射影(projection)の概念は重要。
例えば、とある中国人(おそらくは香港人?)の目に映ったアニソン史と、日本人自身が体験したそれとのズレは、それ自体ある種の歴史的真実性を含んでいたりするのです。「投稿時、その時の人気作品だけにスポットライトが当たる(回覧数がそれに併せて集中する)」せいで、投稿者当人すらコントロール出来ない側面が…
まぁ出発点は穏当? 先頭に来るのはエレキギターの日本導入期独特の「東京警備指令 ザ・ガードマン(1965年〜1971年)」や「キー・ハンター(1968年〜1973年)」みたいなハードボイルド調TVドラマ。
そしてLover's Soul上陸…
え? でも次はこれ?
まぁ日本の場合、マカロニウェスタン系音楽上陸以前から(その受け皿となった)時代劇風ジャズにパッカラ感が根付いていたのである。
そしてさらに、こっちくる? まぁ確かにOPの「マカロニウェスタン+ハードロック」は後述する様に「外れ観測点」だからねぇ…まぁハードロック調リード・ギターは鳴りまくってますが、とりあえずオルガンなし。
で、まぁ日本人とのコンセンサスに復帰。
そして「科学忍者隊ガッチャマン(1972年)」。実はこの辺り出自不明なのだけど、それはそれで平然と受容? 今聞き返すと、ベースが4beatから完全に離れる一方、割とリードギターがハードロックしてる。で、さらにもしかしたらリズムギター、時々Cly Baby辺り掛けてる?
そして再び日本人とのコンセンサスに復帰。
意外だったのは「山ねずみロッキーチャック(1973年)」の採択と、その回顧風ジャズ調の強烈さ。
で、また日本人とのコンセンサスに復帰?
とはいえあくまでOPが選ばれない曲も。
それはこちらも同じ?
さらには設定自体の苛烈さを見逃してたのが「ラ・セーヌの星(1975年)」。え、この作品のヒロインって(外交革命成立の証としてオーストリアから輿入れしてきた)マリー・アントワネットの異母姉妹という設定だったの? それって革命期フランスでバレたら「オーストリアのスパイ」として私刑で惨殺される地獄パターンやん。ついでに父親のフランツ1世も「女帝」マリー・テレジアから公開処刑されてしまうパターン? ドラムラインのパッカラ感も、カッティング・リズムギターもないけど、何だか確実に特撮時代劇館感が…その一方で転調スタイルがグレンダイザーっぽい?
1789年に勃発したフランス革命の頃のパリを舞台とし、美少女剣士の活躍を描く。主人公はシテ島で花屋の娘として育った美しい少女シモーヌで、変装して「ラ・セーヌの星」を名乗り戦う。シモーヌはオーストリア女帝マリア・テレジアの夫フランツ1世とオペラ座の歌姫を両親に持ち、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットの異母妹であるという設定である。
そして国際的には大ヒット・コンテンツとなった…今から聞き返すとパッカラ感あるドラムラインをベースとホーン・セクションだけで受け切ってる辺りが恐ろしい?
やはり日本人にとってすら何処から来たか判らない「外れ値」は、海外のアニメファンいとってもそうであるらしい?
①例えば「ルパン三世(1971年)」ED…峰不二子が口にした「命を惜しまない男は立派よ。だけど死ぬなら孤独に死になさい。誰も愛さずに、愛されずによ…悲しむ女が減るわ」なる孤高なダンディズム…今あえて聞き返すと、思うよりAcostic Funk臭が…
②一応は「フランス歌謡系」に分類される「ハククション大魔王(The Genie Family, 1960年〜1970年)」の「あくび娘の歌」だが、この曲についても未だ当時流行したフランス歌謡にその大源流を求められずにいる。
あえて指摘するならこの辺り? でもこれはこれで米国のロックンロール要素が…いや、むしろだから正解? 逆を言えば「日本音楽のオリジナリティ」は、まさにこうした混沌段階を経て次第に確立されてきたともいえるのである。
③そしてグループサウンズ系音楽と(恐らく隠し味的にフランス歌謡と)ウーマンリヴ運動がフュージョンしたこの時代特有の奇跡のグループ…まぁおそらく出発点はこの辺りの筈なんだが…
吃驚するくらい咀嚼され尽くして(ある意味サーフ音楽の枠から完全には抜け出し切ってない)原点から良い具合に逸脱している。
一応、グループサウンズが子供番組主題歌に与えた影響の終着地としては「怪獣王ターガン(1969年)」を挙げるのが定石とされているが…
「黒猫のタンゴ(1969年)」の国際的大流行を受けて「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘(Josie and the Pussycats, 1970年〜1971年)」の日本語版主題歌がタンゴ調となり「美少女戦士セーラムーン(1992年〜1997年)」主題歌へと継承されていく流れまでは流石に海外に伝わってない模様。1980年代を通じてアイドル歌謡のアレンジパートとして定着した後藤次利風スラッピング・ベースは「元曲」KEY WEST CLUBの「夢はマジョリカ・セニョリータ(1992年)」から採用されている?
