しばしば「革命はもはや科学者を必要としない。今や革命そのものが科学となったからだ」なる言い回しで引用される「化学の父」ラボアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier, 1743年〜1794年)へのジャコバン恐怖政治の死刑判決の本来の原文は「共和国は科学者を必要としない。裁判をすすめなければならない。斧はその仕事をしなければならぬ。」といった内容でした。
この高らかな宣言のわずか数ヶ月後、いわゆるテルミドール反動(1794年7月27日)が勃発し、今度は恐怖政治側がギロチンに掛けられる展開を迎えます。
- そもそもそれ以前の段階で既に革命勃発の契機となったバスティーユ襲撃(Prise de la Bastille, 1789年7月14日)やヴェルサイユ行進(La Marche des Femmes sur Versailles, 1789年10月5日)の黒幕と目される(どちらも彼のパレ・ロワイヤル宮殿から進発)ルイ16世処刑評定(1793年1月18日)にも賛成票を投じた平等公フィリップ(Philippe Égalité=フィリップ・エガリテ, Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans, 1747年〜1793年11月6日)の様な自由主義貴族もこぞってギロチンの露と消えていった…
そして後に「裁判をすすめなければならない。斧はその仕事をしなければならぬ」なる言葉だけが残ったという次第。さて、誰が誰を裁く言葉として?
恐怖政治(仏la Terreur、英Reign of Terror)の開始は革命裁判所(革命裁)が設置された1793年3月10日。わずか17ヶ月の間にパリだけで約1,400名、フランス全体では約2万人が処刑された。プレリアール22日法制定(1794年6月10日)以降は司法手続きが大きく簡略化され正統な裁判なしの死刑や獄中死が急増。それらを含めると犠牲者は4万人を超えるとする説も。
- 当時、フランス革命戦争は四面楚歌状態下における物資欠乏を背景にパニック状態に陥りつつあった(互いに政敵オーストラリアのスパイのレッテルを貼り合っての内ゲバの急増)。かかる時期に主要兵力供給源として大幅に発言力を増した浮浪小作人階層やサン・キュロットらの熱狂的支持を受けて過激化。
サン・キュロットは最下層ブルジョワジーの揺れ動く境界線にいる職人層(小売店、手仕事)の出身であり、版画によって不滅となった服装、カルマニョール服、縞のあるズボン、赤い縁なし帽、手に槍を持ち腰にサーベルを差している。口髭をたくわえた者も、そうでない者もいる。友愛と共和主義を表すために君・僕で話す。彼らが最も信頼しているジャーナリストは『人民の友』のマラーと『デュシェーヌ親父』のエベールである。彼らを支配する感情は、たぶん困苦欠乏への恐れである。ユーモアのセンスを欠く彼らは、現実に対するひどい無知と猛烈な政治的軽信をあわせもっている。
*最近になってようやく「浮浪小作人階層=サン・キュロット」ではないと気付いた。前者は数こそ多いがイデオロギー性には乏しく従軍によって多くが死亡して弱体化する一方、残りが恩寵による自作農化によって保守化しボナパルティストへと変貌していく(極度の貧困状態で育ってきたが故に教養はなくほとんど本能的生存欲だけが全てで、フランス革命戦争やナポレオン戦争における野蛮な破壊行為と略奪行為の主体でもある)。後者は都市部のプチ・ブルを中心に形成された急新共和派の先祖筋であり、浮浪小作人階層の扇動に成功してるうちは無双状態を続けたが、その支持を失って以降は急速に孤立し壊滅に向かう。
