諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【貧困層と富裕層の分断】改めて映画「ブラック・パンサー(Black Panther, 2018年)」が示した処方箋について。

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まず以下の投稿についてあえて「黒人出羽守」説を指摘しておきます。

なぜなら本気で「黒人問題」を直視するリベラルな黒人だったら、ここですかさず「シカゴFacebook拷問実況事件(2017年)」を連想し、それについて言及してる筈だから…貧富格差の被害者の立場から「支配階層Rich Whiteばかりか「裏切者Black Establishmentもまとめて告発するPoor Blackが同時に女性も同性愛者も障害者に対する蔑視を共有する排他的で対外攻撃的なHomosocial社会の住人でもあるのは彼らにとって実際に生きてる現実の一部。まさしく「♪弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたくその音が響きわたれば ブルースは加速していく…」世界を身を以て知る立場…

ちなみにこの投稿を巡る議論は以下の様に続きます。 

何だか次第に肝心の重要観点からズレて行ってしまう感があります。そうした全体像も踏まえると、今ここで日本人が思い出すべきは(上掲の様な「分断状態」に苦しむアフリカ系アメリカ人岡本喜八監督・橋本忍脚本映画「大菩薩峠The Sword of Doom、1966年)」に熱狂した歴史的経緯かもしれません。「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ映画中に登場し、世界中に伝わったセリフは「剣は心なり。剣を学ぶ者は心を学べ。心正しからぬ者の剣は邪剣だぞ(The sword is the soul. Study the soul to know the sword. Evil mind evil sword)」)」を標語とした実在の剣豪島田虎之助演・三船敏郎)とその弟子宇津木兵馬(演・加山雄三)が属する「あくまで建前上はどこまでも清く正しいLight(Right)-Side」と、自らがうちに抱える昏い狂気のせいでそれに憧れつつも到達出来ず、しばしばあらぬ方向にルサンチマンに満ちた怒りを爆発させる机竜之助(演・仲代達矢)の「あくまで建前上は何もかも間違っているDark-Side」の、どこまでも平行線をたどり続ける対峙…そして、そういう物語構造をこそ当時のアフリカ系アメリカ人は熱狂的に歓迎したという歴史的事実…

そういえばスターウォーズ新トリロジーが発表された当初、海外では「カイロ・レン演・アダム=ドライバーのモデルは机竜之助(演・仲代達矢)」説が流れ、実際、物語はまさにそういう展開を辿った訳ですが、あまりにショボい劣化再生産振りに途中からそれを指摘し続ける人自体が途絶えてしまいました。実際、自分の内なる良心の呵責を消す為に平気で父親を殺す「狂気の世界の住人」カイロ・レンがあんなにも安易な形で「成仏」なんかしちゃいかんのですよ…
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要するにみんな、この「狂気の眼」を宿したアダム・ドライバーを目にして戦慄したかったのである!!

その点はむしろ「仲代達矢の美眼特に安部公房原作脚本・勅使河原宏監督映画「他人の顔(1966年)」のそれ三船敏郎の美尻を備えたイケメン半魚人に、隙を突いて飼い猫を喰われてしまうギレルモ・デル・トロ監督映画「シェイプ・オブ・ウォーターThe shape of water, 2017年)」におけるSexy半魚人の方が、余程忠実な再現だったといえましょう。個人的にはこうした怪物性と「お岩の亡霊の、あくまでそれ自体は優しい眼差し」の対峙が却って伊右衛門(演・仲代達矢)の狂気を加速させる豊田四郎監督映画「四谷怪談1965年)」が好物なのですが…

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まぁ、それはそれとして話を戻すと、とにかく出発点は「Hiphop文化、特にGangster Rapジャンルの礼賛者は心せよ。これも国際的に下層階層の間で普遍的に蔓延するStreat Gang 文化の一側面なんだ」なる観点たるべき。

かつて色々な事を真剣に話し合った、とある日本文化ファンのアフリカ系アメリカ人から「だから私は黒人音楽文化の極上の部分のみを巧みに継承した宇多田ヒカルが大好きなんだ」と打ち明けられた事があります。まるで宮崎駿風の谷のナウシカ( 1982年〜1994年)」における「庭の主」の「旧世界の人類は、これしか本当の意味で後世に胸を張って伝え得る文化遺産を残せなかったのだ」なる呟きを連想させる様なセンチメンタリズム。黒人文化、既に(少なくともその一部は)そんな達観し過ぎた成熟領域に到達?

決して現実の内省から逃げない彼らの認識はあくまで深く、それは例えばマーベル映画「ブラック・パンサー(Black Panther, 2018年)」における悪役ウォーモンガーの描写(愛人を平気で銃撃の楯として使い捨てる)にまで及んでいます。そもそも、そこで語られた物語の意味について、日本のリベラル層はあまりにも真剣に考えなさ過ぎた?

  • 私はこれまでの投稿で既に(既存日本の伝統的価値観への反感からHiphop文化を礼賛する)しばき隊界隈が、その影響を受けて「社会的弱者が権力者側に寄り添ってる証」として「(街の目立つ箇所を選挙する点字ブロック」や「(広くて設備も充実している多目的トイレ」をあえて権力の象徴として標的にする様を描写してきた。これにさらに「障害者用駐車場をあえて占拠して当事者に使えなくして喜ぶ文化」が「反体制的ならなんでもKool特に被害者としての自分を差し置いての社会的弱者への庇護なんて、全て権力者側の傲慢に阿る行為で一切許せない)」と豪語する空気が共通の大源流として存在する(そして日本や韓国の半グレ社会にもそうした思考様式を大歓迎する傾向なら潜在)。これを投影されたのが「父ウンジョブの時代から祖国ワカンダの技術と武器を密かに持ち出して世界中のアフリカ系民族を迫害から救う戦いを起こそうと画策してきたキルモンガーエリックの世界」で、そこには(アフリカからの貧困層移民が絶えないせいもあって、状況が改善されるどころか悪化の一途を辿っている在米Poor Black層への危惧感も反映されていたりする。ミズーリ州ファーガソン事件の背景にも「成功した黒人が次々と脱出してスラム街の治安が益々悪くなる」悪循環が…