そういえば安野モヨコ「シュガシュガルーン (Sugar Sugar Rune, 2003年〜2007年)」の主題歌「ショコラに夢中」もフランス歌謡「夢見るシャンソン人形(Poupée de cire, poupée de son, 1965年)」をオマージュしてるし、日本音楽にはそういう側面が確実に存在するといえよう。
④なんと過渡期特有のフュージョン系…何故か(ハイハットの刻み方に連動する)Acorstic Funk系カッティング・ギターだけは共通しているという…
「仮面ライダー(1971年)」OP。基調はこれだけ徹底してマカロニ・ウェスタン調なのに、どうしてオルガンが普通に調和してるの?
「デビルマン(1972年〜1973年)」 …マカロニ・ウェスタン臭もFunk臭もほとんど消え去って、かなりただのオリジナルの領域に。パッカラ感ももはやないし…
「人造人間キカイダー(1972年)」。まさかの形での当時国際的に流行していたハードロック要素導入ですよ…しかもパッカラ感抜きという…
「スーパーロボット レッドバロン(1973年〜10974年)」OP。何か完全にエロ要素だけ除去して「格好良い要素」だけ残すのに成功した感も?
この辺りの世界でも稀なフュージョン感の継承を何故か「韓国のプログレバンド」クッカステン(국카스텐、Guckkasten)に感じてしまった謎経験…あれ? もしかしてここでスカとか当時のカリブ音楽の流れが入ってくるのを隠さず掲示する辺りが評価高い?
この経験を通じて思い出したのが、以下の「直感」の連続。
- The Beatles「Ob-La-Di, Ob-La-Da(1968年)」や、TVアニメ「サザエさん(1969年)」OP最初期のジャマイカ音楽のある種の特徴を継承してるかもしれないというエビデンスなき「直感」。
まぁこれはチュリッシュ「てんとう虫のサンバ(1973年)」とは何だったかという話でもある? - さらには同じグルーブ感との(発展のバリエーションとしての)連続性を、当時リアルタイムに「エロエロ路線に切り替えた黒人音楽」の影響を色濃くうけた「帰ってきたウルトラマン(1971年)」OPや「レインボーマン(1972年〜1973年)」Ed「あいつの名前はレインボーマン」に感じてしまう辺り。「帰ってきたウルトラマン(1971年)」OPの鍵は、ラストの到達展開そのものの重なり…
「あいつの名前はレインボーマン」の鍵は「♪愛の戦士のレインボーマン〜」や「♪正義の味方のレインボーマン〜」から「♪今日もいい天気」につながりそうな感じ?