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国民皆兵制に反対する王党派残党の大量虐殺に手を染めるも(絶対王政時代に国王庇護下経済的発展を遂げたマルセイユやトゥーロンやリヨンを灰塵に帰しめフランスへの産業革命導入を半世紀以上遅らせた上、「王党派を支える後背地の集落を襲撃して妊婦の腹を裂き、赤子を竈に放り込む民族浄化作戦を遂行する」地獄部隊 (Colonnes infernales,1794年1月〜5月)を投入)、次第に一般市民にまで逮捕が及ぶ様になる一方で(戦況が次第に均衡状態に向かった事から)国民がパニック状態から回復して「自国民に対する虐殺の道義責任」を問う動きが急浮上してくる。
*ロベス・ピエールと「妖怪絵師(妖怪を描く画家ではなく、自らが革命に積極的に関わりつつ生き延びた妖怪という意味合い)」ダヴィドが「国民統合の為の式典」として「最高存在の祭典」を開催したのもこの時期。歴史にその名を残す奇祭として知られ、かえって恐怖政治の寿命を縮めてしまう。 - 公安委員会を率いるロベスピエール派はマルセイユやトゥーロンでの「虐殺主導者」ポール・バラス(Paul François Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755年〜1829年)、リヨンでの「虐殺主導者」ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, 1759年〜1820年)、九月虐殺(Massacres de Septembre、1792年)にも参加したボルドーでの「虐殺主導者」ジャン=ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien, 1762年〜1820年)らに詰め腹を切らせて生き延びようとしたが事前に察知され、逆に自分達の側がスケープゴートとして粛清されてしまった。ある意味それが革命裁判所設置からテルミドール反動に至る歴史的真相の一つだった事実は揺るがない…要するに、ある意味宮崎駿「風の谷のナウシカ(1982年~1994年)」におけるトルメキア統治者ヴ王の名台詞「ひとつだけ父の忠告をきけ。王宮は陰謀と術策の蛇の巣だ。ゴミの如き王族、血族がひしめいておる。だがひとりも殺すな。ひとりでも殺すとわしと同じに次々と殺すことになるぞ」こそが冒頭で提示した「裁判をすすめなければならない。斧はその仕事をしなければならぬ」なるドグマ(教条)への唯一に近い処方箋かもしれないという話になってくる訳である。
これまでの多くの論者は、ロベスピエール政権の恐怖政治や経済政策の失敗については批判的であれ、彼を打倒して生まれ、革命の行き過ぎを修正しようとした側を、自由と民主主義を生み出したフランス革命への「反動」として批判する傾向があったことは否めない。
しかし、その過程である1795年に制定された「人及び市民の権利義務の宣言」は、再評価すべき価値のある思想を含んでいるにもかかわらず、今日まで余りにも不当に低い評価を受けて来たのではないか。
この「権利義務の宣言」の「義務」の条文は、現代でも古びていない、いや、現代だからこそその意味が分かる優れた「人権思想」の行き過ぎへの批判となっている。(特に)次の言葉は、現在の様々な残酷な犯罪事件、また北朝鮮などのテロ国家の存在を思うとき、大きな説得力を持って私たちの心に呼びかけてくるものである。「(第六条)公然と法を侵害する人々は、自己が社会と戦争状態にあることを宣言するものである。」
しかも肝心の「王党派への粛清」は完全には成功しなかった。ブルゴーニュ・ワインの等級が「畑」単位なのはフランス革命当時に農地解放が徹底して遂行された名残りである(そもそもロンゴバルト部族連合の故地ロンバルティア同様、ブルグント部族連合の故地たるこの地は部族連合崩壊後、逆に封建時代には領主支配が弱く分権状態が続いたとも)。それに対してボルドー・ワインの等級が「城」単位なのは封建時代の領民一円体制がフランス革命を生き延びて温存されたからであり、後者の方が(中央政権側に与える影響力を保持した分だけ)それなりに今日なお優遇され続けていたりする。この文脈においてはフランス革命に最後に勝ったのは(ボルドーを首都に頂くジロンド県に由来する)ジロンド派だった事になるのである!!
