印象」の出版を打診する手紙を出版社に送ったが断られた。1797年11月エリナとメアリアン」を下敷きに「分別と多感」を書き始める。さらに後に『ノーサンガー・アビー』となる「スーザン」にも取りかかり、ナポレオン戦争の最中の1803年にクロスドー社へと売ったが生前は出版されず、死後『説得』とともに出版された。

摂政時代Regency 1811年~1820年)が始まった1811年より匿名での作品出版を開始。親しい者にも明かさず読者や文壇にジェーン・オースティンの名前が知れる事はなかった。とはいえフランスが復古王政時代Restauration, 1814年~1830年)に入った1815年10月エマ(Ema, 1814年初版)」出版の直前に偶然が重なってジェーンの愛読者であった後のジョージ4世当時は摂政王太子)にもてなされ急遽献呈されることになった。

イギリスが好きだというわりにはイギリスの歴史に疎いので、なんとなくビクトリア時代Victorian era, 1837年~1901年, 産業革命によって経済が成熟したイギリス帝国の絶頂期)が舞台であるようなイメージで読んでいたし、その延長線上で上品で洗練されたイギリスの上流社会の話という感じで見ていたのです。しかし、実際にはオースティンはその前の摂政時代Regency=リージェンシー, 1811年~1820年)の時代に生きており、この時代はジョージ4世が父王の摂政の時代から王となって死亡するまでらしいのですが、このジョージ4世の放蕩で快楽主義的な性格の影響で、社会全体もその後のビクトリア女王のまじめな時代とはまったく違う空気だったようです。

もう一つの面白い視点は、オースティンがその当時の恋愛小説があまりに非現実的だったために、その批判やパロディーとして書き始めたという点です。当時の小説は、美しくて聡明で欠点の無いヒロインが、すぐに失神するほどの感受性を持ち、自己犠牲的にみを引いたりする話がほとんどだったので、それに対してもっと現実的なヒロインの日常生活を通じて描いた、ユーモアを交えた小説を書こうとしていたというのです。オースティンの小説を現代に読むと、とてもまじめに思えるけれども、当時としては画期的なものだったのねと納得しました。

さらにオースティンは、自分の知らない事は書かないという信念があったらしく、自分の身分以外の上下どちらの話も書いておらず、田舎のアッパーミドルクラスの家族の話だけを書いています。男性同士の会話は、自分は聞くことができないということから、小説の中に男性だけの場面は出てこないという徹底ぶりと書いてありました。そういえば、女性同士の会話がほとんどで、男性と女性という場面はあっても、男性だけの会話の場面は本の中には出てこないということに気づきました。さすがにドラマ化された場面にはありましたが。

1816年になると体調を崩しがちになり、現在ではアジソン病に感染していたと考えられている。病状は一進一退を繰り返し、翌1817年には療養のためハンプシャーのウィンチェスターへと移ったが、その2ヶ月後の7月18日に死去しウィンチェスター大聖堂に葬られた。

ジェーン・オースティンは19世紀を代表する女性作家ですが、ウィンチェスター郊外に生まれ、病のためウィンチェスターで療養してましたが、薬石効なく<br />『高慢と偏見』や『エマ』などの長編小説(LALAテレビで何度も放映したよね)を残して亡くなり、ここに葬られました。<br />

④没後の1817年に初期作品に属する「ノーサンガー・アビー(Northanger Abbey)」と「説得(Persuasion)」が出版される。

オースティンが生れた翌年にアメリカ独立宣言(1776年)がなされ、20代前半にはフランス革命(1789年~1799年)が起こっているが、そういった出来事は完全に排除されている。意図的かどうかは不明だが、自らの経験にないことはけして手を触れなかった。文壇にも一切関わらず、同時代の作家とはまったく関係がなかった。残っている手紙は、ほとんどが姉のカサンドラ宛てで、作品もすべて匿名で発表されたため、読者もその名を知ることはなかった。

まぁ、その生涯を俯瞰しても清少納言紫式部の様な英才教育を受けた女性エリート官僚ではなく、樋口一葉の様に当時の文壇最先端の人達の指導下で自分の文学の在り方(当初は中二病的に清少納言紫式部の生きた時代に取材した王朝文学を目指し、ファンからブロンデ様ともてはやされていたが、指導の結果井原西鶴的人情物に目覚め「にごりえ(1995年)」「たけくらべ(1895年~1896年)」を執筆)を見定めた訳でもなく、ただ単に田舎のジェントリー階層の娘が家族や親しい友人に自作を頒布するうちに出版の目途がついたというだけの話だった訳ですから、これくらいの事はあって仕方がないのです。

 

要するに「それまで英国で全く刊行された事がなかったタイプの、誰でも気軽に読める平易な口語文体」の登場は、自由奔放な原文を刊行可能な状態にまでもっていった編集者の執念もあっての産物だったという話。それはそれとして、以降かかる文体は英文学に重要なマスターピースの一つとして組み入れられ「(授業方針が正反対で学生を混乱させた)東大最初期の英文学教育」における小泉八雲夏目漱石の双方の授業で必須学習対象とされる展開を迎えたのでした。

ちなみに「ジェーン・オスティンは英国同人作家元祖」なるコンセンサスにはさらなる背景があって、ネット上に構築された英国二次創作世界においては「ジェーン・オスティン二次創作グループ」なる超越的集団が君臨しており、そこは60代でも小娘呼ばわりされる恐ろしい世界だというのです。日本でいうとズカファンが同人誌界に超越的に君臨してる感じ?

その一方で「当時の作品にはあってしかるべき描写がゴッソリ欠落している」ジェーン・オスティン作品の作法は数々のマッシュアップ(Mashup)派生作品も生んできました。濃縮原液を炭酸水で割って「果汁100%の炭酸飲料」をこしらえるアップルタイザー(Appletiser)の技法…

  • 高慢と偏見とゾンビPride and Prejudice and Zombies, 2009年, 映画化2016年)」…まず真っ先に名前が挙がるのがこの作品。当時の英国では大陸に派遣される軍隊が招集されたり(ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーが「大転換(The Great Transformation、1944年)」の中で詳細に分析してるスピーナムランド制度(Speenhamland system、1795年〜1834年)が生み出した)貧者の大群があちこちを彷徨う景色が日常化していた。ジェーン・オスティンはそれについて随所に、ただしごく僅かずつ仄めかす程度にしか触れていないのだが、この部分を大胆に「大陸ではゾンビ・パンデミックが発生しており、大英帝国はそれに対する厳戒態勢を敷いていた」と設定した作品となる。

    これが成立するのは、例えば「ノーサンガー・アビー(Northanger Abbey)」における「郷紳(ジェントルマン)が連日の様に狩猟大会や舞踏大会に明け暮れているのは、互いが(大陸で流行しているジャコバン派イデオロギーの様な)危険思想に感染してないか監視し合う為でもある」みたいな描写も受けての事。日本国内ではあった「原作の冒涜」説が海外では主流派と成り得なかったのもこの認識のせい。

     

  • 相次ぐTVドラマ化の陰で進行してきた「性描写の追加」…まさしく二次創作エロ的展開で、既存のジェーン・オスティンのファン層を怒らせてしまう。

こうして基本的背景は一通り終わったので、以下続報…