これまで他の誰も指摘してるのを見た事がないので、あくまで本当に「個人的印象」に過ぎない。例えそういう系譜が存在したとしてもまとめて途絶えた理由は簡単。当時の「(最初から白人ミュージシャンに模倣可能な範囲の突破を志向していた)エロエロ路線の黒人音楽」は、その後例えばスモーキー・ロビンソン率いるThe Miracles「Love machine(1975年)」の様な神懸かった領域に突入していき(日本の子供番組向け主題歌がそれ以上の追随を諦める一方で)ボニーMの様な、ドイツで活躍したカリブ海出身の黒人ミュージシャンもこれを追随する様になったから。
「これ、ちゃんと追随出来てるの?」なる不安感は、当時日本と欧州を席巻した「怪奇ディスコ・ブーム」にも感じられる。何この「原宿の竹の子族」の御先祖様的ダサさ…
とはいえむしろ1970年代日本音楽との連続性を有するのはこちらの系譜という。
- 「日本で流行したフランス歌謡系音楽」の影にずっといたのは「ウクライナ出身のフランス音楽ヒットメーカー」セルジュ・ゲーンズブルク。
- そして最近になって「サザエさん主題歌」とジュディ・オング「魅せられて(1979年)」の作曲者が同じと知る。
ところが(最初から白人ミュージシャンに模倣可能な範囲の突破を志向していた)黒人音楽が、ここでCHICやJacson5といった飛び道具を繰り出し、しかも世界中のリスナーをロングランで熱狂させてしまう。
日本やドイツの様な「音楽後進国」のミュージシャンは「(彼らの駆使する)超絶技法との隔絶」と「リスナーの確保と保持」の二重苦に苦戦した。日本では、これでフィンガー5(全盛期1972年〜1975年)とピンク・レディ(全盛期1976年〜1978年)が「一発屋」扱いを受ける展開を迎える。
米国占領下の沖縄で、父親が経営する米兵相手のAサインバーでアメリカのロックやポップスに親しみ、当時小学生の長男・一夫、次男・光男、三男・正男が「オールブラザーズ」としてバンド活動を始める。晃は「自分と玉元妙子(1972年 - 1978年、キーボード・ボーカル)は後から無理やり参加させられた」と述べている。英語の歌詞は聞こえた音をカタカナでメモし、キーボードは紙に書いた鍵盤で練習した。
- 父のバーはのちに他の経営者の手に渡るが、21世紀初頭まで存在した写真がテレビや書籍で紹介されている。
オールブラザーズは沖縄のテレビ番組のコンテストで優勝し、テレビ局のプロデューサーに薦められて1969年に東京都東村山市に移住する。上京した一家は「歩くのが早い、しゃべるのも早い、お札の色が緑(米ドル)でない」ことに驚いた。母が自ら車を運転し、日本中の在日米軍基地を回って慰問コンサートを行いながらデビューの機会を待った。
- 1970年にバンド名をベイビー・ブラザーズに変えてメジャーデビューするも売れずに苦しい時代を過ごし、転校した学校で「売れない歌手」と悪口も言われた。妙子はそれまで着たことがない琉球王朝時代の服を着せられ、晃はその時期に出した曲にタイトルさえもう覚えていないものがあるという。
- 不遇の末に沖縄に戻る準備をしていた頃、子供に向けて子供の歌手をデビューさせる企画を描く担当者が彼らの存在を知り、「少し出来るだけのガキだろう」と思いながらデモテープを聴いて「これは本物だ」と驚いて彼らを説得し、1972年に再デビューする。米国で当時大ヒットしていた同じ5人兄弟で結成されたグループジャクソン5を意識し、母親が「フィンガー5」と名付けた。
初めてのテレビ出演は子供の視聴が多い土曜の夕方に放映され、放映直後はテレビ局に問い合わせの電話が殺到した。1973年に世志凡太がプロデュースした「個人授業」を発売すると、ミリオンセラーとなり一気に知名度が上がる。その後「恋のダイヤル6700」「学園天国」などをリリース、いずれもミリオンセラーとなった。テレビ・映画にも多く出演した。楽曲のテーマは学校における恋愛で一貫していた。
- 5人の中でも特に、年少の晃と妙子に注目が集まった。デビュー当時は11歳と10歳で、あどけない姿でステージをこなす姿が人気となった。晃がトレードマークとした特大のサングラスが流行した。
- 自らの意思で活動を始めたこともあり、一夫がマネージャーを兼任し、仕事の交渉やスケジュール管理もこなした。
- 大人気によるハードスケジュールのために晃が過労で入院すると、病床の写真が週刊誌に掲載され、医師は関係者に「あなたたちは、この子を殺すつもりか」と告げた。晃が変声期で「声変わり」を防ぐため、関係者らが「女性ホルモン」の注射を強く勧めたが本人は断った。
1975年に長男の一夫がマネージャーに専念するために脱退し、代わりに甥で長女の息子の具志堅実が加入する。ハードスケジュールは限界に達し、休養も兼ねて1975年から1976年に米国に留学。
- これまで芸能活動で得た収入は、渡航費用で全て使い切った。芸能活動に一切口を出さなかった父の「芸能界で稼いだ金など、あぶく銭だ」とする考えも反映されていた。
- 帰国後は、長く日本を留守にしていたこと、メインボーカルの晃が変声期で従来のようなハイトーンが出せなくなったこと、彼らのやりたい音楽とファンのニーズが乖離してヒットに結びつかないことなどから人気が急落。後の晃の述懐によると、どうすれば売れるかは分かっていたがそれは自分たちがやりたくないことであり、割り切って自分たちのやりたいことをやろうとしたら売れなくなったという。
末期は晃に代わり妙子をメインボーカルに据えたり、バンドとしてメンバー自らの演奏を前面に出すなどを試みるも人気は回復せず、1978年に実質的に解散した。その後メンバーの一部は、ザ・フィンガーズなど、いくつかのバンドを結成し活動するが、大きくブレイクすることはなかった。
中学、常葉高校(現・常葉大学附属常葉高校)時代に同級生だったミー(現:未唯mie)とケイ(現:増田恵子)は、1973年にヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格、特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事になる。