フランス革命翌年の1790年7月14日、パリのシャン・ド・マルス広場での革命派市民組織による連盟祭では、唯一シャンパーニュのワインのみが、革命派を勢いづけるのにふさわしいワインとされました。
ところで恐怖政治(仏la Terreur、英Reign of Terror)を主導したマクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年~1794年)が目指したのは「ジュネーブ出身のスイス人」ルソーが著作で述べた理想社会だったと考えられています。そしてスイス人、とりわけジュネーブ出身者の理想といえば「一切の虚礼を配し勤労を奨励した」フランス出身の宗教革命家カルヴァン(Jean Calvin, 1509年〜1564年)の神権政治(Theocracy, 1541年~1564年)を連想せざるを得ないのです。
セルベートの処刑(1553年)について、宗教的不寛容ないし裁きを神に委ねなかったという意味で、カルヴァン生涯最大の汚点という論者も絶えない。亡命ユダヤ人シュテファン・ツヴァイクはカステリオンとカルヴァンの対決を扱った評伝『権力と戦う良心』で、カルヴァンと当時のジュネーヴ市をアドルフ・ヒトラーとナチス治下のベルリンになぞらえて、カルヴァンを絶対的な権力を振るう人物として描いている。日本の渡辺一夫も本来手段であった権力を全面的に追求することになったと評価し、大江健三郎もこれに賛同している。
実はこうした「絢爛豪華で享楽的な文化的繁栄へのカウンターとしての宗教的原理主義への回帰願望」は経済発展期のブルジョワ階層の自己嫌悪から繰り返し浮上してきた歴史的現象の一つに過ぎないとも。
- 十字軍運動/大開拓時代(いわゆる12世紀ルネサンス)の経済発展の反動として都市部ブルジョワ階層の間に流行した「使徒行伝」の世界への回帰運動…各都市の参事会内における財産共有運動に端を発っしドミニコ修道会(Ordo Fratrum Praedicatorum, 1209年〜)やフランチェスコ修道会(Ordo Fratrum Minorum, 1209年〜)や当時のこうした運動を象徴する人物としてアッシジのフランチェスコ(Francesco d'Assisi, 1182年~1226年)の名前が挙げられる。
- ルネサンス期イタリアにおいて、一時期メディチ家をフィレンツェから追放する事に成功したジローラモ・サヴォナローラ (Girolamo Savonarola, 1452年〜1498年)の神権政治(1494年〜1498年)。
- レコンキスタ運動が一段落ついてその歴史的役割を終えた修道騎士団はその後、その多くがそれぞれの最後の拠点で悲劇的最後を遂げる。
中でも最も奇妙な歴史を辿ったのがテンプル騎士団が開闢に深く関わったポルトガル王国アヴィス朝(1385年~1580年)を巡る一連の動きで、アフリカ十字軍(1415年~1440年)成功後に急速に世俗化が進んだのを嘆いて「反宗教革命運動の旗手」イエズス会を誘致。だがスペイン王国によるポルトガル併合を契機にイエズス会の国際的布教活動は次第に主権国家化が進む欧州列強の間に軋轢を生じる様になっていく。そしていわゆる「大航海時代(15世紀中頃~17世紀中頃)」の成果をオランダや英国の様なプロテスタント諸国が毟り取っていった時代、徹底的に現地習俗を調査し抜いた上で、伝教内容を随時調整していくイエズス会の適応主義(Accomodatio)は世界中に様々な形で興味深い「抵抗の足跡」を残していく事になる。
ある意味、元来(「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」と無縁の発展を遂げてきた)都市国家や特定組織の様な小さな枠内でしか成功例のなかった事例を(むしろ「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の延長線上で「必要にして十分なだけの火力と機動力を有する常備軍を、中央集権的官僚体制による徴税で養う」主権国家化への移行を進めてきた様な)歴史ある相応規模の国家に強引に適用したらどうなるか。(後に実際にフランスへの産業革命導入を成功させたサン=シモン派より「破壊しか行わなかった」と断定される展開を迎えた)フランス革命や(フランス留学生がまさにフランス革命のそういう側面を気に入って祖国で実践しようとした)カンボジアのクメール・ルージュ政権(ポルポト派)はある意味、そういう歴史的実験だったと要約出来そうな気もして来ました。で、本物の成果を後世に残したければ、最後は必ず清濁合わせ飲む適応主義(Accomodatio)の段階に…