  • その一方で「(自らが安寧を手に入れる為に彼らを見捨ててきたそのせいで彼らはそんな怪物に成り果ててしまった)」なる罪悪感を密かに内心に抱えるBlack Establish層側 アメリカ人口全体の1/10以上を占めるアフリカ系アメリカ人のうち既に中産階級層以上に昇格した1/4以上に該当する彼らは、既に単なる「一方的に虐げられてきたマイノリティ」なる枠組みを超越する存在へと成長。しかも「アファーマティブアクション(affirmative action)措置は返上するからさらなる平等を」なる主張によってPoor Black層ばかりか「人道的庇護者を気取り続けたいその一方で「先天的に野蛮で決して完全に文明化する事はない黒人」への差別は続けたい)」白人リベラル層からも煙たがられている - が抱える諸問題を投影されたのが「(世界に超技術の保持を秘匿して秘密裏に豊かな生活を送っているワカンダ国Wakanda住人の世界」。

    一方、アフリカ系アメリカ人も「黒人開放奴隷が奴隷制農園の農場主となる事もあった」現実から出発する「リベリア国建設1847年〜)」なる黒歴史を抱えていたりする訳だが、流石にそれについての言及はなかった。

    むしろ、そっちの暗黒面へのアプローチという観点からすると「高慢と偏見とゾンビPride and Prejudice and Zombies, 原作2009年, 映画化2016年)」のある種の精神的続編として執筆された「リンカーン/秘密の書(Abraham Lincoln: Vampire Hunter, 原作2010年, 映画化2012年)」やクェンティン・タランティーノ監督映画「ジャンゴ 繋がれざる者Django Unchained, 2012年)」 といった一連の異形のアクション・コメディ作品群の方が鋭かった。日本のリベラル層は眉を潜めただけで無関心を貫いたが、米国の白人リベラル層の間での既存価値観の動揺はもっと著しいものだったのである。そう、こうした作品において貧困問題や黒人問題はあくまでダシに過ぎず、本当のターゲットは「ブルジョア=インテリ=政治的エリート階層としての白人」…

果たして、かかる「2つに分断された世界の再融合」なんて本当に可能なんでしょうか? その事に関して作中で実現する「現実と理想の均衡」についてはもっと諸論が尽くされてしかるべきですが、とにかくそれは一つの処方箋として相応の提言は成し遂げ得たと私は考えます。で、その立場ゆえに明らかに違うバランス感覚を備えてそうな「ジョーカー(Joker, 2019年)」や「パラサイト 半地下の家族2019年)」には食指が動かなかったのかもしれないと、たった今気付いた次第…

おそらく、突き詰めて考えていくと「どっちが正しい」という話ではなく「リベラル側の偽善は思うより多様で多態」なる極限を迎えそうな気がしています。ちなみに「ブラック・パンサー(Black Panther, 1918年)」の作中では「白人に迎合する一方で黒人や東南アジア人を差別する韓国人の姿」も克明に描かれ、国際SNS上の韓国系アカウントに「OK, 確かに我々にそういう側面があるのは認めよう。だが我々だってマルコムX自伝The Autobiography of Malcom X, 1964年くらい読んでる。決して他人事ではいられない話題の筈だ」なる反応を引き起こしました(そして以降「対等な立場での殴り合い/戯れ合い」が進行)。その彼らが同時に「グエムル-漢江の怪物-2006年)」や「パラサイト 半地下の家族2019年)」を発表したボン・ジュノ監督について「良くも悪くも江南左派」と決めつけていた価値観を、どうやら気付くと私も継承していたみたいなんですね。

以下続報…

【追伸】やはり別途「嘘松認定」があった模様。

ちなみに上掲の宇多田ヒカルファンのアフリカ系アメリカ人、アフロをシャインレッドに染めてイデオンの結城コスモに見られたがってたのは百も承知で「御免、テッカマンのアンドロ梅田にしか見えない」と、はっきり告げた事があります。

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アンドロ梅田(CV:山田康夫)、個人的にかなり気に入ってるキャラの一人なんで割と褒め言葉のつもりだったんですが、当人が何かと繊細に見られたいインテリ・タイプだったので割と裏では真面目に傷付いた模様。ついに最後までちゃんと確認する機会はありませんでしたが、もしかしたら「スパイ大作戦シリーズ(1966年〜)」に登場する万能黒人技術者バーニー・コリアー(演:Greg Morris)とか、「スタートレック・シリーズ(1966年〜)」のジョーディ・ラ=フォージ(Geordi La Forge)中尉(演LeVar Burton)の名前を挙げたら喜んだかも。とはいえ自発的対応としてそうするならともかく(彼らもまた個人的にかなり気に入ってるキャラ系列だが、私の中であくまでアンドロ梅田とは「別ジャンル」である事実は動かない。そういえば映画「ブラックパンサー」では主人公の妹シェリ王女(演Letitia Wright)が適度な不思議っ娘感を醸しつつ求められる役柄を全うしていたが、これはこれで範疇内)、こういう次元の反応にまで人種的配慮を求められる世界なんてまっぴら御免という気持ちも正直あったりします。

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まぁ「対等目線での殴り合い」なんて、そんな次元で構わないのではという提言…