- 講師の勧めで“クッキー”というデュオを結成し 歌手を目指していた。クッキー名義で1974年のポプコン東海地区大会決勝に進出し「恋のレッスン」を歌っている。デビューのきっかけとなったテレビ番組『スター誕生!』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。歌も当時ほとんど無名に近かった、フォークグループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」。メンバーのうち、叶正子は後にコーラス・グループ「サーカス」のメンバーとして再デビュー)を唄う事で逆に注目され合格する。
- 『スター誕生!』で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦であった。歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装(デザイナーは野口庸子)と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになった。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。作曲家・都倉俊一は「カクテルのピンク・レディーに因み『ピンク・レディー』と命名したので『ピンク・レイディーズ』(複数形)にはしなかった」と述べている。
- 多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。所属事務所はT&C ミュージック、音楽出版権利・管理はバーニングパブリッシャーズ。
デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべて土居甫の手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に二人の姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され、ピンク・レディーの存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。
- ピンク・レディーのデビュー・シングル「ペッパー警部」(1976年8月)は売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーのヒットとなり、1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが、当時の世間に大きな注目を集めた。第2弾シングルの「S・O・S」(1976年11月)、第3弾シングルの「カルメン'77」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなる。
そして、第4弾シングルの「渚のシンドバッド」(1977年6月)は、ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった。この曲によって、ピンクレディーの人気はもはや“社会現象”となり、日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れた。
- 当時はデビューしたばかりのサザンオールスターズがピンクレディーの「渚のシンドバッド」に敬意を表して、同年1977年に大ヒットした沢田研二の「第19回日本レコード大賞」受賞曲「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を「勝手にシンドバッド」としたほどである。
- 第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」をノンストップメドレーで歌い「大衆賞」を受賞した。
- 第6弾シングルの「UFO」(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞する。それまでピンクレディーのような“ディスコ・ポップス系”のアイドル歌手がレコード大賞を受賞した前例はなく、ピンクレディーのレコード大賞受賞はまさに“前代未聞の革命”であった。また『UFO』では、“地球の美女が異星人に恋をする”という阿久悠作詞の歌詞も、当時としては画期的なものであった。
- 第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)もミリオンセラーとなった。この「サウスポー」では“左利きの女性投手が王貞治と一騎討ちをする場面”が描かれており、これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録ブーム”を背景としたものである(この頃、王貞治は初代の国民栄誉賞を受賞した)。ピンクレディーの作詞家・阿久悠は「作詞とは“時代”である」をポリシーとしていた。
- さらに、次のシングル「モンスター」(1978年6月)も、「渚のシンドバッド」・「ウォンテッド(指名手配)」・「UFO」・「サウスポー」と続いた“大ブームの勢い”を受けて、ミリオンセラーを記録した。
このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年までの2年間にわたって続いた。絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、1978年のオリジナル・コンフィデンスの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳〜12歳が42.5%を占めた。
- 1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1を獲得した。また「サウスポー」や「透明人間」(1978年9月)などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。