- 「だが創造は破壊から始まる」…共産主義時代を経た国によっては、自力で「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の伝統破棄が達成出来なかったが故に、それまで資本主義国家の国際協調体制への参加の前段階としてそうした歴史的段階を経る必要があったとする歴史観が広まっている国も確かに存在する(共産主義瘡蓋論)。
どうやって「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が資本主義的発展を阻害するかについいては、例えばドストエフスキー「虐げられた人びと(Униженные и оскорбленные, 1861年)」辺りに詳しい。
ハプスブルグ帝国への産業革命導入も同様の障害に直面している。
それでは敢然と版籍奉還(1969年)、廃藩置県と藩債処分(1871年)、秩禄処分(1876年)を遂行して江戸幕藩体制から(フランス郡県制を模した)大日本帝国への移行を成し遂げた日本がどうやって革命も共産主義化も免れたかというと…
①「大名貸し」依存経済からの脱却…スペイン王国におけるジェノバ銀行家、フランス王国におけるロスチャイルド(パリ家)ら宮廷ユダヤ人といった存在は(取り立てが遅れても、それを交渉材料に自らの身分引き上げが行える)王侯貴族や教会の権威への信用貸しにしか興味を持っておらず産業インフラへの投資など望むべくもなかったのである。
*実は全てのユダヤ銀行家がそう振る舞ったという訳ではない。「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」ではそうしか動き様がなかったという話も。
- この状況を打破するべく「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世は産業資本家として(ベルギーへの鉄道敷設を巡ってロスチャイルド・パリ家と激しく渡り合った)ぺレール兄弟を筆頭とするポルトガル系ユダヤ人や(ナント勅令以降追放状態にあった)ユグノー銀行家を誘致したのである。
- 一方、日本では元禄時代頃までに大名と癒着して藩単位経済を支えてきた御用商人が(富商・富農の全国規模ネットワークたる)株仲間に取って代わられている。その時点で「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の弊害からはある程度解放されていた訳で、明治維新到来とともに(それまで全国の大名への融資を一手に担ってきた)札差が藩債処分や秩禄処分によって息の根を止められ、三菱・三井・住友といった財閥が新たに政商として台頭する急展開を可能ならしめたともいえそうなのである。
ここで重要転機となったのが「日本資本主義の父」渋沢栄一が主導した日本郵船のインド航路開設。安価なタタ財閥のインド綿が非関税で大量に流入する様になった結果、日本国内の綿花産業が壊滅。まとめて養蚕シフトを余儀なくされた農家が日本を「絹産業世界一」へと押し上げるのである(代りにイタリアの絹産業が壊滅。また日本における真珠養殖産業の発展はオマーンの天然真珠産業を破壊している)。
ところでここで興味深いのがカーター・J・エッカート「日本帝国の申し子」における朝鮮王朝時代末期から日本統治下朝鮮にかけての朝鮮半島の経済分析。朝鮮半島においては1920年代における内地への米輸出本格化や首都再開発を巡る地価の乱高下(地主志向の伝統的経済概念破壊に役立ったという)を契機に在地民間資本家が現れるが、これは比較経済史的に単なる経済後進国にしては考えられない発展速度である。さらには彼らの多くがその躍進のルーツを20世紀初頭における京城御用商人壊滅や(日本における一円領主化や、英国の囲い込み運動に似た)所有地改革まで遡れ、この地域における経済的停滞はインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層(すなわち中央両班階層と儒学者)の後進性(特に地主志向の伝統的経済概念)と(そうした伝統と表裏一体の関係にある)慢性的資金ショート状態が主要因だった可能性を指摘している。
そういえば政治的制約が比較的少なく自然に産業革命導入が進んだオランダや英国やスイスやアメリカやベルギーといった地域でも、工業的発展に先駆けて農本主義経済の大幅な成熟が見て取れるのである。そしてこのうちベルギーもまた「オランダ王国(およびフラマン人)の不当な軛」から脱した途端、急激に(ワロン人が主導する形で)工業化が進んだ国でもある。
②徴税業務のアウトソーシング…これで世界に先駆けて主権国家化したオスマン帝国は地方分権状態に逆戻りしてしまい、同様に主権国家として出発した筈のムガル帝国はアウトソーシング先の英国人に国を乗っ取られてしまう。ちなみに朝鮮王朝も貨幣鋳造能力と徴税機能が麻痺しており、これを日本人に委託したのが独立状態喪失の最初の躓きとなっている。
*ちなみに大日本帝国末期には「東インド会社の歴史」に触れた書籍が禁書指定されている。おそらく当時の日本陸軍は「東インド会社のインド植民地化過程」を自らの中国侵攻過程と比較されたくなかったのである。
- さらに古くはスペイン王国が主権国家化そのものに失敗している。国内の「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の廃絶に失敗したのが主要因だった。国王が推進する中央集権化政策にあくまで反抗を続ける大貴族連合は、イングランドにおいては薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)、フランスにおいては公益同盟戦争(1467年~1477年)とフロンドの乱(1648年~1653年)において勝手に自滅して行ったが、かかる奇跡がスペインにおいてだけは起こらなかったのである。さらには逆に諸侯の側が勝利したポーランド王国や朝鮮王朝は国体自体が残せなかった。
- そのフランスも徴税請負人への徴税委託問題には随分と振り回されており、実はラボアジエの処刑にもその一環という側面があったのである。
- 日本史においては平安時代の国司に徴税請負人的側面が存在し、その「中央政権を国民が実際に生活している現実から完全に切り離し馬鹿にする」機能を反面教師として武家政権が台頭したとされている。実際、幕藩体制下における代官業務は精緻を極め、その精緻さが近代以降の地方行政にも継承されていく。ただそれは同時に内務省の牧民概念に見て取れる様な「前近代体制からの官尊民卑概念の継承」へも繋がっていくのである。
その一方で現実の大日本帝国の税収を支えていたのは、歴史のある段階まで「酒税」だったという話も聞こえてくる。現実は常に想像されるまま綺麗に運ぶ訳ではないのである。
最近のリベラルは、国際的にこうした「実際の歴史」を踏まえた上での全体像の総括を求められているのかもしれません。
黄色いベスト運動の時も思ったけど、知識人文化人であきらかに「暴力はいけないがー」とかいいながらあきらかにああいう暴力的運動に賛同に近い憧憬を抱いたかのようなコメントが相次いだので俺はきっぱりと否定した。理由は政治的なものでもなんでもない。「俺は自分の家を焼かれたくないから反対」だ
— もへもへ (@gerogeroR) 2020年6月1日
安全圏から暴動を煽る発言して炎上した社会学の偉い先生とか昨年度いたよね。
— 西方政府軍兵士@ノクターンノベルズ&ノベルアッププラス (@Lkpi8dEIKmF7bi1) 2020年6月1日
暴力はいけない。どんな理屈があるにしても商店を焼き、略奪を行い、何ら関係ない人々に危害を加える行為は罰せられるべきであるでおしまい。(´Д`)ただ、それだけのこと。
— moltoke◆Rumia1p (@moltoke_Rumia1p) 2020年6月2日
自身が故なき暴力に晒されるリスクを彼等は考えてない。
パトカーに殺到して叩きまくる暴徒、パトカーを発進させて振り切ろうとする警官。
— ヘタレハンター壊 (@1JAzkrttdspqOZI) 2020年6月2日
そりゃ数十人に囲まれてパトカー叩かれたら命の危険を感じるよな。
放火までするんだから。
家を破壊されそうになった住人が撃ち殺してもアメリカなら正当防衛になるのか?
「他人の家が焼かれるのを許容」するのは「自分の家を焼かれるのを許容」したのとほぼ同じですからね
— ぽん太郎 (@manmantian) 2020年6月1日
騒乱や暴力革命を肯定するのはそういうこと
これ、あさま山荘事件前後のマスコミ、知識人の報道や物言いが最初はこれで、後からやらかしたことの詳細が分かってからテノヒラクルーってのをリアルでやってるからなあ…。 https://t.co/Nb5hohq7aS
— まりし セ界制覇する全裸中年男性 (@marishiokayama) 2020年6月2日
あれ不思議なの仲間と仲間の殺しあいをみてテノヒラクルーしたわけですが浅間山荘で警官が死ぬのをみてもまだ称賛してた国会議員がいたし、銀行強盗や銃砲店強盗おこしても擁護してたんですよね。
— もへもへ (@gerogeroR) 2020年6月2日
仲間を殺すのはだめだけど警官はOKでさらに強盗はOKってわけわかんない。
なんとなく今の安倍・日本政府叩きOKとか、アメリカの扇動暴徒化と何の違いもないように感じます。
— 河童長 (@kappachou) 2020年6月2日
実は学生運動全盛期に最も恐れられていたのは「ペロポネソス戦争を引き起こしてアテナイ海上帝国を壊滅させたソクラテスの弟子達」と自分達の比較だったという話も。そういえばどさくさに紛れて大学の教授の研究室を破壊に訪れた運動家が、実際に「もはやこの世に学問は不要である。なぜならこれ以降の時代は革命が学問となるからだ」と豪語する一幕もあったとか。
久保正彰「暴力以前―ソクラテスの問い―」『世界』283(1996.6.)