- 人気は爆発的に高まり、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、B'zが「有頂天」で記録更新するまで最高記録であった(ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。B'zは47曲で通算64週を達成。また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。
- また女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、モーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。
- 3年ほど早くデビュー(1973年9月)していた、アイドルトリオのキャンディーズと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。
「カメレオン・アーミー」(1978年12月)もオリコン1位を獲得、これで1976年の「S・O・S」からオリコンシングルチャート連続首位記録が9曲となった。そんな中、1978年大晦日の『第29回NHK紅白歌合戦』への出場を敢えて辞退、日本テレビ系のチャリティー番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演する。しかし視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)は当時の国民的番組であった『紅白』の72.2%に対し、ピンク・レディーが出演した裏番組は8.2%と惨敗する結果となった。それでも前年度の『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』の6.2%を上回り善戦したともされる。
- ニューミュージック全盛期を迎える翌1979年、「ジパング」(1979年3月)はオリコン4位に留まり、連続首位記録がついにストップする。その後「ピンク・タイフーン」(1979年5月)と、「波乗りパイレーツ」(1979年7月)まではオリコンベスト10内を維持した。だが、日本ではピンク・レディーに変わる新しいアイドル時代の到来、また前代未聞の紅白歌合戦出場辞退によりマスコミからの激しいバッシングを受け人気が急落、更には事務所のトラブルやメンバーの恋愛トラブルなどが相まってしまう。
- ただし、以前から進められていたアメリカでの活動は順調で、全米デビューシングルとなった「Kiss In The Dark」がビルボード総合37位、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組を持つなど確実に実績を積んでいた。
- しかし、アメリカでの契約を更新することが無いまま帰国することとなり、再び日本での活動に力を入れたものの、一旦ついたマイナスイメージを覆すことは出来ず、往時の勢いを取り戻すことはできなかった。こうした経緯から、アメリカ進出についても日本では失敗と言われることが多かったが、米国でピンク・レディーほど活躍した日本人歌手は今のところ他には存在しない。冠番組の放送内容に賛否は分かれているが、米国内ではDVD化もされている。
- そして1980年9月1日、ピンク・レディーは二人揃って解散を発表。それから7か月後の1981年3月31日、後楽園球場で解散コンサートを開催する。しかし、そのコンサート当日はみぞれ交じりの冷雨が降り続く悪天候であり、空席が目立ったスタンドに象徴されるように絶頂期の面影はほとんど無く、何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったのと比べると、あまりにも寂し過ぎるものであり、感涙し抱擁する瞬間までテレビサイズに収めるためにディレクターから急かされたとされている。解散コンサートの観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人程度とされる。
活動期間は4年7ヶ月。なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。
ここで思い出すのが以下の冷徹な言葉。
「よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ(立川談志/49歳)」
かくして、当時のボニーBの「遅れてきた黒人」の絶望感が「Eurasian Funk」なる新概念を誕生させるのである。ある意味ボビー・ファレルがラスプーチンのコスプレで踊り出した瞬間こそ、それまで音楽界を区切ってきた「人種問題」の壁が瓦解した瞬間でもあったといわれる?
ここで「パッカラ系リズムの変遷」と同じくらい注目に値するのがアメリカの西部劇から継承されてきたダサ格好良い「ライダー達の掛け声」の変遷。
ここで思い出すべきは、そもそも(しばしばスペインが撮影場所として選ばれてきた)マカロニ・ウェスタン映画のプロデューサーがしばしば(高度成長期にあった)ドイツ人だったという国際性。
1980年代前半を生き抜くのは、むしろこれに便乗したハイソな御洒落勢なのだけど、全てはこうした(漫画界へのラブコメ導入者が柳沢きみおだった様な)決死の生存戦略から始まったのだという事は記憶されるべきである。最終的に自ら起こしたムーブメントの中心に残れなかったにせよ、それこそが彼らが必死で生き残ろうとした証なのだから…
かくしてパッカラ感が当時におけるリズム感の解像度の急速な高まりの最中に多様で多態的なバリエーション群へと発展的に解消される一方で「カーボーイのダサ格好良い掛け声」は、少なくとも一旦は音楽領域の完全視野外に…今日ではむしろ電子音の本格導入が引き起こしたニューロマ運動の波及ムーブメントくらいにしか考えられてないけど、むしろ現実は逆だったという話…
「現実は正解」という考え方は、実際の歴史が各時期それぞれの瞬間の正確な微積分の結果ではなく生存者バイアスの総計として後世に伝えられる危険も備えているという話。とりあえずは、以下続報…