「あなたはそのすぐれた学問がどのように用いられているか、それを考えたことがあるか。あなたの教えをうけた者たちがその学問を悪用するのではないか、その点にまであなたは責任を感じているのか。」
これは昨今、争いにあけくれる学園のどぎつい立看板にはじまる問いではない。さかのぽれば武芸者や忍者に課せられたきびしい掟も、衣服を正してのち書にむかうべき心得も、遠くはまたソクラテスの追いつづけた問題も、いずれもみな、知恵とちからの重さを人間の危機として自覚するところに端を発するといえよう。
一つの文化の流れのなかでも、一人の青年の行為のなかでも、この問いが創造的な転機となってあたらしい展望を開いていった例がすくなくない。かりにも自分たちだけがこの問いを提起したのだなどと主張して傲るものがいれば、その視野は独善狭隘のそしりをまぬかれまい。しかしその問いがだされてもなお気付かぬものがいれば、やはりエデンの園から出直すより他に道はないかも知れない。
あえて問う、ソクラテス自身よりもプラトンよりも、むしろかれらが軽蔑していた一般のアテナイ市民たちの方が、ソクラテスの問いの全内容を的確につかんでいたのではないだろうか。”あたらしい霊を奉じて古き神々を貶し、若者たちを堕落せしめた”罪という、じつに堂々たる正確な表現でかれの行為を糺弾し、かれの問いを不朽ならしめたからである。齢七十にたっするソクラテスに永久の若さを約束する悲劇的表現がここにある。争いと死をつうじてのみ顕現されうるこの世の問いを、この世における対立者としてしっかり受けとめ、この世に生れてくる者たちに問い返したのが、かれらアテナイ市民たちであった。
しかしソクラテスもブラトンも、この罪名のまことの根拠を理解することができなかったのではないだろうか。きわめて良識的なクセノポンのような人すらも。なぜならプラトンもクセノポンもただひたすら、師が神々に対して敬虔であったこと、教育に熱心であったことをくどくどとくりかえせぱ、それだけでソクラテスの無実とアテナイ市民一般の無理解とを後世に証しうるかのように考えているからである。かれらは数多くの語を費して自らをあざむき長く後世人の眼をもあざむきつづけてきたのではないだろうか。
たしかにソクラテスはヘルメットもゲパ棒も手にしなかった。暴力行使は、正義に惇るものであるとも言ったことになっている。しかしながら、人知のうちに内在する危機的な問いを自らの行為によって問いつづけ、相手が返答をさけて黙すれば、沈黙は暴力であるとかれを難詰し、あくまでも自らの論理に承服させようとするソクラテスの態度には、危険きわまりない可能性が包まれていたことを見落すことができない。高度に倫理的な問いをはなったかれ自身、その問いに対する自らの対応を迫られたことは当然であろう。私は何も教えていない、私は何もしらない、と例のアイロニイを弄することによって、かれ自らの放った峻厳な問いの追求を脱しえようはずがない。”あなたの教えを悪用するものがあらわれた場合に、あなたはどのような責任を感ずるのか。” ソクラテスの教えに接したものたちの中からは、あまりにも非倫理的な、あまりにも暴力的な人間が、あまりにも多く生れていた。クリティアス、アルキビアデス、カルミデス――かれらはソクラテスを理解していなかったのだというはたやすい。しかしそのような言いわけをソクラテスは他人に許していなかった。だが――世のなにびとも問われて真の答えにはいたらなかったこの問いを、ソクラテスだけは自ら死をえらぷことによって答えることが許された。死はその問いの永遠なる価値を借しんだアテナイの市民たちが、かれのみに許しためぐみであったというべきであろう。
ソクラテスに対して私たちも――かりにもかつてのアテナイ市民が有したるごとき歴史的な明察と、自他にたいする悲劇的客観性をもちうるものであれば――あらためて死罪を要求する。私たちはソクラテスではない、私たちはかれの敵ソピストらの系譜につながっているからだ。おろかにも似て非なるソクラテスの問いをいだいて、むなしい言葉にむかって猪突する若者たちはその後もあとを絶たない。自己と社会の変革を旗印しに、常識を悪と断定し、ありとあらゆる杜会体制を否定し、永久革命を推進しようとする手合いまであらわれている。それのみが、ソクラテスの問いに対する責任ある答えである、というのであろうか。私はこの運動の未端につらなる若者たちが――いやかれらは先駆であると信じているかも知れないが――自律性をまったく失って無目的なブラウン運動にうみつかれているのを見るにつけ、そのために視野のそとへうすれさっていくソクラテスの問いが惜しまれてならない。問題提起者である、担い手であると自認してはばからない人々の責任はきわめて重大である。貴い問いの系譜をつごうとするのであれば、賎しい答えを慎むべきであろう。倫理的な問いを発するものは自ら倫理的であらねばならぬという鉄則を、死をめぐむという形であらわした古典期アテナイ人たちの冷たい英知がうらやまれてならない。私はソクラテスの問いを借しむ。そしてその問いを問われたもとの形で生きながらえさせるためであれば、その問いを自らの行為で涜するものたちにむかって断固として有罪の票を投ずることを辞さない。
今こそこの問いに立ち返るべき時が来たとも?
改めて冒頭の言葉に戻ります。「裁判をすすめなければならない。斧はその仕事をしなければならぬ。」さてこれは誰が誰を裁く言葉なの?